『マジメな話』
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●「ものぐさ精神分析」の受けいられ方,昔・今岡田 うちの姉が高校生で、僕が中学の時、いきなり姉がニヒルになってしまったんですよ。(一同笑)それで本棚を見ると「ものぐさ精神分析」という本があって、これが悪いんだなと思ってですね。それから十年間読みませんでした。姉が突然、「すべては幻想さ」のようなことを言い出してですね、あの時代にはものすごく影響を与えましたね。あの時代と比べて、いまの時代というものの反応はいかがですか。 岸田 ちょっと常識化したという面もありますね。 岡田 当時は、学生に殴りかかられたというような伝説も聞いているんですが。 岸田 いまから二十年も前の話ですね。「理想というのは幻想で、理想のためにいろいろ献身するのは本人はいい気分かもしれないが、はた迷惑だ」なんて言ったら、怒ったやつがいて。いまはさすがにそういうのはいませんね。 岡田 いまの学生というのは、先生の学説を最初に聞いたとき、どういう反応をするものなんでしょうか。 岸田 僕は、「ものぐさ精神分析」を書く前に、同じような内容を授業でしゃべっていたんですね。出席なんか取らないけど、いつも大教室が満員で、かなりの反発もあったけど熱気もあったんです。それが、いまは反発もなければ熱気もない。また同じこと言ってるな、まあ聞いておこう、というような感じなんじゃないでしょうか。 岡田 それは先生の説が常識化してきたからでしょうか。それとも、そもそも自分を知りたいという欲求が減ってきているからですか。 岸田 僕の講義がつまらなくなったということもありますが、でも一番大きいのは「恋愛だって性欲だってみんな幻想だ」というような発言が、ショッキングなものでなくなって、そういうことを聞き慣れてきたということなんだと思うんですけど。 岡田 これがどんどん進むと将来はどうなりますか。つまりいま、かろうじて強い自我を持っている僕ら世代くらいまでがみんな死んでしまって、「すべてが幻想だ」的な捉え方をするのが当たり前の世代が、子供を作って教育するようになったら、どうなるんでしょう。 岸田 さあ、予想屋じゃないから、未来のことはわからないけれども。 岡田 先生がおっしゃられる「すべてが幻想だ」というような考えが、ここまで一般化すると、先生ご本人ですら困ったなというような気になられませんか。 岸田 いや、僕はそんなことは考えないですけどね。そういうことになるならば、それもいいと。でも、例えばセックスのタブーにしても、歴史的に見れば、規制がきつくなったり、緩くなったりしています。いまの時点で見ると、禁止が強かったセックスのタブーがだんだん解放されて緩くなってきたところですね。また、反動でセックスのタブーは強くなるかもしれない。だから、いまのような柔らかい自我とかつての堅い自我というのも、往復運動というか、緩みっぱなしではなくて、その反動がいつか来るかもしれません。僕としてはセックスのタブーは弱い方がいい、自我は柔らかい方がいいと思いますが、未来のことはわかりません。
●デジタル文明とは何か岡田 「デジタル時代の文明は精神分析され得るか」という対談のテーマは、僕の方からの提案なんですが、岸田先生がおっしゃられている「戦後日本の精神分析」という問題、それと現代のデジタル文明というものがどのように関係し、影響を与えているかということについて、お話しできるのではないかと思ったわけなんですが。 岸田 僕はデジタル文明とか機械に弱くてね。デジタルとかアナログといわれてもピンとこないですね。インターネットも見たことないですし、コンピュータも持っていません。やっとワープロを使い始めたぐらい。 岡田 あ、とうとうワープロを。 岸田 とうとう。だいたい鉛筆で原稿を書いていたんですけど、ちょっと腕をいためまして。それでワープロを使い始めたというくらいなんです。機械のことには弱くて、現代機械の最前線にいる人とはどうも話が合わないんですけれども。 岡田 明治維新とか、先生がおっしゃられている戦後日本というのは、まさにゴロゴロッと転がっていったような大きな変化だと思うんですよ。例えば、印刷メディアの普及やテレビの普及が、その変化の大きな原動力になっていると思うんです。それなら、現在、急激な勢いで拡大しているデジタル文明というのは、いまの時代にとって大きな影響を与えるに違いないと思ったんです。 岸田 しかし、そのデジタル文明というのは何ですか。 岡田 デジタル文明という言い方が大げさかもしれませんが、電話で話すんじゃなくて、パソコン通信とかで、キーボードをパチパチたたいて画面に文字を表示させて、それで会話できる状態ですね。 岸田 いや、そういうふうにして今ごろの人々は話し合ってるわけですか。 岡田 手紙を書いて出してたのが、電話する方が便利になって、みんなそっちに行っちゃいましたが、それよりもパソコン通信でワープロの文字を送り合っているほうが、もっと便利なんですよ。 岸田 よくわかります。活字が出てくるわけですからね。 岡田 相手が言ってることがよくわかるし、好きなときに読めるし、電話のように相づちを打つ必要もない。 岸田 そうすると手紙と同じようなメリットがあるわけですね。 岡田 また、パソコン通信をやってる人たちとは層は別ですが、携帯電話とかポケベルをずっと持ち歩いているような人たちがいますよね。 岸田 そうですね。僕なんかは携帯電話もポケベルも持ってないですけれども、学生たちが持っていてしょっちゅう使ってますね。 岡田 僕も大学で講義を持っているんですが、その最中に鳴らす学生もいて、さすがにあきれるときがあります。 岸田 いやいや。 岡田 そういったような状況をふまえてデジタル文明と大ざっぱに言っているんですが、年がら年中パソコン通信やら携帯電話でコミュニケーションをとっているような人たちがどんどんと増えてて、そういう人たちというのは、明らかに自分とは違う存在じゃないのかなと思っているわけです。 岸田 どういうふうに違ってるんですか。
