『ぼくたちの洗脳社会』
一九世紀の終わり、アメリカ合衆国は最後のフロンティア・西部を開拓しつつありました。
商品の絵はきのうの夜、小型のディジタルテレビカメラで撮影した。
本来は技術や科学が変化すれば、それにつれて社会の価値観も変わる筈です。
で、話は戻って、フランクリード・ライブラリーの作者は、当時最も注目されていた蒸気機関の応用という技術の進歩(それも一分野)にだけ着目してしまいました。社会や政治、経済、家庭、生活様式の変化といったその他の要素を一切考慮に入れませんでした。
もう一度、他のマルチメディア本を見てましょう。
トフラーは「自由競争」とか「民主主義」といった現在の価値観や社会システムはそのままで、技術だけが新しくなった未来を予測してしまいました。せっかくの「全てが変化する」という主張もこれではお題目を唱えているに過ぎません。
しかし堺屋も又、具体的な未来像となると、「知価革命」の中ではセコいことしか説明してくれませんでした。
真面目な話、実際に未来を予測しようとする際に、最も大事なのは「今の時代と未来では、どんな価値観の違いがあるか」ということをはっきりと見極めることです。
一昔前の人々の価値観は、簡単に理解できます。なんせ他人事ですから。でも、自分たち自身の価値観の変化を知ることは案外、難しいものです。
まず「占い」。
パソコンネットの中でも、オカルトは盛んです。
現在、こういったUFOや超能力や予言、前世、超常現象といった種類の本が大量に出版されています。しかもこれらの本は、5万部10万部は当たり前というほど売れているのです。大きな書店に行けば棚丸々一つか二つ占領していることもあります。
さて、ここまで読まれてきて、いかがでしょう。
この「自分の気持ちを大切にする」というのは重要なキーワードです。
先ほどのマルチメディア本の話に戻ります。
さて、技術進歩に注目するのが仕事のマルチメディア本の作者達はともかく、トフラーや堺屋という、大変優秀な社会学者や経済学者が提案する未来像が、ここまでズレてしまうのはなぜでしょうか?
今から二〇〇年程前、ヨーロッパの片隅で産業革命が起きました。
科学主義と一口に言っても、このように民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義と言った価値観を含む一つの世界観のことだと捉えてください。
ここまでで、私の言ったことを少しまとめてみます。
私達の心を冷まさせた、現実的な原因は大きく分けて3つあります。
三つ目は、科学主義を切り売りするマスメディアに対する不信。
例えば、今最も注目されている、エコロジー問題に対する私たちの考え方にも、それは顕著に反映されています。
たとえば学生の理系離れ、といった現象。
で、もう一つの問題、「経済」です。
今の日本は経済戦争で一人勝ちし、貿易黒字は膨れ上がり続け、円の強さはとどまるところを知りません。が、こういったことを素直に喜んだり誇らしく思ったりする人はもういなくなってしまいました。
さて、これまでで説明したように、今の私たちは科学も経済も自分たちにとって特別大事なものとは考えにくくなってしまっています。
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第一章 パラダイム・シフトの時代
○百年前の未来源
この図は一八九二年に、そのアメリカで大ブームを巻き起こした新聞連載SF小説「フランクリード・ライブラリー」の表紙です。

当時の人々に夢と希望を与えた「フランクリード・ライブラリー」は世界最初の新聞連載SF小説といわれています。
「来るべき二〇世紀は科学と技術の栄光に満ち溢れている」
その巻頭で「フランクリード・ライブラリー」は高らかに宣言しました。しかし、その来るべき未来の予測は今の目で見ると、とても奇妙なものだったのです。
まず主人公の少年・フランクが発明したのは未来の馬車(!)でした。
高性能の蒸気機関で駆動される、この科学と技術の奇跡「スチーム・ホース」は本物の馬の代わりにフランクを乗せた鋼鉄製の馬車を引っ張る、疲れず眠らず食べない理想の馬なのです。
フランク少年は西部の正義を守るために次々と新発明をしました。スチーム・ホースの改良型・スチーム・マン(頭に被ったシルクハットが煙突の役割)、蒸気機関の潜水艦、荒野仕様の大型馬車。
現実の世界では、蒸気機関のロボットや馬は結局、実現しませんでした。でも当時のアメリカ人が科学や技術に対して持っていた夢や、無条件の尊敬が読みとれて、微笑ましいと言えます。
時は流れて一九〇〇年初頭。当時流行の科学雑誌には、こんな特集がよく掲載されていました。
「夢の機械化住宅・一九四〇年までには全ての住宅にはエンジンが取り付けられ、主婦の仕事は編み物だけになる」
特集の中を見ると、まず派手なイラスト。
住宅の隣に設置された、その家よりも巨大なエンジンのイラストです。もちろん巨大なエンジンからは真っ黒な煙がモクモクと(!)吹き出し、一家の主と息子がその煙を頼もしそうに見つめている。
エンジンから伸びた、巨大なシャフトが、家庭の各部屋を貫き、高速で回転。シャフトに接続された複雑な歯車装置が、各部屋ごとの機械(掃除機とか皿洗い機、洗濯機、全自動編み物機)を動かす、という仕組みです。
で、全ての家事と、編み物から解放された主婦は、暖炉の隣、長椅子で小型エンジン付タイプライターで母親に手紙を書いている。
「ねえ、お母様。最新型の機械化住宅は、とっても素敵よ」
この記事も確かに、微笑ましいと言えば微笑ましいですよね。私が大学の講義でこれらの資料を見せたときには、けっこうウケました。もちろんそれは、大変好意的な笑いだったのです。
しかしその時から、消し去ることの出来ない疑問が発生しました。
私たち自身も、こんなヘンなことを言っていないだろうか?
ひょっとしたら数十年後の人々から見たら、大笑いされるようなことを平気で言いふらしたり、そんな本を読んで感心してはいないだろうか?
