『ぼくたちの洗脳社会』
第三章では、これからやってくる社会が「自由洗脳競争社会」であることを説明しました。では「自由洗脳競争社会」とは、具体的にどんな住み心地の社会なのでしょうか。
私が以前経営していた会社では、人間を学歴や地位、外見ではなく「その人のセンスや趣味、価値観」で判断していました。一見、立派そうに見えますね。では、その実態を説明してみましょう。
自由経済社会では、他人をその人の持っている「モノ」で測りました。
朝や夕方、公園で行われている犬の飼い主同士の集会をご存じでしょうか。彼ら、彼女らはお互いの名前を知りません。が、お互いの犬の名は知っていて「ジョンのパパ」とか「ハウザーのママ」とか呼び合って話をします。もちろん自分の犬の話です。
三章で紹介したパソコン通信は、こういった価値観・世界観の見本市ともいえます。パソコン通信は(通常)フォーラムというテーマごとのたくさんの部屋に分かれていることはもう書きました。日本の最大ネットNIFTYのフォーラム数は約八百、そのフォーラムの中がそれぞれ10〜20の会議室に分かれています。
同人誌即売会においても、パソコン通信ほどではありませんが、同じような要素が見つけられます。殆どの同人誌は「自分はこんなマンガが好き」「こんなアニメが好き」「こんなイラストが好き」という価値観を中心に作られています。
今の若者たちや子どもたちは、いくつもの価値観を持つ訓練を受けています。
ついさっき見たTVで、筑紫哲也が「女子大生の就職状況は今超氷河時代だ」と言っていました。中高年のリストラという名の解雇も問題になっています。
では私たちは「それぞれが独自の価値観を持つ、複数の組織」といかに付き合うことになるのでしょうか?
これからは価値観の増加につれて、一つの価値観を共有するグループがいくつも生まれてきます。それは犬の散歩仲間だったり、カルチャーセンター仲間だったり、ある団体のボランティアスタッフの仲間だったり様々です。
自分自身に関する捉え方も、そういった複数の価値観を合わせ持つものの総体として把握します。つまり自分という人間を以下のように認識するわけです。
二十世紀のはじめ、西サモアからツイアビという名の酋長がヨーロッパを訪れ、産業文明に出会いました。彼の驚きは『パパラギ』という本の中に書かれています。ツイアビは彼の仲間たちに「パパラギたち(白人のこと)は、気が狂っている」と何度も繰り返しました。
洗脳社会での「自我の在り方」は、こういったシンドさを軽減してくれます。今までの価値観からみれば「その場その場で価値観が変わる、いい加減な奴」であり「自分の意見がない奴」ばかりが目に付くことになるでしょう。
さて、こうした社会での行動力の源は「自分の気持ち」です。つまり自分の好き嫌い、合う合わない、面白い、やってみたいという気持ちなのです。この気持ちがなければ、コーディネイトのしようがありません。だからこそ、今の若者のキーワードは「自分の気持ちを大切にしたい」というわけですね。
さて、ここまでで「様々な価値観やイメージ、センスがあふれるこれからの洗脳社会では、洗脳消費者たちがそれを常に複数選択してコーディネイトし『自分の気持ち』を満たしていく」という仕組みを説明しました。
友達同士では、その服がどこでいくらで売っていたのかを話題にするように、その価値観は誰がどんな媒体で発言していたのかを話題にすることになります。同じようなスーツがデパートではいくらで売っていたよ、と情報交換するように、同じ離婚論ならあの番組にでているこの人の方がおもしろいよ、という風に情報交換します。
が、もっと注目すべきなのは、結婚、家庭の崩壊です。
このように、結婚観自体が揺らぎつつある現在、親子の関係にも影響を及ぼさないはずはありません。現在の日本の状況では、女としての貞操観念が希薄になりつつある女性たちも、母としての義務感に関してはまだまだ強固に持っている人が大多数です。
このように、これからの人間関係は広く浅くが基本になります。と同時にその中から、自分と環境・価値観やセンスの合っている人を選び出してつきあうようになります。
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第四章 価値観を選択する社会
○洗脳社会のキーワード
この章では「自由洗脳競争社会」の中で個人個人が幸福に生きる、とはどういう事かを中心に考えていきたいと思います。最初にこの章で述べることの結論だけを列記します。
○洗脳社会での「個人の振る舞い」には特徴が三つある。
1. 他人を、その価値観で判断するということ。
2. 価値観を共有する者同士がグループを形成するということ。
3. 個人の中で複数の価値観をコーディネートするということ。
○また、そういった振る舞いの動機になっているのが、第一章でも説明した「自分の気持ちが一番大事、という価値観」であるということ。
○現在進行中の社会変化では「家族」「就職」「規則正しい生活」といった決まり事が失われ、人間関係の自由がさらに推進される。そしてそれらのことは二度と元に戻らない「引き返せない楔」である、ということ。
では他人を、その価値観で判断するとはどう言ったことでしょうか?