.●薄い悩み、薄い恋愛岡田 これはまた違う側面からの見方なんですが、なんかみんな、悩みが薄いなと思っているんです。 岸田 そう見えるんですけど、そうでもないんじゃないですか。 岡田 僕は、あれ、薄いと思います(笑)。でも、否定的にじゃなく、これはすばらしい状態ではないのかなと。とうとう文明が頂点に到達した状態ではないのかなと思っているんですけれども。 岸田 例えば、恋愛なんかでもあまり感情が高まるってことが少なくなってるんですかね。会いたくても会えないとか、言いたいこともすぐには言えない、そんな欲求不満があって恋愛感情が高まるのに、思い立ったらすぐに連絡できて、すぐに話せるわけだから。気持ちを高めている暇がないというか、まったく必要がないわけですね。そうすると恋愛だって非常に軽くなってしまうような感じがあるんですが。そんなことはないんでしょうかね。 岡田 その分、重い恋愛に耐えられなくなってちょうどバランスがとれてるというふうにも見えますね。 岸田 ちょうどいいですかね。 岡田 学生たちのつきあい方を見ていると、二回喧嘩したらもう別れるんです。 岸田 そうですね。僕も横目から見てると、そんな感じですね。 岡田 横目から見てるんですか(笑)。 岸田 そんな感じなんですけどね。そうすると恋愛が軽くなったということが先で、軽くなった恋愛にあたかも応ずるかのごとく、デジタルな通信が現われてきたとも考えられますね。 岡田 そうかもしれませんね。その因果関係はともかく、この傾向は親子電話が現われたのとほぼ同時進行的でした。今年、僕は三十九歳なんですけれども、僕が小さい頃は、電話は家に一台、玄関あたりにあるのが普通でした。それが高校ぐらいの時に親子電話が登場して、自分の部屋に電話が付いて、みんな長電話するようになった。親同士が、「うちの電話代、二万円いった」とか「一万五千円だった」と立ち話で愚痴ったりする。僕はそういう世代でした。でも僕より十歳下の世代になると、全部自分の部屋に電話があって、さらにそこより十歳下の世代というのは、自分で持っているんですよ。 岸田 だんだんそういうふうになってきたんですね。僕の子供時代はなんかまだ電話がある家のほうが少なくて。僕の家は商売をやっていましたから、電話はあったんですけれども、それでもいちいち局を呼び出して使うやつですから、とてもじゃないが子供になんか使わせてもらえない。僕は、いまだに電話って抵抗がある。人間って最初の経験が非常に大きくて、そこからめったに抜けられないんですけれども。僕も電話っていうのは子供の時のイメージのままで、いまだに用件を言ったらすぐ切るものだと思いこんでいるんです。僕の家はいまだに黒いダイヤル式の電話が一つしかなくて、電話が鳴るとそこに駆けていかなきゃいけないんですけど、とくに不便は感じていないんです。そういうようなことに不便を感じていない僕なんかを置いてけぼりにして、世の中はどんどん変わっていってるらしいですね。 岡田 僕には電話に対するそこまでのイメージってないんですが、いま、パソコン通信をやっているんです。パソコン通信というのはお互いに書いたものを送りあうだけじゃなくて、会議室という共同掲示板のような機能があって、そこに自分の書いたものを掲示しておくと、それを読んだ人が、その掲示に返事や反論を書いていくんですが、そんな会議室をいくつかやってます。 岸田 その掲示板というのは誰が見られるんですか。 岡田 同じパソコン通信に参加している人なら誰でも見られます。多いところだと五万人ぐらいの人が見ているようなところもあります。そういう会議室っていうのは、特定の話題によって分かれています。 岸田 そこに書くと五万人が読むんですか。 岡田 正確には五万人が読める状態にあるということでしょう。実際に、書いてる人は二十人ぐらいなんですよ。 岸田 そうすると、大多数の人は自分で参加をしないで読むだけというわけですか。 岡田 そうです。 岸田 読んで何が楽しいんですかね。 岡田 たぶん、応援してるんじゃないかと僕は思うんですけれども。スポーツの応援と同じようなもので。考え方の代理戦争みたいなものをやってるんじゃないのかなと。 岸田 いろいろな掲示板上で行われている議論なんかを見て楽しんでいるという。 岡田 あと、議論だけじゃなく、その掲示板上で仲良しになったりするわけですよね。なんとかさん、あなたのこと好きです。僕はあなたのファンなんですっていうのを見て、自分もウーンってその気になって納得する。 岸田 読むだけの人っていうのは、それで世界とつながってるわけですね。