○西暦二〇〇一年のオフィス
本当は芸術家気取りのケイに頼めば、動画で角度を変えながら撮ってくれるのだが、出張先の台風按近で飛行機が遅れて間にあわなかった。だから静止画主体に編集し直した。まったく二一世紀になっても天候だけはどうしようもない。
内部構造の説明は、結局、ありあわせの紹介ビデオをパソコンのディジタル・ビデオ編集ソフトで切り貼りして作った。本当は胃カメラを応用したグラスファイバー式のディジタルビデオカメラで機械の中を飛んでいる感じに編集したかったのだが、素人がやるとどうしても先がブレてしまう。それで諦めた。
(略)
最初の話題としてあたりさわりのないのはやはり天気の話だ。相手先の課長がディジタルテレビの気象チャンネルを選んで映像を映す。このチャンネルは衛星からの地球全体の実写が映るので、評判なのだ。
大画面で見ると自分が字宙空間にいるようで、気持ちがやわらぐ。お互いの気持ちを解きほぐすには持ってこいの画像だ。商品紹介のプレゼンテーンョンが始まった。
(略)
さあ重役向けの商品紹介はケイをプロデューサーにして、バッチリしたものを作るぞ。
あの課長をギャフンといわせてやる、と自らを奮い立たせるのだった。
(「マルチメディアとは何か」生産性出版・江崎伴雄、金子章弘共著)
ここに引用したのは近頃、書店の本棚を大いににぎわしている、いわゆる「マルチメディア本」からの抜粋です。もし、さっきのフランクリード・ライブラリーや「夢の機械化住宅」を知らずに読めば、それなりに感心して読めてしまいます。
私は大学でマルチメディアの講義をしている関係上、一時期、表紙に「マルチメディア」と書かれた本は全て買っていました。聞くところによると、九四年度だけでも一八〇冊以上出版されたということです。そのうちの半分近くは読んだでしょう。
何せ、買っても買っても次の日には新しいマルチメディア本が出てるという悪夢の日々でした。
一番凄かったのは、午前中に新宿で袋いっぱい買い込んだ日のことです。ひと休みして、喫茶店で買い込んだ本に目を通したら、帰りに同じ書店のカウンターに又、新しい本が並んでいるのを発見。思わず目眩がしましたが、努力と根性で買って読みました。
で、そういう本の中にはときたま、「マルチメディア環境が実現した二〇〇一年のオフィス」、なんていう短編小説みたいなのが最初か最後に入っています。
私は、そんなオマケは大好きです。なにせ私の本職は、SF映像やゲームなので、お手並み拝見という気分で楽しく読みました。
ここで抜粋した「二〇〇一年のオフィス」は、特にそれらの本の中でも技術的なバックボーンもしっかりし、主人公の行動の動機付け(モチベーション、といいます)も定義されている、良質のものです。
しかし、何かヘンなのです。
ますます激しくなるプレゼン競争の時代。主人公は通信衛星からの情報で、お天気の話もしっかり押さえる、やり手の営業マン。彼は携帯コンピューターを片手に三次元ソフトで相手先の課長をうならせる。
技術的なデータの部分は、きちんと書かれています。
しかし、わずか六年先の世界の描写は、何かヘンなのです。つまり、その中で描写されている人物達の価値観が、今の私たちと(というより数年前、バブル時代の「ヤンエグ」達と)全く同じです。
ここで描写されている世界は、科学技術だけが先行して、登場人物の価値観には全く変化のない不思議な世界なのです。
○技術の進歩は社会常識を変える
社会の価値観、という言葉は耳慣れないのですが、ここでは「何が良くて、何が悪いと人々が感じるか」、というふうに考えて下さい。
実例で説明します。
例えばルネッサンス以前、聖書は全てラテン語の筆写本でした。そのため、聖書は大変な貴重品で、読める人間も聖職者に限られていました。だから当時の人々は、教会や聖職者をすごく尊敬していました。
荘厳な教会の大伽藍、反響する聖歌隊の歌声、そして分厚くて読むことの出来ない聖書。中世の人々が、いかに教会に畏怖を感じていたか、本当に実感は出来ませんが、何となく判るような気はします。
しかし、グーテンベルクが活版印刷を発明したおかげで、誰でも家庭で聖書が読めるようになってしまいました。あの無限の謎をたたえた書物を、買って読むことが出来るのです。
すると、教会での説話と、聖書の矛盾に気が付く人も出てきます。
イエス・キリストは荘厳な教会を建てて自分の像に祈れ、なんて一言も言っていないじゃないか!
その結果、人々が教会に対して感じる尊敬、権威はどうしようもなく衰退してしまいました。その価値観の変化は人々を、中世の「疑問を持つな。ただ祈れ」という価値観から解放し、ルネッサンスをさらに加速させ、産業革命の足がかりとなったのです。
人々の価値観が変わると、社会のシステムも全て、大きく変わってしまいます。技術の進歩は人々の価値観を変え、社会システムをも変化させたのです。技術や科学が変化すれば、それにつれて社会の価値観も変わる、といったのはこういう意味です。
○「科学は死んだ」
でもよく考えたら、蒸気機関でロボットが作れる時代に、騎兵隊や幌馬車キャンプ(既に当時の西部でも、過去のものになりつつあったのです)が存在している筈がないですよね。
「夢の機械化住宅」に関してはもう少し、説明が複雑になってしまいます。なぜかというとこれは、今の私たち自身の価値観が変わりつつあることを示しているからなのです。
ここに書かれている価値観は「力強く、巨大なエンジンに象徴される科学技術は素晴らしくて、私たちを幸せにしてくれる」。
しかし、私たち自身の価値観はこの数十年で大きく変わりつつあります。
中世の人々はルネッサンス時代の進行につれて、無条件に「キリスト教会は、私たちを幸せにしてくれる」と考えられなくなりました。
同じように私たちも「科学技術は、私たちを幸せにしてくれる」とは感じられなくなってしまっているのです。
マルチメディア本を読むと感じる違和感。それは今現在、私たちの価値観が変わりつつある証明なのです。
で、それこそ私が、この第一章で言いたいことです。
つまり。
私たちは今、「科学の死」に立ち会っているのです。
○トフラーの予言
「インターネットや3Dソフトを駆使したプレゼンテーション」
「コンピューター制御の家」
「バーチャルリアリティ・ショッピング」
どれも今の生活や価値観がいつまでも続くものと考えて、「マルチメディアの技術」のみが進んだ世界を書いています。
企業や営業活動がなくなってしまえば、プレゼンテーションも残りません。
家族制度が崩壊すれば、「家」の意味は変わるのです。
「ショッピング」という概念そのものが、高度消費社会とワンセットのものでしかありません。
だから、こういった本の未来予測は何かヘンなのです。
ところが十年以上も前に、「技術の変化による価値観の変化」を語る二冊の本が出版されていました。
一冊目の本は、アルビン・トフラーの『第三の波』。
高名な未来学者アルビン・トフラーは、その著作『第三の波』の中で次のように言っています。
「今まで、人類の歴史を変えてきた大きな変化を波にたとえる。第一の波は農業革命、第二の間には産業革命、そして第三の波は現在起こりつつある情報革命である。農業革命の時にも、産業革命の時にも、大きな価値観の変化が起きている。打ち寄せる第三の波、情報革命の中で全ては変化する」。
トフラーは「農耕や産業革命によって社会のあらゆる部分が大きく変わったように、情報革命によって社会のあらゆる部分が変化する」と予言しました。
これは実にすばらしい画期的な着眼点で、世界中の人々が「あっ」と言いました。それ程、みんなにも思いあたることだったのです。(これは第二章で、ちゃんと説明します)
しかし、残念ながらトフラーが実際に提示できた、未来の情報社会とは結構、ショボいものでした。
「出勤せずに自宅にいながらパソコン通信で仕事」
「学校へ行かなくても、パソコン通信で勉強」
「買い物にいかなくても全て通販で生活がすむ」
これでは、まるでNTTのコマーシャルです。
しかし、トフラーのこの本は、全てのマルチメディア本のお手本になりました。
確かにパソコンネットが整えば、自宅で仕事も勉強も買い物もすることは可能になります。しかし「できる」のと「したい」のが全然違うことは、少し考えれば誰にでもすぐわかります。
確かに「ラッシュ通勤はイヤだ」と思っている人は多いでしょう。でも、在宅作業の仕事に人気が集中したという話は、聞いたことがありません。それよりも「設備の整った環境でバリバリ働いたあとは、自宅に帰ってのんびりしたい」と考えている人がほとんどではないでしょうか。
学校も、いじめや登校拒否の問題で揺れています。とはいえ、家に子供がいて朝から晩までパソコンと向かい合っていてほしい、と考えるお母さんがそんなにたくさんいるとは信じられません。
それよりも子供が喜んで行ってくれる、安心してまかせられる学校を望むお母さんがほとんどでしょう。
買い物も、確かに雨の日にスーパーに買い物に出かけるのはおっくうです。通信販売やテレフォンショッピングに人気が集中するのも道理。が、それが原因でデパートや専門店に誰も行かなくなったという話も聞きません。
特に女の子達にとってショッピングは、今だにお茶を飲んで友達とおしゃべりと並ぶ大きな楽しみなのですから。
さて、こういうわけで、アルビントフラーの『第三の波』は「画期的な着眼点」と「イージーで現実離れした予測」を私たちに提供してくれました。
そして日本のマルチメディア本の作者達は「画期的な着眼点」をきちんと捉えずに、むしろ「イージーで現実離れした予測」の方をふくらませてしまったのです。
「コンピュータを駆使したマルチメディア・プレゼン」
「バーチャルリアリティ・ショッピング」
エトセトラエトセトラ。
これだけではあまりにもリアリティがない、と感じた彼らはそこで、その予測に「ゴア副大統領が」とか「情報ハイウエイが」とか「カレイダ社の合弁が」とかをつけ加えて体裁を整えたのです。
私たちも、自信がないレポートを書くときによくやる「アレ」ですよね。
○堺屋の反論
これに対して、真っ向から批判を挑んだのが、堺屋太一です。
堺屋はその最も有名な著書、『知価革命』の中で「これからの商売で大切なのはモノそのものではなく、それに付加される知的価値である」と主張しました。
歴史学的・社会学的な論である『第三の波』を、お金儲けといういかにも日本人らしい位相で切り取り、「欧米に負けるな」と鼓舞したわけですから、エグゼクティブでなくても日本のサラリーマンなら誰しも心穏やかでいられる筈がありませんね。
「いいもの」「安いもの」がたくさん売れる時代ではないことは彼らも実感していたからなおさらで、「知価革命」はベストセラーになりました。
堺屋は、その中で次のようにトフラーを批判しました。
「『第三の波』の全てが変化する、という前提は社会構成員の価値観が変化する、ということである。その変化する価値観を具体的に述べない予測は片手落ちだ」
では堺屋が「知価革命」の中で述べている価値観の変化とはどんなものでしょうか?