○人を「中身で判断する」とは
私の会社はアニメーションの製作会社でしたので、入社してくる人はおおむねそういった方面に興味のある人でした。新入社員であろうとバイトであろうとお客であろうと、新しい人が会社に入ってくると、回りから一斉に「何が好きか?」を聞かれます。
アニメかマンガか特撮かSF小説か、から始まって、アニメならどんなジャンルのアニメか、誰が監督のアニメか、といった詳しいことや、自分でマンガやイラストは描くのか、プラモデルはつくるのか、コミケというマンガ同人誌即売会にいくのか、といった活動まで根ほり葉ほり聞かれます。もちろんその質問の中には、実際どのくらい詳しいかというテスト的要素も含まれています。
そうして社員たちは、「今度来たヤツは美少女系のマンガをホームベースにして、アイドルからパソゲー(パソコンゲーム)、アニメまで守備範囲は広いぞ」とか「東欧系の海外SFばっかり読んでるガチガチのSF野郎だ」とか位置づけて、まずは安心します。この時点で誰とは話が合いそうだ、とか情報交換できそうだ、ということがわかるからです。
また、たまたまそういった方面に全く興味のない人が入ってきてしまうと、その人がゴルフやテニスがどんなに好きでも、麻雀ができなくても、お酒が飲めなくても、少々の金持ちでも、十把一からげで「普通の人」と分類されてしまいます。
こういう訳で「中身で分類する」というのは「外見で分類する」のに比べて、特に立派なことと言うわけではありません。その人の出身地や学歴、年齢、配偶者の有無、持ち家や車の有無で分類するのと同様、その人の人柄や本質をみようとしてはいないからです。
「結婚していて子どももあり、家を持っている人だから信用できる」というのと同様「翻訳SF三千冊読んでるから信用できる」という、別の意味で他人をステロタイプに当てはめる考え方なのです。
ちなみに、私の会社内でも、彼女がいるか、とかその人の実家が金持ちか、とか出身地がどこか、という「普通のこと」も話題にはなります。が、たとえば彼女がいるとわかった場合は、次に必ず聞かれるのはその彼女は「普通の人か、アニメファンか」といったことです。実家が金持ちというのも「小遣いが多くて新しいパソコンがどんどん買える」とか「無理に就職しなくても親のコネでなんとでもなるから、サークル活動に割く時間がいっぱいある」という風に翻訳されます。
「変な人たちだなぁ」と思われるかもしれません。つまり価値観や世界観が違う、というのはこういう事なのです。
今、適齢期の人たちに「結婚相手の条件は?」と聞くと必ず返ってくる「価値観の同じ人」というのも、これと同じです。「スキューバが好き」だけなら、単なる趣味の一致です。しかし「有給を一日でも多く取ってスキューバに行く」なら、「人生は趣味のためにある」という価値観が一致しているわけですね。
○価値観で判断される個人
たとえば「一戸建てを持っている」とか「三五歳になってもまだ社宅に住んでいる」「別荘がある」「ベンツに乗っている」「家にクーラーもカラーテレビもない」「貯金が三千万ある」「家は二五坪で2LDKだ」といった評価です。当然自分自身についても「五百万貯金があって、もうすぐ一戸建て購入予定のサラリーマン」という風に考えます。
これと同様、自由洗脳社会ではどの価値観や世界観を選んでいるかで他人を測ります。
「子どもの早期教育にすごく熱心だ」とか「犬を飼っていて、ものすごくかわいがっている」「無農薬野菜を共同購入している」「UFOマニアで、いつも変な本を持って歩いている」「ろうけつ染めとウクレレと中国語とヨガのカルチャーセンターを掛け持ちしている」といった感じです。「モノ不足」の時代ですから、その人の外見ではなく中身で分類しようとする方向へ向かうわけですね。
さて、私は「どんな価値観を選ぶか」と言いました。「どんな価値観を持っているか」とは言いませんでした。それは洗脳社会において、価値観とは自分独自のものを持ったりするのではなく消費者として選ぶからだ、と考えているからです。
「自由経済社会」において、大多数の人は消費者です。これと同様「自由洗脳社会」においては大多数の人は被洗脳者、つまりイメージ消費者なのです。ですから、洗脳社会といっても、別に誰かに一方的に洗脳され続ける恐ろしい社会と言うわけでありません。自由経済社会が誰かに一方的に買わされ続けているわけではないのと同じ事です。我々が生産者側に回れるのと同じく、その人がやりたければ洗脳者側にも回れるのです。
ここまでをまとめてみます。
自由経済社会においては、何を買うかが最大の関心事でした。これと同様、自由洗脳社会では、豊富にある価値観や世界観、つまりイメージからなにを選ぶかというのが最大関心事になります。そして人々はお互い、どんなイメージを選んだかで相手を値踏みするわけですね。そして、同じ価値観を持つ者同士がグループを作り出します。
○価値観共有グループ
自慢話もあれば心配事もあります。虫歯や病気からペットフードの善し悪し、予防注射の話まで、情報交換も盛んです。大型犬派、小型犬派、ペットフード派、手作り派、室内かわいがり派、外で放し飼い派、などなどいろんな好みによって、さらに小さなサークルを形成しています。が、そこで共通しているのは「世界はペットのためにある」といわんがばかりの勢いです。
ここではペットに関するあらゆる事が話されますし、ペット以外のことはほとんど話されません。別に彼らの人生がペット一筋なのではもちろんありません。実生活では仕事があったり家族があったり、他の趣味があったりの当たり前の人たちです。ただ、彼らは「仕事や家族と同じくらい大切なペットの話を一番楽しくできる仲間が、その公園にはいる」ということを知っているだけなのです。会社の同僚やペット好きでない家族には、ポチが叱られたときどんな風に拗ねるのか聞きたい人が一人もいないことを知っているだけなのです。
こういった特殊な価値観や世界観を共有するためのグループは、徐々に増えつつあります。
エコロジー運動をしている人たちのグループでは、世界のあらゆる要素・出来事は「地球に優しいかどうか」で判断されます。世界中のあらゆる企業も政治家もタレントも、エコロジー運動に協力的かどうかが最重要ポイントになるわけです。
わが子を有名小学校へ入学させようとしているお母さんたちの集まりでは、もちろん世界は「お受験」一色です。たった六歳にして人生の全ては決まってしまうかのような勢いなのです。
