『マジメな話』
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●論階層のない珍しい国、日本岡田 アマチュアのころ大阪の方で8ミリアニメを作っていたことがありまして。その当時、プロのアニメの作り方って何か違うじゃないかと感じていたんですよ。商業主義に流れるのは仕方のないことかもしれないけど、見ている人も嬉しくないし、スポンサーも嬉しくないし、作っている方もやりがいがないような作品がすごく多いように見えたんですね。で、俺たちはもっと違うものできるんだって思って、それで東京へ来てプロになった。 そんなこともあってついついその目で何ごとも見てしまうんですけども、今の日本って誰がどうやって動かしているんだろうと思った時にですね、ここでもやっぱりプロが信用できないという気がするんですね。まず、誰が動かしているのかはっきりわからないし、どんなプロが動かしているのか。で、どうもその流れとして、エスタブリッシュメントというものがあるような気がするんだけども、その人たちが自分たちの義務っていうものをちゃんと履行しているかどうか、僕らにはチェックもできないし、そういうのがあることが望ましいかどうかもわからない。 小室 今の日本は、無階層社会です。「階級」というよりは、もっとさまざまな要素としてランクづけられる「階層」として考えるべきでしょうが、世界史の中でも大変珍しい、階層のない社会です。だからエスタブリッシュメントとして語られる存在もいない。(注1) 岡田 いつからそうなったんでしょうか? 小室 歴史的に言うなら信長の時代から変わりはじめています。それ以前の日本は不平等社会(身分制社会)でしたが、その後徳川時代になると多くの意味での平等社会が現われます。(注2) 例えば、日本では明治に元勲になった人っていうのは、ほとんどが下級武士でしょう。徳川末期に権力が下級武士に移っている。下級武士と一般庶民の間は文化的にはほとんど同じですから、教養という点でも高度な平等化が進んでいた。不平等の大きな根源のひとつに、読み書きや教育があげられますが、その点で日本は平等化がされていたんです。これが、いまの無階層社会につながっているんですね。 岡田 今の日本で主権者というと、現実には誰になるんですか? 小室 まず正解は、ない。しかし、それに比較的近いのが役人。社会学的にはこれから分析するのですが、ずばり結論言いますと、よく近代国家のエレメントとして、司法、立法、行政という三権のチェックス・アンド・バランシズがあげられますね。ところが今の日本ではそれ全部を役人が簒奪しているんですね。行政府はもちろん、立法権って言ったって議員立法なんか実質的にできないです。法律もみんな役人が作ってる。検事も裁判官もみんな役人でしょ。 岡田 はい。 小室 陪審員なんて、今いませんな。 岡田 いませんね。 小室 要するに役人が三権を簒奪している。 岡田 はい。 小室 だから、仮に三権を一人で持っているのが主権者だとする。やっぱり一番主権者に近いっていうのは役人。 岡田 三権分立という民主主義が本来持たなきゃいけないものは持ってないんだけれども、これだけ国民の生活は平等である。で、本来だったらそんなに司法、立法、行政が癒着しちゃったらまずいはずなのに、何とかこれでも運営されているわけですね、現在の日本は。 小室 ええ。そうですね。ただ三権分立っていうのはもともとモンテスキューの思想であって、モンテスキューはアメリカ独立宣言のちょっと前に現われたんです。それで、アメリカがこれこそデモクラシーだと思って、アメリカの中に入れちゃったものなんです。ところが他の国にはあんまりこだわりません。英国なんていうのは三権分立じゃありませんからね。 岡田 そうなんですか。 小室 立法権っていうのは議会主権みたいなものですから。内閣は実質的には議会が選ぶんですよ。アメリカの場合には、大統領と議会は別な選挙です。それから、歴史的に言うと、議会というのは昔は裁判所だったんですよ。それがいつの間にか立法機関になっちゃった。それがイギリスです。だから三権分立というのがなかったら民主主義でないとは断言できない。あくまでも一つのあり方ですから。
●日本は滅びる。ものすごいアナーキー状態になる岡田 小室先生としてはですね、今の日本というのは、わりとこのままでいいんですか? 小室 もうすぐ滅びるでしょう。 岡田 その滅びるっていうのは、今の政府が持たないというレベルではないんですね? 小室 ものすごい、アナーキー状態が起きるでしょう。 岡田 そのアナーキー状態っていうのは、日本の健康にはいいことなんですか? 小室 時と場合によったらいいです。ヨーロッパでは大変なアナーキーから新しい社会が生まれてくる場合も多いわけですね。日本だってそうでしょ。日本の歴史で一番おもしろいのは戦国時代、明治維新でしょ。両方ともものすごい混乱、ものすごいアナーキーですよね。そこから新しいものが出てくるわけです。だから悪いとは限りませんね。でも悪い側面もたくさんある。 岡田 そのような状態になると、今の安定のようなものってたぶんすべてなくなっているんですね? 小室 なくなるでしょうね。 岡田 で、それは世界同時多発的に起きるわけではなくて、今の日本だけそういう風になるんですか? 小室 いや、外国もそういう所ありますよ。今の日本はその最も危ない所の一つですね。 岡田 そこからもう一回立ち上がる時に、たぶんこうなるだろうなあっていうモデルって、過去の例ではなにかありますか? 小室 いくつかの例はありますけど、一番分かりやすいのはね、三国志ですね。あれの最初のほう、革命のものすごい混乱のなかで、もうどうにも食べれなくなって、流民になっていくんですね。 岡田 はい。 小室 それで流人が他の村に行くでしょ。でも他の村だって食べるものがあるかないかのギリギリでしょう。流民に分けてやるのなんてないに決まってる。じゃあどうするかって、その村の人々皆殺しにするんです。皆殺しの連続ですよ。 岡田 すさまじいですね。 小室 そう。もう、ものすごい混乱。日本だって、戦国時代だとか徳川時代とかに飢饉しょっちゅうやってますけど、それとは比べものになりません。