●自分を表現する場の拡張と抑圧の消滅岡田 世界とつながっているというか、パソコン通信をやっている人たちは、根暗でふさがっているように批判されがちなんです。 岸田 でも、直接外に出かけて行って直接手を握るとか抱き合うとかしなくても、そして、自分の部屋に閉じこもっているだけなんだけど、自分の感情なり思いなりっていうのは自閉しているわけではなくて、あちこち広い世界へとつながっているといえるわけですね。 岡田 仲良くなると、直接みんな会うんですよ。そして、一緒になってカラオケ行ったりして。だから、単に根暗で自閉しているというのとは違うんです。僕、ある日、二週間ほどパソコンが故障して使えなくなったんですが、その時、すごく不安になったんです。 岸田 というと、どうして不安になったんですか。 岡田 やっぱりその世界から拒否される不安ですかね。いま、自分がそのパソコン通信の世界でどう思われているとか、もしくは、「俺を置き去りにするなんて許せない」というような不安とでもいうんでしょうか。自分の一部がそこにあると思っていたのに、いつの間にかその場所が失われてしまったような。家族がいたのに誰もいなくなってしまうとか、学校を退学になるのに似たような不安があったと思います。 岸田 そこはやはり自分の世界なんですね。現代はみんな誰もがそれぞれの世界を持っていて、それぞれそこに住んでいるわけですね。そしてその世界の住人は何百人であったり何千人であったり何万人であったりで、同じところに住んでいるわけではないが、共通性のある世界にいるということですね。 岡田 それが一昔前だったら自分の家とか町と、あと会社ぐらいしかなかった世界が、デジタル文明になって種類も爆発的に増え複層的になっちゃったと。 岸田 世界が広がったということですね。 岡田 パソコン通信で、僕はアニメーションの会議室に入っているんですが、映画の会議室をのぞくと、ここに集まっている人たちは、また、全然別なんですよ。パソコン通信をやっている人といっても、集まる会議室が違うとメンバーがまるっきり違う。いまパソコン通信で国内最大手のニフティーサーブだと、そんな違った人たちが集まって200万人という規模になっているんですよ。 岸田 基本的に、人はどうしても表現できないような自分をいっぱい抱え込んでいるわけですね。むかしは、学校や家庭といった集団にしか属していないと、それ以外に自分を表現できる場はなかったわけです。一部、不良グループを作るとかして表現したりすることもあったけども。でも一風変わったいかがわしい趣味を持っていたりすると、それに関しては自分一人で悶々としていたわけです。でもいまはどんなに少数派的なものでも、これまでは表現できなかった自分を、表現する場ができたというわけですか。 岡田 アブノーマルな趣味でもOKなんですよ。 岸田 そういうことになってくると、自分を抑圧する必要がなくなってしまったというか、それではもう精神分析はいらなくなってしまいます。 岡田 あ、やっぱりそうですか。 岸田 それは極論ですけれど。 (一同笑い) 岡田 精神分析というのは抑圧があるからあるんですか。 岸田 やっぱり、そうじゃないですかね。表現できない自分があって、それがいろいろな問題を起こすわけですからね。ノイローゼの症状なんていうのは、表現できない自分が歪んだ形で出てきたものですからね。だから、表現できない自分というものがなくなればノイローゼもなくなると考えられます。 岡田 ただ、抑圧というものがなくなってしまったら、それは人間じゃないですよね。 岸田 うーん、いや、それは人間じゃないのかな。人類の定義の問題だと思うけど。 岡田 岸田先生の人間の定義というのはフロイトからの写しだとおっしゃっていますけども、例えば、自我というのは、人間の中にある何やら分からないものと、社会からの抑圧との間に張ったスープの上の膜のように発生しているとか。 岸田 そうですね。とくに自我というのは自分と社会とつないでいる膜というか通路というか、人間は自我を介してしか社会と繋がれないわけですよね。岡田さんの言う、人間の中にある何やらわからんものというのを、精神分析ではエスといっていますが。 岡田 そのエスというのが強ければ強いほど分厚い自我が生まれると思うんですけど。そして、抑圧も弱く、エスからの圧力も弱ければ、自我も薄くなってしまう。だから恋愛だって薄くてOKということになってしまう。 岸田 そうですね。だから、かつてのような大恋愛、あなたのためなら死んでもいいっていうような、情熱的な恋愛がなぜ必要だったかと考えると、やはり恋愛っていうことにはいろいろな幻想がいっぱいはりついていて、その幻想によって他の関係では表現できない自己が満たされていたというか。 岡田 自己を表現する場が増えて、べつに恋愛を必要としなくなってしまった。 岸田 だから、かつての大恋愛のような形の恋愛は必要としなくなったんですね。 岡田 それって、僕はいいことだと思うんですよ。 岸田 はあはあ。
●真実の人間関係なんてない岡田 こう言うと、必ず僕より一世代上の方から怒られるというか、前、猪瀬直樹さんに怒られたんですが。僕は、こんなけっこうなことはないと思うんですけど(笑い)。 岸田 怒る人はどういう論理で怒ってるんですか。 岡田 やはり人間には自然の状態があって、パソコン通信とか携帯電話とか使って行われる人間同士の関係なんて、私はそんなことしたくもないし、あり得るはずもないとか、言われてしまうんです。 岸田 僕の方がまた遙かに上の世代になるんですけど、人間同士のふれあいなんてものはね、幻想としてはあるけれどね。 岡田 そんなのないですし、あったら困りますよ(笑い)。 岸田 あったら困るかなあ……。まあ、お互いにこれが本当の人間同士のふれあいだと思っている二人が、共同幻想を持ってつきあっている分には困りはしないと思いますけれど。岡田さんは、なぜ、あったら困ると思うんですか。 岡田 また、嘘の世界に帰らなければいけないのかなと思ったわけです。真実の人間同士のふれあいがあるなんて思うことで、逆に窮屈になってしまう。そういうものはないんだと思ったほうが楽なスタンスにたてるんではないかと思っているんです。 岸田 真実の人間と人間の関係があるとすれば、それ以外のものは偽物だということになるから、それが困るというわけですかね。 岡田 いま、僕としては、人間と人間の間にコミュニケーションなんてものは実はなくて、その必要もないんだろうなと思うところがあるんです。