また自然食を中心とした、自然健康法派閥の人たちも有名です。季節の野菜を中心とした食事の材料は、もちろん無農薬野菜。ジャンクフードや炭酸飲料なんてもっての外です。そんな人たちのオピニオン・リーダーは、「料理でも砂糖は使うな」とお母さんたちをアジる小児科の先生です。とにかく健康なら死んでも本望という勢いですね。
○ネチケット
パソコン通信する人は、まずNIFTYに電話をかけて(アクセスすると言います)繋がると、どのフォーラムを選ぶかを指示します。するとそのフォーラムの会議室のリストが表示され、どれにするかまた選びます。するとようやく実際に読んだり書いたりできる状態となります。
それぞれのフォーラムには、それぞれそのテーマに興味を持つ人たちばかりが集まります。例えばアニメフォーラムは、アニメが好きという人たちばかりが集まります。アニメといってもいろいろあるので、その中が様々な会議室に分かれているわけですね。ジャンルごとのみでなく人気アニメなら会議室をまるまる1個もらえます。また、アニメの声優の人の話のみの会議室もあります。なつかしアニメというのもあります。
ここでは、アニメのあらゆることが話されます。しかも、あらかじめ自主的に自分の書きたいことがどの会議室にふさわしいかも判断して書き込まれているので、見事に分類されています。間違っている場合は、他の人が注意してくれます。注意された人は、自分の失礼をわび、しかるべき会議室へ移ってから改めてその話題を始めます。
今いる会議室の人たちの方が気が合うから、といった理由でだらだらとそこでなにもかも書いてしまう、ということは決してありません。そのルールがいかに厳密に、大切に守られているかは、各フォーラムごとにたいてい一つ、フリートーク専用の会議室がわざわざ設けられていることからも判ります。
フリートークの部屋以外では、各会議室のテーマに無関係なことを話すのはエチケット違反なのです。フリートークの部屋ですら、そのフォーラムに何らかの関連がある話題が大半を占めています。
もっと大きな特徴は、それぞれのフォーラムのテーマ、会議室のテーマの根本的否定が許されない点です。こちらの方はエチケットどころか、重大なマナー違反となります。たとえば、アニメフォーラムで「今のアニメはダメだ。昔のアニメはよかったのに」といった話題はOKです。
けれど「アニメなんて、もともとくだらない。百害あって一利なし。アニメ好きのオタクなんか軍隊で叩き直せ」という意見を明治生まれのおじいさんが書き込んだとします。これに対し、皆がよってたかってアニメのすばらしさ、自分の人生にとってのアニメの重要性を話すと言うことはありえません。そうではなくて、そういう方はこのフォーラムにはふさわしくないと言うことで丁重にお引きとり願うわけです。もうちょっと親切に、健康・教育といったフォーラムをご紹介するかもしれません。
このようなネットワーク・エチケット、「ネチケット」は大変大切に守られています。
こういったことは、会議室単位でもあります。例えば今人気のテレビアニメ「魔法陣グルグル」の会議室。これに対する様々な批判はいっぱい書かれています。
曰く「展開が遅い」「先週の作画は荒い」。
しかし、「あんなふざけたアニメのどこがいいか全くわからない」という全面否定の意見は許容されません。そういう場合、友好的な彼らは「自分たちの好きなものを批判されるのはつらい」「好きという気持ちをみんなもっと大切にしてあげよう」と口々に発表しあって、否定者をゆっくりと圏外へ追い出してしまいます。このことからも明らかなように、フォーラムや会議室というのは、価値観・世界観を同じくするグループなのです。
○2次文化集団
オリジナリティがなくてもストーリーのつじつまが合わなくても大丈夫なのです。プロでは絶対必要な、こういう要素よりも、先ほどの「好きだという気持ち」が優先されるわけです。
「好き」を自分自身や自分のグループ内で確認するために描くという意味あいも強いのです。買う側も、描き手の「好き」と自分の「好き」が重なる部分があるものを探します。この作業は、フォーラムや会議室を選ぶのと同じような作業です。ただし、こちらの方は、より微妙で繊細な価値観の差を探すことになります。
これからの洗脳社会では、会社であれ他のグループであれ、そこ独特のこういった価値観や世界観を持つようになるでしょう。そういった特殊な価値観を共有できる仲間を求めて、それぞれの人はグループを作るようになる、ともいえます。(先ほどの私の会社は時代の先端の例です。当時は「オタク族」と呼ばれたりしました。が、現在こういった現象は特別珍しいことではありません)
そして人々は、個人の中で複数の価値観を共存・コーディネートして、複数のグループに所属することになります。このような集団をトフラーは「二次文化集団」と名付けました。また心理学者のC・トールは「個々の人々は共通の関心やサブ・グループの一員としての関係をもとにして親しい「親友型」の関係を身につけるようになるだろう」とも言っています。
○価値観並立の訓練
学校、いくつもの塾、お稽古ごと、クラブ、ボーイスカウトのような活動。時間ごとに区切られたグループはそれぞれ価値観が違います。学校は先生の言うことを聞くところ、塾は勉強のできる子が偉いところ、英会話教室は積極的に話す子が良いところ、絵画教室は人と違うことをするのがよいところ、ボーイスカウトは人に親切にするのがよいところ、等々。
そのグループの中での立場も様々です。学校では目立たない子、塾では中の上の成績、水泳は結構得意、英会話教室はこの前入ったところなのでまだまだ、といった感じです。「近頃の子どもは、友達と遊ぶといってもファミコンをしていたり、一緒にテレビを見ているだけで一緒に遊んでいるという感じがしない」などとよく言われます。が、彼らにしてみれば一緒に遊ぶという漠然としたことなど逆にできないのです。「一緒に遊ぶ」だけでは共通の価値観が見つけだせないからです。
その点ファミコン仲間なら大丈夫です。ファミコンがうまい子が偉い。負けるとすぐ投げやりになるのはダメなヤツ。新しいソフトをどんどん貸してくれるのはいいヤツです。ファミコンが好きな子はそのグループに入って、そこで心ゆくまでファミコンを楽しめばいいし、嫌いな子はそのグループに入らなければいいだけです。
友達だからやりたくない遊びにもつきあう、という発想は希薄になりました。
だいたい「親友」といったオールマイティの友達を求めたりできる環境ではなかったのです。塾やお稽古ごとで分断されている生活では、気に入った友達とずっと同じ時間を過ごすこと自体不可能です。毎日近所で日が暮れるまで好きな子と遊んでいた頃とは、人間関係や精神構造が違ってしまうのは当然ですね。