中国の飢饉はどれも、人口の三分の二から四分の三が死んじゃう。ものすごいでしょ。たとえばね、明を作った、太祖朱元章、あの人の家族は全員餓死してます。 岡田 おぉ…… 小室 で、自分だけが助かってね。それから流民の中に入って大いに頑張ってそのまま王朝になった。だから、社会が解体した時の混乱がどういうものかっていうと、中国の歴史、王朝交代がいい例ですね。 岡田 なるほど。で、ちょっと先の話になってしまいますけども、その混乱期を短くしたいとしたら、なにか方法っていうのはあるんですか? 小室 どうでしょうか。まあ、あんまり短いよりは長い方がいいかも知れない。 岡田 うーん、そうですよね。徹底的になった方がいいかもしれませんね。 小室 しかし、そういう風になったらね、今の日本人にとっては苦しみも大きいでしょう。今の日本社会っていうのは、子供の暴力気にしてるでしょ。だから恐ろしいんですな。戦前戦中ぐらいは、男の子は喧嘩して当たり前だった。イギリスのパブリックスクールではね、朝から晩まで生徒が喧嘩してるし、先生は体罰を加えるのが当たり前です。そのいいところはなにかというと、しょっちゅう体罰加えてると、怪我させない体罰っていうのがだんだん分かってくるんですよ。だから、軍隊なんかも体罰なんてのは日常茶飯事で、目が回るほどぶん殴られても、怪我するっていうことはほとんどなかった。見かけ上の怪我はふつうでも、本当の怪我はしてない。ところが今の子供っていうのは、殴り合い蹴飛ばし合いなんかやらないでしょう。 岡田 そうですね。 小室 だから、暴力に対して、ここまではいいけどこっから先困るっていうけじめがないんですなあ。恐ろしいですなあ。平和ボケになると、ゲリラだとか戦争なんかの殺し合いになったとき、それこそ無差別殺人になるかも知れない。だから暴力ということを禁止しておくと、暴力の恐ろしさを知らない。これほど恐ろしいことはない。 たとえばカルト教団が人殺しやるのは世界中共通だから驚かないけど、日本のカルト教団って毒ガス使って無差別殺人でしょう。何のために誰を殺すという目的がない。行き着く果てが酒鬼薔薇事件のA少年です。これほど原因がはっきりしている事件もないのに、評論家、学者は右往左往で、何のことやらさっぱりわからない。日本のインテリの知的貧困をまざまざと見せつけた事件です。もう大変なアノミー(無連帯)ですね。だから、この独特な日本社会に起きる混乱の時代は長くて、収拾は非常に困難だと思いますよ。この次現われる殺し合い、混乱、アナーキーは空前絶後のものになるでしょう。 岡田 内戦を含んだ、ですか? 小室 はい。しかもこれから始まる日本の内戦っていうのは、全く無秩序で、誰でもいいから殺しちゃえっていうようになると思います。 岡田 いまの日本は、ある意味でのカタストロフィに向かっていると。 小室 ある意味じゃなくて全く確実にそうです。今まで、日本をずっと指導してきたのは官僚ですよ。ところがその官僚が犯罪集団だっていうことがはっきりした。官僚だけでなしに、日本の組織ってのは官僚的にできてますから、どの組織にも普及してしまって当たり前になっちゃってるんです。巨大銀行の頭取の身でヤクザに金を搾り取られるなんて、欧米諸国では考えられませんよ。そういうことが、現実化しているんです。 岡田 サバイバルぐらいですか、僕らがそれに対して言えるのは。 小室 そのまま死に絶えるかも知れません。[笑]
●義務教育はもう時代遅れだ岡田 こういった状況に対する手当て、あるいは延命策っていうのはなにかあるんでしょうか? 小室 教育の大改革しかないでしょうね。でも問題はそれが可能なのかということです。 岡田 教育の大改革をやった成果が何年か後に出ることで、社会の崩壊は防げるんですか? 小室 防げるかも知れないし、ますますダメになるかもしれない。教育改革っていうと制度改革をみんな思っているでしょ。 岡田 はい。 小室 制度改革やるんだったら、入学試験をどう直すかという程度じゃどうしようもない。まずやらなくちゃならないのは、小学校から大学まで、全廃をするんです。それで自発的教育機関だけにするんです。 岡田 自発的教育機関っていうのはつまり、私学のみということですか。 小室 日本の私学って言っても、今では国立や公立と同じです。実質的に。簡単に言えば、予備校や塾のようなものだけにするっていうことです。そもそも義務教育っていうのは、ものすごい時代遅れだけど、みんな気がつかない。あれは資本主義ができてくるときに必要なんです。文盲だと資本主義労働者が出てこないでしょ。だから小学校の必要があるんです。 岡田 その義務教育が資本主義の必要条件であるということを考えると、義務教育を撤回したら私たちが今持っている民主主義社会の仕組みという風なものもある程度変えざるを得ないですよね。 小室 いや、変える必要はないです。だって一番簡単な読み書きだとかねえ、計算なんていうのは、今のような小学校がなくったって大概の人はできるようになっちゃう方法が他になんぼでもあるんですよ。今だって小学校の教師なんてまともに教えないから、小学校中学校の本当の勉強は塾でやるなんて人が多いですよね。だから、ここまでは、どうしても必要だと思ったら、塾でやればいい。アメリカでは教育って基本的に親がやるんです。小学校あたりから自分の宗派の学校に通わせて、中学校上級生や高校、大学の教育は、親の考えで決める。一番有名なのは、エジソンのオフクロ。学校の先生が「お宅の息子は低脳で教え切れません」と言ったら、「教える必要はない」って家に連れて帰ってきて自分で教えたでしょう。その結果、あれほどの大発明家が出た! ところが日本ではどの子供も徴兵制度と同じように学校によって教育するんですよ。 岡田 その均質教育の成果で、所得も均質化もあれば、役人に三権全部押しつけて、平気な社会もあるわけですよね。だから、先生がおっしゃる、義務教育もしくは公的な教育機関を撤廃して、私塾や予備校で教育の多様化っていうのをやってしまうと、おそらくそこから10年か20年ぐらいすると、この社会っていうのはがらっと変わりますよね。 小室 変わりますね。平等化が必ずしもいいものかわかりませんからね。むしろ、平等はないほうがいいんじゃないですか。 岡田 その結果現れるのは、おそらく、さきほどおっしゃった階級化と言うよりは、階層化がはっきりした社会が現れると。 小室 そうでしょうね。階層がはっきりした方がいいと思います。 岡田 そういう多様な階層化のある社会の方が、今の社会ではおそらく国際競争力も強いだろうし。 小室 そうです。経済そのものがほんとうに強くなる。階層がはっきりしたほうが、経済は強いのです。 岡田 そして、おそらく打たれ強い国になる。 小室 打たれ強い国ですし、非常に強い社会になる。