でも、こんなことを実感して、人間は生きていけるはずがないですよね。どこかでこの「人間関係なんて存在しない」という思いと、「人間関係なしには社会で生きていけない」という現実と折り合いをつけている自分がいるわけです。 岸田 本当の心と心のふれあいとか真の愛とかね、本当の自分の実現とかですね、そういうものはすべて幻想であって、その幻想に振り回されるのはよくないと思います。しかし、コミュニケーションなくして人間というのは生きていけないというか、うまくいかないんじゃないかと思いますけどね。やはり。 岡田 コミュニケーションだけあればいいんであって、じつはコミュニケーションの内容はいらないんだと思うんですけれども。そのコミュニケーションしているという状態さえあればいいのではないかと。よくコミュニケーションの内容が本物かどうかとか、魂のぶつかり合いがどうとか、中身偏重主義にいってしまうんですが、そんなものは関係ないのではないかと。 岸田 しかし、人間同士のコミュニケーションがなぜ必要かというと、やはり、他の人たちに自分が何らかの意味で是認されることが必要だからじゃないのかなと思うんですけどね。たとえ、どんな変な趣味でも自分一人で変な趣味を持っていたら悶々とするだけですが、同じような趣味を持っている他人が一人でもいれば、その人と自分の間に共有化されるものが生まれてくると。その二人の間で変な趣味は是認される。自分一人で抱えてしまうと荷が重いものが、片棒を担いでくれる人がいると楽になる。その片棒を担いでくれる人を求めるのが、コミュニケーションすることじゃないかと僕は思うんです。だから、単にコミュニケーションだけあればいいかというと、違うんではないかと思うんですが、どうでしょうかね。
●自我の延長としての子ども岡田 先生は本の中で、「人間の本能は壊れた」と書かれてますよね。子供を作る本能ももちろん。僕は、以前これを読んでアアッーとすごいショックだったんです。よくぞ言ってくれましたというような感じがありまして。それで、僕がそこから考えたのは、人間は「子供を作る」というような本能をなくした部分を、コミュニケーションというような行為、つまりよその人に、自分というのがある程度わかってもらいたい、というほうに置き換えているのではないかと。 岸田 やっぱり、自我を支えるものというのは、人間である限り必要だと思うんですよ。動物が持っているような種族保存の意味での本能は壊れてしまったけれども、自我を何らかの形で人々の間へ、社会へ伸ばしていきたいというんはあるんじゃないですか。人間が子供を作るのは本能で作るのではなくて、自我の延長としての存在がほしいから子供を作るんだと思うんですけどね。だから、自我の延長の手段が他にいっぱいあるなら、子供を作ることにこだわる必要はなくなってきますよね。 岡田 もの書きとか表現者とか、自分の考えを人に知ってもらうチャンスの多い人というのは、あまり子供を必要としないというのは、そのあたりにあるんじゃないですか。 岸田 そういうことだと思いますが、やはり、それも自我の延長といえるんじゃないですか。自分の表現した思想、自分の書いた文学作品でも何でもいいけれども、それを受け入れて共鳴してくれる人がいれば、そこに自我の延長があるわけで、そこで自我の延長を確認できる人というのは別に子供を必要としないというのはありますね。 岡田 では、年がら年中、電話をしたりパソコン通信をしたりする人というのは、いろんな自我で自分を形作っているというか、お神輿を担ぐのは一人より何人もいたほうが楽というようなものですね。 岸田 僕は詳しくないけれど、そういったパソコン通信などをいろいろとやっている人というのは、自我が拡散しているんだと思います。このグループでは自我のこの部分を出し、また別のグループではこの部分を出し、というように。でもそれでいいんじゃないですかね。これまでは、一個の確立された自我を持って、それが首尾一貫して普遍的であらねばならないというような観念があったんです。昔は、そういう確固とした自我を持つことによって、かろうじて自分の存在というのは支えられていたわけですね。でも、いまは昔のような、主体的自我というようなものの必要性が薄れてしまったんではないかな。 岡田 その状態を僕は、ようやく達成できたおめでたい状態だと思うんですよ。もう、何百年も主体的自我を持とうと無理をしてきたわけでしょ。 岸田 いや、まぁ……。日本なら明治以降だと思いますけれど。 岡田 向こうでは、何百年か千年かぐらいですか。 岸田 いや、そんなことはないと思います。 岡田 産業革命以降とか。 岸田 ええ、やはり、神が死んだことが関係あると思います。世界の秩序と人間を支えていた神が死んで、それでも何とか人間を支えなければならないから、理性なんてものが発明された。その理性を持った人間というのが主体的人間ということになったんだから、せいぜいフランス革命あたりから、二百年ぐらい前からじゃないですか。 岡田 その状態が人間にとっては、例外的なアブノーマルなわけじゃないですか。 岸田 だから、疲れるわけですよ。 岡田 そうですよね。やっぱりそうですよね。