こうして子どもたちは、小さい頃から多種の環境に放り出されます。
彼らは 環境毎の価値観(勉強、運動能力、芸術的才能等)を持つことになり、その環境毎に自分のステイタスが決定され、他人に対する接し方も変わります。こっちのサークルではリーダーだが、別のサークルでは目立たない奴、といった具合でしょうか。
価値観と他人への接し方が複数、個人の中で共存している。つまり人格がやや、分裂しているわけですね。「人並みに豊かにならなければ」という強迫概念が日本の現代病とするならば、多重人格は来るべき社会の現代病と言えるでしょう。
現在、この傾向はどんどん加速されています。その原因は、子どもたちの母親が既にそういった世代になりつつあり、無意識のうちに子供たちを訓練していることです。
母親たちは、自分自身の時間を、家事・育児・パート・自分のカルチャーセンター・子どもの習い事につきあう時間・母親同士のおしゃべりの時間、等々に分断しています。子どもたちは、小さい頃からそういった母親たちによって様々な環境に連れ回されます。その環境やグループの価値観をすばやくキャッチして、その場に応じた行動をとれる子どもがよい子なのです。
また、同時に子どもたちは小さい頃から、ある程度そういった環境やグループに対する選択権が認められています。子どもがいやがるから、と習い事をやめたり、別の教室にすることは普通のことです。同じ水泳教室でも、今いっているところはスパルタ式で子どもがいやがるから、別の遊び中心のところへ変えようと考えたりします。
このようにして子供たちはいくつもの複数の価値観を合わせ持つように訓練を積みつつあります。彼らはさらに、自分の時間を自分の気持ちに合わせて、絶妙のバランスでコーディネイトできるようになっていくわけです。
○非就職型社会
一昨年の年末、私は吉祥寺の駅前で親子連れのホームレスを目撃しました。小学校三年ぐらいの子供は「ドラえもん」などのマンガ単行本を地面で売っていました。
私は大学の他に美術系専門学校やコンピューターゲーム学校の学生たちともつき合いがあります。彼らのいずれもが「就職」という事に関して否定的です。就職に関して悲観的、ではないのです。出来れば就職せずに暮らせればなぁ、と彼らは思っているのです。
景気の回復に関しては、もう楽観的に語る人はいなくなりました。一つの国の繁栄とは、他国からの搾取の結果である、と知ってしまった私たちは、もう経済的繁栄に何も期待していません。おそらくこの国では「慢性的な失業」がきわめて当たり前なこととなるでしょう。労働時間の調整はますます進み、週休三日もそう遠い話ではないはずです。
生涯を一つの企業で働く、ということが特殊になり、休日や余った時間は他の団体で過ごすことが当たり前になるのでしょう。つまり子供たちと同じく、ビジネスマンも「それぞれが独自の価値観を持つ、複数の組織」に所属せざるを得なくなるのです。 それらの組織は営利団体とは限りません。ボランティア人口の増大は現在でも話題になっていますし、フリーマーケットはこの数年、倍々ゲームで増え続けています。
環境の変化は人間の認識に変化をもたらします。今現在も我々は、多種多様な価値観と共存しながら暮らしています。最近話題になったカルト教団問題にしても、これからはますますああいった問題が増えてくるでしょう。私たちはこのように、否応なく「洗脳社会」への準備を進めているわけです。
○TPOで使い分ける価値観
こういった特殊な価値観のグループは、それぞれが無関係に「独立して存在している」というわけではありません。何度も説明したように、実際には一人の人がいくつも掛け持ちしているのです。一つの価値体系はそれなりに完成したモノなので、掛け持ちするという事は、矛盾した価値観を合わせ持つ、ということになります。
たとえば「正しいアニメファン」は、ペットなんか飼うべきではありません。そんな暇や手間やお金があったら、アニメにつぎ込むべきでしょう。もちろん麻雀もお酒もグルメもおしゃれも、よくありません。
また「正しい自然健康派」は都会に住んでもいけないし、家にテレビもファミコンもあってはいけません。脂肪過多の学校給食も感心しませんし、座学中心の学校教育システム自体よくないにきまってます。自然派にとっての教育は「晴耕雨読」しかあり得ないのです。軟弱にも、家畜ではなくペットなんか飼っているとしたら、もちろんキャットフードなんてやってはいけません。
こう考えるとわかるとおり、基本的に一つの価値観は他の価値観を許容しません。そのため本来は一つだけの価値観で人生のあらゆる事柄を決め、統一するべきなのですが、実際問題として、それでは人生があまりにも幸せとかけ離れたものになってしまいます。自分が大変な変人になってしまい、ふつうの社会生活すら難しくなっていきます。アニメファンでもおいしい物は食べたいし、エコロジストでもTVで野球を見ながらビールを飲みたいのは当たり前です。
そんなわけで、ほとんどの人は、場合場合によっていくつかの価値観、世界観を使い分けています。つまり、矛盾した複数の価値観を同時に持たざるを得ない、ともいえます。これから社会の自由洗脳競争が進むにつれて、こうした価値観、世界観の種類はどんどん増え、細分化していくことになります。というのも、高度情報化社会の正体は、一つの事実を様々な価値観でとらえてみせるという事だからです。つまり情報があふれている状況、というのは価値観があふれている状況だともいえます。
第三章で私は高度情報社会・マルチメディア社会の本質を「情報ではなく、情報に対する解釈で溢れる社会」と決めつけました。今世紀中盤を「物余り、人手不足の社会」と定義するならば、来るべき世界は「情報(に対する解釈)余り、資源(環境)不足の社会」なのです。
言うまでもなく「情報に対しての解釈」とは価値観・世界観を意味します。「油まみれのウミドリ」や「第7サティアンに入る機動隊とカナリア」に関して、私たちは「どういう意味か」ばかりを求めました。マルチメディア社会の正体とは、豊富な情報ネットで莫大な量の価値観・世界観が流通する世界なのです。
○分割される個人
パソコンネットの発達によって、ネット上のサークルという形を取る場合も多いでしょう。ネットで知り合った人同士、たまにどこかで待ち合わせて実際に話す事もあるでしょう。
逆にかつてボランティア仲間だった人たちが、ネット上で交流を続けたり、ということもあると思います。どんな形を取るにせよ、一つのグループが一つの価値観やセンスを共有するためのものであることに変わりありません。そのグループ内でしか通じない話、そのグループ内でしかできない話をする、というのがグループの目的となり、暗黙の了解となるでしょう。
