『マジメな話』1998年4月11日版 ン1998.Toshio Okada
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宮台真司 

僕らがバトンを受け取る日


●ミ・ヤ・ダ・イをコントロールする

岡田 『朝生』って、終わったあとに飲み会があるじゃないですか、全員参加の。出演したときに、こういうのもおもしろいかなと思ってつき合ったんですけれど、みんな宮台さんの話をするんですよ。「宮台は今回来なかったねえ」「逃げたんだよ」とか。なぜこの人たちはこんなに宮台さんのことを気にするのかと思いまして、聞き耳を立てていたんですよ。

宮台 僕もそれは興味深いですねえ。

岡田 彼らの話を聞いていますと、今、言論とか社会時評をやっている人、またこれからそういうものを目指す人にとっては、宮台さんはひとつのランドマークなんですね。「この件について彼はどう考えているんだろう」とか「彼がこう言ったら俺はこう言い返すのに」とか。

宮台 わかります。人々の妄想の中で、仮想問答の相方に使われているんだろうなあと(

笑)。それは常々思います。

岡田 それを聞いていると「言論のやつらってこんなに女々しかったのか」と思いますよ(笑)。

宮台 わかりやすく言いますと、メディアに出ている僕は、「ミヤダイ」で、ここにいる僕は、「ミヤダイ」なんですよ。こういう言い方をするとまた怒られるかもしれませんが、「ミヤダイ」について注目されることもけなされることも、はっきり言ってさしたる関心はないんです。

僕自身はかなりクールですから、「ミヤダイ」は「ミヤダイ」のパペットというか、サンダーバードみたいな、操り人形のようなイメージです。そのパペットを操って、人々の怒りをかきたてるような、あるいはコンプレックスをかきたてるような言動や動きをさせてみるわけですね。すると、おもしろいように、怒ってほしいところで怒る、つっこんでほしいところでつっこむ。こっちは、つっこんできたらボロクソに叩いてやろうと待っていて、倍叩くわけですよね。僕にしてみれば、あまりにわかりやすくコントロールできるので、最初はおもしろいと思いましたが、飽きてきましたね。

岡田 でも、引っ張られませんか? 人間って恐ろしいもので、これはメディア向けの言葉だと割り切って言っているつもりでも、二、三日すると自分の言ったことを信じていたりすることってありますよね?

宮台 僕はあんまりありませんね。以前、宮崎緑さんとの対談でも言ったんですが、僕自身のプライベートライフ、つまり「ミヤダイ」の部分と、メディアの「ミヤダイ」の部分の間には、あまりにもつながりがない。たとえば僕と新しくつき合い始めた女の人がいるとします。そうすると、僕のプライベートなふるまい方やものの考え方というのが、「ミヤダイ」から想像される部分とはあまりに違うと、例外なく驚かれるんですね。僕はすごくロジカル、論理的な人間だと思われていますが、それはロゴスの訓練を受けてきていますから、訓練の成果という意味では光栄なことですが、「ミヤダイ」の部分はまったく論理的ではないんですよ。

 僕はよく学生に説明するんですが、ほんとに論理的であろうと思ったら、論理は信じないほうがいい。つまり、論理を完全に道具、レトリック(修辞)として突き放すことによって、ようやく論理、つまり修辞は自由自在に操れるようになる。自分としての自分が持っている非論理的なあれやこれやに巻きこまれないで、クールに、ここでこういう修辞を使おうとか考えることができる。もし僕自身にアドバンテージがあるとすると、僕自身が極めて非論理的、情念的だということ。あるいは僕固有のコンプレックスやルサンチマンが、僕らの同世代の中でもと言いますか、同世代ならではと言いますか、相当にあることです。だって、それよりほかに信じうるものなんてないでしょう。ですから、たとえばディべートの場面で相手が修辞を使ってきても、僕が訓練を受けていることもありますが、相手の論理を見るのではなくて、相手の手が震えているとか、声が突然大きくなったとか、額に汗が浮かんでいるとかというほうを、むしろ見てしまうわけです。今の修辞はこういう理由で使ったんだとか、あせって追いこまれているな、というふうに。

 

●情念的な欠落の表明としての論理

宮台 そうやって相手を見る訓練というのは、一九八〇年代前半、当時日本に入ってきたばかりの自己改造セミナーに二年間ぐらい入っていて、身につけたものなんです。自己改造セミナーのトレーナーは、コミュニケーション手段として、相手の言っていることにリテラルには対応しないで、相手のコンテクスト、声の大きさや体の姿勢などに着目するんですね。それで「梯子をはずしていく」。相手の要求しているものを出していったり、反対にあえて出さないようにしたりして、コントロールしていくわけです。そういう訓練を受けていたせいもありますが、先ほども言った通り、ベースではロジカルなものをあまり信用していない。

 もし病理的にロジカルな人間がいるとすれば、それは明らかに欠落の反映じゃないですか。同じように病理的にコントロール志向の強い権力欲の強い人間がいるとすれば、それもある種の欠落の反映です。僕に関しても同じように見ていただいていい。僕が過剰に論理的に見えるのであれば、それは僕自身の欠落の表明で、その欠落というのは、論理的な欠落ではなく、情念的な欠落なわけです。そういうふうに考えていただければいいだけなんですけどね。

岡田 僕も「物ごとをよく考えていますね」とか「論理的ですね」とか言われると、つらく悲しくなってきます(笑)。変な言い方なんですが、頭のいいやつは物を考えなくて済むというのが、僕の持論なんですよ。つまりエンジン出力が最初から高い人間というのは、考えずに物ごとを進めれば一番いいように流れるんです。だめなやつほど考えなければいけなくなる。靴の紐を結ぶとか、歩くとか、自転車に乗るとかで、いちいち考えているやつはだめですよね。どうも、普通の人たちの考える「頭のいい」というのは、論理的であるとか、言葉がうまく操れて考えていることが説明できる、もしくは相手を言い負かすことができる能力だと、とらえているふしがありますね。

宮台 僕はそういうのを「哲学」と言っています。「哲学」の定義をわかりやすく言うと、普通の人は「歩いて買いものに行く」とか「散歩して風景を見る」とか、歩くことを前提の上でいろいろな体験をするわけだけれども、哲学者というのは「なぜ俺は歩いているのだろう」「なぜ右足を先に出さねばならないのだろう」「なぜ手と足は反対に出さなければならないのだろう」というふうに、歩くことの自明性を疑ってしまうわけです。従って、哲学者というのは、自明性の上に乗っかることができない不器用な人なんです。これは永井均さんの比喩ですが、「普通の人は水に浮かべるのに、哲学をする人は水に浮かべないカナヅチである」と。そういうことで言うと、その不器用な人――不器用にもいろいろな取り方がありますけれども――は、不器用だからということで、ある意味では頭がよくないと言えると思うんですね。

 ただその点について言うと、僕自身は、昔からむしろ考えないで行動してしまうタイプなんですよ。考えないで取った行動が奇矯なものである場合が多くて、ふるまってしまったあとで人に批判されたり、自分でも「なぜ俺はあんなふうにふるまってしまったのだろう」と罪の意識に苦しむということがありました。僕は小さい頃から二十代の半ばくらいまでは、自分の行動を自分であとから合理化するために考えるというふうに、頭を使っていましたね。だからさっきの哲学者の話とは逆で、哲学は自明性が壊れているので事前に考えるのであるとすれば、僕の場合は行動が先行してしまう。ただ行動そのものが非常識だったり、行動を考え直してみると自明性が壊れているので、あとから考えざるをえない。

 

●自我の統一性を放棄した世代

岡田 非常識な行動というのは、あとから考えて正当化なり説明なりはできるんですか?

宮台 うーん、それは微妙ですね。当然、目的は正当化にあるわけじゃないですか。つまり「自分は何者である」ということを納得したいとか、従来の自己イメージとの関係で整合的に説明したいという意味での正当化が動機にはありますよね。「なぜこうやってあとになってから考えるんだろうか」ということについてはずっと自問していましたが、それは自分自身が、今後また予想外のことをやってしまうかもしれないときに備えるという部分も含み持ちつつ、やっぱり「俺は何なんだ」ということをとらえたい欲求というのがありましたよね。で、それは自分探しというよりも、もうちょっと、やむにやまれない感じがありました。とくに僕の場合は、女関係でわけのわからない展開があったりしたので、あとからとにかく自分自身の行動を説明しないと気が済まない、自分自身がどんな闇を抱えているかわからなくて先に進めない、という感じがあったんでしょうね。もちろん、ときには人に対して「自分があのときああしてしまったのは、こういうことだったのかもしれない」というふうにエクスキューズ、言い訳に使うときも実際にはありました。

そういう期間がしばらく続いて、気がついてみると、変な話ですが、「自己分析の達人」になっていましたね。カッコつきの達人ですけども(笑)。自己分析の達人になるプロセスで、じつは他人の行動を分析するということもずいぶんやりました。他人の行動を分析する理由は、自分自身を分析するためなんですよ。わかりやすく言うと、自分自身は空白でよくわからないので、他人の考え方や感じ方をシミュレーションして完全に理解した上で、自分もそうやってみる。そんなこんなで、気がついてみたら体験や行為を言葉で説明する能力が上昇したんだろうという気がしますね。

岡田 そういうことを考えず、おまけに人から奇矯な目で見られずに生きていける人が、一番いいわけですよね。でも、そうやって生きていけない人もいるわけで、その場合は、ある程度ロジカルに自分を再構成するために考えながら生きていくしかないんでしょうか?