.●デジタル革命で中世的精神世界に返る岡田 で、ようやく、僕たちはこのデジタル革命で、デジタルの力で中世的な精神世界に返れるんじゃないかと。 岸田 なるほど。中世ね。 岡田 だから、いまパソコン通信やってる人とか、若い人たちって、あまりお金に執着しないんですよね。モノとか欲望には執着するんですけど、お金が持っている全能性みたいなものにはあまり執着しない。例えば、パソコン通信とかをやってる人は、とりあえず簡単なものを食べて、すぐカチャカチャとキーボードを打ちだす。これって年がら年中祈っているのと似たようなもので、パソコン通信の世界に入り込んでいる人には、天国にいるのと同じです。 岸田 それと中世とどう似ているんですか。 岡田 行動が似ていると思うんです。中世のように、ろくに働かずにすぐにお祈りに行って神様との一対一の会話を楽しむみたいなもので、食うものもろくに食わずにさっさとネットに入ったら、物は消費しないし他人との嫌な関わり合いもないというあたりが、いいのではないかと。 岸田 その意味では中世というのは、一所懸命働いてお金を稼いで金持ちになるという考えはないし、のんびりとはしていたでしょうね。いわゆる、未開社会というのはみんなのんびりしていますよね。近代人というのは何か目的があって、一所懸命働いて真理のためか理想のためか何か知らないけれども、それを実現するためにがんばったんですね。世界を征服して文明を伝えようと思っていた連中ですから。 岡田 それもコミュニケーションなんですよね。自分たちの文明という自我を広めていこうとする。 岸田 その連中の目から見ると、アフリカとか太平洋の島々でのんびりとやっている人たちが未開に見えたんでしょうけど。もちろん、未開というのは偏見なわけですが、あれは決して未発達ではなくて、一つの文化としてあのような状態に到達したんだと思います。それに反する、疲れる文明というのは近代ヨーロッパから始まったんで。 岡田 「疲れる文明」っていいですね(笑)。 岸田 しかし、一番よくないのはですね、そういう疲れる文明で、一所懸命頑張っている奴とのんびりやっている奴が喧嘩すると、のんびりしてるほうが負けるんですね。そこなんですよ、問題は。 岡田 コンピュータというのは二十世紀の文明の頂点ですよね。これが結局、コミュニケーションのツールとなる。この世界的なコミュニケーションを作るために世界戦争をやって、世界中を資本主義社会にもっていって、世界中をケーブルで繋げて通信衛星を上げて、誰でも彼でもコミュニケーションできるようにした。文明はこれを目指していたんだなと。 岸田 その文明も、誰でも彼でもコミュニケーションできるような域に到達したからこれ以上は必要ないと。 岡田 もうないんじゃないかと、この文明の先は。たぶん、社会的インフラとかを整備する人もろくにいなくなるんで、この文明が数百年かけて滅びていくのを、ぼくたちは楽しんでいけばいいのかなと。 岸田 滅びるというのは、なぜ? 岡田 この文明、つまりいまの通信の状態というのは、ある種神経症的に維持しようとしなければ、そこら中で線が切れちゃいますよね。でも、この状態から頑張って、ロケット工学士になるとかなんとか科学者になるとかという奴は、ほとんどいないと思います。とくにそれは、先進国になればなるほど。 岸田 そうすると、いわば先進国というのはなぜ先進国になったかというと、一所懸命頑張ったからなったんだけれど、一所懸命疲れをものともせずに頑張ってきて、到達してみるとこれ以上進歩する必要がなくなって、だんだんだんだん疲れることをしなくなる。ということは、非常に楽なことになるんですかね。 岡田 僕は、楽なことになると思うんですよ。 岸田 そうなればいいんですけどね。さっき言ったように、のんびりする人々と頑張る連中と喧嘩すると、頑張る連中が勝つ。近代というのはずっと、のんびりしていた人々が頑張る連中に殺されていった時代ですからね。
●武力の時代からコミュニケーションの覇権の時代へ岡田 この場合の頑張る連中というのは、頑張ってコミュニケーションの主導権をとるという、コミュニケーション内での覇権争いになっていくんで、現実に剣をとってとか、自分の影響力を直接行使してとかではなく、電子ネット上での影響力の行使のしあいで競争が発生するわけですよ。 岸田 そうすると、自己表現というかコミュニケーションの手段として、かつては軍事力とか武力という手段が最高に有力だったけど、いまや、そんなものはむしろいらないと。現在の発達したデジタル文明が生み出したコミュニケーションの手段があれば、自分を表現するのはそれでかなえられるわけだから、これまでの時代と比べて武力なんか必要なくなるということですかね。 しかし、まだ世界には核兵器があり、核兵器を持っているアメリカなんかがいばっているわけだしね。そう簡単に、頑張る連中が勝つという世界が消えていくとも思えないですけれども。それでもだんだんと、頑張る奴が尊敬されなくなってきてることは確かだと思うんですけどね。 岡田 その頑張り方が、武力じゃなくてコミュニケーションをとるほうに移っている気がするんです。アメリカもいま熱心なのは、アメリカの正義を宣伝することであったり、もしくはアメリカのコミュニケーションの形態を強要するというふうに変わってきてるんじゃないですか。 岸田 しかし、いざアメリカのコミュニケーションを認めないイラクのような国が出てくると、やっぱりアメリカは湾岸戦争を始めるわけですしね。 岡田 その場合も、アメリカはコミュニケーションの主導権をとって世界的な世論形成をする。イラクはイラクでラジオを使って国民を煽っていく。ラジオって、民主主義をファシズムにする一番いい装置だと思いますけれど。テレビになると、なんかファシズムが成立しない気がしますね。 岸田 なるほど、宣伝戦っていうのかな。そっちのほうが大きくなってきてることは確かかな。 岡田 僕が思うに、民主主義というのは印刷媒体によって成立している政治形態で、それがラジオになったらファシズムになる。でもそれがテレビになったらファシズムは消えてしまう。ファシズムっていうのは、その程度のテクノロジーに支えられているもんなんじゃないでしょうか。 