そういった価値観を複数持ち、そういったグループに複数所属することがこれからの生活スタイルの基本形です。
そうなると人生の大きなポイントは、「どんな」価値観を「どれくらいづつ」生活の中に取り入れるか、「どんな」グループに「どの程度の深さ」で所属するかになります。
パソコン通信を利用する人は、ふつう複数のフォーラムを選択します。しかも、フォーラムを選択するごとに自分でハンドル名という呼び名を登録することになっています。すべての書き込みは、このハンドル名でなされます。つまり、他人からみれば自分という人間はハンドル名の数だけ存在することになるわけです。
当然フォーラムごとに違う名前で呼ばれるわけですし、各フォーラムごとに価値観も立場も違います。こうなると自分の中にハンドル名の数だけの自分が存在していて、その総体が自分である、という混乱した状態になります。
ちなみにNIFTYでは、入会するとすぐ各自にIDという無味乾燥の記号が発行されます。このIDだけは、どのフォーラムにいっても共通で、ハンドル名の後に明記することになっています。従ってAというフォーラムのハンドル名大猫さんと、Bというフォーラムのハンドル名コグマさんが同一人物かどうかは、IDを照合すれば判断できます。が、普通はそんな面倒なことはしません。
自分が所属しているAというフォーラムの常連10人が他のどのフォーラムに顔を出しているかを確認しようとすると、結構面倒な作業量となります。仮に同一人物だとわかっても、それだけで結局その人が何歳かも、男性か女性かすら判らない場合が多いのです。
パソコン通信の黎明期には、カタカナしか使えなかった時代がありました。そんな時代のリアルタイム会議で「定年前の男性の愛人問題を、小学校の男の子が相談にのった」という伝説があります。本当かどうかは知りませんが、パソコン通信の特性を知っている者には妙にリアルに聞こえる話です。
ネット上では肉体的・社会的制約から完全に解放され、純粋に精神的存在たりえる、ともいえます。そうした純粋に精神的存在である自分を分割して各フォーラムへ振り分けるわけです。
○洗脳社会での「自分」
「えーと、S.D.L.のボランティアスタッフとして結構がんばっている。アニメ研究会の会長で、夏冬のコミックマーケットには同人誌を出版している。猫を2匹飼ってて、『吉祥寺猫の会』の新入りメンバーだ。アウトドア歴は結構長いぞ。メンバー達とログハウスを共同購入していて、そこで月に一回、運営の例会があるけど、この頃は面倒でさぼっている。コンピューターネットでは映像系、ペット系、アウトドア系は一通り押さえているし、環境破壊の会議室では副議長もやっている」
また、複数の価値観といっても、それぞれに対してそれなりに賛同していなければなりませんし、まったくメチャクチャでいいと言うわけでもありません。
それは自分の部屋のインテリアを考えたり、カラーコーディネイトするようなものです。「基本はナチュラルカラー、アーリーアメリカンのテイストを少しいれて」とか「モノトーンを基本にテクノな感じ、ポイントは銀で」といったコーディネイトが大切なわけです。何もかも白だけの部屋では落ちつかないのと同様、たった一つの価値観ではやっていけないわけですね。
自分の部屋は空間をコーディネイトすることですが、自分の人生は時間をコーディネイトすることです。どんな集団・組織にどれぐらい深く参加しているか、それ全体のバランスが自分だ、ということになります。
犬の散歩の時は自分の犬の話をし、他人の犬の話を聞き、愛情の深さや細かさを競います。この「犬が好き」という価値観を一つの色に例えましょう。ペットとの時間が赤とすると、アウトドア友の会との時間は黄色です。
この二つは並べてみると全然違う価値観を持っていて、そのグループ内でも全然違う立場や地位、役割を担っています。一つの集団・組織毎に立場や世界観が違うわけですから、どうしてもこの人は多重人格じみてしまいます。
多重人格が現代病になってしまう、と言ったのはこういうわけです。近頃「多重人格もの」の小説が流行る原因も、ここにあるのではないかと私は考えています。
「多重人格」が現代病になる、というのはそんなに悪いことなのでしょうか?私は「一人一人の自我が確立している」という、私たちの社会の大前提に比べるとそんなに悪いことのような気がしません。
○狂っている「パパラギ」
パパラギたちは石の箱の隙間(ビル)に住み、丸い金属と重たい紙(貨幣)を尊び、束になった紙(新聞)に書いてある知識で頭を一杯にする。パパラギたちは、考えるという重い病気にかかっているのだ。
あるいはそうなのかもしれません。私たちは、気が狂っているのでしょう。こんな本を書いたり、読んだりすること自体が、ツイアビの言う「考えるという重い病気」なのでしょう。その考えるという病気の中でも、最悪のものが「私とは何だろう」という答えのない悩みです。
近代的自我、という言葉があります。「神様なんか本当はいないんだ。自分たちの生き方は自分で考えるしかないんだ」という近代になってから主流になった考え方です。
私たちの世界でも、他人の言うことにすぐ影響されたり自分で物事を決められなかったりする人は「自我が確立していない」と責められます。自我とは他人からの拝借でない価値観をはっきり持っていること、だとも言えるでしょう。
さて民主主義とは「自分の利益が何か、自分自身が一番知っている。だから自分の利益の代表を一人選んで、投票することが出来る」が前提です。資本主義や自由市場も「みんなが自分の利益が何かちゃんと判っていて、それに向かって邁進する」事を前提としています。
自分のやりたいことがはっきり判っている、すなわち自分の価値観が確立していると言うことです。近代の社会が「一人一人の自我の確立」を前提にしているとはこういう意味なのです。ところがこの「近代的自我」という奴が、ツイアビの言う「考えるという重い病気」の典型例なんですね。「近代的自我」は私たちにいつも、こう囁きます。
『自分のやるべき事を、全部自分で判断しなくてはならない。それが自分の利益に繋がる。だから君が現状に満足していないとするならば、それは誰のせいでもなく君の責任なのだ。君が「近代的自我」を確立していないから、自分のやるべき事が判断できないのだ。だからもっと考えなくちゃいけない。もっともっといろんな事を勉強して新聞を読んで本を読んで考えなきゃいけない』
私たちは知らず知らずの内に、こんな事を教え込まれています。たしかにこれじゃツイアビたちに「考えるという重い病気」と言われるはずです。
