
世界各地の内戦や紛争のなかで、女性たちが性暴力の犠牲になっている。そうした体験を被害者である女性たちが証言する公聴会についてのドキュメント番組をNHK教育テレビが放映している。(たったいま、私は締め切りの原稿の手を止めて、見ているところだ)
「被害者の救済と同時に、これからどうやってこうした性暴力をなくしていくかと考えた場合、加害者を裁くことだけが防止にはならない」と、テレビのなかでの識者たちが語っている。
「日本では想像できない」と、講演に参加した女子大生がコメントしていたが、日本のなかにも女性に対する性暴力はあり、昨年だけでも「監禁・暴力」というケースは1000件近いのだという。
昨日も14歳の家出少女が9日間にわたって車のトランクに押し込まれ、逃げ出そうとするとバーナーで背中を焼かれるなどの暴力をふるわれたというニュースが報道されたばかりであるし、その前には、校内で十数人に数年にわたってレイプされていた女子高生を学校側は見てみなかったという事件が報じられていた。
かつては女子高生が男子高生たちに監禁され、セックスだけではなくサンドバッグのように殴られ、ライターのオイルで肌を焼かれた末に死亡し、コンクリート詰めにされた事件が有名だし、小学生のころから19歳まで9年間もの間ペットのように飼われていた新潟の少女の事件もなまなましい。
女性をレイプすることは、性衝動ではなく、「人間としての尊厳を奪う」ことであり、「支配する」ことに他ならないと番組のなかでコメンテーターが発言しているが、この平和すぎる日本のなかでも男たちは力を誇示しようとしているのだろうか。男女が交わることを「暴力」にできる力は、男にだけ与えられている。
性暴力の被害者は、たいていは女性である(らしい)。
それが「社会的に与えられた性差別(ジェンダー)」ということになるらしい。
私はジェンダーについてはよくわからないし、語るほどの知識を持ち合わせていないので、こうした話題に触れることはちょっと怖いのだけれど、でも書いてしまおうと思うことがある。
「女性を犯す」ということは「犯される女性=弱い」からじゃないだろうか。あるいは「犯される=非日常」だからではないだろうか。番組中、体験者の女性が涙ながらに「こんなに汚れきった私を、主人は暖かく迎えてくれた」というコメントを聞いたときに(夫が政治犯だったために妻である彼女が拉致され、毎日見せしめのために大勢が見守るなかでレイプされ、彼女を守ろうとした8歳の息子は銃で足を撃たれたという話は、それはそれは感動的であったが)、「大勢の男に暴力をふるわれることが<汚れる>ことなのだろうか」と、思ってしまった。
「暴力」「レイプ」ということはとりあえず「こっち」に置いておいて、「大勢とセックスする(あるいはされる)」ということが「汚れている」のかどうか、ということだけを考えてみたい。一般的に、たくさんの男性経験がある女性はよろしくないというジャンルに入るのではないかと思う。
一方、男性の場合「女性体験が一生のあいだ、妻だけ」なんていう人よりもジゴロのように女遊びに長けている人のほうが(どちらかといえば)男っぽいと思われたりする。
(ああ、こういうことが「ジェンダー」なのかしらね)
でも、80年代あたりから女性たちの性体験はいちぢるしく急増して(もちろん、結婚まで操を守るという貴重なお嬢さんだってたくさんいるけれど)、「10人、20人はあたりまえ」なんてツワモノや「やりたいことの資金のために風俗で働く」なんていうコも出てきていて、アダルトビデオなんかはモデルばりのかわいい女の子がやられたい放題だったりしちゃっているのである。
ここでなにが言いたいかというと、そういう「セックスすることはスポーツと同じ筋肉運動」と割り切っているねーちゃんたちにとって、「たくさんの人と交わったこと=汚れた」という認識があるのだろうか、ということだ。
「若いころ遊びまくってたことを夫にはナイショにしているけれど、カラダが忘れられない」なんていう30代人妻たちもずいぶんいるのを知っているが、彼女たちはナイショにしているとはいえ、自分のことを「汚れた」などとは言わない。「汚れた」と感じるのは、予期せぬ相手だったからにほかならず、回数や人数とは関係ないことなのかもしれない。
ところで、遺伝子の研究が進み、クローン技術の進歩によって、人間の皮膚から子どもをつくることが可能になるという話を聞いた。
「そうなると男はいらないね」と、その話を教えてくれた男性が心配そうに言った。
「セックスがいらなくなったら、男の価値はどこにあるんだろうねえ」
価値のない男が「暴力」によって価値を行使するようになってはいけないけれど、オトコの価値が低くなればなるほど、ヒステリックに暴力に訴えるようにならないかと不安にもなる。ところで、アメリカでは「中絶」が政治を動かしているといっても過言ではない。
民主党と共和党が、女性の支持を仰ぐためのディベート・カードのひとつに「中絶論争」を選んでいるのだ。
そこへきて、ここのところ「RU-486」という中絶薬が論争を過熱させている。
フランスで10年以上利用されているというこの薬は、妊娠7週以内であれば、収縮剤と併用することで98%の確率で中絶できるという。
「自宅などでプライバシーを守って中絶ができる」と賛成する人たちは、中絶が女性の権利を拡大すると解釈しているらしい。
一方、中絶は「神への冒涜」とする保守派も多く、共和党のブッシュはこちら側を支持している。
中絶がいいか、悪いかと論じている人たちがいようと、いまいと、もしその中絶薬がマツモトキヨシで売り出されたら、日本の(一部の)女子高生たちは「妊娠なんてものもらいと同じ」という感覚になって安易に中絶するようになることは間違いない。
「安易に中絶することがいいのか、悪いのか」「中絶するような事態になる行為<つまり性交渉>をもつことがいいのか、悪いのか」という議論はたくさんあるだろうけれど、21世紀は「望んだときに、望んだ子どもができる」という時代になりつつあるのだ。
DNA鑑定で産まれる前に子どもの障害や疾病を知ることができる(ために、子孫を産まない親も出てくるだろう)し、試験管ベビーはおろか、クローン・ベビーだって理論ではできるのだ。
そうなったときに「孕ませるためのセックス」というのは意味がなくなる。
となると、セックスは純粋に「快感を得る」ためなのか、あるいは「暴力の一種」になるのだろうか。
そのとき、多数の経験があるということにも、なにか意味をなす(いいとか、悪いとか)のだろうか。昔の若い男の子たちは、たいてい年上の女性(遊郭などのプロの方とか)からお手ほどきをしていただき、いわゆる「筆おろし」をしていただいたということだが、最近は(悪質な)アダルトビデオでの自己学習をしているために、女性に対して間違った知識や、間違った快感(妄想)を抱いてしまうという話をよく聞く。
性の解放が若年層においても進んでいる女の子たちに対して、妄想が拡大する男性たち。
そんななかで「汚れた女」意識が(主に女性のなかに)残っていくのだろうか。
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