岸田 なるほど、ヒトラーが一番使ったのはラジオですからね。あの時代、ラジオをもっとも効果的に使ったのはヒトラーでしたね。 岡田 印刷媒体で政権を争っているときは、普通選挙ってなくて、字が読める人だけの選挙だった。それがラジオになった瞬間に普通選挙になって、ほとんどの大人が選挙権を持つというふうに世の中がシフトした。それがテレビの登場で、ひとつの陣営だけの一方的な宣伝というのが、もう無理になってきてしまった。この段階でぼくはファシズムの心配というのはないと考えています。いまなんて、デジタルなネットワークでさらに拡散していますから。 岸田 そうですね。いまのようなたくさんの小さなグループがそれぞれに発信できるようになったら、発信側が持っている権力も分散されて、ファシズムは成立しにくいですね。 岡田 国家も成立しにくいですよね。 岡田 しかし、さっきの中世の話で、みんなのんびりしてたって言いましたけど、それは今の僕らから見ればであって、案外あの時代の人たちは、青筋立てて必死に祈っていたかもしれませんよね。 岸田 そうですね。祈り間違えたら、地獄に行くかもしれないわけだから。 岡田 でも、本当の意味での「のんびりする」というのはないんでしょうね。 岸田 ただ、いまの学生たちなんかは、本当にのんびりとしているね。あんまり勉強もしなくなったしね。しかし、考えてみると大学の授業でやってるっていうことは、たいてい要らないことでね(一同笑)。教養を身につけて知識を深めて、そうするとどうなるかなんてことはわからないわけで。勉強なんてそれ自体がおもしろくなければやることないですよね。 岡田 学問というのは実用化できないジャンルがほとんどじゃないですか。 岸田 明治以来の立身出世主義が通用していたのは、勉強して学問を深めれば出世できるという幻想があったからですよ。「学もし成らずんば、死すとも帰らず」とか言って。それがいまや決定的に崩れてしまったんじゃないですかね。だいたい、そういう幻想にかられて勉強していたわけですからね。それが崩れれば学生が勉強しなくなるのも当然で、そんなこと嘆いても始まらない。みんな勝手にやればいいと思っていますがね。
●天使が生まれてくる岡田 僕、この頃、十歳ぐらいの子供たちを見てると、何となく、もし天使というのがいたとしたらこんな風なやつじゃないのかなと思うんですが。 岸田 どういうの? 岡田 原罪がない。 岸田 原罪がないというのは……。 岡田 何か生きていることに引け目というのがない状態です。 岸田 原罪がないねぇ……。劣等感がない。 岡田 劣等感がない。生きている引け目を、抑圧といってもいいんですが。それがきわめて薄い。そして、かすかに残った心の中の引け目みたいなものをコミュニケーションのツールとして使ってしまう。 岸田 天使かどうか知らないけれども、劣等感とか罪悪感とか引け目とか、その種の感情が薄くなったというのは確かですね。劣等感というと、それを努力して克服するというのが普通だったのに、それがあまりなくなったということも、みんなが勉強しなくなったことの一因かもしれない。しかし、なぜ、劣等感とか罪悪感とかが薄れてきたんですかね。別に精神療法が効果を上げているわけではないと思うんだけど。 岡田 それは絶対にないですよ(笑)。たぶん、劣等感だとか罪悪感、もしくは抑圧の発生装置みたいなのものの効果が薄くなってると思うんですけども。その装置がぼくらの時代にはまだあって、彼らの時代には効果を失ってきた。 岸田 そうなんでしょうね。そうするとやっぱり天使が生まれてくるんですかね。だんだんだんだん。それはいい時代なのかなあ。 岡田 その天使のような人たちが起こす犯罪というのが、急に残虐になるっていうのも分かるんです。 岸田 どういう因果関係なんですか。 岡田 残虐な犯罪を犯さないということは、ある程度他人に共感できるということですよね。痛みを共感するというのは、自我がある時代の非常システムみたいなもので、そんなの、本来は必要ないものだったと思うんですよ。たとえば動物が他の動物を襲って食べるときに、かわいそうだなと思ったら、食べられなくなってしまうじゃないですか。人間にはそういった本来は要らない機構がついていて、それをやっとはずせるようになったのかなと。 岸田 しかし、歯止めがはずれると、残虐な犯罪を止められなくなるじゃないですか。その歯止めがなくなってもいいんですか。 岡田 恐らくいいと思いますけれども……。天使というのは、べつに愛の象徴ではなくて、原罪がないだけの状態ですから。当然、天使の内には残虐もあるでしょう。 岸田 いや、それは昔から子供というのは残虐で、大人になればなるほど残虐でなくなるんですよね。普通は大人になれば、人が痛がっているという感覚が身についてくるんだけど、そういう感覚を身につけなくなったんですかね。 岡田 その必要がなくなってしまった。 岸田 必要なくなったのかな。 岡田 必要ないから、捨てたんだと思うんですけど。必要ならみんな持つわけであって、必要もないのに持たせようとするのには無理がありますよ。 岸田 それを持たせるためにいままで教育とか何とかって、みんな無理してきたんですね。 岡田 無理をしてきたわけです。 岸田 それは、本人たちはないほうが楽だろうけれど。しかし、やっぱり歯止めがないと困るし、必要があるから一所懸命がんばって教育することでそういうものを植えつけてきたんですけれども。必要がなくなったとは……。実際に必要なくなったのかね。 岡田 いまの人たちを見ていると、自分が自我を共有しているようなサークルでは、必要以上に働くんですよ。この人の悲しみは俺の悲しみだ、みたいに。友達を傷つけるなんて絶対にやりたくないと思っている人は山ほどいるんですが、友達じゃない人には、平気で残酷なことができる人たちだと感じる部分があるんです。