○「近代的自我」という呪縛からの解放
現に「今の若者は、テレビで聞いてきたようなことしか言わない。つっこんで話して、そのときは納得した顔をしても、別のところへ行くとまた違うことをいっている。彼らには自分の意見がないのか!」という批判がよく聞かれます。
でも、たった一つの価値観で人生を統一することは、実は不可能なのです。さっきも説明したように、現代では「今、自分がいる場所」によって自分の価値観や人格が変わらざるを得ません。
「近代的自我」とは、決して実現することのない絵に描いたモチだったんですね。
「自分の意見を持て」といっているオジサンたちにしても、自分なりの一つの価値観で人生をビシッと統一している人など一人もいません。「自分はこうあるべきだ」という気持ちと「でもこうなってしまった」という後悔の間をいったり来たりしている、というのが本当の所でしょう。すると「じゃあ本当の自分とは何なんだ」という答えのない疑問が又、始まるだけです。だからオジサンたちはいつも難しい顔をしているのです。
こんなに価値観があふれている現在では、「自我の確立」なんかをしようとしたら大変なことになります。
「自分がどうあるべきか決めなくちゃいけない。よくわからないけど、とりあえず決めてみる。決めてもそうはなれない。そうなるようにがんばらなくちゃいけないのか、こうあるべき自分を決めなおさなきゃいけないのかわからない。わからないけどこうあるべき自分だけは決めなくちゃ。自分の意見は持たなくちゃ」
これでは、自分はダメ人間と思う以外道はありません。不幸への道まっしぐらです。「自分の意見を持たなくちゃ」という考え方から解放されさえしたら、こんな悩みはなくなるのです。
三つ子の魂100まで、でオジサンたちは「自分の考えを持たなくちゃ」という強固な思いこみが捨てられません。ですからおじさんたちは、価値観が多様化してきている現代になじめず、眉をひそめます。そして、会社に行こうが遊びに行こうが犬の散歩に行こうが、お構いなしに自分の意見を述べて浮いてしまいます。「自分の意見、自分らしさ」というたった一つの色しか持っていないからです。
これからの洗脳社会で幸せに生きていくためには、軽やかに色を変える能力が一番大切になって来ます。
まだまだ生き残っているマスコミの意見、洗脳社会でどんどん台頭してくるイメージリーダーたちの意見、身近な知り合いの意見、パソコン通信で知り合った人の意見等々。
様々な価値観があふれる中で、自分の気分や状況、立場、好み等々によって、いくつかの価値観を選択すること。そして、同じ価値観のグループに参加すること。そうすることで自分の中に新しい人格をつくって楽しむこと。これが洗脳時代の醍醐味といえます。
そのひとつ一つの価値観の中には「いわゆる」なものがあっても誰か有名人の物まねがあってもいいのです。それよりも全体として自分の感性に合うようにその価値観の種類や深さや時間をコーディネイトすること、いくつもの人格を持ち、自分なりに使い分けることが大切なわけです。
こうやって近代的自我を葬ったからには「自分独自の意見、見解」は持てなくなってしまいます。『最近の若者には「好み」はあっても「信念」がない』、といわれる理由は、これでおわかりいただけたと思います。
(ところで言っておきますが「洗脳社会では軽やかに価値観を変える」といっても悩みが無くなるわけではありません。「人間は何のために生きているんだ」「私って一体、何?」なんていう何千年もメジャーな悩みは、決して無くならないでしょう。ご安心を)
○「自分の気持ち」至上主義
この考え方に対して一世代前の近代人たちは「わがまま」「いい加減」「覇気がない」と一喝します。近代人の行動力の源は「ハングリー精神」です。もっと金持ちになりたい、もっと出世したい、という「欲」が大切だったわけです。もっと正確に言うと、落ちこぼれたくない、ダメ人間で終わりたくない、という不安やあせりで心が人々を動かしていたといえます。
中世の人から見れば、犬畜生のような業の固まりの生き方ですね。が、近代ではこの欲がある人の方がいきいきと暮らせた事も事実です。
同様にこれからの自由洗脳社会では自分の気持ち、つまりワガママが大切です。自分の気持ちのはっきりしている人はいきいきと暮らせます。いかにして、合法的に欲しいモノを手に入れるかと同様、いかにして社会の中で平和にワガママを通すかが勝負ともいえます。
そのためには、自分のワガママを通す代わりに他人のワガママを認める、という考え方が必要です。自分の財産の権利を認めてもらうためには、他人の財産の権利を認めるという社会的システムが必要なのと同じ事です。
ですから、今の若者たちはたとえ友達であっても自分とセンスや価値観が違う部分を責めたり、無理に変えさせようとしたりは絶対にしません。そんなことはもっとも卑しむべき行為です。
中世の人が、未来は自由経済社会になって誰もがお金を得るために一生懸命になると聞くと、きっと未来の社会は泥棒だらけなのだと恐れおののくことでしょう。しかし実際は、近代社会において泥棒は卑しむべき行為とされています。
同様に洗脳社会というと、薬を飲まされたり暗い部屋に閉じこめたりが横行するのかと考えてしまいがちですが、そういった強制洗脳はもっとも卑しむべき行為とされるでしょう。
それでは、平和に自分のワガママを通し、相手のワガママを認めるとどうなるでしょうか。
仮に、彼女は自分と1時間だけ話したい、自分は彼女と2時間話したいとします。双方が話したいと思っている時間は1時間だけですから、この小さい方にあわせるわけです。自分は彼女とあと1時間話したいと思っていても、彼女はそうではないのです。その気持ちを尊重することが、彼女のわがままも認めることです。あとの1時間は、別の人と別のことをすればいいのですから。
近代人からみれば、熱くなって議論しない彼らは、情熱がない、分かり合おうとしない、友達甲斐のない奴等です。
が、彼らは相手のセンスや価値観を尊重しているだけなのです。
このような態度はパソコン通信の世界では特に顕著です。パソコンネット上ではその会議室内で会議室のテーマを全面否定するような発言は受け入れられません。決して論議しようとはせず、追い出してしまうのです。これも自分たちのセンスや価値観を尊重するがゆえの行為です。
また、近代人たちからみれば、どこかで聞いたような意見ばかり言う彼らは、自分の意見のない、いつまでたっても大人になれない人たちです。
