ヘコむときもあるさ

 

 知り合いから暗い声で電話がかかってきた。
 その人によれば、病気がちで貧乏で、しかも地方在住のフリーの人に、毎月定額収入となる仕事を用意してあげていたのだが、突然おかしいことを言い出し、2倍以上の料金を請求してきたのだという。
 そもそもその外注先の人は人間関係にトラブルが多く、精神的にもろい(というか軽い精神病じゃないかと思う)のだが、仕事はなんとかこなせるほどの技量がある。そこで気の毒に思って、なんとか仕事を発注してあげていたのだが、数ヶ月たって急にいろいろな文句を言い出したのだそうだ。
 発注している側の人も実は大病を患い、まだだましだまし仕事をしている状態なのだが、「闘病中にいろいろな人にお世話になったこともあって、自分なりに他の人の役にたてないかなと思ったんだけど」ということで、そのフリーの人に仕事を分配することにしたという。
「お金で決着がつくことならば、しょうがないからその人の言う金額を支払うけれど、なんでいきなりいいがかりみたいなことを言い出したのかと思って・・・・。結局、こっちがよかれと思ってやっていても、そのことに対して不満とか、あるいは劣等感とか、そういうものがあったのかもしれない。でも、やりきれない・・・」とその人は言った。
「意固地になってるっているか、自分中心の論理で固まってて、人の話なんか聞く耳持たなくなってて。こっちがいくら冷静に話をしようっていってもダメ。なんでそうなっちゃったのかって思うとつらくて・・・」

 やりきれないことはたくさんある。
 ボタンの掛け違いもたくさんある。
「その人のため」と思っても伝わらないこともたくさんあるし、それどころか感謝されることよりも誤解されることのほうが多いかもしれない。

 私はかつて朝日新聞の取材のため、北鎌倉の建長寺で1泊、座禅をしたことがある。
 参加している間、だれもが座禅の作法を教えてくれないうえに、もたもたしている人に対して教えてもいけないのがルールであった。
「自分ができないうちに人を教えるなんていうのは不遜である」というようなことを言われたように思う。
 そのときは「ちょっとでも知っていることがあれば教えてあげるのが人の道だろう」と、かなり反発を感じたものだが、いま思うと「人になにかを教える」というためにまずやっておかなくてはならないことがあるように思える。

「人を助けようという気持ちはたいせつだけど、そのときは本当に自分のすべてを賭けるくらいじゃなくちゃいけないのかもしれないよ」と、私はその人に言ってみた。
「そうかもしれない。仕事っていうのはビジネスなんだから、そもそもビジネスっていうところで人助けとは矛盾するものがあるしなあ。自分は<自分のできる範囲>で、適当な人助けをして自己満足していただけかもしれない」と、その人は言った。

 他人のためになることを考えたときに、一番最初にやることは、自分がシアワセになることではないかと思う。
 物質的にか、精神的にか、あるいはもっと違うものかわからないけれど、シアワセでない自分が他人をシアワセにできるわけがないじゃないのと思う。
 では、自分がシアワセになるにはどうしたらいいかというと、与えられたものを一生懸命こなすことではないだろうか。
 人間だからいろいろ考え、私利私欲や、情にとらわれ、なんのために生きているのかを忘れてしまうのだけれど、動物や植物を見れば、それらは「生きるために生きている」のではないか。
 いまここで自分がやらなくてはならないこと。そして、できていること(呼吸していること、おいしいと感じてなにかを食べていること、話をすること、考えること、歩くこと、寝ること・・・・)のすべてに感謝しなくちゃいけない。

「大病を患ったとき、もう命がいくばくかもないと思っていたのに、少し元気になったらやっぱり欲が出てきて、あれもこれもと考えるようになってしまった」とその人は言う。
 欲があるから人間。人間だから欲があってあたりまえ。だけどだれもがときどき、自分の持っている欲について考える。
「自分にもっと自信をつけたいって思うときに、相談したりグチを言い合ったりする友達とかいないと、宗教とか自己啓発セミナーとかに頼っちゃうのかなあ」
 話がいきなりタイムリーな方向に行き、おたがい何名かの友人がそうしたセミナーに入り、そして結婚したカップルも数組いるということがわかった。
「自分で決められないときに、だれかに自信持って<あなたにはこの人しかいません>って言われたら、なんだか安心だよね。しかも<この人は自分のことを120%理解してくれる>って思い込んじゃってたら、反論の余地ないね」

「おたがい、悩みを分かち合えられる友人(戦友?)がいていることはありがたいね」という結論となった。
「ネガティブなことを考えていると、病気だった箇所が痛む」のだそうだが、思い煩うというのは「思って」「患う」ことでもあるのだろう。
「悪いことを考えてエネルギーを使うよりは、そのエネルギーをいい方向で使うように努力しようよ」と言うと、「わかっててもできないから、困ってるんじゃない」と返ってきた。
 確かにそうだ。私だって、言うだけのことが実行できていたら苦労などしない。

「でも大丈夫。ゆっくり休んで、自分なりに生きていけばいいよ。本当に、本当につらかったら、逃げ出してしまえばいいよ。若くて元気ならがんばらなくちゃいけないし、乗り越えなくちゃいけないけれど、もう充分がんばってきていると思ったら、とっとと逃げるのも前向きな考え方のひとつかもしれないよ」
 なんてことを言って励ましたりしつつ、私も自分を叱咤激励している。

 ところで、今日突然、「父はなぜ死んでしまったのだろう」と思った。
 病気で死んだのだけれど、なにか意味があったのだろうかと、ふと思ってしまったのだ。そして、父が死ぬかもしれないと思ったときに「父の人生はシアワセだったのだろうか」と余計な心配をしたことも思い出した。
 私はこれまでずっとシアワセで、たとえ明日なにかあったとしてもこれまでシアワセな人生を歩んでこれたといえるだろう。特にシアワセな想い出は、シアワセというよりはいまはまだ悲しい想い出だったりするけれど、それもまたいつか、ステキな想い出のひとつになるんだろう。
 そうやって、ひとりひとりがシアワセを積み重ねていくと、きっといい世の中になるんだろうと思う。
「人を責めずに、人を許して、みんなのシアワセを祈っている」
 95歳の祖母の教えである。



 




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