●われらの官僚組織改造案岸田 だから、ある共同体のなかだけならそれもいいんですけどね。しかし外とも関係を持つときに困るんじゃないでしょうか。単なる趣味の会ならいいけれども、ある権力を持った集団が、外に対する残虐行為の歯止めを持たないというのは、非常に恐ろしいことになりますよね。 例えば、厚生省の役人が血友病患者に対してとった行為は、まさに、自分たち以外の集団に対してとった残虐行為でしょう。厚生省はひとつの共同体であって、その中では先輩、後輩というお互いの思いやりで結ばれた関係があって、退職後も天下りで製薬会社の社長とかになって、厚生省のみんながうまく豊かに生活できるような構造を一所懸命に作っているんですね。それが、血友病患者というのは厚生省の共同体に無関係な人々ですから、彼らがエイズになっても無関心なわけですね。厚生省の役人だけがある小島で暮らしてるならばいいんだけれど、やはり、権力を持った集団が自閉的になって、他者に対する共感を持たないというのは非常に困るわけですよ。 岡田 その困ることに対する対処法は、彼らが厚生省という集団だけに属していたのが問題であって、役人の一人一人がまた別の集団に属していて、その中でエイズの人たちと繋がりがあったら、回避できましたよね。つまり、厚生省の役人の家族にエイズの患者がいたら、ひとつの歯止めになったかもしれない。極端な話ですけどね。ただ彼らは単一の価値観の中にいるから悪かっただけで、もっと早くに多重な価値観の中に入ればよかったんだと考えられませんかね。 岸田 なるほど。しかし、現在の官僚組織というのは、さっきの頑張るじゃないけど、ほかのことは投げ捨てて一所懸命に頑張って勉強して、他の世界とつながらない人間を選ぶ形になっているわけですから。だから、必然的にああなるわけです。いまの役人の選別の方法を全面的に変える必要があると思います。 岡田 勤務システムを変えて週休最低三日にする。 岸田 週休三日? 岡田 権力が集中する人ほど、自分が所属する集団にいる時間を短くしていかないと危険なんじゃないかと。でも、職場の仲間と飲み会やってたら結局同じなんですけど(笑)。 岸田 僕なんかは、国家公務員試験なんてやめればいいと思っているんですけどね。いろいろな人が辞めたりしょっちゅうメンバーが替わっていれば閉じこもれないから、厚生省のようなことは防げるんじゃないかと思うんですけどね。 岡田 官僚組織というのは、効率を目指した組織としてはなかなかよくできていると思いますけれども。 岸田 効率的なんですよ。その効率的な部分がマイナスを生む。 岡田 官僚組織を変えようと思ったら、効率的であるというすごく根本にあるものを揺るがせずに改革するという仕掛けを考えないときついですよね。 岸田 それはちょっと思いつかないな。どうだろうね。 岡田 学校で班替えってあるじゃないですか。あの要領で、役人全員を三年に一回くらい人事異動する。厚生省と大蔵省の役人を総入れ替え、とか。シャッフルができればだいぶ違いますよね。 岸田 それができればいいんですよ。役人だけじゃなくて、そのへんのホームレスなんかとも入れ替える(笑)。 岡田 それは彼らのプライドをいたく傷つけますよ。(一同笑)
●自我はどんどん緩んでいく岡田 さっき岸田先生と話が噛み合わなかったところがあったんですが、僕は人間はコミュニケーションだけしていればいいのではないか。意味のない会話でも、コミュニケーションしている状態さえあれば自我の延長があった気になって、満足してしまうのではないかと考えているんですけれども。 岸田 意味のない会話というのはないと思うんだけどな。ちょっとした無駄話、世間話にしたって、表情でニコッとされればこっちが肯定されていると伝わってくるわけですからね。 岡田 そうですね。 岸田 やはり、話の内容だけじゃなくて、表情とかちょっとした身振りでも意味があるわけだから。 岡田 では、やはり、たわいのない世間話で十分なんですよね、コミュニケーションというのは。 岸田 ただ、たわいのない世間話ができるというのは、お互いが気を許しあっているということでしょう。だから相当な支えになるんじゃないでしょうか。 岡田 それがいろいろな人とできるというのは……。 岸田 非常にいいことだと思うんだけど。 岡田 それさえできていれば人間ってあまり他の欲望というのはないですね。 岸田 それさえできて、後は飯を食べていれば、他にしなければならないことなんてないんじゃないの? 岡田 そういう風に話すと、怒られませんか? それでよその国に勝てると思うのかって。僕は、ここでよく叱られるんです(笑い)。先生は、僕のように気楽に考えられてはいないでしょうが。 岸田 いや、僕ものんびりしているほうがいいと思います。だが、やはり国際関係というものがあるからなあ。中国だって頑張っているしね。 岡田 だから、早いとこ中国にもコミュニケーションのツールを大量に送り込まないとと思っているんです。そうなると、一所懸命でなくなるのではと。 岸田 日本もアメリカも一所懸命でなくなって、中国もそうなったら、みんながお互いに武器を捨てあうのと同じになって、そうなると一番いいのだけど。しかし、一挙にこちらだけがのんびりするというか、武器を捨ててしまうのは、やはり危険だと考えてしまうのは年齢の差なのかな。 岡田 ローマ帝国の滅亡というのは示唆的ですよね。キリスト教が流行って、みんなの心がそっちに向かっているうちに、周辺の蛮族がガーッと攻められて滅びるという。 岸田 そういうこともあるからね。でもねえ、やっぱり不安がある。 