堺屋はいかなる時代、いかなる社会にも、社会の共通概念である基本価値観がある、としました。その価値観を堺屋は次のように定義しています。
「豊かなものをたくさん使うことは格好よく、不足しているものを大切にすることは美しいと感じる、人間の優しい情知」
堺屋はこの根源的な法則を、『知価革命』の中で何度も主張しています。これを使って過去から現在における変革を捉えなおし、未来を予測しているのです。
これは歴史を捉えなおす上でも、未来を予測する上でもとても参考になる法則です。(このあと、第二章で詳しく説明します)。
つまりその時代のパラダイム(社会通念)は「その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか」を見れば明らかになるということです。
ということは、それまで豊富だったものが急に不足したり、貴重だったものが急激に豊富になったり、といった変化があるとき、それに対応して価値観が変化し、その価値観の変化によって社会は変化する、とも言えるわけです。
○経済的視点の限界
「ネクタイは材質・品質よりも柄やブランドで売れる」といったことをモゴモゴと言っただけだったのです。
官僚出身で経済評論家である彼としては「売れること」「儲かること」「企業が大きくなること」「日本経済が成長すること」が絶対の正義であり、どうしても疑えない価値観なのです。世界中の人がそれに向かって邁進するのが正しく、普遍的なことだと言う思いこみからは、どうしても解放されないと言えるでしょう。
だからイケイケのお姉さんが「上から下までブランドで固めるぅ?何それぇ?」という時になっても「これからのネクタイはブランドだよね」という位置からは動けません。
だいたいそんなこと言われても「じゃあ、そのブランドになるっていうのにはどうすればいいの?」という肝心なことはさっぱり答えられないのです。
せいぜい、「これからの企業は、つまり何だ、そういうことを一生懸命に考えないとねっ」と言うだけなのです。
せっかく堺屋の価値観に同調して、日本経済の成長を心から願う、優秀勤勉な企業家達のお父さんもこれでは困ってしまいます。
で、ここでも又、マルチメディア本の作者達は「やさしい情知の法則」には触れず、「欧米に遅れるな」という勢いや焦りだけは忠実に継承しました。
というわけで、必然的にマルチメディア本は「アメリカでのスーパーハイウエイの状況と日本での光通信の立ち遅れの事情」とか「ソフトで立ち遅れる日本、ソフト難民になるな!」とか、大層な割にはむなしい話で溢れてしまう事になりました。
○パラダイム・シフト
こういった「社会を構成している基本的価値観」を「パラダイム」と呼びます。
(「パラダイム」という概念の提唱者T・クーン自身はその著書『科学革命の構造』で「パラダイム・シフトが存在するのは自然科学の分野のみに限られる」と言っています。しかし現在では社会学の用語として使われることが多いようです)
例えば、私たちは「自然現象には全て、合理的理由がある」と知っています。でも、昔の人にとっては雷鳴とは「雷様の怒り」だったのです。
また織田信長の快進撃の原因は、鉄砲の使用や楽市楽座と言った経済政策によるものだ、と知っています。でも、昔の人にとっては「あれだけ強いのは天の義を得ているからだ」と考えていたでしょう。
これは彼らが無知だからではなく、パラダイムの違いによるものです。何かに理由を求めるときに「神が、そう決めたからだ」と「自然法則で、そう決まっているからだ」というパラダイムの違いが両者の違いなのです。
そのパラダイムに変化があれば、当然、社会システムや政治、経済、家庭、生活といったあらゆる部分に大きな変化が起こります。そういう大きな、社会を変えるほどのパラダイムの変化のことを「パラダイム・シフト」と呼びます。
それによって起こる社会変化たるや大変なもので、農業革命、産業革命は人類に起こった最大のパラダイム・シフトだった、と言われています。
で、ここが重要なんですが、堺屋もトフラーも口をそろえて、「今までの二回のパラダイム・シフトに匹敵する、大きな変化が起きている」と述べています。
いえ、この二人だけではありません。小は(といったら失礼かな?)栗本慎一郎から、大はP・F・ドラッカーといった大物学者まで全員が「現在はパラダイム・シフトの時期だ」と言っているのです。
では、現状や今後の社会を考えるためには、今起こりつつあるパラダイム・シフトを分析することしかあり得ません。現在、私たちは産業革命以来の初めての巨大なパラダイム・シフトに立ち会う、という大変貴重な体験をしているのです。
なんて幸運なことだと、思いませんか?
これ以上面白いことなんて、滅多にありませんよ!
それでは、現在起こっているパラダイム・シフトを観察してみましょう。
○若者の価値観を見る
アダム・スミスも「あるパラダイムの中にいるとき、そのほかのパラダイムは想像することさえ難しい」と言っています。
犯罪が発生したときに、まるで知ってるかのように犯人像を述べる心理学者も、自分の心理は分析しにくい。
醒めてしまった自分の心を、この間まで好きだった人に説明するのは難しい。
自分自身の変化については、案外私たちは自覚していないものなのです。
では、どうするのか?今の若い世代を観察すればよいのです。何と言っても三十年後の価値観は、今現在の彼らの価値観の中に芽生えてるはずだからです。日本が高度成長の時代だったときに、当時の若者達はすでに、「成長への否定」を始めていたのです。
今の若者達の行動や嗜好を見ることによって、私たち自身の自分では気が付かない変化を、知ることが出来るでしょう。
ところで、ここから先は、いわゆる「若者達」に対して「彼ら」という表現を使います。これは一度、私たちの中の価値観変化を客観視するための便宜的な手法です。
つまり、一度他人事、として考えると、私たちの心も本音を出しやすいだろう、ということです。だから「やっぱり彼ら若者は理解できない」などと短絡的な結論に走らないでください。あくまで「私たちの心の中にいる彼ら」イコール「私たちの心の中に芽生えている変化」をあぶりだすのが目的なのですから。
○オカルト
彼らは占いに対して抵抗感がありません。今や大抵の若者向け雑誌には「今月の運勢」とか「今週の占星術」とかいうページがあります。星座、血液型、前世、宇宙意識とのチャネリング。おまじない専門雑誌は売り上げを伸ばし、占い専門のビルもあります。
先日、テレビを見ているとついに「黒魔術師」を名乗る女性が出演していました。彼女は相談に来ていたOLに「嫌いな上司をハゲさせる呪文」を教えていました。
そして「オカルト」。
一口にオカルトといってもUFO、テレパシー、除霊、ヒーリングストーンと様々です。こういったオカルト本がそれぞれ何十万部も(おそらくこの本の何倍も)売れています。(正直、目の前が真っ暗になるときもあります)
「UFOはナチの秘密兵器!」とか「エジプトで逆行催眠!前世の恋人にあった!」とか「今晩八時二五分に、ヒデキに何が起こる!」といったTV番組も視聴率を稼いでいるようです。
また、「前世」というのもブームになりました。
『ぼくの地球を守って』事件をご存じでしょうか?『ぼくの地球を守って』(ボクタマ、と発音すると通です)とは、普通の女子高生が、ふとしたことから前世の記憶が蘇ることから始まる、いわゆる少女マンガです。
が、これがきっかけであらゆるオカルト雑誌の読者投稿欄が同じような投稿で埋め尽くされました。
「私と同時に覚醒したアトランティスの五神官を探しています」
「ハルマゲドンの戦士達は集結して下さい」といった投書とパニックで、廃刊に追い込まれた雑誌もあるといいます。
しかし、雑誌は廃刊になっても、未だに一部の少女達の間では「封印された記憶を取り返し、最終戦争のために前世の仲間を見つける」といった活動が盛んに行われているのです。