●歴史を学ばない日本には、保守主義はありえない岡田 今からそちらの方へ行くとして、何が邪魔してるんですか? 小室 やっぱり日本の慣習です。いったん作ったものは変えられない。「伝統主義」がはびこってってるうちは、日本は封建時代と同じです。 岡田 では、もし日本の革新勢力というのがあるとしたら、革新勢力が目指すべきなのは教育制度の撤廃で、保守主義が目指すべきは、今の伝統のようなものを守っていくことなのでしょうか? 小室 そうではありません。日本には保守勢力っていうものはないでしょ(笑)。 岡田 それは国民全体が前にあったものを受け継ぎたいと思っているから、わざわざ勢力化する必要がないということですか。 小室 というか、「伝統主義」が強すぎるんです。保守主義って言うのは、単に伝統を守るっていうのじゃなしに、これはよい伝統だから守る、これは悪い伝統だから廃止するということです。今までやってきたことがなんとなく正しいと思ってるのは保守派じゃないんです。 岡田 なるほど。 小室 ところが「伝統主義」っていうのはそうじゃなくて、よい伝統でも悪い伝統でも、既に過去において行なったことをそのまま立たせてきたんです。それが一番はびこっているのが金融業界です。本人たちは犯罪だと思ってやるんじゃなく、今までやってきたことは正しいと思ってやってるうちに、大変な犯罪になる。こういうのは「伝統主義」であっても、伝統の選択でないんです。保守主義は、伝統の選択がなかったら出てきません。 岡田 その選択をする時の価値のベースって何になるんですか? 小室 価値合理的もしくは目的合理的であるか、あるいは自分の国の歴史に対する反省、そういうのが保守主義のモデルです。いまの日本人は全然歴史の勉強をしないし、歴史を知らないから保守主義ってあり得ません。 岡田 では、それに対抗する革新っていうのを仮定するとすれば、先生がおっしゃった多元的な階層、価値の育成などを目指して、現在ある義務教育制度であるとか、官僚制度の撤廃っていうのを、かなり徹底的に目指したものなんでしょうか? なんて言うのかな、アメリカの民主党的なやり方とでも言いますか、国民なりの自由競争って言うんですかね、強化した形で。 小室 そうですね、自由競争の強化って言うと、規制撤廃ですよ。規制撤廃って言ったら、資本主義に帰れって言うんですよ。だからそういうことを以て革新だと言うんだとすれば革新と同じですな。岡田 資本主義だけが目的じゃないとすれば、資本主義に限らず、その、何て言うのかな……。 小室 いま自由競争って言ったでしょ。 岡田 ええ。でも経済競争だけではなくて、その階層内社会でのあらゆる価値内の競争です。 小室 そこへもいくのですけど、まずね、経済から話を始めましょう。市場における自由競争の意義っていうのは、はっきりしてるんですね。つまり資本主義なんです。その哲学はアダム・スミスが言うように、自由競争やらせておけば、「最大多数の最大幸福が達成される」ということです。これは比喩ですが、正確に言うと自由競争の結果が資源の最適配分を生むという言いかたもあります。その自由競争を阻害すれば「最大多数の最大幸福」が達成されない。だからいろんな規制を設けるべきではないと言うんです。これは昔の例だと、ギルドだとか王様が与えた特権です。今の話で言えば、政府による規制ですね。だからそういうの全部取っ払うと、「最大多数の最大幸福」が得られると。だから自由競争は望ましいと。 もう一つ哲学的観点で言いますと、簡単に言うとね、優商劣敗の論理です。市場を自由にしとけば、よい企業やよい労働者だけが生き残って、悪い労働者や悪い企業は淘汰されると。だからよいと。(注3) 岡田 自由競争っていうのは、市場があって、お金っていうベース、経済っていうベースがあるからこそ成り立つんだというわけですね。そこを敢えてですね、ちょっとひねっちゃって言うならば、義務教育という規制を撤廃して教育を自由にすれば、国民の間、もしくは市民と言ってもいいんですけど、人的資源の配分がおそらく最適で行なわれるということと考えていいんでしょうか。 小室 それはそうでしょう。自由をそのように解釈するのは可能ですね。十九世紀に、社会も自由競争でよくなる(ソーシャルダーウィン主義)と主張していた人は多かったのでした。ダーウィンの進化論そのものは、いまでは退けられちゃっていますけども、そのアナロジーはいまでもあちこちで生きてますね。だから、そういう自由競争にしたら最もよい教育ができるという考え方は昔からあって、いまでもそうなりそうです。日本ではまだ規制が多すぎるから、だからろくでもない教育しか出てこない。以前『窓際のトットちゃん』が大評判になったでしょ。あのトモエ学園みたいなのっていまじゃできない。文部省が許さないのです。(注4)