宮台 少なくとも僕なんかの場合は、もともと納得ということが、価値のプライオリティにおいて、上のほうにある。自分の行動に納得がいかないと、考えるという癖がありましたね。だけど、納得がいかないという状態に耐えられる人というのも、僕よりも下の世代になるとむしろ増えるわけじゃないですか。今言った納得とかさっき言った正当化のキーになるのは、「一貫性」ですよね。一見奇矯な、予想外のふるまいをしたようだが、本質的には一貫した構造の中から生まれているんだと納得するわけですよね。そういう一貫性、あるいは時間軸にこだわるという志向の強さの現われなんです。 だけど、僕が取材している今の若い子たちや大学生というのは、時間的な志向というのをほとんど失っているわけです。それを「今ここ」に集中すると表現してもいいし、刹那的とも享楽的とも表現していいんですが、むしろもっとプロキシミティの上がった状態、つまり直接性の上がった状態で時空間を体感するようになってきている。だから僕のような生き方を理解してもらうのはますます難しくなっているなあと思いますね。

 と同時に、僕は彼らがうらやましいですね。何でこの人たちは、時間的な思考というのを折りたたんでしまえるんだろうか、放棄できたんだろうか、と。最近はそういう違いが存在することに慣れましたけれど、今から十年ほど前に若い人たちを調べはじめた頃は、彼らがうらやましいと同時に不思議でしたし、自分自身がある種の「欠陥品」のように感じましたね。

岡田 それは、宮台さんがあげられている若者の三つのセグメント「街」「学校」「家」の中でも「街」にいる人の特徴である、という限られたものでなく、若い人全般に言えることなんでしょうか。古い言い方ですが「統一した自我」というものが、今はどんどん薄れてきてしまっているわけですよね。

宮台 そうだと思います。というのも、統一した自我というのを持とうとすると、生きにくいわけです。その生きにくい状況というのが広がっているんだと思います。「自我の一貫性は放棄したほうがいい」というのは、八〇年代にニューアカデミズムの人たちが強調したことですよね。それをシステム理論の言葉で言えば、「環境適応能力の上昇」なんですね。つまり行動の自由が広がって、複雑な状況下でも臨機応変にふるまえるようになるわけです。

 

●「自明性の地平」が崩壊している

宮台 今日たまたま黒沢清監督の『CURE』という映画を見てきました。この作品はじつは酒鬼薔薇聖斗事件の前に撮影されているんですが、事件が起こったためにしばらく公開できなくなったという経緯のようなんですね。内容はいわゆるモンスターものなんですが、人知の及ばぬ怪物が人に催眠術をかけて、信じられないような殺人を犯させる。動機はまったく不明であると。マンガにも同じように、浦沢直樹の『MONSTAR』という作品があって、これはヨハンというドイツ人の少年が絶対悪として描かれています。こちらも人知の及ばぬ悪ですね。ほかにもいくつかの作品例はありますが、まず最初はメディアの中でそういうものが出ていた。そして酒鬼薔薇聖斗事件なんですが、これもある意味、人知の及ばぬ悪というか不透明な悪というふうに感じられるわけですね。こうしたものが九〇年代に入ってメディアの世界でも現実の世界でも噴出している、あるいは上昇しつつあるわけです。

 これを、どう見てもいいけれど、僕自身は「自明性の崩壊」の兆候だと思うんですね。それは、たとえば、「人を殺してなぜいけないのか」あるいは「売春してなぜいけないのか」でも何でもいいんですが、かつては疑わないで前提としてきたような「自明性の地平」が壊れちゃっているんです。

 それで、映画『CURE』なんですが、「CURE」というのは「癒し」という意味なんですけれど、ここで描かれているのは非常におもしろい癒しなんですね。役所広司演じる刑事、彼は自明性の地平の上を生きている市民なんですけれど、彼が人知の及ばぬ犯罪者に、誘惑されて取りこまれていくんです。それは抽象的に言うと「おまえの立っている地面は、地面じゃないぞ。固い地面の上に立っていると思いこもうとしているだけで、じつはほとんどの人間は立っていない、あるいは立っているふりをしているだけだ」ということなんですね。最後には主人公である刑事自身も殺人鬼になっていくんですが、それが単に催眠術をかけられているのか、そうではなく、自明性の地平、あるいは意味の構造そのものを取り替えられてしまったのかはわかりません。でもそれが、刑事にとって、また、観客にとって、癒しになってしまう。それは、わかりやすく言えば「俺も壊れていいんだ」あるいは「壊れている俺は特殊じゃないんだ。みんなも壊れているんだ」、「自分は妻を殺したいと思う。子どもを殺したいと思う。そう思う自分を責めてきたけれども、なんだ、みんな殺したいのか」という「CURE」なんですよね。朝日新聞の批評では「それはあまりにも殺伐としていて、頭が痛くなる」などと書かれていましたが、僕自身もこういう映画を見ると相当癒されてしまったりするわけです。

 ちょっと長くなりましたが、僕が言いたいことはただひとつなんです。かつては、自己一貫性にこだわることを支えていたような、自明性の地平というのがあった。でもそれは壊れているんですよね。そのときに自己一貫性にこだわろうとする人間は、逆に自分が壊れないと、あるいは異常者にならないと、意味の一貫性を保てなくなったりするわけです。つまり自明の地平があったときには、自己一貫性を保とうとすることは、普通に生きることとそう大差はなかった。でもその地平が壊れてきていて、なおかつ自己一貫性を保とうとすると、これがつまり役所広司演じる刑事なわけですが、そうするとストレスが昂じてむしろ壊れていくんですね。そして、向こう側と言いますか、「人知の及ばぬ犯罪者」のほうへ限りなく近づいていくわけです。

 僕は、今の社会で一貫性というものにこだわるのは、単に不適応を起こすとか生きにくいというだけではなくて、もっとこわいことを意味するのではないかという気がするんです。そのこわいことの典型と言うか、象徴だと思ったのが、九五年のオウム真理教なんですよね。それで「終わりなき日常を生きろ」というようなことを書いたんですけれど。昔のやり方で生きるのは、単に生きにくいだけでなく、狂気を意味する。最近の例で言えば、ストーカー殺人なんかが該当しますね。

岡田 凶悪犯罪やオウム真理教のような事件が起きると、その「動機」というものについて、僕らはわりと説明できてしまいます。あるいは、犯罪を犯した当人もすんなりと答えられたりします。今、宮台さんがおっしゃられたことを言い換えれば、犯罪者とかおかしくなっていく人たちは、自分たちがおかしくなる理由も説明できるし、なぜ自分はこんなことをするのかについて、歪んだ論理であれ論理的に説明できる。でも犯罪を犯さない人たちというのは、ただ何となくそうしないだけであって、論理的に説明する必要もない。つまり自分が説明できる人というのは、説明できるがゆえにおかしくならざるをえないというようなことなんでしょうか?

宮台 そういうことは現実にありましてね。酒鬼薔薇聖斗事件に関して、テレビを通じて中学生からファックスを何千通と送ってもらったんです。その中でとくに女の子に多いんですが、基本的にファックスを送ってくるのは女の子が多いんですけれども、わかりやすく言うと「よくやった」なんですよ。「みんな、そういうことができたらなあと、どこかで思っていると思う。ただ勇気がないか、あるいはそのあとがこわくてやっていないだけだ。彼は勇気があってクールだ、すごい」。これは要するにこう言い換えられるんです。「酒鬼薔薇くん、君は一貫している。自分たちは勇気がないだけで、一貫できていないだけなんだ」と。つまり今の岡田さんのお話で言えば、「なぜ酒鬼薔薇くんは殺したんだろう?」じゃなくて、「なぜ自分は殺せないんだろう? そうだ、単に勇気がないだけだ」という、年長世代からは信じられないような、正と邪の逆転、実と虚の逆転が起こっていますよね。そういう状況になっていることは間違いない。

 説明ということで言うと、酒鬼薔薇くんの行動というのは、彼と同世代にとっては、多くの説明を要しないんです。十四歳の子が小学生の首をはねたというだけでわかってしまう、共了解の地平というのがある。その共了解の地平というのは、彼らの世代的自明性なんです。僕たちのものとはだいぶ違う、新しい自明性ですね。僕たちが、あれこれあれこれ酒鬼薔薇くんについて説明すると、その説明は彼と同世代にもだいたい当てはまる。だから、なぜ酒鬼薔薇くんだけが犯罪を犯したのかという説明にはならない。僕はむしろこの事件に関しては、そういう説明をしようと思っているんです。つまり、彼らが「それだったら僕らも同じだよ」と思うような要素ばかりを出して、共通性の部分をあおろうと思っているわけですね。それはなぜかというと、また最初の話に戻りますが、彼らが獲得しつつある新しい自明性というのは、暫定的に正しいからです。つまり、こういう新しい成熟した社会、もしくは変わってしまった社会の中で、あえて一貫しようとすると、酒鬼薔薇くんのようになってしまう可能性もある。外からのいろいろな圧力、親、教員、友だち、理不尽なさまざまな環境の問題がある中で自分を一貫しようとすると、だんだん狂気になっていく。自分の中にバモイドオキ神のような個人神をうちたてて、それと対話することによってようやく自分の一貫性を保つようになっていったりもする。だからそうなっていくというのは、暫定的にはある種の適応なんですね。人が一貫しろと言うなら、そういう方法しかない。暫定的と言ったのはどういうことかというと、彼らは一貫しようとするから、酒鬼薔薇に共感する。……むしろ中学生は、一貫しろといういろいろな圧力にさらされているから、しょうがないとは思うんだけど、その次に行ってほしいと思うんですね。「酒鬼薔薇くんかわいそう、そんなに思いつめなくてもよかったのに」という地平に、多くの中学生や若い子たちに行ってほしいんですよ。「お前は誰なんだ」「僕は誰なんだろう?」と考えるやり方を、はっきり放棄してほしいんですね。現にそういう生き方は、若い子たちの多くが始めていますから。

 

●成熟への道を粛々と歩む

宮台 僕はお正月のラジオ番組で、「九八年のスローガンはサッカー、ダンス、セックスだ」と言ったんです。十代はサッカーをしろ。二十代はダンス、テクノで踊りまくれ。三十代以上はセックスをしまくれ。サッカー、ダンス、セックスというのは、じつは今のヨーロッパ人の生き方なんですね。フランスなんて失業率が日本の四倍くらいになっていますが、そうやって生きているわけです。

岡田 日本より先に飽和しちゃった人たちの社会を見て、という理由があるわけですね。

宮台 あるわけなんです。僕の言っていることは、空理空論というよりも、すでに日が沈んで数百年もたっているような、いわゆる先進社会、成熟社会の多くがたどっている道なんですよ。

フランス語で「アール・ド・ヴィヴル」、人生術という言葉があるんですが、たとえば人生術というのは、ヨーロッパのパーティ・カルチャーを指しているわけですね。これを抽象的に言うと「日常の演劇化」なんですよ。日常というのはつまらないんだ、人はわかり合えないんだという、共通了解があるわけです。普通にしていたら人生はつまらないし、世界は砂をかむような味気なさで満ち溢れている。だから、パーティを開いて得意な料理をふるまう。ワインの好きな人はワインを持ち寄って、うんちくをかたむける。「何をくだらない、意味のないことをやっているんだ」とは、言い合わないんですよ。初めから意味がないんです、はっきり言えば、もう。意味のない現実を生きているんですよ。だけど、そうやって現実をちょっと演劇的に加工することで、俺たちはようやく生きていけるんだよね、といったような優しい共了解があるわけなんですね。