が、中世の人々からみれば、他人がつくった服を着、他人が育てた野菜を食べ、他人が殺した肉を食べ、他人が建てた家に住む近代の人々は、自分のことが自分でできない、いつまでたっても大人になれない人たちに見えることでしょう。それと同じ事なのです。
パラダイムが変わってしまったら、その向こうの人たちを理解するには大変な努力を要します。自分たちの価値観だけで相手を推し量ってはいけませんね。
○求められる「洗脳商品」
では、こういった洗脳消費者たちのニーズにあった洗脳イメージ、価値観とはどんなものでしょうか。言い換えればどんな「洗脳商品」が、これからは必要とされているのでしょうか。
一つ目は用途が限定されていて、判りやすいことです。
たとえば刃物より包丁、包丁よりパン切り包丁の方がなにに使うか判りやすいわけです。同じように価値観やイメージも極端で、ある場面でしか使えないけど、その分単純で判りやすい方が消費しやすいといえます。
人生論より恋愛論、恋愛論より失恋論、失恋論より離婚女の世界観が、より専門化され、利用しやすくなっています。
また、判りやすいためには極論が必要です。離婚女の世界観では「離婚して初めて本当の恋愛ができるようになる。本当の男の値打ちがわかるようになる。本当の人生が歩めるようになる。離婚を経験してない人間なんて半人前よ」といった「決めつけ」と「勢い」が必要です。この極論が問題を判りやすくすると同時に専門化させるわけです。
二つ目はキャラクター、つまりその価値観を誰が提唱しているかです。
近代では、大手メーカーの売っている電化製品は三流メーカーのものより高くても売れました。洗脳社会においては、離婚女の世界観は見ず知らずのエッセイストが書くよりも、先日離婚した有名女性キャスターが書いたものの方が圧倒的に支持されます。もちろん、たとえ内容が同じであってもです。
逆に、身近な友達が考えた価値観を取り入れるというようなことはほとんどしません。だいたい自分で価値観をつくる人など、ほとんどいないでしょう。近代において自分でつくった服を着たり、友達の作った服をほしがったりする人が珍しいのと同じ事です。
○洗脳消費者たち
そういった価値観をいかにうまく無理なくコーディネイトしているか、が友達同士の間での評価の対象になったりもします。話題が変わるたび別の人の別の考え方を持ち出してきてそれがいつも面白い、というのがセンスのいい人というわけです。
自分の意見、自分の価値観を全部自分で作り出すことは、情報があふれたこの洗脳社会では不可能です。モノがあふれた近代で、衣食住すべてに関して自分でまかなうことが不可能なのと同じ事です。
近代人が様々な店に行って必需品を買いそろえるように、これからの人々は様々な価値観やセンスを持つ様々なグループと接したり、パソコンネットで話したり、テレビや本で読んだりすることで自分の心に必要な喜怒哀楽を取りそろえるのです。
それは帰属意識であったり、優越感であったり、知的興奮であったり、楽しい恋愛ゲームであったり、ちょっとした闘争心であったり、様々です。
例えば私たちがスカッとするためにアクション映画を見に行くようなことが、生活のあらゆる面で行われると考えてください。スカッとしたい、ほのぼのしたい、熱血したい、しんみりしたい、等々。彼らが「大切にしたい」と考えている「自分の気持ち」というのは、こういったものの総体です。
この「自分の気持ち」の奥には、すべての人間の行動原理となる不安が隠されていることは言うまでもありません。それは孤独感であったり、疎外感であったり、劣等感であったり、といったどうしようもないものです。
近代人が肉体の食欲とさほど関係なく、自分の好みで朝昼晩の食事を決めるように、洗脳社会の人々は、毎日の生活をそういった「自分の気持ち」つまり不安を満たすためにコーディネイトします。
好きなものばかり食べて体を壊す人がいるように、これからの人たちは例えばオカルトマニアが過ぎて心を壊す人がでるようになるでしょう。栄養バランスを考えた食事が大切なように、精神バランスを考えたコーディネイトが大切になります。
私たちは知り合いがどんな人間か知るために、服装や車や癖などに注目します。家へ遊びに行ったり、遊びの話を聞いたりして、それとなく相手を理解しようとするのです。では洗脳社会では、どうやって相手のことを理解するのでしょうか?
人間関係が目的別に分断されている洗脳社会においては、相手の全部どころか他のどんなグループに属しているかを知ることすら難しいでしょう。それは同時に、自分にとっての「特別の人」という意味がどんどん薄れていくことでもあります。
つまり、恋愛、結婚、家族、仕事といったあらゆる人間関係が、今までのように特定の人に限定されなくなると言うことです。
仕事に関しては四章でも述べたように、複数のグループに所属することになるでしょう。その内容も、お金のためのバイトや好きでやってるボランティア、勉強のつもりの見習いなど、様々です。
○「結婚」の解体
アッシー君、ミツグ君の例を出すまでもありません。一緒に食事をして楽しい人、一緒に遊園地へ行って楽しい人、一緒にホテルに行って楽しい人、一緒にショッピングして楽しい人、一緒に喫茶店で話して楽しい人。みんな違っていて当然です。
それをすべてひっくるめて一人の恋人という形に詰め込むと、不都合がいくつもでてきます。
自分の都合の良い時間がいつも相手にも都合がよいわけではない。すべての趣味が合うわけでもない。恋人という言葉のために、無数の無理を重ねることになるわけです。「恋人」という特定の人の存在が失われつつあるといえましょう。
こう書くと、「性の乱れが」と考える人もいるでしょう。が、今までの社会システムや約束事が崩れるだけで、別に今までより性が乱れるわけではありません。ただし「女は貞操を守るべきだ」という女性側の思いこみも同時に崩れてきています。そこの部分の現象のみをクローズアップすれば、確かに性は乱れてくるといえるかもしれませんね。
さらに、洗脳社会は「結婚」という制度も無実化します。結婚とは社会的・法的に外部から規定されたシステムです。その中で「夫」「妻」といった特別の存在が失われつつあること、結婚というシステム自体が有名無実化しつつあることは、まだ社会問題として捉えられてはいません。
しかし、その前兆はいくつも上げられます。一つは成田離婚に代表される早期離婚や、結婚直前の婚約破棄。一つは子どもの手が離れてからの熟年離婚。もう一つは未婚の母の増加。
特にアメリカでは社会的地位の高いキャリアウーマンたちが、精子バンクから精子を取り寄せ人工受精して子どもを生む、というケースが急増しています。
