『ぼくたちの洗脳社会』
第一章では現在私たちの身の回りで起きている様々な変化の原因を、実は巨大なパラダイムシフトが起きつつあるためだ、と説明しました。
自由洗脳社会への移行は、このように着実に進みつつあります。
かつて農業革命によって、人間は自由を失いました。
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第五章 新世界への勇気
○今、起きつつある「変化」
脱工業化・情報化社会という大きな事からバブル崩壊・ピーターパンシンドロームまで、現在取りざたされている社会変化はすべて古いパラダイムの立場から見たネーミングであり、変化に対する違和感の象徴だといえます。
第二章では現在起きつつあるパラダイムシフトが農業革命・産業革命に続く三回目の大きな変化であること、そしてそれが情報革命であることを、確認しました。
現在のパラダイム・シフトは「高度成長によるモノ余り感から、バブル崩壊や環境汚染による有限感・モノ不足感に、人々の意識がシフトしたことが原動力」です。そしてこれから確立するパラダイムは、「モノ不足・情報余り」の社会なのです。
私たちは、歴史上でも珍しいパラダイム・シフトに遭遇する幸運と不幸を与えられたわけです。
第三章では「情報余り」の情報が、単なる客観的情報ではないことを説明しました。つまり「情報余り社会とは、一つの事実に対する様々な解釈、様々な価値観や評価、世界観といったイメージがあふれる社会」であること、すなわち「洗脳社会」であることを説明しました。
しかも、マスメディアの衰退とマルチメディアの台頭によって、洗脳行為が双方向になります。技術の進歩が、いつも権力者の特権を大衆に開放してきたことから考えて、今まで権力者が独占していた洗脳行為がマルチメディアの発達によって民衆に開放されつつあることを説明しました。
これからの社会は、自由経済社会から自由洗脳社会へと移行していくことになります。
第四章では「自由洗脳社会における私たちの生活の変化」について考えました。
日常生活において、被洗脳者、つまりイメージ消費者である私たちは、多くのイメージや価値観の中から自分が気に入ったものを複数選択していること。
価値観やイメージが増えれば増えるほど、同じ価値観を共有するグループが形成されること。
私たちはそんなグループの中で、自分の価値観を元に複数選択し自分の生活をコーディネイトしていること。
こうした人間関係の細切れ化は、これからもどんどん激化することを確認しました。
○失楽園
現在私たちはその変化の中で、私たちにとって大切だと考えていたはずのモノが、私たちの中でも崩れつつあるのを感じています。
それは夫婦や家族の絆であったり、安定した職場や会社への忠誠心であったり、規則正しい生活であったり、「人並み」「世間並み」という安心感であったり様々です。
そういった私たちの心の変化によって、現に私たちより上の世代の人たちが、人間として当然と考えて行ってきたこと、たとえば「勉強して大学へ行って、ちゃんと就職すること」「たった一人だけの人を好きになって、その人と結婚して添い遂げること」「朝起きたら会社や学校に行って、夕方帰ってきて自宅でくつろぐこと」「一つの会社で、定年まで勤め通すこと」「結婚したら二〜三人子供を作って、貯金して、一戸建てを買って、ローンを払って、子どもたちを大きくすること」こういったことをしなくなりつつあります。
今から三十年後、私たちの子どもたちが子育てする頃には、私たちの回りの生活は見違えるほど大きく変わっているでしょう。
三十年後には「二十二歳で就職、三十歳で結婚、三十三歳長男誕生、三十五歳長女誕生、四十歳で係長、五十歳で部長、五十五歳で定年退職、再就職」といった保険の勧誘のおばさんが書く人生設計は、全く通用しなくなっているでしょう。
これは私たち自身でも、どうやっても止められない変化です。
今、初老を迎えようとしている世代の人たちが時々懐かしげに語ってくれます。
「アスファルトで埋められる前、この国はどんなに美しかったか」「敗戦の日の抜けるような青空から、私たちはどんなに頑張ったか」
同じように私たちも三十年後、情報ハイウェイで仲間を見つけては語っているでしょう。