 一方、日本とか韓国のような新興国は、まだ「意味の病」に取りつかれていて、「だから何になるんだよ」というようなことを言ってしまうじゃないですか。たとえば、スケボー少年やダンス少年、彼らはスケボー・バトルやダンス・バトルのために頑張っています。でもそれは有名になりたいでも何でもなくて、本人たちに聞くと「そういう口実があるから、こうやってみんな楽しく集まって頑張れるんですよ。今後に何もつながらなくたって別にいいんです」と言う。でも僕らは「それが何になるんだ」と言ってしまったりする。それはやはり、僕らの世代が、過渡的な近代の作法から抜けだしていないからなんですね。「サッカー、ダンス、セックスしかないじゃん。当たり前じゃん、そんなことは」というのは、むしろ成熟社会の常識。『関口宏のサンデーモーニング』に出たときに「それは享楽、退廃じゃないでしょうか」と関口さんに言われましたけれども(笑)、それは全然違う。むしろ国際常識なんです。

岡田 そこでよく宮台さんは誤解されてしまうんですよね。宮台真司という個人が、そういう社会が好きかどうかではなくて、見る人間が素直に見ればそうなるに決まっていると言っているだけ。自分の好みなんて、ひとっ言も言ってねーよってことですよね。

宮台 さっきも言ったけれども、僕自身は「サッカー、ダンス、セックス」のような方向に全体が動いていくことに、ある時期非常に適応不全を感じてつらいと思ったわけですよ。取材をしていても、とても違和感を感じた。でも他方ではとてもうらやましいとも感じて、あとからついていこうと思って、ある程度、真似ごとのようなことはできるようになった。簡単に言えば、忸怩たる気持ちなく断念することに成功したわけです。ただ断念の記憶はありますし、その意味で言うと、はっきり申し上げて、完全に違和感なく溶けこめるという状態ではありません。これしかないんだろうなあと思いながら「でもなかなか楽しいよね」というような感じでしょうか(笑)。その意味で言うと、今起こっている現象やさまざまな変化というのは、まさに成熟化というひとつの方向、すでに先人たちが道をつけてくれている方向を指し示しているのであって、それを粛々と歩むしかないだろうと。

岡田 その中で、状況をドライブできる、いわば「ハンドルのブレ」というのはどの程度あるんでしょうか?

宮台 それは、「日本の」という意味ですか?

岡田 「日本の」でもいいですし、「僕らが生きている範囲内で」というのでも結構ですが。

宮台 要するに、どういう水準で考えるかによると思うんですよ。社会学では常識的な学説ですけれども、われわれのような時間観念になったのはここ数百年のことなんです。つまり、遠い未来のことを考えて未来のために頑張らなきゃと思ったり、失われた過去についていつまでも思い悩むとか、過去と同じようなものがなくなったことを、嘆き悲しむというような時間観念、「時は過ぎゆく」という観念は、極めて近代的なものなんですね。

 それに対してギリシャの循環する時間、あるいはインディオの共在する時間というものがあります。たとえば、かつて好きだった、愛着のあった人が死んでいくと、近代人の場合は死んだ人はいなくなってしまう。でもインディオ的な時間概念だと、死んでもそこにいるわけです。そういう時間観念は日本にもずっとありましたよ。その名残がお彼岸の観念ですね。一年に一度だけ、死んだ人たちに出会えるという。たとえば失恋の例はわかりやすいんですが、今ですと「自分がこうだったから恋を失ってしまった」と思い、失ってしまった人を取り戻そうとして取り戻せなくていつまでも悩むわけですが、そうではなくて、昔つき合っていた人の楽しい思い出はあると。私自身は「過去は現在する」という言い方をしますが、過去は思い出として、ここに現在するわけですね。思い出はいつでも思い出せる。だから死んだ人もいつでも思い出して、思い出せばそこにいる。こういう感じ方ですね。これがつまり古典的というか、とくにモンゴロイドの人にとっては、長い間伝統的に培ってきた時間観念じゃないですか。僕はそれに近いものに戻りつつあるなあと感じています。それは、目に見えない未来の人たちや社会のために、自分を犠牲にするとかという方向が、どんどん打ち捨てられていって、「今ここ」なんですよね。「今ここ」には、じつは過去も未来も全部入りこんで、すべてが「今ここ」に現在する。だから、スケボー・バトルもその次ということではなく、ダンス・バトルもその次のための手段じゃなくて、いつも数週間先のダンス・バトルのために今延々と踊っていて、やっぱり注意の焦点は、全部「現在」なんですよね。

岡田 「今」の連続というか、「今」だけがいっぱいあるような状態ですね。

宮台 その意味で言うと、僕はとても伝統的な生き方に回帰しつつあるなと思いますね。現象面で見ても、性の低年齢化も伝統回帰だし、あるいは社会の売春化と言われる現象も、日本で言えばこれは伝統回帰ですね。つまり、良妻賢母教育というのは維新政府のでっち上げですから。日本だけでなく、多くの国が成熟社会になると、過渡的に、近代に持っていた歴史の浅い人為的な動機づけ装置をむしろ打ち捨てていって、元に戻るわけですよ。「サッカー、ダンス、セックス」なんてのは、まさにそれじゃないですか。

 だから僕は、今は何か新しいことが起こっているというよりも、過渡的近代、異常な時代が終わりを遂げて、元の姿というか、本来あるべき生き方を、しかしそれを非常に巨大で目に見えにくいインフラストラクチャーで支えながら、回復しつつあるんだ、という時代認識なんですよね。

 

●「お前だけが苦しいんじゃない」

岡田 宮台さんのおっしゃることと言うのは、僕の世代にはすごくよくわかるつもりなんですよ。どちらかと言うと、まずそういうことを自分で言語化しない若い人たちというのは、僕から見るとベールを何枚も通したくらいにしか見えないし、逆にそういうことを言われて怒りだす人というのもいますよね。宮台さん言うところの「オヤジ的」という人たち。そういう人たちのことも、気持ちはわかるけれども、やはりベールの向こうなんですよ。世代的とくくってしまうのは危険かもしれませんが、今の三十代くらいの人たちは、「わかるんだけれども、でも……」というあたりだと思うんです。この「でも」という部分が聞きたい。よく「でも、宮台さんはそれでいいと思っているんですか!?」というときの「でも」は、全部ここにかかってくるわけですよね。

ただ、それでいいかどうかは、ひと言も言っていないわけで、そんなこと言ってもしょうがないわけですよ。僕がいいと言わなければそうならないなら、百回でも言うけれども(笑)。

宮台 おっしゃる通りですよね。ただ、そこは非常に微妙な問題があって、人間というのは食べて、寝て、つまり生活して生きている。僕もそうやって生きているわけですよね。さっきプライベートライフという言い方をしましたが、僕はことここ一、二年間くらいは、むしろプライベートライフについてはしゃべろうと思っているわけです。それは、今まさに岡田さんがおっしゃったように、「じゃあ、お前はそういう社会をどう生きようとしてるんだよ?」という疑問が当然のように出てくるわけです。僕はそれについて答える必要はないと、長い間思っていました。けれども、自分が「世直しモード」に入ってしまったりすることからもわかるように、非常に古くさい部分を持っていて、困っているやつがいると「あのなあ、こうすりゃあいいんだよ」と言いたくなってしまう人間であるとわかってきたんですよね。それはオウム信者を取材しているときにも自覚したし、売春している子たちを取材しているときにも自覚しました。僕は取材する場合に、個人的アドバイスをメチャクチャいっぱいするんです。その部分は今までマスコミには全然出さないできました。

 今の子たちというのは、だいたいこうです。「おまえの言うようになるというのもわかったし、おまえの言う生き方がいいというようなことも、抽象的な意味ではわかった。終わりなき日常を生きる知恵が大事だという気がしてきた。ところで、俺は(私は)、こういう資源しか持っていないのだが、生きられるのか」という問いなわけです。岡田さんと同じように、東大で講師なんかをやっていても、僕のところにはずいぶんそういった身の上相談ばかりが来ました。当初は「うざいなあ」と思っていましたけれども、それに答えるというのは難しくないなという気がしてきたんですよ。やっぱり必要なのは「CURE」なんです。癒しなんですよ。昔、大月隆寛さんが「どっかで誰かがうまいことやってる」という言い方をしていて、つまりそれが八〇年代における人々の感覚の働き方だったんですけれども、下の世代には、もうそういう感覚はほとんど存在しない。悩める下の世代は、それは僕らもそうですが、「俺だけがこんなに生きにくいのか」と思っているんですね。わかりやすい話ですが「お前だけが苦しいんじゃない」というのは、いくらでも言っていけるわけです。

 たとえば年末のドキュメンタリー番組で、僕は若い子たちをたくさん取材しました。そうするとそこから見えてくる、とくにストリート系の子たちの生き方というのは、要するに「まったり革命」以降なんですよね。つまり、今ここを楽しく生きることに、本当にみんな集中している。そのためにギャラリーを集めたりイベントを企画する。そうやって短期的な目標を作って、何とか「現在(いま・ルビ)」を盛り上げようとする。あるいは女の子で言えば、プリクラやたまごっちやポケモンなどのいろんなコミュニケーションツールを使って、盛り上がろうとする。そんな彼ら、とくに男の子たちを取材していて思うんだけれども、大変なんですよ、今ここを楽しく生きようとするのは。本当にコストがたくさんかかる。全身全霊をかけてやっているんですよ。「どっかで誰かがうまいことやってる」なんて言えるような状況じゃない。終わりなき日常を生きる知恵なんて言ったって、どこかで誰かが大きなアドバンテージを持っていて、それゆえに楽をできるなんていうことではもうないぞ、ということですよね。

 今度、僕のいる大学院にすごいナンパ系のやつが入ってくるんですけれども、彼は女が五十人いるんです(笑)。その彼も大変で、それは女を維持するのがというんじゃなくて「何で俺はこんなことをやっているんだ?」と考えてしまう。そこそこは楽しいんですね。女のケアをして、ハーレム状態を維持して楽しい毎日を生きるわけです。でも「そこまでコストをかけて、楽しい毎日を続けなければいけない理由がわからん」というわけ(笑)。