「子どもは欲しいけど結婚はしたくない。あとで金銭的・親権的に揉めるのもいやだから」、という理由です。これなどは結婚という社会的・法的システムを完全に否定した一つの実例です。
「生涯の伴侶」という漠然とした人間関係で人生の半分以上を特定の人と一緒に暮らす、ということは洗脳社会では無理がありすぎます。
家に帰ったとき迎えて欲しい人。生計を共にして、力を合わせてマンションを買いたい人。子供を一緒に育てたい人。子どもの手が離れたら一緒に遊びたい人。年老いてからゆっくり二人の時間を過ごしたい人。
すべて同じ人という訳にはいかなくなってしまうでしょう。
○「家族」の解体
従って、たとえ離婚してもわが子は自分の手で、と考えるお母さんがほとんどで、心の上でも親子の関係は夫婦関係のように破綻しているようには見えません。ただその内実はかなり苦しいものになりつつあります。
仕事でほとんど帰らない夫を待ちながらマンションで子どもと二人きり三人きりの生活を強いられ、育児ノイローゼになったり幼児虐待に走ったりする若いお母さんたちが急増しています。
逆に子どもが大きくなっても子離れできないお母さんたちも増えています。マザコンというのは大きくなった自分の子どもを、自分とは別の存在として扱えないお母さんの責任かもしれません。
いずれにせよ解決方法は、お母さんも自分の趣味を持ったり、友達を作ったりすることだと言われています。
実際その通りです。
彼女たちは一日二十四時間、「よいお母さん」というたった一つの価値観に縛られて生きているために苦しくなっているのです。「よいお母さん」の義務は生活の中でどんどん激化します。よその子よりおしゃべりが遅れている。よその子より怒りっぽい。すぐ泣く。走るのが遅い。お友達と上手に遊べない。成績が悪い。
小さな事で一喜一憂してヘトヘトになってしまうのです。
当然、母親たちも複数の価値観やグループを選択して心のバランスを取らざるを得なくなります。その一番手軽で罪の意識を持たずにできることが、子どもに習い事をさせる、ということです。子どもが習い事をしている間、母親は待っているおかあさん同士おしゃべりしたり、買い物したり「よいお母さん」であり続けるプレッシャーから逃れられます。
子どもの手が離れるとお母さんはパートにでたり、カルチャーセンターに出かけたりして、ようやく複数のグループに所属するという人間らしい生活を手に入れられるわけですね。
○自由の代償
趣味や価値観だけでなく、結婚しているか、子どもがいるか、収入はどれくらいか、可処分所得はどれくらいか、といったことも大切です。そういったことがぴったり会う仲間同士は、なんといっても有意義な情報交換が可能ですし、もっとも楽しく気を使わずにつき合える間柄です。
それに比べ、血がつながっている、一緒に住んでいる、同じ学校だ、同じ会社だ、といった理由だけでつきあうのは無理があります。そんなことをしてもお互い疲れるだけで、得るものは少ないでしょう。
つきあいたい人とだけつきあうという「ワガママ」が良いことになるのです。「人間らしい幸せな生き方」とは、ちゃんと自分に合った人たちのグループをいくつも見つけ、自分の時間をうまくコーディネイトしている人の事です。同時にそういった人が回りから見ればかっこいい人、自分を大切にする人になるわけです。
そうなるためには、従来の関係に縛られているわけにはいきません。親子だから、夫婦だから、上司だから、部下だから、クラスメイトだから、という特別の関係の中で留まってはいられないでしょう。
そういった安定して継続的な人間関係は永久に失われてしまいます。いったん結婚したら、少々相手に不満があっても互いに努力して歩み寄りながら結婚生活を築く、なんてことは昔話になりつつあります。自分が何をしても自分のそばに寄り添ってくれる誰かがいてくれる、という安心感は失ってしまい、二度と還らないでしょう。
その代わりに私たちが手に入れるのは、その時その時にとってベストの、一緒にいる人を見つける自由です。他人に関係を束縛されない自由です。
自由で束縛されないということは、常に不安定で意識していないと失ってしまうということです。私たちはいくつもの人間関係を維持し、自分にとって心地よい距離に保つために、いつも気を遣い忙しくしていることになるでしょう。
たとえば高校時代の親友と常に友情を保つためには努力が必要です。住む場所も社会的環境も変わると、よほど意識しない限り、お互い音信不通になってしまいます。月1回電話する、年1回お正月には会うといった取り決めでもしない限り関係を維持することは難しいでしょう。
将来、私たちの手帳はそういったつきあいを維持するための取り決めでスケジュール表がぎっしり埋まってしまうこととなるでしょう。それはついこの前まで、給料はもちろん今度のボーナスまで何に遣うのかの予定をびっしり決めていたのと同じことです。
それでもあと1万円あったら××が買えるのに、と考えていたのと同様、あと1時間あったら○○の集まりにも行けるのに、と考えていることでしょう。
こういった取り決めはたとえ家族であっても必要となります。お互いに忙しくて、様々な人と会ったり電話したりパソコン通信したりしていて、気がつくと1年に1度も顔を合わせないまま過ごしてしまうほど、家族の絆は薄くなるでしょう。そうなると逆に、お互いの誕生日には必ず一緒に食事をすることだの、毎月三日は一緒に過ごすことだの、お正月3が日は必ず家で寝ることだの、家によって様々な約束事が交わされるでしょう。
それは、そういったアポイントなしに自然に家族全員が一緒にいるということ自体が無くなってしまうということでもあります。
かつて、人間は農耕社会において、大家族で生活していました。そこにはおおらかな人間関係が存在し、皆が力を合わせて農作業に取り組んでいたでしょう。
そこでは老人も子どもも身障者も「同じ一族」ということで、常に居場所が設けられていました。が、近代社会になって人々はそういった大家族や土地を捨てました。そうして、職業や住む場所を選ぶ権利を手に入れたのです。
現在それと同様の、大きな変化が起こりつつあります。
私たちは、家族や会社、学校といった既存の安定したグループに所属していることを放棄しつつあります。その変化の中で、私たちはかつてのような人間関係を永遠に失いつつあります。しかしその結果、私たちは「何者にも自分の人生を縛られない」という自由を得ることになるでしょう。
ひょっとしたら、それは高すぎる買い物かもしれません。しかしそれは、核家族で子供の数も少ない現代、大切に育てられた私たちが、ひ弱になった心のまま幸せに生きていく唯一の方法なのです。