○コンピューターネットの中のオカルティスト
パソコンネット内は、いくつもの話題別のサークルに分かれています。パソコン通信する人は、そのたくさんのサークルの中から、興味のある話題の会議室を選んで、他人の意見を読んだり、自分の意見を書き込んだりするわけです。
さて、そのサークルの中にも当然「オカルト」「UFO」「テレパシー」といった類のものがあります。しかも書き込みが多く盛況なのです。
が、それだけで科学的でない、というつもりはありません。こういったサークルに参加する人たちの中にも、半信半疑で「とにかくデータを集めて自分なりに分析してみよう」と考えてるタイプの人が結構います。
しかし大部分は、「とにかくUFOを信じてる」とか「何があっても、超能力を信じてる」とかいう人たちです。彼らはそういったものの存在を「信じて」いますし、「信じたい」という姿勢なので、疑うことを良しとしません。
彼らもUFOならUFOの存在を実証する情報を、色々なところから集めたり会議室に書き込んだりします。が、UFOの存在を否定するような情報はハナから相手にしません。見えない、といってもいいでしょう。
懐疑派(UFOを信じない人は、そう呼ばれます)にそのことを指摘されても、「UFOの存在を隠蔽するためのデマだ」ということになってしまいます。そして彼らのデータの矛盾をあげつらう懐疑派を「地球の科学だけを盲信していて、宇宙の理知に目を開かない心貧しい人々」と諭します。
おまけに「昔ガリレオ・ガリレイは弾圧の中・・・」と自分たちの状況を説明したりもします。
それでも懐疑派は、ますます厳しく論理の矛盾を攻撃してきます。
すると最後には、UFO信者達は「私たちは自分の信じたいものを、信じたいように信じているのだから、放っておいてくれ(スゴい理屈ですね)」と一方的に話し合いを終わらせてしまいます。
何事も合理的に話し合うのが美徳、と考えている懐疑派達は、そのあまりの非科学的態度に怒り狂います。反対に愛と平和を大切にするUFO信者達は懐疑派達の非友好的で傍若無人な態度に眉をひそめます。心の底で「こういう人たちがいるから、戦争も環境汚染もなくならないんだ」と、思っているかもしれませんね。
○隠れたベストセラー「トンデモ本」
今注目のマルチメディア本・インターネット本以上の勢いです。
これらの本に共通する特徴の一つ目は「百億兆光年(誤植ではない)彼方からのテレパシー」とか「仏陀・キリストの生まれ変わり」とか「紀元前3200億年前(誤植ではない)の天皇家」とか「インドには全ての人の運命を書いた葉っぱがある」とか、理性的に見るとトンデモないことが書かれている、という点です。(私のサークルでは、これらの本を「トンデモ本」と名付けています)
二つ目の特徴は「戦争はいけない」とか「愛と平和」とか「エコロジー」といった、誰も反対できないような精神的で抽象的な目標が描かれている点です。
これらの「トンデモ本」を読んでいる人の多くもパソコンネットの人と同様、内容が科学的にトンデモないことを気にしません。そんなことよりも「これらを信じること」や「愛と平和を大切にする気持ち」が大事だと考えています。
「信じる」といってももちろん本当に心の底から信じてる人ばかりではありません。もっと軽い気持ちで「へぇー、そうなんだ」とか「面白い。本当かな」とかいう人たちが大勢います。
ただ、そういう軽い気持ちの人たちも「本当かどうか」「(科学的に)正しいかどうか」を追求したりはしないのです。
(そんな「信じやすい純粋な人たち」の中にいると、トンデモないところを論理的に追求するのは、無粋なことのように思えてきます。ウルトラマンを楽しく見ている人に「あの中には人間が入っているんだよ。ほおら背中にチャックが見える」とツッコミを入れている気分、とでも言うのでしょうか。この頃は私も、そういう「トンデモさん」たちを赦し、愛せるようになりました。)
○我々の内なるオカルト
もちろん、これらの現象を妄想だ、ばかばかしい、思春期にありがち、と捉えることもできます。あるいは今の若者達はわからん、という世代差の話にしてしまうことも可能でしょう。
でも、私たち自身、こういったオカルティックな事を楽しんでいるとは言えないでしょうか?
例えば相手の血液型や星座を聞いて会話の糸口をつかむことは、今や出身地や年齢を聞くのと同様、あたり前のことです。
五〜六年前、私の会社で血液型や星座の話で、持ちきりになったことがありました。それも「あいつはB型だからこの手の仕事に向いている」「あいつは乙女座のA型だから総務を担当させよう」といった話を管理職である人間が白昼堂々と会議し、実際それで人事を決めたりしたのです。
今から考えると冷や汗ものですが、今やこういった話はそこいら中で聞くことが出来ます。
又、私たちはTVの「霊能力者VS科学者」といった番組を楽しんでみたりします。
そういう時、私たちは本当に霊能力者がインチキかどうか、あまり気にしてはいません。昔のように「インチキなら科学の力で暴け!」とか「インチキでないなら科学者はこれを認め、その謎を解明すべきだ」とかは、考えないのです。
「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」これが私たちの偽らざる真情でしょう。
今の若者達が、占いやオカルト本に対して持っている感覚も、これの拡大バージョンなのです。
本当か、ウソか。
科学か、オカルトか。
そんな二項対立ではないのです。あえて言葉にするならば、気楽な第三者として「それって、あるある」「不思議を信じる自分の気持ち、大事にしたい」といった軽い感覚といえましょう。
軽い、というと、どうしても真面目でない、といったニュアンスが入ってしまいます。しかし真面目でないのは科学的態度、というスタンスに対してだけです。彼らにとっては「気になる」とか「自分もそんな気がする」「面白そう」という自分の気持ちに対しては、きわめて真面目な態度なのです。
だから彼らが面白いと思うことを肯定する科学は良い科学、否定してしまう科学は悪い科学、といえるでしょう。
○最も大事なもの「今の自分の気持ち」
彼らは恋愛も、相手とうまくいくか、より「自分の好き、という気持ちを大切にしたい」と考えています。だから、その気持ちを守るために現実の恋愛が破綻することも辞しません。(『東京ラブストーリー』のラストがそうでした)
ある意味、すごく純真なのです。
仕事に関しても安定した会社とか出世できそうか、を中心には考えません。
「こんな仕事に就いてみたい」
「自分の可能性をのばしたい」といった自分の気持ちを大切にしたいと考えます。
価値観の中心が「今の自分の気持ちを大切に」なのです。
こういった考えが主流になると今までで考えられなかったような社会変化が起きます。又、社会が変化すればますます構成員の変化にも加速度が付くでしょう。
そして、私たち自身の心の中でも、このような感性、価値観は変化しつつあるのです。
○もう「豊かになることによる幸福」が信じられない
「マルチメディアをガンガン駆使したプレゼンで、同僚に差をつけよう!」
こんな「ビッグ・トゥモロー」なアツい奴は、今や絶滅寸前です。もう、私たちはそんな風に考えにくくなってしまっているのです。
ガンガン働いてもエコノミックアニマルとなじられるだけ。貿易黒字でもいじめられる。そのくせ都内には犬小屋ほどの一戸建ても買えず、空気も水も汚れる一方です。
家がコンピューター化されるということは、家の中で発生する有害電磁波が増えるだけ。どうせその電脳化住宅には電磁波シールドのローンもくっついているんだろう。いったいこれ以上何か便利になって、幸せが増えるというのだろうか?誰も見当が付かない。
実は私たちは、科学技術の進歩で自分たちの生活が今より便利になったり、楽しくなったりするなんて楽観的に考えられなくなってしまったのです。