岡田 そんなところへ思い至ってしまったわけですね。

宮台 僕はギリギリだと思うんです。スケボーの子たちもそうですが、何も考えないで能天気に生きているというよりも、非常にギリギリ、だましだましと言ってもいいかもしれないけど、そう僕には見えてしまいますよね。まあそれは過渡期だからそのように見えてしまうのかもしれません。

 さっき自明性の地平が壊れていると言いましたが、やっぱり自明性の地平の亀裂というのはそういうところから見つかるわけですよ。だからじつはそういう子たちが、たとえば「何で人を殺してはいけないんだ」という発言に、むしろ共感を示してしまう。「ああ、その言葉は何かわかるなあ」と。それは昔だったら鶴見済くんが「何で自殺しちゃいけないんだよ」と言っていたことのパラフレーズなんですけれども、自殺の場合には人を殺めないので、意外に気軽に言うことができたんです。でも若い子たちが「何で人を殺してはいけないのか、わからないんです」と言いだすようになったときに、自明性の地平が壊れていくということの問題の深刻さが、同世代にも年長世代にもやっと理解されるようになってきているなあと。だからこの部分について、しばらくは議論しなくちゃいけない。成熟度がもう少し進んで、「日常を演劇化」して生きることの意味について、漠然とした共了解というものができ上がっていくまでは、「何でそこまでして楽しく生きなきゃいけないんだよ」という疑問は、当面の間、出てこざるをえないと思うんですね。

 とくに日本の場合それが深刻になると思うのは、やっぱり宗教的バックボーンがないからです。さっき固い地面と言いましたが、ヨーロッパの場合は神なんですよ。一神教的な神がいつも固い地面を用意してくれる。それが意味の最終的な根拠を与えてくれる。なぜ生きなければいけないのか。それは神が創ってくれたから、あるいはそれは神との契約(洗礼のこと)があるから、ですよね。あるいは、なぜ貞淑でなきゃいけないのか。それも神との契約(結婚のこと)ですね。日本の場合、固い地面に相当するのは、神ではなくて共同体だったんですよ。仲間で、みんなで支え合って生きていた。「みんながいやがるから、やらない」といったことが、固い地面になっていた。

 ところが共同体はもう不可避的に崩壊しつつある、と言うかほとんど崩壊しています。あるいは非常に細分化して、仲間集団はあるけれども、集団同士の間では自明性が壊れている。じつは人が多元的に複数の仲間集団に所属しているとなったときに、もう固い地面はないんですよね。そうすると、日本というのは、「哲学的」と先ほど表現したような問題に、じつは一般人、つまりいわゆる学問的制度的哲学者ではない人たちがむしろ直面しやすい。固い地面ではない、液状化したものの噴出みたいなものに直面しやすい状況にあるんだろうなあと。僕はこの部分についてメッセージを発していくという義務感のようなものを、やはり感じてしまうんですね。

 

●年長者の生きづらい流動社会

岡田 以前、「朝生」で発言したときに、僕は「教科書問題やるのもいいし、西部さんがおっしゃるような国家でも伝統でも、何でもいいんです」と言ったんです。ちょっと変な言い方になるかもしれませんが、根底に嘘があるのは当然であって、その嘘を排除したところから、みんな狂いだしたんですよね。その嘘は「神は存在する」でもいいですし、「日本は美しい」でもいいし、「天皇は万世一系だ」でも何でもいいから、とにかく次々と立てていくしかないだろうと。で、それを一本化しようとする試みに無理があるのであって、それぞれの人たちがそれぞれのできる範囲、「俺の家の中では俺の言うことが絶対だ」くらいのすごい狭い範囲でかまわないから、さっきおっしゃった地面みたいなものをとにかく作るべきなのではないか。ただ、その地面というのは、共同体単位でしか持てない、いわゆるマンションの各フロアに床だけがあるような状態なんだと思うんですね。つまり厳密に言うと、地面はない。みんなは危ないのでひとつの床だけに足を置かずに、いくつもの床に置くようにするしか、防衛策はないだろうと。ですから、その方法で太平洋戦争をやるでもいいし、西部さんが美しい国家伝統をやってもいいし、とにかくみんなで乱戦状態に持っていくしかないんじゃないかと言ったんですよ。

宮台 僕も『新世紀のリアル』という対談集で同じようなことを言ったし、『まぼろしの郊外』でも書きました。人は幻想あるいは物語がないと生きられないと、一般的には言われるんですが、幻想がなくても、ミニマルな生の充実だけでも生きられる人はいるんです。ところが、近代の「意味の病」を通過して以降の人は、先ほどの一貫性に相当するようなものかもしれませんが、どうしても物語を必要と「しがち」なんですね。だから僕がよく言うのは、物語を追いかけること自体がいけないわけではない。ただ物語の中には、別の物語を生きている人を脅かす可能性の存在するものがある。必ず「共生」という概念と対(つい・ルビ)で語られなければならない。

従軍慰安婦の問題をやっているジジイたちがダメなのは、その共生という思想が欠けているんです。西部さんは単純に知識がない、私に言わせるとバカ爺さんなんですね。たとえば以前『ザ・異議あり』という番組で西部さんが退席されたときに、西部さんが退席されなかったら私が言おうと思ったことは、たとえば私は「専業主婦廃止、家族の廃止」ていうことを言っています。そうすると西部さんがそこで、「いやそれは良き伝統なんだ」と言いだすわけです。そんなこと言うから僕が勝っちゃうんですよ。専業主婦も良き家族も、伝統どころかせいぜい三十年の歴史しかない。最古のイギリスでさえ三百年の伝統はない。フランスでも、フランス革命以降の二百数十年ぐらいの伝統しか存在しないし、母性愛なんかに至っては百年の歴史も存在しない。日本に至っては、政策的なでっちあげと言ってもいいようなものなので、伝統なんてことを持ちだしてきたら、青少年のセックスや大人同士の売買春を許容する、僕が勝っちゃうに決まっているんですよ。

 僕が、売春もいいじゃないか、低年齢の性もいいじゃないかって言ってるのは、「伝統に帰れ」っていうことですよ。もし西部さんが僕を論破したいと思うんだったら、「宮台は若造のクセして伝統、伝統と言っておるが、人間はそれが伝統であろうがなかろうが、物語を生きる権利がある。それが伝統でないからと言って、お前らごときに家族の夢を壊される筋合いはないんだ」というふうに反論しないと。

岡田 「論争」である限り、僕は西部さんに勝ち目はないと思っています。西部さんが明らかにメリットがあるのは、非論理的な言葉を平気で言えるところと、年齢と、あの顔が持つ愛嬌みたいなものですよね。となると泣きながら「そうなるとワシの小さい頃好きだった日本はどうなるんじゃ」って泣くしか勝つ方法ないですよね。

宮台 そうであれば次のステージに行けるわけです。「ですから私は共生ということを言っている」と。さらに次のような話もできた。それは『新世紀のリアル』でも話しましたが、年齢が上であればあるほどハード・ドラッグをやってもOKというシステムにしていくべきだということなんです。成熟社会、つまり固い地面のない流動社会では、年長者ほどきついんですよ。かつての思い出を、現実のものとして生きていくことができないんですね。

 これは弱者救済ってことなんですけども、僕は本気で主張しています。若いやつはクスリやっちゃだめ。二十代になったら、あるいはハイティーンになったらマリファナぐらいはいいだろう、というところから始めて、セロトニン系のドラッグを許容していき、僕ぐらいの年齢になったら、覚醒剤は副作用がありますから、覚醒剤と同等の機能のある副作用の少ないドーパミンブロック系のクスリもOK。さらに五十代以上になったらヘロイン、アヘン系もOK(笑)っていうふうにやっていいと思いますね。

 

●共生へと至るエゴイズム

岡田 言論の人たちっていうのは、すぐに一般性や客観的な事実に頼ろうとしちゃいますよね。西部さんだったら、まず伝統というのがあって、それで引っぱろうとする。でも、その伝統を好きなだけで、この「好き」というのが前面に出せないですよね。「俺が好きな伝統」じゃなく、「伝統だからこれが正しいんだ」というふうに引っぱってきちゃう。じゃ本質的な伝統とは何かという話になると、もう勝ち目なんて絶対にないですよね。

宮台 うん。だから「ワシの夢を壊さんでくれよ」というのが、最もまっとうで正当性のある言い方なんですよ。「ワシはこの夢がなくちゃ生きていけねぇんだ」と。だからこそ老人はドラッグOKなんですけどね。

岡田 テレビを見た人に「宮台っていう人、ひどいわね。あのおじいさん、泣いてるじゃない」と思わせれば、西部さんの勝ちなんですよ。それが西部さんの好きな伝統を守る方法だから。つまり「おじいちゃんを大切にしよう」という(笑)。

宮台 「ワシの夢を壊さんでくれよ。宮台の言うように単なる思い出にすがっているだけかもしれない。でもそれは私にとっては大切なものだ。その思い出を抱えて生きる道も許されていいはずだ」と。そういうふうに言ってくれればいいんです。ただ、思い出を押しつけられるのは拒絶しますけど。岡田 オウムや酒鬼薔薇事件などが起こって、社会的リスクとしてそれを許容しなければいけない私たちの、最低限持てる唯一のルールって、それくらいですからね。

宮台 人間は環境の動物ですから、僕があえて言うまでもなく、共生ということはこれからますます重要になっていかざるをえないんですよ。たとえば地球環境問題ひとつとってみても、なぜアメリカがあれほど鈍感でヨーロッパがあれほど敏感なのか。ヨーロッパの連中は国境が接していて、川あるいは雨を通じて酸性雨なり汚れた水なりが絶えず隣国に流れこんでいく。それが戦争の原因になる可能性があるんです。

岡田 千年前に、世界は有限だって気づいちゃった人たちは強いですね。

宮台 そうなんですよ、強いんです。自分たちが生き残るために、環境のことを気にせざるをえないんですよ。つまりただの空念仏ではなくて、大事にしないと隣国に攻め入られる可能性があると、そういうことですよね。アメリカはカナダとしか国境が接していないし、偏西風が吹いているのでカナダのことはあまり考えなくていいんですよね。

 人間っていうのはエゴイスティックな動物で、そのこと自体は少しも悪いことだとは思わない。エゴイスティックな動物であるが故に生き残ろうという動機があって、生き残ろうと思うから共生が必要だという帰結が出てくる。これは成熟社会としてのヨーロッパの展開ですが、これと同じようなことが地球全体規模で近い将来必ず起こります。最低限の自分たちのエゴを満たすためにも、共生ってことを考えざるをえないだろうとなっていくんですよ。だから西部さんのような人は、私に言わせると能天気です。ちょうど今の日本の政治状況と同じですけど、まだ共生の可能性について、それほど強く考えることを迫られないで済むような、思い出にすがるためにすら、周到な方法が必要だということに気づかずに済むような、楽天的な状況にあるからだと思います。