●教育マニュアルに正解はあるか岡田 僕の娘が保育園に通っているころに、保育園の先生は何見てるんだろうと思ったら、先生のマニュアル本が売ってるんですね。それを見て思ったんですけども、教師一人一人が自分なりの教育哲学みたいなのを持っていても、それを実行するって不安でできないですよね。その基礎価値観が自分たちの中で築かれてはいないし、子どもが7歳になったら小学校へ送らなきゃいけないでしょう。自分の信念で育てた子供の面倒を15歳、あるいは20歳までみられるならともかく、7歳の時点でバトンタッチしなくてはいけないんだったら、自分の信念じゃなくて、小学校に入るまでに準備しなくてはいけないことをやらざるを得ない。そのための膨大なマニュアルがあるとなれば、どうしてもそれに頼ってしまうってのはあるんじゃないですか? 小室 それが今の日本の最大の問題ですな。いま宗教がないでしょ。欧米諸国であればマニュアル以前に宗教があるから、宗教の権威によってそれをやるんですな。日本は宗教がないから、ものすごいアノミー状態になって。マニュアルって言っても、幼稚園の先生や小学校の先生のマニュアルだったらまだいいですけども、お母さんの育児マニュアルまであって、その通りにやればいいんだろうというのは……。育児っていうのが恐ろしいと共に、いやでいやでしょうがないらしい。 岡田 僕なんかにとっては、もう育児のマニュアルがあるのが当然なんです。まず母親やおばあちゃんと住んでる場所が違うし、電話してもすぐ聞けるような環境にないし、隣組みたいなのもないですよね。ですからそういう風なマニュアルがあるのは仕方がないことだという前提で子供を育ててきました。 小室 その点、昔は隣の人もいたしおばあちゃんだとかおじいちゃんだとかがいたから、いまと比べたら比較にならないくらい安全だった。だから昔は親殺し子殺しなんてまずなかったでしょ。 岡田 いま子どもを育てる上での安全策は、マニュアル本いっぱい読んで、どれかを選ぶってことしかなくなってきたんですが。 小室 じゃあ、選ぶってどういう基準で選ぶんですか? 岡田 それは、かろうじて自分の中の個性であるとか哲学みたいなもので選ぶということになっちゃいますね。 小室 じゃあその哲学っていうのはどうやって選ぶかっていう問題がきますね。 岡田 はい。その哲学みたいなものが強固であれば、読まず選ばずとも自分の中の方から出てくるんでしょうけど、その自分の中から自発的に出てきたものがやっぱりどうしても信用できないわけですね。 小室 だからそれが最大の問題なんです。 岡田 と言うのも、自分一人が考えたものよりは、テレビなんかでも雑誌なんかでも賢げな人がいろいろ、正解みたいなの言ってますよね。で、どの正解を選ぶのかということしか、もう残ってないような気がするわけなんですね。 小室 じゃあその賢そうな人が賢くなかったらどうするんですか?(笑) 岡田 より賢い人が淘汰されて現われるだろうというのを、祈るような気持ちで見守っている……(笑)。 小室 それは淘汰に対する、一つのプリデスティネーション、予定説ですね。その予定説が作動すれば問題ないんですけれども、その予定説がじつは間違っていたら大変なんです。 その淘汰を根本から徹底的にやったのが、宗教です。たとえば、仏教のお経は悟りをひらくためのマニュアルですが、賢そうな人が書いたお経が山ほどあります。そこで、お経の大切さの順序をつける作業が必要になります。天台智 の五時八教の教相判釈がとくに有名ですが、彼はすべてのお経の中で法華経を最高としました。その他華厳宗には五教十宗の教相判釈があります。 マニュアルが多すぎて困るのでしたら、誰かが「教相判釈」をする必要があります。でも、これは大変な作業です。天台智 は智者大師を言われ、すごい学者です。学問、識見抜群の人でないとできないでしょうな。 岡田 この五年間ぐらいの育児書とか教育書の売れ筋から言うと、昔の本は教育学者であるとか学校の先生みたいな人がこうしなさいと書いていたんですが、いまはお母さんの体験談主体になっている。つまり権威みたいなものがさらに分解していって、自分と生活レベルや価値観レベルが同じであるお母さんの体験談をいっぱい集めてきて、自分でできそうなものを選ぶ。その本でこうしたらこうなったと言っているから安全だと、そうやって安心して子供を育てるというようなやり方になっちゃってるんです。 小室 しかし安心できますか? 岡田 これしか今のところ安全はないぐらいの気持ちなんだと思います。 小室 だから、いろんな問題が起きるわけですね。 岡田 はい。ただその前の段階の、教育学者の本しかなかったときよりはみんなずっとましに思えている。 小室 その教育学者がエゴで無能だったらどうするんですか? 岡田 エゴだったから今こういう風になってるんで(笑)。 小室 そうだと思いますよ。と言うのはね、今の日本の教育学のレベルは、決して高くないんです。インチキ学者が多い。例えばですね、親子殺し合いの家庭なんていうのは、激増してるでしょ。そうすると、子供をいろんな所へ連れて行くんですね。神経科の医者、それから精神科の医者、精神分析の医者、それから心理学者、それから教育学者、連れて行くでしょう。そのなかで一番無能なのは誰だと思いますか? 岡田 うーん。それは、心理カウンセラーが一番まずいんじゃないかと……。 小室 カウンセラーに限らず、日本っていう国には、まともな心理学者だとかまともな教育学者がほとんどいないんです。 岡田 心理学というもの自体が、キリスト教ベースで発達したからってことじゃないんですか? 小室 逆です。現代心理学っていうのは、ネズミの実験から発達したんです。 岡田 ああ、なるほど。 小室 だから一番信用できるのはネズミの実験です。カウンセリングだとか人間の心理の研究なんてのは、心理学の中で最も遅れた部分ですね。だから、親子殺し合いの事態が起きた場合に、一番参考になるっていうのは、やっぱり医者ですね。しかし、大概の場合は異常なしっていうことになっちゃう。身体的、精神的にどこにも病気はありません。「アノミー」は連帯の欠如で、いわば社会的「病気」ですから医者の手には負えません。一番インチキなのは教育学者。 岡田 僕が思うに、たとえば、アトピー性皮膚炎の子供を持っていて心理カウンセリングに通うお母さん方の拠り所っていうのは、その先生が目的ではなくて、そこに来るお母さん方のサークルに入って、その中の情報交換であるとか価値観構築っていうのが一番大事なんじゃないかと。先生はシンボル的であればいいという風に考えてるんじゃないですか。 子供をどう育てるのか、もしくはどういう風に自分の跡を継がせるのか、非常にリアルな問題ですけども、現実には子どもの教育を国家に預けてしまっている。それをこれから自分たちの手に取り戻すのって、どうも無理があるのではないかと思うんですけど。 