傷つけあう言葉

最近掲示板の書き込みでちょっとしたトラブルがあった。
書き込んだ人と管理者の間の感情がメールという文字情報の隙間で行き違い、客観視できない当事者どうしがバトルするという、ネット社会ではありがちなトラブルである。
内容はさておき、私はハンドルネームで書かれた攻撃的な言葉に、少しばかり恐怖を感じた。
自分を認めさせるためには他人をどこまでも否定して非難していく・・・なぜ、そうまでして敵をつくらなくてはならないのだろうか。
「言い争い」という言葉があるけれど、言葉の戦いは空しい。

何年か前、私はある人にとても助けてもらった。
私が困ったとき、心細いときに、支えてくれたことにいまでも感謝している。
その後、その人と私は同じ道を歩むことにはならず、おたがいの道を歩むこととなった。
ところが。
別々の道を歩んでいたはずのその人が、いきなり(私にとっては)引き返してきて、「いっしょに歩こう」と言った。
それはとても嬉しいことだし、心強いことではあるけれど、そのとき私にはもう両手いっぱいの荷物があって、つなごうにもつなぐ手が空いていなかった。

するとその人は、なにかにつけていじけたり、意地悪な言葉を言い放った。
突然深夜に電話をかけてきて、ヒステリックに騒ぎまくることもあった。
その人にとっては、私が目の前の仕事や、そのほかのプライベートなことを優先して、その人をないがしろにしているのががまんできないということだった。

私は、その人に対しても、ほかの誰に対しても、決してないがしろにしているつもりはない。
ただ、人よりもたくさんのことをこなし、人よりもたくさんの人に頼られ、人よりもたくさんの決定を下さなくてはならない生活をしていることは確かで、どうしても優先順位が高い仕事からこなしていくことになってしまう。
その人に頼りきっていたころは仕事もままならなかったけれど、すっかり立ち直った今はやらなくてはいけない仕事が山のようにある。
私は私なりにイキイキと仕事をしていこうと努力をしてきた。
だからといって、なぜ、深夜に赤の他人から誹謗されなくてはいけないのだろう。
私はそれほどひどいことをしてしまったのだろうか。
冷静さに欠ける電話を、どうやって理解しろというのだろうか。
牙をむくような言い方をせずとも語ることができないのだろうか。

その人は電話のほかにはたびたびメールを送ってきた。
刃物のように冷たい、凶器じみたメールで、私を批判し続けるのだった。
そうすることによって、私はその人ともっと近しくなれると思うのだろうか?
子供じみた振る舞いを続けることは、私にとっても、その人にとっても、なにももたらさない。
ただエゴイスティックな自分を表現したいという衝動だけではないだろうか。
私はもう、その人と対峙していない。その人といっしょに歩いてはいない。
それが認められないからといって駄々をこねている。
「あなたのために忠告している」というけれど、そんなことをしている自分を、一歩離れて見たらどうだろう。

「アタマにくる一言へのとっさの対応術」(バルバラ・ベルクハン著 瀬野文教訳 草思社)によれば、一を批判するときについ感情を交えて軽蔑的な口調になってしまう理由は、「批判する側に心のゆとりがそなわっていないから」だと書いている。
「むきになって人を批判するのは、批判する本人の身辺がうまくいってなくて、そのことに腹を立てたり失望してしまっている場合が多い」か、あるいは、「ただ感情にまかせて」「でまかせにしゃべっているだけ」という。

批判すること、非難することは簡単だ。
でも、批判している姿が美しいことは稀であると思う。
問題解決をしてものごとが好転するための原因追求は必要だけれど、無意味な感情の爆発を無鉄砲に他人に向けることはしたくない。

人を傷つける人は、実はだれよりも自分が傷ついていると思っている。
そうかもしれないし、そうでもないかもしれない。
私はそうした人を救うことはできないし、手を貸すこともできないけれど、せめて自分は理性と知性を持った会話ができるように努力したいと思う。
会話は難しい。
ましてやメールはもっと難しい。
でも、人を殺す言葉を投げるよりも、人を輝かせる言葉を放てる人になりたい。
そのためには他人と自分をもっともっと許してあげなくてはいけないのかもしれない。

 



ドネーションボックス

ドネーションボックスの
説明はこちらです。
 
ご意見・ご感想 淳子通信表紙にもどる A-Girl 表紙にもどる