 

●「オタクは飽きた」

岡田 自分の話になりますが、お正月に載った朝日新聞の記事で、取材した記者が「岡田さんが『オタクは飽きた』と言ったのをタイトルにしますけどいいですか?」と電話してきましてね。どうしようかなあと思ったんですよ。ここでこう言ってしまうと何だか裏切り者だよなあという気がしたんですけれど、でもやはり、今の自分の感覚に正直にありたいという難儀な思いが出てきてしまいまして(笑)。去年の後半まではそんなでもなかったんですよ。そんな退屈でもなかったし。自分の考えや社会の状況を説明したりとか、誰かがものを考えて組み立てていくときに、僕の考えていることがブロックのひとつみたいにして使えたら、そんな実用的なのは役に立っていいなあと思っていたんです。でも年が押し迫るに従って、非常に無意味に感じてしまった。

宮台 僕は、岡田さんの選択は、社会学の立場から見てきわめて妥当だと思います。それを理論づけることができると思いますね。というのは、岡田さんは僕と同世代で、原新人類イコール原オタクの元祖世代に相当します。僕もそうだし、中森(明夫)さんも、大塚英志もそうです。この原オタクの特徴というのは、上昇志向にあったと思うんですよ。それは、宗教の例で言いますと、現実社会の中で、企業共同体で出世していくというステップアップの道であるとか、あるいは政治家として成功していくという道があるとすると、それはできないと、いろいろな意味であきらめた人たちが、宗教というステージでステップアップしていく。これを社会学では地位代替機能というんですが、近代社会における宗教への参入動機においては、オルタナティブな上昇を求めるというのがありますね。

 初期のオタクというのは、明らかにうんちく、知識を競っていて、僕は十年くらい前にそれを「オタクの階級闘争」と書きました。やはり宗教のステージを競うのとよく似たような、つまり現実社会での階級闘争のオルタナティブ、別の領域ではあるけれども働いている力学はあまり変わらないというのがあったと思いますね。代替的自己実現というか、もうひとつのマッチョ主義とも言うべきものですね。

 ところがこの二年くらい、コミケットなどに行ってみてつくづく思うのは、それこそ米沢義博さんがおっしゃっているような「みんな幸せになろうよ」というスローガン通りになっている。つまり、うんちく競争なんてものは本当にすたれてしまって、『ときメモ』なら『ときメモ』という話題で、一時間自分をさらけださないまま、なかなか楽しくて幸せなコミュニケーションの時間と空間を維持することができる。ちょうど、プリクラで数十分間盛り上がれるというのと同じです。かつてのオタクに、現実社会の男文化と同じようなコントロール志向というのがあったとすると、今はコミュニケーション志向に一元化してきた。「みんなで一緒に楽しもうよ」というやつですね。コスプレもそう。個別のゲームについてもアニメについての話題も、みんなで楽しく盛り上がるためのもの。そこにうんちく競争をやりに来るやつがいると、「何か変わってるよね」みたいな感じになる。

 こういう状況を背景にして言うと、やっぱり原オタクが出てからの約十年間は、一方には現実社会の階級闘争があり、もう一方にオタクの世界での階級闘争があった。でもオタクのほうは、あくまでもオルタナティブだとしか見られなくて、差別もされた。でもその差別に対する反発もあって、失地回復というか「いや、もうひとつの現実と言ったってそこに差はない。むしろこれからはこっちが主流だ」という自意識の持ち方を、必要としていた人たちがいたと思うんですね。でも、僕の目から見るとそれは、時代がたてばたつほどオタクの世代交代の中ですたれていきつつあった。「オタクだってすごいんだ」とか「オタクだって国際的だ」という言説を必要とする若い子はほとんど存在しない。現に今は、オタクとオタクでない子たちの見分けなんてつかない。みんな、今ここにある状況を楽しもうとしているだけですね。そのときに何をネタとして使うか、の選択が違うだけになった。こうなったときに「ことさらにオタクの推奨をするのは飽きました」というのは、非常に理にかなった選択だと僕は思いましたね。

岡田 僕は「必要十分」と言っているんですけど、社会的地位が必要十分に上がって、これ以上上げようとすると、さっき例に出した西部さんのようなことになってしまう。もうこの先は「でも俺はアニメが好きなんだー!」としか言えなくなる。でも僕はそこまで素をさらせるほど強くはないので、じゃあこのへんで手を引こうかというふうに考えたんですけれど。

宮台 現に公認されちゃいましたからね。そういう意味ではもう次のステージが始まっていて、岡田さん的な引き際というのは僕も参考になります。役目というのはいずれ終わりますからね。うまく見極めて次のステージに適応していくというのは、すごく重要なことだと思いますね。

岡田 それで、「オタクが終わったら次は何をするんですか?」と聞かれるわけですが、今度僕がやろうとしているのは、今自分が好きなことしか考えないということなんです(笑)。今日、宮台さんからお話を聞くまでは、何で自分がそんなことを思うのか、まったくわからなかったんです。去年まではかろうじて残っていた使命感や世直し的な願望が、今年になったら急にすっからかんと抜けて、自分の好きなことしかやりたくなくなっているのは何でだろうと思っていました。

宮台 僕はあの記事を読んで、ちょっとうらやましかったです。僕自身「世直しモードは十二月何日でやめます」と周りに宣言していたんですよ。でも結局宣言通りにはいかなかった。

 なぜいかなかったのかというと、昨日もさきがけの代表である堂本暁子さんとお会いして、四時間ほどお話ししたんです。じつは今、さきがけは与党三党合同で「東京都買春規定」と同等のものの国法化、法律化をしようと考えているらしいので、具体的な法案の中身を細かく検討し尽くして、勘違いの部分は勘違いだということを申し上げてきた。たとえばテレクラだったら、テレクラ規制条例を作って単に住宅地とかコンピュータの回線の中に追いやってしまうのでは全然だめで、むしろフロントを残して透明性を上げたほうがいいんだといった具合に、たとえばここをこういじればこうなる……というようなことを申しあげますと、堂本さんは「えー!? そんなこと誰も言ってくれなかった」と言うんですよ。あーあと思ってね。こういうことを堂本さんが言うから、これから以降は僕が堂本さんに情報を与えなければいけない役目になりますよね(笑)。僕はどうしてもそういう役目を引き受けてしまうんですよ。

岡田 今年から世直しモードをやめようというよりは、去年までは言論のほうで何とかいけるかと思っていじっていたら、どうもこれは動かないので、システムのほうで何とか動かせないかと。操縦席を替えてみたということではないですか?

宮台 政治や行政の人に会うというのは、そういうことですね。でも本当だったら、それはやりたくないことなんです。つまり、僕についてきている読者の一部は、僕自身がサブカルチャーの中で、ものを体験し知識を積み重ね感受性を培ってきて、その領域でものを書くようになったという経緯を知っているので、彼らに対しては一部裏切りになるかなあという気がするんです。なぜかというと政治や行政というのは、サブカルチャーが全般的に「今ここを楽しくやろう」という方向の中で、やっぱり何かを支配したりコントロールしたりする世界ですから。たとえ世の中を「今ここを楽しく過ごせる世界」にするためのコントロールではあっても、でも、やはりコントロール、権力、嫉妬の世界なわけです。そういうのに関わっていくというのは、はっきり言ってすごくいやですよね。でも、しばらくはしょうがないと思っています。

 これは今度出る江川達也さんの『BE FREE!』文庫版の四巻の解説で書いたんですけれども、江川さんのマンガのいいところというのは、「全能者に対する指向」というのが必ず出てくるんですよね。けれど、その全能者、たとえば虎子光に対する笹錦のようなもので、全能者に対抗する無頼が出てくるんだけれども、その無頼自らが全能者になっていくという逆転が『BE FREE!』では描かれるんですね。似たようなモチーフは『東京大学物語』でも繰り返し出てきますけれども、つまり管理反対とか押し付け反対、あるいは誰かに支配されたり、誰かを支配したりするのはやめようというふうに言っていく。その言説の効力、あるいは政治的なコミュニケーションの効力を最も上昇させようとすると、やっぱり自分たちが拒絶しようとしている支配の世界に接近していかざるをえない部分があるんですよね。はっきり言うと、それは痛みですよね。でも誰かがやらないと……。

岡田 順番というふうにあきらめるしかないんじゃないですか。

宮台 うーん。そうですねえ、順番でいいんですけれども……。

岡田 ほとんどバトンのようなものですよね。

宮台 誰かがやらなくちゃいけないということは、納得いくんだけれども、なぜ僕が、僕がですよ、やらなくてはいけないのかということには、いまだにどうしても納得ができないですよねえ。

岡田 僕、去年『朝生』に出させていただいて、番組の最中に不思議に思ったんですが、雑誌なども含めて、なぜマスメディアの人たちが政治の実権を握らないんだろうと。第四の権力とか言っている場合ではなくて、すでに第一の権力になっていると言ってもかまわないんです。「自分たちがもう第一党です。政策を立案しますからこれに従ってやってください」と言ってもまったくかまわないのに何でやらないんだろうって。

宮台 おっしゃる通りですねえ。

岡田 そう言ったら「それをやるのはマスコミの責任ではない。マスコミがそれをやると相互監視する人間がいなくなる」と言うんですよ。で、僕は「相互監視なんて電子ネットワークがすでにできていますから、マスコミは今や監視下にあるんですよ。だから安心して権力者の側に回ってください。誰かが権力者の側に回らなければならないのに、何を尻ごみしているんですか。それでも男ですか」と言おうとしたら、そこでCMに入ってしまって(笑)。

宮台 それは大変重要な意見でね。文部省の課長で改革派の筆頭である寺脇研さんという方は、単位制あるいはクラスをなくすという方向を強力に推し進めていまして、広島の教育長時代、広島の高校からクラスをなくしてしまえということを現にやってきた人です。ただ彼は法学部出身で教育のスペシャリストではないので、何をしたらどうなるというシミュレーションがちゃんとはできない。だから間違ったこともずいぶんやってしまっているんですね。