コンピューター通信のユートピアを描いている点で、アルビン・トフラーの楽観的科学主義の限界もここにあると言えます。
いえ、科学だけではない。経済も同じです。
「いい会社に入って、どんどん出世して、バリバリ働いて、いずれ社長になって・・」というお題目は、もはや信じられない。それどころかそういう人生が幸福だとは誰も考えられなくなっているのです。
この意味において、堺屋太一は完全に読み違いをしてしまいました。
これは経済評論家がよく言う、「豊かになったから、今度は楽しもう」といった、ゆとり思想とは違うのです。
若者達、つまり我々の心の一部は既に、「豊か」が信じられない。だから、破滅してもいいから「楽しもう」という程アナーキーなことを考え始めているのです。
○正しい未来
もちろん未来のことですから絶対まちがっていると証明はできません。
が、少なくとも私達の中の相当数(特に若者)が「この未来像って違うよな」と確信している、と言えるでしょう。
「こんな未来が来ればいい」と思っているならともかく、「ちょっと違うよな」と思っている生活を、私たちが突然選択することは、あまり考えられないことです。
それなのに、トフラーや堺屋はそんな未来を予測してしまった。
なぜかというと、実は彼らにとっては、そんな未来が「正しい未来」「あるべき未来」だったからなのです。
つまり、さっきのUFO信者と同じですね。現実のデータより、自分の見たいデータを見てしまい、見たくないデータは「採るに足りないこと」として見逃してしまうのです。
では、彼ら(堺屋・トフラー)と私達の考え方の違いをはっきりさせましょう。
ここでの「彼ら」という言葉も、再び便宜的なものです。(正確には「私たちの中で変化しつつある価値観、その旧世代型を『彼ら=堺屋・トフラータイプ』と定義して、新世代型価値観を『私たち=若者を中心に拡がりつつある価値観』と定義することによって、自分の心の中を客体化しつつ観測が可能になる」という、すごく面倒に聞こえる行動です。要するに他人事と考えて、自分の心を覗きましょう、ってことですね)
私たちと彼らの価値観の最大の違い。
それは、彼らがあえて名付けるなら「科学主義者」であり、私達は既にそうではないという点にあります。
「科学主義」とは、基本的には「科学の発達が、人類を幸福へ導いてくれる」という人々の考え方です。
「科学主義」という用語はこの世に存在しません。今までの価値観、感性を説明するために、たった今、私が作った言葉です。
しかし、あえてこのヘンな言葉を使うことによって私たちのスタンスが見えてくるのです。
そう、私たちもかつては科学主義者だったのです。
○科学主義者
それを期に、科学は急速に発達したのです。農業の発達によって、人々が飢えから救われたように、工業の発達は人々のくらしを驚くほど豊かにしました。
暑さ寒さを防ぐ住居や衣服が量産され、家電製品が整って便利になっただけではありません。映画やTV、ファッション、グルメ、車、レジャーと、それまで貴族によって独占されていた特権、娯楽がすべて大衆のものとして開放されたのです。
この科学・技術が成し得た偉業は、どんなに言葉を尽くしても足りません。
医療制度が人々に何を与えてくれたかは、あえて説明するまでもないでしょう。
それまで貴族の館でしか聞けなかった室内管弦楽。しかし科学の力は音楽を大衆に解放しました。一部の貴族ではなく、大衆が音楽を聴くために作られた巨大な音楽ホール、その中では音楽自体も科学化、産業化されました。「指揮者」「弦楽器パート」「管楽器パート」と、最新の工場のように演奏者の人々の役割は割り振られ、完全に完成された交響譜面の通りに正確に音楽は演奏されたのです。
線路は果てしなく延びて、旅行ブームが訪れます。かつての貴族のみが楽しめる「冒険」は失われ、スケジュール通りに進行できる「旅行」が、それにとって変わりました。その時代のベストセラー小説「八十日間世界一周」を見れば、そんな時代の雰囲気を感じることが出来るでしょう。
また、科学の力は地理的な障害、身分の違いをも解消し始めました。
「演劇」は、都市の住人、つまり市民でなければ見れない娯楽でした。しかしそれを、科学は「映画」に改良しました。これによってどんな地方でも、映写機さえあれば都市の住人と同じ娯楽が見れるのです。興行関係者は、この「地方住民からの収益」の多さに驚き、あわてて「誰にでも判りやすいストーリー」を制作者に要求しました。
逆に地方の観客は、映画にストーリー以外に都市の最新流行のショーケースとなることを要求しました。ここにおいて、映画は「流行の素材を使って普遍的なストーリーを語る」、という現在のハリウッド・スタイルの原型を手に入れたのです。そしてこれに続くラジオ、新聞によって「都市に住める身分の人々」と「地方にしか住めない人々」との差は、急速に縮み始めたのです。
科学は人々に娯楽を与えただけではありません。
科学が、人々を「市民」にした。
科学が、人々の楽しみを普遍化、平等化することによって身分制度、封建制度を壊滅させた。
科学には「前世紀の貴族の特権と楽しみを市民に開放する」という大義名分があったのです。
ああ、科学って奴は、なんて凄いのでしょう!
そんな科学を、私たちは熱狂的に支持しました。
人々は目の色をかえて量産し、目の色をかえて買い、目の色をかえて遊んだ。
家の中はモノであふれ、お父さんは忙しくてほとんど家にいられない位だった。
その当時、人々はみんな科学主義者であった、といえます。
人類は科学の力で、やがて月や火星にも植民地を作るだろう。
人類は医学の力で、どんな病気も治せるようになるだろう。
人類は合理主義の力で、やがて地上から戦争を撲滅するだろう。
人類は民主主義の力で、最大多数の最大幸福を追求した政治を実現するはずだったのです。
社会の上から下まで、みんなが本当に、腹の底から、それを信じていました。
それを信じたから、人々は邁進しました。浪費は消費を拡大するので美徳だと考えました。新型の電化製品は少しでも早く手に入れなければいけない。それがステイタスだったというだけではありません。それが「私たちの繁栄」を体現したものだったからです。
まだ使えるなんて言っていては、今の世の中やっていけない。新型を買わないと科学も経済も発達しないではないか。「もったいない」と辛気臭いことを言う年寄りもいました。しかし、私たちは彼らを田舎に置き去りにして、生産に、消費に、合理化に邁進したのです。
これが科学主義者の行動原理なのです。
○再び「科学は死んだ」
日本では戦後、世界の警察とか言っていた時代の元気なアメリカから入ってきた、例の価値観やスタイルのことだ、と考えてもらっても差しつかえありません。
トフラーや堺屋は「世の中の価値観が大きく変わりつつある」と言いました。しかし予測という感覚的な作業だと、ついつい若い頃から染みついた、この「科学主義」で考えてしまうのです。
しかし、繰り返し言いますが、私たちは既に、そんなに楽観的に科学や合理主義、資本主義経済を信じてはいません。そのため、堺屋やトフラーと、ギャップが生じてしまうのです。
本当は、私たちはもう科学に何も期待していないということを認めてしまった方がいいのです。
でなければ、「合理的に解決する」という建て前、価値観の残骸だけが残ってしまって、新しい価値観との狭間で苦しむだけなのだから。
だから私は、ここでもう一度、言わなければなりません。
科学は死んだのです。
産業革命と同時に宗教は死にました。
もちろん、死んだと言ってもその影響力が完全になくなったわけではありません。それどころか世界の大半では、いまだに最大の価値観の一つなのです。しかしあの、人々が無批判に宗教を信じていた時代はもう、永遠に帰ってきません。
今の日本では、聖典の中身に、ある程度の整合性がなければ信者は増やせません。合理的な宗教!
