サボちゃんの話

久々にぶ厚い本を読んでいる。

「コールドマウンテン」(新潮クレストブックス) 600ページ近くあり、厚さは4センチほどある。
本を買うとき私は「あとがき」を読んで買うのだけれど、この本のあとがきに「ブルーグラス専門誌ムーンシャイナーによると」なんて書いてあって、思わず嬉しくなって買った。
「ムーンシャイナー」というマニアックな音楽誌を知っているなんて、土屋政雄という翻訳者はアメリカがわかっているな! と思った。
英米文学が大好きといいながらも翻訳本しか読めない私にとって、翻訳者のリテラシーは著者以上に重要なのだ。
そして、この本はまさしく正解だった。
テネシー州のコールドマウンテンという山に住むエイダと、ノースカロライナから故郷の(彼女のいる)コールドマウンテンへ脱走する南軍兵士のインマン。
壮大で、そして繊細な、愛と魂のラブロマンスである。
が、それはさておき、感動するところは「ラブ」ばかりではない。
幼いころから教養を身につける教育を施されたエイダは、父が死んだあと、野山で生きる術を知らない。
そこにやってきた「じゃりんこチエ」のような、ルビーという女の子(といっても21歳)が光っているのだ。
ルビーは空気を感じ、太陽と共に生きていくことを知っている。
一遍の教養など生きるためには何の足しになるものか、とルビーの振る舞いは語る。

山のなかで1本だけ紅葉した花水木を見て、ルビーはエイダに「なんであの樹だけ紅葉しているのだと思う?」と尋ねる。
「偶然じゃないかしら?」
「だいたいの人はよくわからないことがあると、なんでも偶然のせいにするものよ」
「山のてっぺんに立って、鳥の目にその木がどう映るか考えてみて」とルビー。
根っこがあるものは自分では動けない。だから鳥を使って移動する。
そのために、通りすがりの鳥に呼びかけているんじゃないかしら。
「ーそれじゃ、まるで花水木が考えて紅葉しているみたいじゃない」とエイダ。

ふたりの会話が、コールドマウンテンの山々を語り、そして自然を語っていくのが心地よい。
私たちはもっともっと、自然と会話することを感じてもいいはずだ。

そこでいきなり「サボちゃん」の話に飛躍するのだが、N氏の友人はサボテンに名前をつけてかわいがっているのだそうだ(その名前がサボちゃんである)。
毎日毎日声をかけ、溺愛した結果、なんと、トゲトゲだったサボちゃんのトゲがみなふわふわの毛皮のようにやわらかくなってしまったのだという。
「そういう種類だったんじゃないの?」という私に、「理由はどうあれ、愛情でサボテンのトゲがなくなったと考えるほうがいいじゃないですか」とN氏は言った。

だからどう、という話ではなくて、それだけの話なのだけれど、私もニンジンのきれっぱしを皿に入れ、毎日声をかけてみている。
5ミリほどのニンジンから、緑の芽が、もう5センチほど出ている。
こんな小さいもののどこにこんな生命力が潜んでいるのだろうと思うと、不思議でならない。
「ノッティングヒルの恋人」という映画のなかに「フルートリアン」(果物食主義)という女性が出てきて、「植物も皆、命があるの。だから私は木から落ちたもの、死んだものしか食べないの」と言っていた。
それは極端だけれど、世の中のものが活きているということを、あらためて感じる不思議。
緑がまぶしい5月のメランコリーかもしれない。

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