小室 十年ちょっと前にですね、私は『あなたも息子に殺される』という本を書きました。日本の心理学者、教育学者に挑戦したんですけども、かなり反響が多かったんですね。これは学術書として書いたつもりなんですけどね、いろんな人から質問受けました。「うちの息子に殺されそうなんですが、どうしたらよろしいでしょうか」に対して第一番目の答えは「潔く殺されなさい」。そうすると「殺されるのはいやだ」と言うから「先手打って殺しなさい」と。 岡田 やっぱりそうですよね(笑)。 小室 というのは、まず医者に連れてくんですよ。どの医者が診ても異常なし。でも家に連れて帰ると、家庭内暴力を振るう。ますますひどくなる。それは、日教組が影響していると言う人もいます。日教組は「日本の過去は汚辱の歴史である」と教えたので、日本人は連帯を失ってアノミー(無連帯)が広がっていったのです。アノミーにかかると、精神に異常のない人でも、狂者よりも狂的にふるまうようになるのです。 岡田 はい。 小室 だから、教育のスタンダードを求めるためには、医者や経験を積んだお母さんやお父さんに相談するのもいいんですけどね。ほとんど、効果がないですね。カウンセラーや教育学者に相談するのはまったく無駄です。 岡田 それがさきほどおっしゃった公的教育機関の撤廃、で、予備校であるとか私塾みたいなもののみを形にしてしまうと、だいぶよくなるんですか? 小室 自由競争をやらせて、教育問題の原因が何であるのかっていうことをわかった人が現われれば、救われます。 公的教育機関のおそろしさは、教育が「型にはまった仕事」(routin work)になることです。これが致命的(fatal)です。思春期の青少年の心は疾風怒濤(シュルトム・ウント・ドルンク)で日に夜に激動しています。それをルーティン・ワークでおさえつけるなんて猛獣を小さな木箱に押し込むような話ではありませんか。無間地獄です。阿鼻叫喚の叫びをあげても当然です。 ゲーテは「すべて偉大なものは青春に生まれる。その後の生涯は注釈である」とまで言いました。昨日までは平凡な青年が飛騰して、世界史的偉大な人物となることも可能です。たとえば坂本龍馬がそうでしょう。青年はそれだけの偉大さを秘めているのです。沖天するエネルギーを持っているのです。その偉大さ、エネルギーを育ててくれないで、押し殺してしまうのがルーティン教育なんです。
●「自分なりの選択」ができない世代岡田 小室先生のお話は仮想的でして、どれが一番いいのかは聞く側が選ぶしかないんです(笑)。先生のほうからこれだってモデルは提示されない。たぶんそれはそういう職業じゃないからというか(笑)、そういう立場じゃないからと僕は勝手に判断したんですけれども。 小室 あのね、それよりも、最善のものとか一番いいということやるには、選択肢が一直線上に並ぶことが可能だという前提があるでしょ。だからその前提が満たされない場合には、そもそも一番いいっていうことはないかもしれないし、考えることもナンセンスかもしれませんよね。 岡田 ただ、僕の選択肢ってありますよね。つまり僕はこれ以上でもこれ以下でもいけないという、その人なりの基準があって、その中の最善っていうのは選び得るんであるけれども、おそらくみんなにとってとかですね、日本国の最善っていうのは、選べないわけですよね。 小室 ですからね、選択肢っていうものは、直線的に並んでるとも限らないでしょ。よく見比べてみたら、こういう意味ではこっちの方がいいけど、ああいう意味ではあっちがいい。ジャンケンを考えてみればどれが一番強いなんて答えは出ない。チョキはパーには強いけどグーには弱いとか。そういうサイクリックな場合でも悪い場合だってあるし。 岡田 ただ、それでもですね、誰か決めるしかないわけですよね。運を天に任せてって言うか。 小室 でもそれが決まるんだったら、果たして実現できるかどうかっていうことがまず問題で、実現可能性ですね。 岡田 なるほど。 小室 数学を例にして説明しますと、こういうのがギリシアの昔から問題にされていましてね。定規とコンパスとで角の三等分ができるのか。それからもうちょっと複雑に、難しくなると、体積の二倍の立方体を作ることはできるのか。ところがそれが解決されたのは近代に入ってから。数学以外の問題でも、何か問題を出した場合に、解答があるのかないのかはわからないですよ。 岡田 学問っていうのはだいたいどこまで可能なんでしょうか? つまり例えば、今の日本はここらあたりまでまずいことになっているというのは、学問でかなりわかるようになっているのでしょうか? だからその先、こうした方がいいとか、こうすればこうなるとか、どこまで学問っていうのはやっていけるものだと先生はお考えなんですか。 小室 でもその場合でも、いま出ましたように、一番いいという解答があるのかも知れないし、ないかも知れない。また解答があったとしても、一番よい状態というのが、資本家が全部破産して労働者が全員餓死する状態がだということも、理論的にはあり得るのです。英国古典派の代表であるリカードが考え抜いて、こういうこともあり得ると、これほど極端なことも一例として考え及んでみたわけです。それから、また、みんなが望んだからといって実現するとも限りませんな。これは一九三二年になりますが、失業なんかいやだとみんなが望んだとしても、失業がなくなるとは限らないでしょう。それから病気でエイズにかかった人がエイズはいやだと言ったって治るとは限らない。もうちょっと前には、ライ病、結核がそうでしたね。その結果ライ文学だとか結核文学なんかがあったわけです。だから、望んだからそうなるとも限らないし、本当にそれが望ましいのかどうなのかもよくわからないわけですね。 岡田 いまですね、僕ぐらいの世代、三十代中間ぐらいの人たちって、わりと上の世代に関して批判的だったんだけれども、いざ自分たちが親になって、社会の中核に近づいていくにつれて、これはえらいことになってると。いまの日本、なんかやばいなって気はたぶんみんなしていると思うんです。すぐ上の、全共闘世代って言うんですか、あらゆる価値観っていうのを平定して、潰しちゃって、壊していった。