なんて「堕落」なんでしょう。キリスト自身が聞いたら激怒モノです。科学の前に宗教がひざまずいたのです。科学が、合理主義が世界を席巻した瞬間、宗教は「その他大勢の価値観」の一つに甘んじるより他はなかったのです。
それと同じく科学も今、死を迎えています。どんなに科学者達が正論を合理的に言い募っても私たちにはもう、それが魅力的には聞こえません。
「ふーん、それ本当なの?」とまず、疑ってしまう。
科学が私たちを幸せにしてくれるとは信じていないからです。
私自身、科学の発展に心躍らせたり、とにかくお金が儲からなくては話にならない、などという考え方をいつのまにかしなくなっていました。
今からたった二五年前、七〇年大阪万博の頃。
私を含め、日本人みんなが、まだまだ科学技術の進歩に期待していました。アポロ十一号の月面着陸に心躍らせ、月の石見たさに何時間も行列を作りました。それがいっこうに苦痛ではなかったのです。
確かに科学の進歩によって公害や交通事故など困った問題も出てきました。しかし、そんな貧乏くさい話題をしたがるのは一部の変わり者、ひねくれ者だと思っていました。
それに、そういった問題すらも「公害除去装置」「自動運転システム」といった科学的手段で何とかなる筈だ。今はまだ日本は貧乏だから無理でも、アメリカが開発してるに違いない。などと脳天気に考えていたのです。
日本は高度成長のまっただ中で働けば働くほど仕事は拡大し、会社は大きくなり、家の中に電気製品が溢れた。みんな残業も休日出勤も当然のこととこなして給料も上がり、出世も出来た。
私はその頃子供でしたが、もちろん将来は科学者になるんだと決めていました。クラスの男の子もみんな、科学者になるか、サラリーマンになりたいと言っていたのを憶えてます。意外に聞こえるでしょうが、サラリーマン、という経済戦士もまた、当時は憧れの的だったのです。
それがたった二五年でこんなに変わってしまった。
「科学の時代」は終わってしまったのだから。
○価値観変化の中心
1.社会全体が巨大な変化の時期を迎えている。
2.そのため、従来の価値観が全体として明らかに破綻しつつある。
3.変化している価値観を特定するために若者の嗜好を観察すると、価値の中心に「自分の気持ち」を置いていることが判る。
4.「自分の気持ち」が第一なのは、既存の価値観では、幸福が追求できないことが明らかだからだ。
5.彼らや私たちの価値観変化の中心には、我々を幸せに出来ない「科学」と「経済」への信頼の喪失があることが判る。
ではもう少し、具体的に「科学や経済に対する不信感・無関心」を説明してみましょう。
私たちは昔のように「科学の力は、何もかも可能にする」なんて考えてません。
科学の力で人類は月へ行ったが、実際に行ってしまうと特にいいことがないというのがバレてしまいました。
月に行くには、ものすごい苦労や労力や経済力が一杯かかる。とにかく大変です。それなのに、月にも火星にも、いや科学の力で行けそうなどこにも、ウサギも宇宙人も宝物も特別の鉱物や宝石も何もない。
絶対〇度で出来ることも真空で出来ることも、特別すごいことは一つもないとわかってしまった。これからどんなに科学が発達して銀河の外まで行ったって、大したことはないと、みんな薄々感づいてしまったのです。
コンピュータも、人工知能だとか言われていた頃はよかった。
しかしそれが実生活の中に入ってくると、銀行のキャッシュコーナーだったり、ファジーつき炊飯器だったり、ぱっとしません。
会社のOA化も、部署ごとにバラバラで互換性がなかったり、突然統一するとか言われて前のデータが使えなくなったり。だいたい新しく導入されるシステムに遅れないように勉強しなければならず、どうしてもメーカーに騙されている気になってしまいます。
コード接続や試行錯誤やシステムクラッシュ、不意のハングアップ、意味不明のエラーメッセージにとられる時間を考えると、本当に効率が上がったかどうかすら怪しいもんです。
家で自分用のパソコンを買って仕事に役立てようとしても、こんな時にだけ鼻のいいシステムが、ファイルのフォーマットの違いを言い立てる。
マシンやソフトをヴァージョンアップしてもヴァージョンアップしても、その度にお金も払い時間もかけ苦労したはずなのに使いきれない。
コンピュータなんか買わないで全部手でやった方がよかったのでは、という気持ちがいつも心をよぎってしまいます。(決して筆者は愚痴っているわけではありません)
医学の力も先が見えました。
ガンやエイズの特効薬がみつからない、というレベルの問題だけではありません。
たとえばアトピーや花粉症、成人病など現代病と呼ばれる病気がクローズアップされています。しかもそれは予防とか体質という名目で、個人の責任に戻されてしまうことが多い。
不老不死とまで言わなくても、せめて寿命がつきるまで元気に暮らさせてくれると思っていた医学もあてにはできないようなのです。
これらはみんな「科学の発達」が限界まで来たということではなく、「科学を使って私達が幸福になること」が限界まで来た、ということなのです。
言いかえれば「もう科学に夢を持てなくなった」「より科学的になろう、合理的になろう、文明を発展させようという気持ちが消えてしまった」ということです。
熱烈な恋からいつのまにか冷めてしまうように、私達の心はいつの間にか、科学から離れてしまったのです。
○何が科学を殺したのか?
一つ目は先程述べた科学自体の限界。
今後どんなに科学や技術が発達しても、私達の幸せとは大して関係なさそうだということ。もちろん科学や文明が何らかの原因で崩壊してしまえば、みんな不幸のどん底につき落とされるのは間違いありません。でも「不幸でない」のと「幸せになる」とは全く違う問題です。
二つ目は科学者を信じられなくなったということ。
昔の科学者はエジソンにしろ野口英世にしろ英雄でした。科学者はその研究成果を通じて全人類に貢献したと讃えられました。
ところが今や、そんなイメージはほとんどありません。科学が発達しすぎ専門化しすぎたせいで、科学者が専門外のことがわからず、重箱のすみをつつくような研究に走りがちなことを私達はみんな知ってしまったのです。
一昔前のSF映画に出てきたような「何でも知ってて、便りになって、新兵器の開発までしちゃうスーパー科学者」なんて、いるわけないですね。
そのうえ、科学者や技術者の後ろには、いつも企業や政府の影が見えます。
研究には莫大なお金がかかるので、それも仕方がないことを私達は知っています。
御用学者という言葉が示すとおり、科学者や技術者が私達と同じ雇われの身であり、自分の会社の為に働いたり発言したりすることも私達は知ってしまったのです。
彼らが研究成果をどんどん発表し合い、次々と研究をすすめているのではなく、企業の利益や自分の名誉の為に秘密を保持しながら研究していることも私達は知っています。
だって、私たち自身が人類の幸福の為に働いているわけではないのですから。
私たちは人類の幸福のために取引先に頭を下げたり、飲みたくもない酒を飲んでいるのではありません。世界平和のために「通れっ!」と裂帛の気合いで、ニセ領収書を経理に提出しているわけではないのです。
だから同様に、科学者や技術者が私達を幸福へと導いてくれるハズがないことを私達は知ってしまっているのです。
○マスメディアの親殺し
マスコミを中心としてマスメディアは、一貫して科学主義の布教につとめてきました。
特に科学の申し子とも言えるTVは、「アポロ十一号の月面着陸」の衛星放送をクライマックスとして、全世界に科学主義の布教にめざましい力を発揮してくれました。オリンピックも万博も、世界の警察アメリカの活躍も、日本の高度経済成長も、みんなTVを通じて布教されたのです。
ところが、科学主義にかげりが見え始めると、マスメディア内の主張の矛盾や意見の食い違いが目につくようになってしまいました。
科学的態度から言えば、最良の答えはたった一つに絞り込める筈です。キチンと実験したりデータを集めたり検証すれば、どれが正しいか効率がよいかはっきりし、意見は統一されていく筈なのです。
ところが実際にはそうではない。むしろ意見は分かれ、科学者の数だけ学説があるらしいのです。
確かにその原因の一つに、視聴率や売上が上がればよしとするマスメディアにも問題があります。目新しくおもしろい情報を求めるあまり、その正確さを二の次、三の次にしてしまう。これは多くの視聴者が、目新しくおもしろい情報を求めるあまり、その正確さを二の次三の次にしてしまうのと表裏一体になっています。
でも、それだけの問題ではありません。
誰にでも一つや二つは、きっちりと知っておきたいことがあります。それは人によって健康のことだったり、教育のことだったり、経済のことだったり様々です。
が、どんなことがあろうと、マスメディアを通じて情報を集め出すと、必ず矛盾する結論やデータが、いくつも手に入ってしまう。この時点で普通の人は「科学的な正しさ」でものごとを判断すること自体あきらめざるをえなくなります。
