A-Girlっておもしろい

いよいよ残すところ数日で21世紀を迎える(って何回書いたかな)。
そして早いもので、私の会社も来夏には15期を迎えるということにふと気づき、私自身も職歴だけ言えばシルバー・アニバーサリー(大学行ってないしね、と言い訳してみたりするけれど、職歴25年よ! 25年!)にもなるという事実に驚いてしまう。
先日沖縄の学会でお会いした大学教授の方が「てっきり年下かと思っていたら、(会社のサイトを見てわかったことなのだけれど)自分よりも4つも年上で(驚いた)」というメールをくださって「(若く見えるって)おせじじゃないですよ」という但し書きまでつけてくださった。(笑)
はい、私、実はもう、すっかりいいトシなんです。

トシはさておき、25年も仕事をしてきて、会社は相変わらず小さく火の車だし、私自身は相変わらず能天気だが、ハタのみなさまから「A-Girlっておもしろい。でも、なにをやっている会社なんですか?」と尋ねられる。
そしてたいていは説明するのが面倒なこともあって「平たく言えば、企画プロデュース全般です」と言ってお茶を濁してしまうのだけれど、ではなにをやっているかといえば、自分でもよく考えたことがなかったのだ。
もちろん、雑誌や書籍の企画や編集の仕事、そしてWEBの制作や運営、プロモーション、寺沢武一関連の著作権ビジネスやデジタル分野のプロデュースなどを行ってきた。
でも、そんなことは私が本当にやりたいことなのかといえば、「目の前にある仕事」でしかなく、そして私にとっては「目の前にある仕事」はおもしろくはあるけれど単なる日々の糧でしかなくて、そこになにか執着するものはない。

だから、よくも悪くも「私は何々です」と威張れるような肩書きは持つ術もなく、また、会社自体も何か色がつくような言い方、たとえば「編集プロダクション」であるとか「代理店」とか「企画会社」(いまはそう言ってしまっているけれど)とか、そういう「当たり前」的なくくりになるのがいやだった。
一時、外部に50名以上のスタッフを抱え、社員も10名を越し、編集制作では最大手と威張ってもいい時代もあったが、そんなときでさえ「編プロ」と呼ばれるのをよしとしなかったため、宣伝会議が出している「マスコミ電話帳」だったかなんだったか、業界のイエローページにはついぞ載せてもらっていない。
そして会社のジャンルがわからないため、NTTのイエローページ(職業別)ですら、長い間掲載されていなかった。
それは雑誌には載ってないけれど知る人ぞ知る隠れ家的老舗、みたいな感じでなかなかよいと思う。
なまじ編集業をかじっていると、雑誌に出ることばかりが重要ではないと思っているのだけれど、きちんと調べてくださり取材をしてくださる編集者や記者の方もいて、それなりに記事として掲載させていただくことも少なくない。(でもね、私は取材されるよりは自分で書きたいのよね。くだらないエッセイとか。笑)

そうした周囲の励ましをありがたいと受け止めるにはもっともっとがんばらなくちゃというプレッシャーと責任感が常に付きまとっているのだが、ではいったいA-Girlはなんなんだろうと、ここのところ改めて考えてみたりした。
A-girlで私がやってきたこと、そして、やりたいことはなんなんだろう。

私がやりたかったことは「新しいメディア」に関わって、誰も通ったことのない道を切り開いていくことではなかったか。
70年代の終わりに雑誌メディアの衰退を予感し、新たなデジタルメディアについて考え、そして、生活のなかに根付く技術というものに関心を持った。
キャプテン、(フランスの)ミニテル、ダイヤルQ2、ページャー(ポケベル)などを横目に見ながら、Windowsの出現で「インタラクティブな」アプリケーションソフトをつくり、CD-ROMの出現時にはデジタルコミックをプロデュースした。
90年代半ばにはインターネットだけでなく、Magiclink、Eコマース、AIのキャラクター開発、3Dチャット、そして電子透かし技術などの実証実験に数多く参加してきた。
A-Girlの特異といえば、まさにこの「実証実験」にほかならないと私自身がやっと気づいてきた。
うん、これってすごいな。

はっきりいって、実証実験のほとんどがまったくといっていいほど儲からない。
儲からない上に、うちのような零細企業は特許も権利もないから、参加してなにかすばらしいことを成し遂げたといっても残す術がない。
でも、そんなことはどうでもいい。
誰もやったことがないこと、誰もできないことをやる楽しさ。充実感。
未来を見る目を持った人間の特権であり、また悲しさでもある。

「A-Girlってなんですか?」と聞かれたら、「未来を見せてあげる会社」と言おう。
「未来を創る」のは大手の役目だが、見せてあげるのは私たちの役目だ。

ところで、私が中学生のときの修学旅行は「大阪万博」だった。
なにを見たかはまったく覚えていないけれど、「三菱未来館」という名前だけが記憶に残っている。
思えば、そこで私の未来観が生まれたのかもしれない。

21世紀までカウントダウンに入った。
2001年になったからといって変わるものはなにもないだろう。
でも、私はこれからも「未来を見る目」を養っていきたい。
そして、いっしょに未来を見ることができる人たちがもっともっと増えてくれることを祈りたい。



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