その間に家庭というのも相当壊れ、一族という概念も壊れ、共同体としての会社の幻想も壊れちゃった。その中でみんな青ざめてるところだと思うんですよ。上の奴ら信用できない。下見たら中学生が人殺しちゃってると。これどうすりゃいいんだっていうようなことで、僕としては結構安易な回答求めてるんですね、「小室先生、これどうすりゃいいんですか」(笑)と。「じゃあ、教育よくすりゃいいですか?」「いやよくすりゃいいとも限らない」「じゃあ日本っていう国、一回潰れちゃえばいいんですか?」「潰れるのがいいかもしれないけども、それはわからない」と……(笑)。 小室 潰してしまった方がいい場合もありますけどね。一度破綻したほうがいいという場合もね。いまの日本だと徹底的に全部壊すのがいいと思います。 岡田 その、僕自身が考えている方策として、ある程度、それぞれの人間が独裁者になったつもりで、どうやっていくのかを考えるところから自分のスタンダードは決めるしかないなと。 小室 それしかないんですよ。それしかないんです。 岡田 それで一人一人が、ある程度、俺独裁者だったらどういう風にするだろうっていうのを、個人のレベルで考えて、次にそれを家族とか、周囲へ反映させていくぐらいから始めようかなって考えたんですけど。 小室 そうじゃなかったらダメです。まさにそうです。ホッブスは「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes)から議論を始めます。まったくの無秩序がはじめにあったということです。これが「ビヒーモス」(Behemothという怪獣)です。ここから考えを始めて、どうすれば無秩序を克服して、秩序を作ることができるのか。そのように思考をすすめていくのです。 岡田 はい。それで、そのための考え、ツールとでもいうのか、やはり僕らの世代というのはすごく脆弱ですので、何かを考えるときには参考書を取り寄せる展開になるわけです。ゼロから積み上げるのではすごく不安が多いし、ゼロから積み上げるとすれば、これまでの何千年にも及ぶ文明の積み上げって何だったんだろうか。過去にそういう例があるだろし、同じ材料で考えた人も先人にいっぱいいるはずだ。もしかしたらその情報が自分たちに届いていないだけなんじゃないだろうかって考えちゃうんですよ。 小室 たぶんそうでしょうね。一番簡単なのはキリスト教で、ゴスペル、福音って言葉がありますね。この福音を聞けば誰でもすぐ救済されると。 岡田 南無阿弥陀仏みたいですね(笑)。 小室 そう。南無阿弥陀仏はまさにそうなんです。法然や親鸞の考え方は、いまは末世だから、どんなに修行してもどんなに学問してもどんなに善行をしても絶対に悟りを開くことはできない。でも、南無阿弥陀仏ひとつを唱えたら、弥陀の本願が実現されて極楽浄土へ往生できるというものなんです。日蓮の論理は違いますが、結論の現象形態は似ています。法華経読むのが大変だったら南無法蓮華経と唱えるだけでもいいと言うんですから。そこまではパウロの福音と一緒ですね。パウロの場合はイエス・キリストは十字架に架けられ、そして死人のなかから甦ったと、それを信じるだけでいいと。すべての人間は罪人なんだから、どんなにいいことをしたってムダだと。と言うよりどんなにいいことしようと願っても絶対できない。でもそれで救われないのではなく、ただイエス・キリストが甦ったってことだけ信じていればいい。ものすごい福音でしょ。最近のアメリカじゃなおわかりやすい。福音のことを"Good News"と言うんです。 岡田 それはシンプルでわかりやすいですね(笑)。 小室 わかりやすいですよ。昔の宗教家はそういうふうに考えたんです。
●階層社会の風穴としてのエリートシステムを待望する岡田 最後に、もともとお聞きしたかったことなんですが、エリート階層というものが、これから作れるのか。もしくは私たちは、それを必要としてるのかどうかっていうことなんです。階級とか階層っていうのがどんどんなくなっているのはわかるんですけども、じつはないという今の状態が特殊なんじゃないのかなあと。本来社会のなかには階層や階級っていうのがいくつかの段階でもって存在しているのが正常な状態じゃないのかというのが、自分の中であるんですけど。 小室 まさにそうです。それはその通りです。階層って必要です。しかし、人工的に作ることができるかっていうと、難しいですね。 岡田 それは、敢えて作っちゃうと科挙の制度みたいになっちゃうんですか? 小室 そういうこともある。人間社会っていうのは、ものすごくプリミティブな社会除いたら分業の社会ですよ。分業や共働のためには、絶対に階層がないと困るんです。一番簡単なのは、兵隊、軍隊です。軍隊の階級っていうのは絶対必要なんですな。だから中国で階級をなくそうと思ったけど、軍隊で階級ができちゃったでしょ。社会全体でも同様です。ソ連では革命によって階級をなくそうとしましたけど、「ノーメンクラーツラ」という大変な階層ができてしまった。マルクスは、その理論で「人類の歴史は階級闘争の歴史である」と語ってる。どの社会にも必ず階級、広く言えば階層は必ずできる。階層のない社会なんて考えられませんな。ところが日本の社会っていうのは非常に不思議で、階層をなくするようなものすごい大魔術が信長の時代以降、働いているわけです。明治以後、日本で華族制度(公侯伯子男の爵位制度)って一応作ったでしょ、ヨーロッパから輸入して。ところがあれは、社会的には全然機能しないんです。華族は特別な能力もノブレス・オブリージもなく、社会的に尊敬されません。戦後いっぺんの命令で消えてなくなった。 二番目の特徴はね、日本には準貴族、英語で言ったらナイトだとかバラモンがない。それから準々貴族としての特権階級ですね。ジェントリだとかヨーマンリーがないんです。 岡田 そうですね。 小室 だから、ヨーロッパとは非常に違った階級社会であることは確かですな。それじゃ戦前の日本の階級社会どうだったのかと言いますと、地主と小作人だけは再構築されたんです。最も封建的な階級制度が残っちゃった。なぜ封建的かというと、年貢は実物(米)で、しかも五十パーセントというとてつもない高率です。