こうして視聴者は、おもしろい情報だけをみるようになり、マスメディアはますますおもしろい情報ばかりを流すようになるのです
また私たちは、TV番組にはスポンサーがついていて、そのおかげで無料でTV番組を見られることをみんな知っています。
TV番組は無料でも、代理店とスポンサーがついている。
雑誌は有料でも、広告ページという形で様々なスポンサーがついている。
どのマスメディアにとっても共通の最終的スポンサーである政府の存在がある。
それらのスポンサーが圧力をかけている為、流せない情報があったりするのも私達は公然の秘密として知っています。
例えば、育児雑誌で「あなたは布おむつ派?紙おむつ派?」という特集があったとします。その記事が一見キチンと取材され、自由な視点で比較されているかのように見えます。しかし、そのすぐあとのページで紙おむつのカラー広告が2ページ見開きであったとすると、さきほどの「自由な視点」なんか、信じられるモノではありません。
また、マスメディア、特にTVを中心としたマスコミは「そのまんま」が伝わってしまいます。
どんな偉い科学者や政治家も「案外気さくな人ね」とか「服のセンスがあまりにダサい!」とかのレベルまで全部が見えてしまう。
学者や政治家どうしの討論も、いかに科学的・合理的に話し合えないか、いかに他人の言うことを聞かず自分の意見を必死になって主張しているかが丸々見えてしまう。
出演者どうしの気がねや牽制のしあいも何となく伝わってしまう。
新しい学説や政策も、それを誰が説明するかによって印象はまるっきり違ってしまうのです。
いきおい、出演する方も過剰演出になり、極端な意見になり、ますますどの意見も信用ならない印象となってしまうのです。
で、このような原因によって、科学主義の布教に最もめざましい活躍をしたマスメディアは、結果的に科学を信じられない、怪しげな存在にしてしまいました。
マスメディア自体、科学の発達の中で生まれ発達してきたものの代表、優等生なのだから、科学に対して親不孝なことです。
こうして、科学自体も科学者もマスコミの吹聴する科学データも信じられなくなった私たちは、「科学主義者」としての態度を捨ててしまいました。
○理系離れの「エコロジー問題」
エコロジー問題というのは、実は大変科学的に捉えやすい問題なのです。
大気中の○○含有量が○PPMだとか、オゾンの量がウンヌンとか、この増加率で行くと○年後には何ヘクタールの森林が丸坊主になるとか。
科学主義的に考えると、本来こういった科学的問題は、科学者がきちんと考えて、ベストの解決法を見つけて欲しいもんですよね。
その上で政治家や官僚が、それらのデータに基づいた、合理的・効率的な方策を実行し、エコロジー問題は「解決」される筈なんです。
ところが、もちろんそうは問屋がおろしません。
一口でエコロジー問題と言っても、熱帯雨林から酸性雨、大気汚染、オゾン層の破壊等々と様々な要素が絡み合っています。
これらを解決しようとすると「どの順番でするか」「誰が金を払うか」「どの学説・データを採用するか」「どの企業が請け負うか」「それによってみんなの生活が不便になるけど、どの政治家が矢面に立つか」などという、誰も手を出したがらない問題のオンパレードです。
これらの問題、利権を、「人類全体の幸福」という抽象的な基準で合理的に判断して、制限するなんてことは、もはや誰にも出来ません。
だからこそエコロジー運動は「リサイクル運動」だの「割り箸を使わない運動」だの「私たちが出来る小さな運動」の形を取らざるを得ないのです。
だって、それ以外に信頼できる解決法が見えないのだから。
これらの運動は目標といっても空き缶の回収が何トンになったという程度かもしれません。
だからその結果、大気やごみの状況はどうなったか、実際は後どれぐらい汚染減少を必要とするのか、そのためには何を何トンづつリサイクルすればよいか、と言った合理的・科学的な判断をしなくて済むのです。
もっと気楽に考えていい、というわけ。
又「数の力で国や自治体に圧力をかけて」といった従来の運動をしなくても済む。
そういったことよりも「一人でも多くの人がエコロジーに関心を持ってくれること」といった気持ちの問題として捉えることが大切だ、という訳です。
これは最近の若者の価値観で触れた「自分の気持ちを一番に考える」にぴったりフィットしています。
エコロジー問題に関する、みんなの考え方の変化を見ると、明らかに科学的思想がマイナーなものになってきたというのが判ります。
最近起きた、阪神大震災においても同じようなことが言えるでしょう。
国や自治体の対応の悪さに関しては目を覆うばかりでしたが、それに対してマスコミが期待したほどの非難の嵐は起きなかったようです。
それよりも住民の冷静さ、ボランティアの数の多さ、義援金の額の多さが話題になりました。
国に対する批判はむしろこのボランティアを差配できない、義援金もさっさと使えないという点に集中していたぐらいです。
このような考え方は、明らかにある種の「諦め」という感情の上に成り立っています。科学的、合理的解決法に何も期待しないからこそ、心情的な解決法を採るのです。
さらに、具体的な例を挙げてみます。
○社会自身の「理系離れ」
一昔前は成績の良い者、数学の出来る者は当然のように理系の学部に進学しました。理系の学部を卒業して企業に入り、技術畑で成績を上げるのが何といっても出世コースだったのです。
しかし今では理系を出て企業に就職しても、かえって不利だったりします。おまけに学生は、出世よりももっと自分らしさや自分の可能性をのばせる、面白そうな仕事を望んでいるのです。
原子力発電所問題も面倒です。
夢のエネルギー原子力、という宣伝文句で登場した原発。でも実は、廃棄物を他の国にまで、こっそり捨てにいかなくてはならない。おまけにそれも返されてしまうという超環境破壊システムだ、なんて我々は聞かされていませんでした。
科学者と役人と企業のサギに引っかかった、と思った人も多いでしょう。
やめようと思っても、向こう数万年は厳重な監視を必要とし、核融合にいたっては現実的な目処は全く立っていない、ということ。
これらのことをみんな何となく気付いてしまいました。
「科学科学と浮かれていたら、えらいことになった」
「何も考えずに科学だ発展だ開発だ、といったら後で大変な目に遭うのは自分たちだ」という気持ちがみんなの中に生まれてしまったのです。
科学の力で作った原子力発電所が、科学の力ではどうしようもなく政治的解決を待っている、ということは科学に対する巨大なマイナス・イメージになりました。
だからといって科学を捨ててオカルトに走っても、放射性廃棄物をクリーンにする白魔術なんて、あるはずがありません。やっぱり解決も科学に頼らざるを得ないのです。みんな、そのリクツは判っているのですが、何かタチの悪いヤクザに引っかかったような気がしてなりません。
いま、注目されている無農薬野菜や、自然食品ブーム。
昔は人畜無害の表示を信じて殺虫剤を撒きすぎ、子供を死なせてしまう母親もいました。しかし今は「害虫は殺すけど、人間には無害な薬品」などこの世に存在しない、ということをみんな感じています。
そのリスクをどれぐらいに見るかは個々人で差はあります。でも、もし同じ値段同じ条件で普通の野菜と無農薬野菜が売られていたら、どちらが売れるかなどは考えるまでもありません。化学肥料も同じです。
みんなしかたなく薬品など「不自然な物」を使っています。しかし本当は自然(それも又、イメージの中の自然なのだけど)がいいと考えているんです。
農薬などを開発する人たちが、どんなに頑張って素晴らしい農薬を作っても無駄です。消費者たちは「いーや、科学なんかより、自然の恵みが素晴らしいに決まってる」と、海原雄山の受け売りみたいなことをいって拒否するだけですから。
又、花粉症やアトピーといった、現代医学でもなかなか解決できないといわれている病気があります。
どちらも環境汚染や、食品公害といった問題を抱え、エイズやガンなどのように死者が出ないので、医学界も本気になって研究していないようです。患者達は症状をやわらげるために、体には良くないと知りつつステロイド剤等を服用しています。
そう、彼らにとって科学は救済ではなく、加害者なのです。
そのため、医者を見捨てて、民間療法に切り替える者も多い。
科学的に効果が実証されていなくても、とにかく効くという噂を聞けば試してみる、という態度が普通になりました。鍼や怪しげな整体に行く人も大勢います。現代医療に対する不信感は相当大きくなっているのです。
このように「科学は私たちを幸福にしてくれる」という信頼感は、すっかり下火になりました。
「フランクリード・ライブラリー」に謳われた、輝ける科学と技術の二〇世紀のイメージは今や見る影もありません。
というわけで、科学主義は凄い勢いで終わりつつあります。
特に今の若者たちの間では、もはや終わってしまったといってもいいでしょうか。
○では経済は死んでないのか?