 たとえば九一年の業者テスト批判で、内申書評価、観点別評価と言いますが、主体性、協調性、積極性などを点数化して高校に報告するというものが、導入された。そうすると「学級委員をやりたい人」と言うと、全員が手をあげるというバカげた状況になる。またボランティア活動も点数評価するようになると、中学校のときはこぞってボランティア活動をするけれども、高校に入ったとたん本当に誰一人やらなくなる。そんな状況も現実に生まれているんですね。つまり意図はいいんです。明らかに教育を正したいという善意でやっているんだけど、情報がないんですよ。それは、さきがけの堂本さんも同じです。彼女も非常にリベラルで、いい社会にしたいと思っているんだけど、情報がない。さきほど例にあげたテレクラ規制も、何をどうしたらどうなるというシミュレーションをしてくれる人が周りに誰一人いない。つまり情報がないんです。

 僕はこれは特徴的なことだと思うんですが、経済が国の課題であったとき、しかも成長経済だったときには比較的政策と結果の因果関係が透明だったけれども、これからはますますコミュニケーションが重要になっていくんですよ。たとえば今の時代に文化、教育、あるいは性の領域などで、何をしたらどうなるというシミュレーションは、じつは従来の学問の全体をもってしても極めて困難なんですね。そのときに、政治や行政に関わっている官僚や政治家に、マスコミの連中や文化人と言われる文化的な領域でコミュニケーションしている連中が、情報伝達できないというのは、ものすごく大きな損失、とても危険なことなんですよね。善意でやられて、意図せぬ結果が生まれるというのは、これからものすごく頻繁に出てくると思うんです。だからその善意を支える情報こそが必要なんです。

 

●正義漢集団、マスコミの仁義

岡田 日本にしてもどこの国にしても、まだ、国民あるいは有権者の意見を束ねて、そこから代表者を選んで、代表者たちに利益調整してほしいというのはあると思います。ただ、今の選挙で選ばれるシステムではそうはなっていないだろう。では、今、一番民意を聞いた上で判定し意見を出しているのは誰かと言うと、僕らみたいなテレビに出ている文化人ですよね。

宮台 そうですね。まったくおっしゃる通りです。

岡田 つまり僕たちは自分たちのファンという有権者の投票で選ばれていて、テレビという国会に出てきている。マスメディアが第一党になればいいと思ったもうひとつの理由は、引いて見た視点から言うと、唯一まだ正義感みたいなのが残っているのって、マスメディアしかないんじゃないかと思うわけです。

宮台 うーん……それは一部条件つきですが、そうかもしれない。なるほどね。

岡田 それがいいことか悪いことかは置いておいて、この世の中をある程度純粋にとらえて、何とかよくしようと考える人があれだけ大量にいるのは、マスメディアの世界しかないんじゃないか。マスメディアの人たちというのは、常に見ている人たちがおもしろいと思わなければいけないし、見ている人たちに支えられなければという、いわば有権者意識というのを強く持っている。ではこの人たちが与党になればいいんじゃないかと。

 先日『UNO!』の花田編集長と、安原顕さんとの座談会に出たときに「なぜそれをやらないんですか?」と言ったら、二人ともすごくいやがるんですね。つまり「自分たちは批判する立場であって、それが前に出たり上に上がったりするわけにはいかない」と言うんですよ。「その『いかない』というのはなぜですか?」って聞いても、そこから先はもう、ロジックでは答えようがない。

宮台 まあそれは、昔の社会党的な立場にいたいということの表現だと思います。というのは、自由に発言できるのは批判勢力だからなんであって、ということはあると思います。それは僕自身が行政のだんだん上のほうとコミュニケーションが取れるようになってくればくるほど、やはり僕の自由度は、放っておけばどうしても下がる。

 僕がさっき、自分のプライベートな情報、人の顰蹙を買うような情報もあえて出していこうと思ったのは、そういう危機感があるからでもあります。ですので、政治システムが、マスコミ、あるいは文化活動に関わっているような人たちの情報を必要としているということは、紛うことのない事実なんですけれども、その情報をどう伝達していくかについては慎重に考えたほうがいいと思います。というのは、今マスコミで真剣に正義漢としてふるまっている人たちも、実際に政治の権力の中に巻きこまれていったときに、どうふるまえるのかということなんです。たとえば、栗本慎一郎をはじめとして、社民党の保坂展人さんや辻本清美さんにいたるまで、文化的な領域から政治の領域に入った人というのは、ほとんど何もできないわけです。それは単純に、その文化人が選挙で当選して、自民党なら自民党に入ろうというようなことを考えてしまうからなんでね。

岡田 それまでは国民の声を作れるいわばメーカー側にいたのに、政党に入るとか議員になることで、国民の声を使って政治をする、いわば「下請け業者」のほうに行ってしまったという自覚が、本人たちにはありませんよね。自分たちが格落ちしたっていうのがわかっていませんね。

宮台 でも、堂本さんと話していても思ったのは、政治家側も文化的領域で仕事をしているような人たち、つまり僕のような人間にもっと情報開示を求めてほしいんですよ。政治家が驚くような重要な情報を持っている人は、文化領域にたくさんいることがわかるわけですから。だから政治家は、マスコミに記事が出る、論文が出る、あるいはテレビに出演しコメントしているような人間に少しでも関心があったら、秘書を通じてコンタクトを取って、あのコメントについてもっと詳しい話を聞かせてくれということをやってほしい。そう堂本さんにも申し上げたんですよ。

 これはすごく重要なことで、政治家に会うことは難しいとみなさん思われていますけれども、マスコミに出ている人がちょっとしたツテをたどって、何かの法案を立案している人に「ちょっと待ってくれ。重要な情報を知っているので、時間を取ってほしい」と言えば、必ず会ってくれます。本当はそういうことを、いわゆる文化人と言われる人はやってほしいですね。それは、決して表には出ない活動ですが、でも、マスコミ活動をしている人のかなりの部分は正義漢なわけで、つまり恒常的な「世直しモード」なんですね。だったらむしろ、そういうことをやっていただいたほうが、目的に照らし合わせると、最も近道だと思いますけれどもねえ。

岡田 でも花田さんや安原さんがあんなにいやがるのを見ていると、あの世代の人たちには無理なのかなあなんて、ついつい思ってしまいますけれども。

宮台 まあ、ああいう方たちは、自分の同僚で政治の世界に入った人がいっぱいいるんだと思うんですよ。そうするとある意味で、汚れるわけですよね。汚れたぶん、何かができるかと言えば、日本の政治システムというのは、長い間そういうふうにはなっていなかったですよね。永田町の文化に適応するだけで終わる、ということになりかねないというか、そうなるしかなかったんですよね。

 

●終わりなき日常を生きる知恵

岡田 僕、ある程度テレビには出てやろうと思ってるんですよ。それは、今は神話の時代に入ってきたのではないかと感じたからなんです。あの論理的なローマ市民たちが、何でギリシャ神話なんか信じていたのかというと、それは人間にとって必要なことだからではないかと思うんです。つまり、上のほうでキャラクターたちが喧嘩していて、それを下にいる人間たちが噂するみたいな機構ですね。テレビがない時代は神話とか聖書とかを読むというのでよかったんでしょうけれども、今は自分の考えと似たようなものを持っている何人かの人間が、自分の感情やキャラクターをむきだしにして喧嘩したりくっついたりしているのを見ている。そういう時代を生きているんではないのかなあと。だから僕は、西部さんには泣いてほしかったと言ったんですよね。

宮台 なるほど、それはよくわかりますねえ。社会学ではそれを「コスモロジー」と言うんです。わかりやすく言えば、ノモスに対してコスモスなんですけれども、ノモスというのは日常秩序のことですが、人間は日常秩序だけで生きられなくて、その日常秩序を評価するための、ものさしを必要とするんです。それは、時代によって、たとえば宗教が提供する時代があったり、イデオロギーが提供する時代があったりするわけですね。中間は飛ばしますが、たとえば冷戦体制下のような時代であれば、保守と革新というのが重要なコスモロジーになっていて、誰が保守的なのか、誰が革新なのか、誰が一番進歩的なのかという軸で、人の政治行動や文化活動を評価できたじゃないですか。こういう時期もある程度続きました。その後、冷戦体制が壊れてしまうと、保守と革新というような政治的な対立軸がコスモロジーにならない。つまり自分たちの組合活動や投票行動を評価する軸を与えてくれなくなるわけですね。

じゃあその後は何がコスモロジーたりうるのかというと、岡田さんがおっしゃったようなことだと思うんです。たとえばいわゆる文化人と言われる人たちが、まあ半分ピエロ、半分茶番かもしれませんけれども、対立劇をマスコミ上で演じている。あるいは直接対立していなくてもいいんです。ここではこう言っているやつがいる、あそこにはああ言っているやつがいるというように、意味的なマッピングが一部の人々の中にそこそこ共有されていって、インターネットみたいなところで、俺はこいつに賛成、俺はこいつに反対と言い合っていくというのがあると思うんですね。インターネット上で何かをしゃべるというのは、大半のメッセージは内容的にはゴミですから何の社会的影響もありませんけれども、そこで俺はこいつに投票、おれはあいつに投票と言えるということ自体が、コスモロジーを参照してノモス、つまり日常秩序を生きているということを意味する。これは「終わりなき日常を生きる知恵」のひとつなんですよ。文化人たちの活動を参照しながら、絶えず床屋政談的なイチャモン、まあ大半はゴミですが、お互いそういうものをぶつけ合いながら「俺はこうやって生きるぜ」って自己確認していく。これからはそれが大変重要な機能になりつつあるので、「文化人になりたい」という人間が踏まえるべきことは、文化人になるということはたぶんそういうコスモロジーに参加して、「マナイタの上のコイ」になって、あれこれイチャモンつけてもらうことなんだと。そうことは知っておいたほうがいいでしょうね。

岡田 僕らの中には「人間はいざとなったら自分で繕いものして服とか作って、めしも作って山の中で一人で生きていけるんだ。それが本来の人間だ」といった幻想がある。でも実際はそうじゃないですよね。それと同じで、今の社会の中でたった一人で感情を持つことは不可能ですね。

 つまりテレビで恋愛劇を見ることで恋愛の仕方を学び、主人公のリアクションを見ることで、自分の感情の動かし方のバランスを見る。「あ、これには共感できる」というように、僕がさっき言った神話的なものへ委託して、自分の自我をそれとの関係で構築していく。つまり一対一の神との契約のようなもので、社会的なメディアとの一対一の契約でようやくみんなバランスが保てる。文化人も、そういう状況の中におかれているのではないかと。