しかも年貢の取り立ては地主の任意というところがありまして。たとえば飢饉になったら、そんなに厳しく取り立てできませんね。地主の任意でいくらでも低くできるなら、小作人との関係は経済的な取引じゃなく、温情の関係になっていくわけです。 岡田 なるほど。そうですね。 小室 そうなると、小作人は地主から搾取されるだけじゃなくて、人格的にもまた家来であるという、そういう階級制なわけです。それが致命的なんです。近代における階級制度として、最低ですね。もうどうしようもないほど不合理だった。 おもしろいのはね、戦前地主階級でマルキシストになる人が多かったんです。何もしないで搾取ばっかりしていたから。 岡田 良心の痛みに耐えかねて(笑)。 小室 その通りです。ところが、小作人にとってはすごい活力になった。さんざん搾取されるでしょ。ところが、搾取され尽くした後に風穴が開くようなシステムだったんです。小作人のなかで優秀な人は独学で一高、東大に進む人もいたんです。昔の一高はよほどの秀才じゃなきゃ入れなかったから、中学も行っていない人が入れば、これはものすごい美談なわけでう。 岡田 階層が生み出す活力、でしょうか。 小室 そうです。だからそういう人たちを、一族はもちろん郷党もみんなで後押しした。彼らはそこから高級官僚への道を歩んだのです。もっとも大切なことはこれです。郷党も村もみんなから、広く言えば日本中から後押しされて、輿望を担っているうちに、強烈な責任感が生まれてくる。これが日本のノブレス・オブリージです。それが現在なくなったことこそ、現代日本を破局に導くものだと思います。だからものすごい階級制度が、不公平が、かえって社会を活発にしたり、安定させたりという面もあるのです。 岡田 教育の制度をいじって直接エリートを作るというよりは、階層社会をはっきりさせた上で、その中で風穴としてのエリートシステムを待望するということになるわけですね。 小室 そこから新しい活力が生み出されてくる可能性があると思います。いまの受験戦争からはノブレス・オブリージも責任感も生まれません。合格者は日本中の輿望を担うのではなしに「オレが偉いから合格した」と。いや、合格した途端に生きる目的を失ったりします。
●ツケが回ってきたような気がする小室 今日はみんな熱心に聞いてくれて(笑)。 岡田 もう、当事者ですから(笑)。 小室 岡田さんは、若者のホープだそうで。 岡田 いやあ、もう若くないです(笑)。 小室 今の若者っていうのは本当もう、悩みなんてなまやさしいもんじゃなくて、生きる目的失ってるでしょ。たいがい目なんかどんよりしています。戦争中、明日の生命も知らない若者の目は輝いていました。敗戦の焼け跡に立った若者も元気でした。昭和三十年代には、みんな貧しかったのですが、なにかこう明日によいことが起きそうな気がしていました。その後、豊かになるのに反比例するように希望が消えていったのでした。岡田 自分でもそのあたり変だなあと思う反面、それに関して責任を感じちゃう。どうも八十年代あたりで好きなことやってきたつけが、自分自身に回ってきたような気がする……(笑)。今日の対談で私が出せる答えの限界っていうのは、「じゃあみんな勝手に考えて」ということになってしまった(笑)。 小室 どうも熱心に聞いてくれて(笑)。 岡田 逃げ場がないのによくがんばった、俺(笑)。
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階級(class)とは、経済的指標で人間を分類する。一番古くから使われているのは「金持ち」「貧乏人」という分類法であろう。マルクスは、資本主義の人々を、生産手段を私有する資本家と、それを私有せずに自分の労働力しか売るものを持たない労働者との二階級に分類した。 マルクスの二階級分類法は、あまりにも有名であり、影響力も抜群に大きい。資本家が「金持ち」、労働者が「貧乏人」とも限らないが、マルクスの時代には、概ねそう考えてもよかった。資本主義が作動していくと、貧富の差は大きくなり、資本家は「金持ち」へ、労働者は「貧乏人」へと収束していった。マルクスの産業予備軍説によると、労働者の生活水準は最低生活水準(生活可能ギリギリのレベル)に押し下げられる。 その後経営と資本所有の分離ということも行なわれ、また高給労働者も多く出現し、労働者は必ず「貧乏人」とはいえなくなった。が、マルクスの二階級分類法は、長く影響力を持ち続けていた。いずれにせよ「経済」という指標だけで人間を分類すれば、それは1次元的分類法である。 マクス・ヴェーバーは、人間を分類するための指標として、経済のほか威信(prestige 名誉、尊敬の度合い)を挙げている。「威信」と「経済」と二つの指標で人間を分類すれば、これは二次元分類法である。「威信」が高くても「経済(的豊かさ)」が低い場合、およびその逆もあり得る。徳川時代において、公卿、武士、商人の三者を比べれば、「威信」にかけては、概ね公卿、武士、商人の順であろう。そして「経済」ではこの逆であろう(もちろん例外はある)。 ラスウェルは「経済」「威信」のほかに、人間分類のための指標を多く挙げている。なかでもとくに重視しているのが、「権力(power)」である。「経済」「威信」「権力」と三つの指標で人間を分類すれば、これは三次元分類法である。 このように、いくつかの指標で人間を分類するとき、これを階層(stratification)という。 階級(クラス)は、階層の一種(a special case 特殊場合)である。「階級」のよく知られた例としては、マルクスの階級がある。「いわく世界史は階級闘争の歴史である」。「階層」のよく知られた例としては、インドの「カースト」がある。