「みんなが一斉に起きて働いた時代、通勤ラッシュというものがあった」「万博、ウルトラマンやドラクエという共通の話題で、同じ世代同士が飲み屋で盛り上がった」
しかしその時代の若者たちは、そんな話を聞いたとしても不思議そうな顔をするだけです。彼らにとっては「みんなが熱中したこと」「みんなが体験したこと」なんかは興味がないからです。それよりは自分や自分の仲間たちだけが理解できる楽しみを大事にしています。
私たちが懐かしげに話す事とは、お互いが「自分の所属しているグループの価値観の差」をアイデンティティとしている社会では既に失われ、理解できなくなっている風習なんですね。
○新世界への勇気
住む場所が土地に縛られるだけではありません。今日食べることとは関係ない「仕事」がたくさん発生し、年貢や種蒔きのため、倉にはあっても食べてはいけない食物が発生しました。
好きな場所に住み、好きなモノを食べ、好きなことをして暮らしていた生活を失ってしまったのです。
また産業革命によって、人は安定を失いました。
部族の一員という安心感や、先祖から受け継いだ土地という拠り所を失いました。
誰からも自分が必要とされていないのではないか、自分は何のために生まれ、何をしたらよいのか、という不安がいつも心から消えなくなってしまったのです。
現在の私たちが、狩猟生活を想像してその雄々しさや自由にあこがれを抱くように、農耕生活を想像して、そのいる場所のある安心感や連帯感・自然とともにあるゆったりとした時間にあこがれを抱くように、三十年後の人々はこの前までの私たちの生活にノスタルジーを感じることでしょう。
あの家庭も会社も世界も、すべてが上をめざし未来をめざし、背筋を伸ばして生きていた、本当の正義と進歩が存在し得た時代は二度と戻ってはこないのです。
もう、後には戻れません。農耕民族がかつての自由を取り戻すために、農業を捨てて飢えにおびえる生き方に戻ることは出来ません。都会人が安心を取り戻すために、豊かさを捨てて祈るだけの毎日に戻ることは出来ません。
私たちは進歩や正義を取り戻すために、自分の気持ちや自分らしいネットワークを捨てることはできないのです。
農業時代の人々は、狩猟時代を振り返って「いつ飢え死にするかも判らない、野蛮な世界」と語りました。
産業時代の私たちは農業時代を振り返って「身分制度に縛られ、貧乏生活を強いられた暗黒の中世」と恐れました。
来るべき未来の人々は、私たちの時代を振り返って「考え方や人間関係の自由がない、画一世界」と語るでしょう。
けれど、私たちは振り返っている暇はありません。
私たちは、自分たちが起こしてしまったこの変化を、これから何十年かかかって社会とフィードバックさせながらも、最も適した場所に納めなければならないのです。
一千年に一度しか来ないような巨大なパラダイム・シフトの波が、私たちの世界を隅から隅まで揺さぶっています。環境や南北経済、国家など前世紀からの問題点も、私たちに科せられた巨大な宿題です。
しかし私は、「私たちの世代に贈られた、大変困難だけどもやりがいのある贈り物」と考えることにしています。明治維新や大戦後の混乱期は、伝説となっていますよね。私たちは、それ以上の変化のまっただ中にいるのです。これ以上面白い事なんて、私には想像がつきません。
このパラダイム・シフトが終了するまで、私たちは様々な不協和音や不都合を体験することになるでしょう。それは、世代間ではもちろんの事、立場や職業の差によっても、また個人の心の中ですら起こってくることと思います。
そういったトラブルにあった時、この本のことを思い出して、これは「自由洗脳社会」と「自由経済社会」の対立だな、とマクロな視点でとらえなおして冷静に対処していただければ、と思います。
「未来」を考える事とは、「今」を生きることです。だから「今」を噛みしめてください。今日見た風景は、二度と戻らないからです。私たちはこれから、ノスタルジックで、少し苦い喪失感を背負って生きていくのでしょう。
しかし私たちの目の前には、全く新しい世界が拡がっています。そんな、まだ見ぬ社会・文化へのワクワクする期待が、私たちをこれから生涯引っ張ってくれるベクトルとなることを確信しています。