宮台 たとえば恋愛、ロマンチックラブというのもそもそもそういうものでしたよね。十九世紀にフロベールという人が『ボヴァリー夫人』という小説を書きましたけれども、ロマンチックラブというのは、最初は上流階級の人のものだったんです。のちに小説が庶民に広まってからは庶民が読んで「これが恋愛なのね」と考えて、それを自分でやろうと思うことから、現実のロマンチックラブが始まった。日本でも北村透谷が明治二十年代に恋愛を輸入して、それを読んだ文学青年、文学少女が「これが恋愛か」と思って、恋愛をするようになる。これは近代社会においては、まったく通常的なことですよね。

 とりわけ今の時代は、恋愛のコミュニケーションや友だちづき合いのようなものは、やはりモデルが必要なんですよ。モデルとのかね合いで、それをモノサシにして自分自身のハンドリングをしていくということは、むしろ普通なんですね。つまりそれだけ複雑性の高い社会システムなので、とりあえずモデルを必要としている。モデルとは踏み台ということです。「これはいやだよね」とか「これはありえないよね」などと言うことも含めて、極めて重要なコミュニケーションなんです。そういう意味で言うと、いわゆる文化人、あるいはテレビでドラマやさまざまな番組を作るというのは、それがネガティヴな評価の対象になることも含めて、これからますます重要にならざるをえないと思いますね。

 

●神様になるのは意外と簡単だ

岡田 そこで、僕は四年くらい前に、ここは一発、神様になってみるのもおもしろいかなと思いまして(笑)。僕が考えていたのは、政治をやっている方に話をするとかいうのではなくて、裏技を使って最大限効率のいいことは何かということだったんですよね。

宮台 そうですか……神様になってみるのもおもしろいか、と思われましたか。僕はそういうふうに思ったことがないんですよ。

 岡田さんのような方は、僕らの世代でもむしろ珍しいかもしれませんよ。つまり僕らは、上野千鶴子さんの世代から「私生活主義世代」と言われ、実際にもそれが浸透していますよね。面倒くさがりだし、自分が楽しいことをやっていたいと思う。ところが人に影響を与えるとか、ボスになるとか、仕切るとかというのは、面倒くさいじゃないですか。人を支配するとか神様になるというそのこと自体が、よほど享受に値することだと思っていない限りは、大変コストばかりがかかるわけです。

岡田 なるほど、そうですか。僕はそれを自分の生得の権利だと思っているので、神様になれないのはけしからんと、思うんですよ。そう考えるから、飽きるという感覚もあるんでしょうね。

宮台 でも、神様になるというのは意外と簡単なことだったと思いませんか? こういうことを言うと、また反発を受けるかもしれないけれど、いわゆる文化人、マスコミの矢面に立った人間が、何で立ってしまったのかと考えてみると、非常にシンプルなメカニズムになっているんだなという気がしますよね。

 つまりボーティング(投票行動)ですから、動員すればいいんですよ。動員に成功した人間が勝つ。かつての政治活動とほとんど同じメカニズムが働いているわけですね。かつてのボーティングと違うのは――まあこれはもう「かつて」と言ったほうがいいかもしれませんが――『朝まで生テレビ』のような場所が存在して、それをギャラリーが見てコスモロジーを頭の中に構成できるような形になっているということでしょうか……。動員のノウハウも、かなりその人の志向別にパターン化できるようなものじゃないかなあと思っているんですね。たとえば、『朝生』のような場所に出た場合、どういうふうにすれば目立つことができるのかというのは、完全にマニュアル化できる。これはその人が持っているリソースによって、使える手段は変わってきますけれどもね。

 先ほど飽きるというお話をされていましたけれども、僕は何かを支配するとか目立つことというのは、じつはあんまり享受に値しないなという気がしました。その意味は、昨今の若い人たちのセックスが薄いのと一緒です。性に関するタブーや困難が激烈であればあるほど、困難によって盛り上がることもあれば、タブー破りで盛り上がる快感もある。でも、ほかに楽しいことがいっぱいあるとなると、快楽の手段もいろいろあって相対化されていく。それとほぼ同じで、実際に政治家になることも、マスコミで有名になることも、一定の資源があればさほど難しいことではないし、これは先ほども言ったように、享受に値しないことだと思うんです。

 昨今の政治状況において、投票率の低下を嘆く声がありますけれども、僕は違うと思っています。投票率の低下や無投票層の増大というのは、これがひとつのボーティングなわけで、無投票層が増大すればするほど、政治家にとっては政治家であることのうまみというのは低下していくわけです。つまり自尊心が満たされない。「政治家、誰やそれ?」と言われたら、政治家になる動機要因というのが低下していく。じつは、これが日本の政治システムの組み替えには、一番重要なことだと思うんです。つまり、政策理念みたいなものが一切なくても、みんなが「先生、先生」とあがめてくれるから、永田町共同体に入りたいと思うという状況は、むしろ無投票層というのがもっともっと増大して、政治家になることを誰もほめないというふうにならないと、変わらないだろうなという気がしますね。政治家は支配できますが、「だから何なの?」といった感受性が育つのはいいことです。学者志望者にも、何を学びたいというのではなくて、単に学者になりたいとかいうのがいるんですよ。そういう抽象的な動機というのは以前にもまして増大しているんですよね。昔は社会を変えたいとか、社会を変えるための有効な手段は自分の力量から言うとこういうことだと考えるやつは多かったけど、今は文化人という記号、あるいは岡田斗司夫、宮台真司という記号に憧れるやつがあまりにも多い。まあこういう連中は、インターネット・ローカルならばいざ知らず、マスコミに登場するや否や、簡単に淘汰されていってしまうので、そのへんはとくに強調しておきたいことでもありますよね。

 

●宮台真司キャラクター化計画

岡田 先ほど宮台さんが「これからはプライベートの部分ももっと話そうと思う」とおっしゃいましたが、僕はそれを聞いて「それだ、それだ」って思っていたんですよ。というのは、僕が考えている「みんなもっとキャラクター化を推し進めよう」というのに、とても合っているからなんですよ。西部さんに泣いてほしかったと言ったのもそれです。宮台さんにはもっと派手な場所で言い負けるシーンもほしいですし、プライベートなことを話すシーンもほしい。つまり見ている人たちがツールとしての宮台真司ではなくて、キャラクターとしての宮台真司を好きになったほうが、さらに有効性が増すのではないかと思うんです。言論の人たちって、ぶつかり合うにしろ協力するにしろ、もっとキャラクターを前面に出すべきなんじゃないでしょうか。政治家というのは本来オーラみたいなものを持っていましたよね。それがつまりキャラクター化なんだけども、二世三世議員たちというのは、そうなることをもう放棄してしまっていますよね。

宮台 そうねえ、そこは僕自身はなかなか難しい部分があるなあ。というのは僕自身をキャラクター化することに関しては両義的なんですよ。つまりキャラクター化しようとする色気はあるんです。その方が実効性が上がるからという単純な理由ですけれども。他方で何か言ったときに「あの人はああいうキャラクターだから」と無害化されて、最初から牙を抜かれてしまう。キャラクター化したら一〇〇パーセントそういう現実は起こるわけです。それは利害得失の問題じゃないですか。

岡田 それくらいのほうが、安全かなと思ったんですよ。つまり自分が言ったことの受け取られ方というのは、真剣に受け取られてたとしても、それには何通りもあるわけじゃないですか。その場合の安全策としてキャラクター化されているほうが大丈夫なんじゃないかなあと。それくらいでなければ、僕らはコンビニに並べないと思います。

宮台 わかります。それはたぶん僕の考えで言うと、単にキャラクターになることではなくて、自分の意図する目的があって、目的に合致したキャラクターの内容というのがあると思うんですね。僕自身はそれはコントロールしたいと思うんですよ。たとえば僕が『朝生』の誘いを十回に一回くらいしか受けないのは、やっぱり自分でコントロールできないキャラクター化というものを拒絶したいからです。なぜなら僕には世直しモードという政治的な目的があるので、マイナスになるような要素を拒絶したいと思うからです。とはいえ、『朝生』はこれまでにたぶん四回ほどは出ていますけれど、それはやはり目標達成に必要なキャラクター化なら引き受けようと、あるいは出ることを引き受けた以上は精いっぱいやろうということなんですよね。

 たとえば「専業主婦廃止論」ということを言うと、激烈なリアクションが来る。これは僕が意図していることなんです。つまり、短いワイドショーとかバラエティーのような番組で、僕の持ち時間は全部で五分間しかないといった場合、その五分間で僕の考えをすべて説明することは難しい。ならば、わかりやすくてなおかつ違和感のあることを、わかりやすいフレーズで言えれば「え!? 何言ってんだ、こいつは」という反発があるじゃないですか。そういう反発が起これば、当然議論も起こる。「いや、それでいいんだと思うな」というやつと、「そうじゃない」というやつとの間で、たぶんブラウン管の向こうで、たとえば会議とかインターネットとかで争いごとが起こる。それで「じゃあ実際何を言っているのか聞いてみよう」ということで、僕を講演に呼んでくれるとか本を読んでくれるというようになれば、結果として僕が伝えたかった情報のほとんどは伝わるわけですね。

 僕が考えているキャラクター化といはそういうことなんです。随時、機会主義的に変化可能な枠の中で、反発をもあえて買う。「最近、専業主婦はいらないとか言っている変なやついるじゃん」というような(笑)。

岡田 おっしゃっていることは、僕なりにはわかるつもりなんですけれども、キャラクター化がコントローラブルだということは、もう捨てちゃってもいいんじゃないかと思うんですけれど。

宮台 岡田さんのおっしゃることは、よくわかります(笑)。じつは僕もそう思います。ただしそれは目的次第だと思うんです。僕自身も世直しモードから完全に脱却できれば、そう考えられるようになる、というか、そうしたいと思います。

岡田 僕が言っているのは、世直しモードが自分の中で本気であれば、確信があれば、コントロールしきれないキャラクターでも十分機能するんではないかと。

宮台 一縷の可能性はありますよね。まあそれはちょっと様子を見てから決めたいと思いますけどね(笑)。いやあ、最近中森(明夫)さんにも、そういうふうにあおられているんですよ。「宮台くん、もう自分をコントロールするのはやめよう!」って。確かにそのほうがおもしろいような気もするし。

岡田 つまり、コントロールすることで得られる利益というのはもう十分取られたので、逆にこれからは、コントロールしないことによる不利益のほうが、利になると思うんですよ。それによって宮台さんのところに来てしまう層が、本来宮台真司が得るべき層なんですよ。