現在の若者は「経済」に関して不信感を持っている、と私はさっき、書きました。
ここまで読まれた方には、「科学が信頼をなくしたのは判る。しかし、経済は違うのでは?例えば女子高生売春などの事件を考えると、若い世代は、より拝金主義になってると言えるはずだ」と考えた人も、多いのではないでしょうか。
しかし私は、こう考えます。
もし女子高生を含む今の若者達が本当に拝金主義ならば、彼らの就職、結婚の対象は、より経済的に有利な方向へ向くはずだ。
しかし現実は違います。
今の学生は、より給料が高い企業、より安定した企業を就職活動の第一条件にはしていません。
もちろん最低これだけの給料は欲しいという希望はあるでしょう。今にも潰れそうな会社に好き好んで入ろうという奇特な人もいません。
しかし同時に「面白いことをしている企業か」「自分に面白いことをさせてくれる企業か」「自分にとってプラスになる経験が出来、ネットワークが出来るのか」といった判断材料の方が大きなウェイトを占めているのです。
給料がたくさんもらえるとか、退職金が多いというのは、決定的な判断材料にはならないのです。
一般的にいわれている「現代の若者像」はウソなのです。
おまけに彼らは、あまり就職したがりません。
昔は、大学を卒業したら、すぐにきちんと会社に就職するのが当たり前でした。
(余談になりますが、私が子供の頃、小学生に対するインタビューで、将来の希望は?という質問がありました。
断然一位はサラリーマン、だったと憶えています。当時の評論家達は夢がない、なんて言ってたけど、逆ですよね。経済に対して一般的に信頼感のある時代は、子供はサラリーマンになりたがる。軍事に対して信頼感があれば、子供は軍人になりたがるのです。
今の子供は「何にもなりたがっていない」だけなのです。)
就職しないのは学生生活を続けられないドロップアウト組と呼ばれるどうしようもない連中、とされていました。
しかし今や大学院へ進む学生は急増しています。
又、大学を卒業してからもう一度、他の大学や専門学校に入り直す学生も珍しくありません。マスコミは「モラトリアム現象」と騒ぎますが、彼らは口をそろえて「もっと勉強したい」と言います。たとえ就職しても、時間の余裕のある仕事について勉強は続けたい、と考えているのです。
これを見て「ずっと遊んでいたいだけ。学生気分が抜けていない」「大人になる責任がイヤなオタク世代」と、頭の悪い評論家達は批判したりします。
本当にそれだけなんでしょうか?
一流大学生も、フリーターも、専門学校生も、みんな口をそろえていう、この現象をそんな決まり文句で断ずるには無理がありますよね。
「ちゃんと就職すること」「きちんと働いて稼ぐこと」「この経済システムの中に所属すること」という価値観がすっかり崩れている。この「価値観の変化」をキチンと見なければ、何も論じれる筈がないのです。
で、もう一度戻って、だから女子高生はパンツを売るのです。
きちんと働く、という価値観なしに経済を見ると「とにかく最小労力で最大利益を上げること」が唯一の回答なのだから。
「科学」に対して「科学や合理主義は、私たちを幸せにする」という価値観が崩れたから、科学は信頼を失った。
同じように「経済」も、その内部に「一生懸命働くことが、みんなの幸せに繋がる」という価値観を含んでないと、信頼を失ってしまうのです。
すなわち、「お金は私たちを幸福にしてくれない」と。
○経済が輝いていた時代
貿易黒字の発表される月になるとアメリカの顔色をうかがい、円高は不景気をさらに深刻化させる。経済の発展は私たちを不幸にした、と考えてしまう時もあります。
いくらGNPが上がっても円高が進んでも私たちの生活はかわりばえしません。日本国内にいる限り、自分たちが豊かになったとは思いつかないぐらいです。
この感覚を三〇年前と比べてみましょう。
GNPが世界で五位になった、三位になった、二位になったと上がる度に新聞は大騒ぎ。国民は心から喜んで誇らしく思いました。戦争に負けて以来、ペッチャンコになってしまった日本が、どんどん立派になっていくのが自分たちのこととして誇らしかったのです。
だから、それを励みにして、国民はよく働きました。
死にものぐるいで働くことが、自分たちの生活を向上させ、日本を立派にすることと直結していたからです。
勤勉は美徳。
まさかよく働くことが他の国の経済を圧迫させ、環境を破壊し、資源を浪費する事なんて誰も考えつかなかったのです。
しかし、今の私たちは違います。
製品を大量生産することに、なんとはなくいかがわしさを感じてしまいます。より安く原材料を買い叩いたり、より安い賃金で他の国の人をこき使ったり、より無駄のない清潔な工場の生産ラインを整えたりすることに情熱を感じられません。大げさな言い方をすると、そんなことに「正義」を感じられないのです。
そんなことのために、自分の大切な時間をたくさん使うなんて!
残業も休日出勤も、そんなことのために頑張る理由が一つも無くなってしまったのです。
○『洗脳社会』
この感覚は別に私たちが(特に若者達が)人生経験が浅く、苦労を知らず、甘やかされて育って、社会の厳しさを判っていないからではありません。
むしろ「科学至上主義」「経済至上主義」の刷り込みが少なくなって、その分、新しい価値観の刷り込みが知らないうちに行われてきたから、以前の価値観に執着しなくなっているだけなのです。。
今から三〇年後、現在の大学生が五〇代になる頃には、この本の中で述べる、新しいパラダイムが主流になっているはずです。
その頃には「科学的」「経済的」な思考は、まだまだメジャーであっても年寄りくさい考えになっているでしょう。
がむしゃらに働きたがるのは年寄りだけ、医者の言うことを素直に聞くのは年寄りだけ、テレビを見るのは年寄りだけ、という時代を私たちは迎えつつあるのです。
では、次章からの話です。
今までのパラダイムが崩壊しつつあることは確認できました。では今、生まれつつある新しいパラダイムとはどんなものでしょうか。
私はそれを、このように定義しました。
「今、訪れつつある新社会。それを『洗脳社会』と呼ぶ。
自由経済競争社会とは、社会の構成員が、その最大の経済的利益に向かって邁進することによって安定する『動的安定社会』である。
それと同じく、自由洗脳競争社会とは、社会の構成員が、その最大洗脳的利益に邁進することによって安定する『動的安定社会』である。
これをキチンと説明するのが、この本の目的です。
この本では今まで断片的な現象としてしか語られていなかった、このような価値観の変化による社会変化、パラダイムシフトを総合的な観点から捉えて、今、何が起こりつつあるのかを明確にしようというものです。
その上でこれから将来、社会はどう変化するのか、私たちは何を準備すればいいのかを提案してみます。