岡田 先進国の座は手放したくないですか?(笑) 岸田 いや、手放したっていいですよ、それは。 岡田 いまはアメリカ人だって、彼らの典型であるマッチョで自己主張の強いタイプというのが、ドンドン減ってきていますからね。 岸田 アメリカの精神療法でも、自己主張訓練法というのが出てきて、これも気の弱い人が増えているのと関係があると思います。でも、まだ気が弱いのは病気であると考える人が多いともいえますね。 岡田 でも自己主張訓練法なんてものが出てくるというのも、気の弱いアメリカ人が増えているからですよね。 岸田 かつてはなかったですよ。アメリカでもそういう層が増えつつあることは確かなんだけど、それに抵抗する層の方が主導権を握っていますから。 岡田 ただ、僕はそういう変化って、歴史的な必然だと思っているんですよ。 岸田 それは、人間は楽な方がいいし、それが進歩というならそちらへいくのもいいのかもしれないけど。ただあんまり早く行きすぎるといろいろ問題が起こってくる。だから周囲の情勢を見ながらチョコチョコと行くのがいいんじゃないですか。 岡田 そして、いまの緩い自我がさらに緩くなって、文字文明を忘れてしまうぐらいにまでなってしまうかもしれない……僕は、そんな底の底の時代に興味があるんですけどね。
●大人のいない社会では不安か岡田 じつは僕、子供のころ心臓弁膜症という病気を持っていまして。医者からは生後一年間、泣いたら死ぬと言われていたんですよ。それで僕の母親は、本当に一年間、一度も僕を泣かせなかったらしいんですよ。 岸田 それはすごい抑圧ですね。赤ん坊にとって泣くことは、唯一最高の自己表現ですから。 岡田 逆に泣かさないようにしたから、全能感がすごい。そんな原体験があるからいまだに払拭しきれないところがあって、世の中自分の思い通りになると思っているところがあるんですよ。(笑い) いま自分も子供を育てていますが、最近の子育ては僕の育てられ方にすごく似ている。子供を泣かさないように、あらかじめ回りこむ。三歳までは母親とのコミュニケーションが大事だからと、泣いたらすぐに抱いてあやしちゃう。すごくかまうから、だから僕みたいな子供がいっぱい生まれてしまうんだろうな。 岸田 なるほど。(一同笑い) 岡田 子供が五歳六歳になっても、親が回りこんでいろいろな欲求をかなえてしまうから、抑圧もあるかもしれないけど、自我の薄さというのはこのあたりに関係しているんじゃないかと思います。 岸田 理論的に言うと、自我というものが、母親との関係でしか形成されず、母親以外の現実との関係では作ることができないというわけですね。そうすると母親から離れた現実というのを非常に怖がるようになりますね。お母さん子にならざるを得ない。 岡田 かつて、子供はいずれ家を出ていくのが当然でしたよね。でもいまは、成長しても家を出ない人が多いですよね。地価が高いから家を持てないというようなことも、合理的な言い訳として成立するし。 岸田 昔は「他人の飯を食わないと一人前になれない」というように、どこかに行って働かなくちゃ生きていけなかったわけです。親は早く死んじゃうしね。でも今は閉じ篭って他の人と接触しない生活していても生きていけるんでしょうね。 もう二十数年も前から、人間が子供じみてきたと言われていますが、大人になるということは、本能的なことではなく、社会からの要請なわけです。大人という存在が社会のなかに必要だったから、みんな大人になったというだけの話ですよ。だからいまはそういう必要がなくなったということで、人間が怠けているわけでもないと思いますけどね。 岡田 いま大人の人というのは、やっぱり産業社会の中に上手に入れた人であって、そういう人も、産業社会がなくなってしまえばいなくなるんでしょうね。 岸田 大人というのは、自分の判断と自分の力で、他人の中で稼いで生きていく人というふうに定義すれば、大人になるというのは大変で、ほんとうはみんな嫌ですから、ならなくてもいいなら、ならない方が楽ですよね。 岡田 民主主義とか選挙制度というのは、自分で自分の判断ができる大人がいるから成り立つシステムですよね。みんなが大人にならない社会になったら、民主主義なんて崩れても当たり前ですよね。 岸田 ええ、成り立ちません。 岡田 じゃあ、みんなが選挙に行かないというのも正しいわけですよ。 岸田 正しいんですが……、どうでしょう。豊かな社会にとっては、だんだんと大人が要らなくなる……。みんなが大人にならなくてもいいんだけども、少数の社会を運営する大人が出てきて。 岡田 子供ばかりの社会なら、大人がいるというのは迷惑なんじゃないですか。 岸田 じゃあ、その社会をどう運営するのかは、誰が考えるのかな。 岡田 だから、そんなことを考えるのが不幸の始まりだって、先生、本の中でおっしゃってるじゃないですか。自分で責任のとれない範囲のことを、誰かがみんなのためになんて。 岸田 じゃあ、それでいいのか……。 岡田 社会システムは、やはり崩れていくと思いますよ。 岸田 みんな狭い社会で少人数でそれぞれの共同体でバラバラにやる分には全体を考える大人なんていなくてもいいんだ。だから、人類全体がそうなればいいんだけど。さっきと同じ問題に返るけど……。 岡田 だから、みんなが子供になってしまったらまずい、というような不安こそがよくないんですよ。 岸田 まあ、それはそうなんだけど。 岡田 だって、いまの社会システムの中で幸せになれなかったんですから。 岸田 やはり、僕は岡田さんより遙かに歳をとっているわけだから、その不安があるんだな、やっぱり。
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