たとえば、平安時代、鎌倉時代における身分制(例:門閥)は牢固たるものがあった。 平安時代に、藤原氏が長く高級官僚を、ほとんど壟断したことはよく知られている。鎌倉時代に、完全に実権を握った北条氏も、ついに将軍(征夷大将軍)になれなかった。その理由は、北条氏の家柄が将軍には不足であったからである。鎌倉時代末になると、実権は執権北条氏を去り、氏管領高崎氏(など)に帰した。しかし氏管領が執権になることもなかった。理由はやはり家柄不足である。 ここでクエスチョンをひとつ。 鎌倉時代、日本の主権者は誰でしょうか。 天皇か上皇か。摂政もしくは関白か。将軍(征夷大将軍、右大将)か、執権か、氏管領か。これらの六人のうち誰でしょう。こんなにも多く主権者がいる理由は何か。 鎌倉時代には、身分制度が確乎として不変であったから、ひとたび「身分」ができれば、実権がなくなって不必要となっても廃止できないのである。しかも、その「身分」たるや家柄に密接に結びついていた。馬の骨がしかるべき「身分」になることはできなかった。 この身分制が、信長の出現によってガラリと変わった。 何の取り柄もない秀吉が、以前には五摂家以外の人が絶対になれない関白になった。氏素性もわからない家康が、源氏の嫡嫡でないとなれない征夷大将軍になる。大名のほとんども成り上がり者である(守護大名以上の名門は細井家と島津家くらいか)。
このことを正確に言い表わすと次のようになる。 経済学における英国古典派の祖、アダム・スミスは「市場を自由競争にまかせておけば、最大多数の最大幸福が達成される」と言った。 この「最大多数の最大幸福」であるが、ちょっと聞けば何だかピンとくるような気になるかもしれないが、よく考えるとなんのことかわからなくなる。数学的に言うと、これは二重最適(double optimality)と言って、理論的に不可能なことなのである。表現を正すと、「一定の人の最大幸福」か、「最大多数の一定幸福」か、これらのいずれかしか、あり得ないのである。 アダム・スミスの表現は科学的ではないので、その後経済学者は、科学的表現で言いかえるように努力してきた。その結果、「最大多数の最大幸福」なんていう非科学的表現を用いないで「パレトー最適」(Pareto Optimality)という科学的表現を用いるようになってきた。 ※パレトー最適について
ところでわれわれは「自由競争」という用語を用いてきたが、これは正確には、定義を下さなければならない。この討論においては「自由競争」(free competition)とは、「完全競争」(perfect competition)のことであると定義する。そして「自由競争」が行われる市場を「自由市場」「自由競争市場」あるいは「自由放任(レッセ・フェール)市場」と呼ぶことにする。 英国古典派の教義(ドグマ)は「自由市場が一番よい」。すなわち「市場を自由に作動させておくと、資源の最適配分(optimal allocation of resouces)が実現される」というにある。
本質的にはこうだとは思うのだが、理論上大切なコメントがある。 さて、われわれは経済の「自由市場」から話をはじめたのであった。すでに述べたように、英国古典派の教義からすれば「自由市場がベストである」。その後の科学的研究によっても、この教義は大筋においては成立することがわかった。が、細目における重大な留保条件も発見された。それはすなわち「市場の失敗」(marketfailure)である。すなわち「自由市場がベストである」ことの否定である。つまり「自由市場がベストであるとも限らない」ということである。いわば大原則の例外である。 経済学が進歩してくると「市場の失敗」の例がいくつか発見されてきた。どのような場合に「市場の失敗」が見られるか。たとえば限界生産力逓増、外部経済(outer economy)、公共則の存在……などが重要な意味を持つ場合、「市場の失敗」すなわち「自由競争がベストである」とも言えないことが起きるのである。つまり、自由競争は資源の最適配分に行き着くとも言えないのである。 シュムペーターはまた、左の重要な例外を挙げている。「自由市場(完全競争市場)がベストである」とは、「独占的競争市場はベストでない」ということでもある。 しかし、シュムペーターは論ずる。独占的な巨大企業は膨大な資金と組織を有するから、技術開発による革新のために著しく有利である。この有利さが、自由競争の喪失さをカバーして余りある場合には、「独占的競争が自由競争よりも有利である場合」すなわち「自由市場がベストである」とは言えない(つまり「独占的競争市場はベストでない」とも言えない)場合ではないか。 このように、「市場の失敗」の例としていくつかの場合が発見されてはいる。しかし、経済学がさらに進むと、右の諸例はやはり例外であって「自由市場はベストである」との大原則は、やはり根本的には揺らいでいないと見なすべきであろうとする意見が支配的になってきた。結論をようやくするとこうなる。 大原則としては、やはり「自由市場はベストである」と考えるべきである。区々たる「市場の失敗」の例をもって、規制撤廃反対の理由とすべきではあるまい。 ところで、ここに「ベスト」ということの意味であるが、それは「最適(optimal)」という意味である(最大、最小など)。この意味であるから、大切なコメントが必要となってくる。たとえば、「利潤最大」といっても、その数値がプラスであるとも限らない。利潤を最大にしても、依然としてマイナスということもあり得るのではないか。数学の例で説明すると、二次関数の最大値が、マイナスとなることも十分にあり得る。 最大にした利潤がマイナスであれば、企業は長期に経営を続けていくことはできない。リカードはもっとすごい例を挙げている。自由競争の結果、最適状態になったとはいうものの、その状態たるや、資本家は全員破産し、労働者は全員餓死する状態である。 理論的につきつめると、いくつかのコメントがあるとしても、古典派の教義たる自由放任「自由市場はベストである」は、英米資本主義の信条となった。すなわち、なにか市場に不都合なことが起きると「市場の自由な作動が阻止されているのではないか」と思いつく。頭がひとりでにこう動くのである。 さらに重大な「市場の失敗」の例は、ケインズの場合とマルクスの場合である.ケインズはセイの法則(Say's Law)が成立しない場合には、失業が発生して資源の最適配分は、なされないことを論じた。マルクスは個別資本と全体資本は矛盾して、資本主義はやがてその矛盾のために没落すると論じた。 |