宮台 ああ、なるほどねえ。うーん……。貴重なアドバイスをしていただいて。それは考えたいと思います。岡田さんのご忠告は、結構重要な問題なんですよ。というのは、現実に今、僕が直面している問題そのものだからですよね。

 僕は、ある意味で、過去四年間で役割を果たしたという感はあります。ですので、今後はまた別の方向へシフトしていこう意図はありますが、何かを意図してその課題を達成するというのは、ブルセラ・オウム・サカキバラと過去三回くらいやって、それはそれで成功したと思うんですね。またここで目的を立てて、一年くらいかけて成功させていくということにどういう意味があるのかというのは、コントロール・リソースが枯渇しなくても、問題になりますよね。

 有り体に言ってしまえば、物を書くということは面倒くさい仕事じゃないですか。非常にコストがかかるし、快感の多くない、コストパフォーマンスの悪い仕事だと思うんですよ。もっと楽に仕事をして楽しく生きていこう、幸せになろうとしたら、物書きになるというのは最も悪い選択のひとつですよね。生活は不規則になるし、大事な人間をケアできなくなるし、いろんな部分がメチャクチャになるわけです。それでも書くわけじゃないですか。何で物を書くんだろうという、そういう根源的な問いにつながってくる問題でもあるんです。だから、キャラクターとして出るものをコントロールしたほうがいいのか、しないほうがいいのかという問題も、根源的な問いに関わる問題なので、じつは最近よく考えることなんですよ。

岡田 テレビなどで見て宮台さんのおっしゃっていることがわかる人は、宮台さんがコントロールされていない状態でも、まず大丈夫だろうと思いますね。逆にわからないという人は、コントロールしていようがしていまいが、わかんないだろうと。その意味で言うと、コントロールされていないほうが、彼らにとっての好感度が少し上がるだろうから、損得計算すると得なのではないかなあと思うんですよね。

 僕が言っているキャラクター化というのは、単にいい者になれ、悪者になれ、あんたはこういう役割ね、というのではないつもりなんですよ。こういう問題の枠内というのではなくて、宮台真司という人間のままで受け入れられるかの勝負、というふうに考えているんですよ。表現する人間、何かを書いたり、発表したりする人間の最終的なゴールというのはそこしかないですよね。

宮台 どうやって、丸ごとダシにしてもらうかということですよね。

岡田 はい、そうです。それだけが、この薄い世の中でできる濃密な生き方であり、神話の中の伝説として生きられることですよ。私たちが風呂に入って戦って、みなさんはそのダシを飲んで生きてくださいというようなものですから。

宮台 そうねえ。よくわかります。でも、冒頭の話に戻ると、僕は「ミヤダイ」と「ミヤダイ」の間にどうしても距離を感じてしまうんですよ。その距離を戦略的に埋めていこうという考えもあるんですけれども。

 僕と同世代の人って、メディアのすれっからしが多いじゃないですか。だから「仮想現実だからいけない」なんて言う人間は、まずいない。そういう世代であるからこそ、メディアの中で自分のイメージを露出して消費されることを、単純に喜ぶというのは難しいですよね。単純に言うと、メディアで消費されるということに恥ずかしさがありますし。

岡田 恥ずかしさって、裏返すとうれしいって状態だと思うんですよね。「うれし恥ずかし」って言うけれども、理性だけだと恥ずかしいほうしか見えない。裏返すには、こういう言い方はおかしいかもしれないけれども、理性を取ってしまう。

宮台 はっきり言ってうれしくないですよ、そんなに。

岡田 うれしくない場合は恥ずかしくないと思います。そう思うんですけど、違いますか? 恥ずかしいという感情はうれしいという感情を隠すところから始まるものではないですか?

宮台 僕が「ミヤダイ」と「ミヤダイ」は違うんだというときの、いくつかのファクターがあるんだけど、ひとつには恥ずかしいからなんですよ。その恥ずかしさが僕に食いこんできてほしくないので、そういうふうに距離を置いていると。もちろんもうひとつは、さっき言ったように、行動の自由度が上がるということですね。

 

●癒しを求めるシステムを変える

岡田 キャラクターになっちゃおうというのは、私たちが癒されましょうということなんです。つまり私たちが癒されることを見せることで、癒しを必要とする人を減らし、同時に癒しを必要としている人は、代償的に癒しを得る。おそらくそういう癒ししかないであろうと。すなわち私たち自身が最も癒しを必要としている人間なので、それをキャラクター化して一番つらい部分を人々に見せる。

宮台 今、分けたのは、癒しを与えるのか、それとも癒しを必要とする人間の数を減らすのか、つまりシステムを変えるのかどうかということなんですね。それで言うと、僕は後者のほうをやりたいんですね。ただ、プライベートな問題をしゃべっていこうと思ったのは、前者の部分、癒しの提供という部分については、自分にそういうことができるとは、長い間まったく思っていなかったんです。

 けれども最近、僕のすでに持っているリソースで、比較的コストがかからないでできるということが急速にわかってきた。いろんな電子メールや手紙を見ると、僕が書いている程度のことで癒される人が大勢いることがわかってきました。たとえば『世紀末の作法』に関するメールで多いのは「私は(僕は)、ストリートで生きているような子の生き方はしていませんが、私は生きていてもいいんだと強く励まされたような気がします」というようなものなんです。それがあまりにも多いので、昨年末はちょっと考えましたね。こういうことで癒されるのか。だったらその癒し機能ということについて、もっと自覚的であるべきだろうなあ、と思うようになりました。

 ですからそのキャラクター化計画についても、色気があるというか、迷うところがあるんですよ。ただ、僕自身がまだ手放していない「世直しモード」の部分、癒しを必要とするような社会システムを組み直そうという部分を手放せないというのはあるので、迷うんでしょうね。

岡田 癒しを必要としない社会システムというのは、かつてどこかの世界で現実化したことがあるんですか?

宮台 一切ありません。ですから全部、機会主義的なものです。今こういう種類の癒しを必要としている人間がいるとすれば、その癒されるべき特定の苦しみを生みだすシステムを何とかしようと。つまりそこが納得できない者には、何でそんなことするのかよくわからないと思われるでしょう。

 でも、世の中には宗教的メンタリティというのがあって、僕は自分にそういうメンタリティがあるんだと思います。宗教者にはふた通りいて、多くの宗教者は癒しを与えることに機能を特化していきますが、世の中には救済の神学に基づく「世直し運動」というのがあって、日本にも南米にもいろいろなところでときどき起こる。これは癒しを必要とする人間があまりにも多すぎるという状況を前にして、癒しを必要とするような状況を生みだす社会そのものを変えなければいけないんだ、となるからです。つまりそれが「世直しモード」なんですよね。

岡田 つまり、たとえば中世でペストが大流行して、人々がバタバタと死んでいくのでもっと神に祈れとみんなが言っているときに、そうではなくて早寝早起きの健康な生活をしようということですね。神に祈らないから平和に死ねなくても、これで長生きできる。君たちはペストがいやなんだろう。僕は今ペストで苦しんでいる人には何もできなくて申しわけないけど、でも何年かしたらこの社会からペストを減らすことができると、そんな感じですか。

宮台 ああ、とてもわかりやすい比喩ですね。その通りです。

岡田 ただ文化人の中にもペストで苦しんでいて「ペストなんとかしろ」と言っている人は、宮台真司の早寝早起き説を聞いて激怒するわけですよね(笑)。「それは今のペストにはどう役に立つんだ」って。今のペストには役に立たないけど、これでペストがない社会を作ることができるのは、当たり前だと。

宮台 そうですね。だから、その上で僕自身にも、今ペストで苦しんでいる人にちょっとだけ苦しみを軽減するメッセージを出す力があるのかなと。その部分を自分でどう評価できるのかってことで迷いが生じるんですよね。

岡田 僕はそれはどっちかということでもないと思いますね。僕がキャラクター化にこだわっているのは、キャラクター化することで自らが癒される。それをディスプレイしながら同時にシステムを変えるというのが一番いいのではないかと思うんですよね。

宮台 うーん。そうですねえ。いや、今日は私個人にとっては、非常に有意義な話だと思います(笑)。

岡田 私は日本にとって有意義な話をしているつもりなんですけど(笑)。

 

●ベストを尽くしてシステムを変える

宮台 僕自身がなぜ癒しということに躊躇しているかというと、有り体に申し上げればこういうことなんです。

 たとえばある宗教があるとします。その宗教が苦しんでいる人を効果的に癒せば癒すほど、人々の中から社会変革の要求というのはなくなります。よく言いますが、現状補完的機能を存分に宗教が発揮することによって、むしろ現状はその宗教によって支えられてしまう。いわゆる救済の神学と言われるものは、ふたつの方向があって、現状維持的な機能を果たす場合と、世直しに役立つ場合とがあるわけですけれども、僕はそのことを危惧していて、癒される人間が増えれば増えるほど、現状補完的になります。それが僕にとっては気にかかるんです。

 だから、人を怒らせたり人を不安にするようなことを、あえて長い間言い続けてきているのはなぜかというと、むしろ人々を癒すよりも、癒しが必要なサスペンディング、つまり宙吊りにされた状態に落としたいと。そのために、オヤジから安定した地面を奪うという目的の下で何年かやってきて、それがある程度は成功した。つまり梯子ははずせたし、オヤジもゲタをはけなくなった。そういう意味で言うと、成功したがゆえに今はちょっと考えどきなんですよ。岡田さんがおっしゃってくださったように、僕の計画は確かに成功したんです。ですので今さら不安をかきたて続けるというのは、どうなのか。酒鬼薔薇事件がひとつのきっかけになるんですけれども、具体的な提案をしていくようになる理由は、その提案を正当化するときにそれこそさまざな意味の体系を使いますよね。「こういう理由でこういう選択肢が推奨されるべきなのである」という具合に。そうやって、提案と同時に理由の部分を語ることによって、僕が今考えているふたつの機能、つまり、癒すと同時に、癒しを必要とする社会システムそのものを、変えることができるのではないのかなあと。具体的な提案は社会システムを変えるのに役立つし、具体的な提案を補強するためのコンセプトの組み替えは人々を癒すのに役立つという具合に。

岡田 僕は、自分の中の動機とか、やりたいことに、そこまで明確な自信がないんですよね。自分自身では、おそらく自分を解放しても大丈夫であろうという見こみだけで考えているんです。コントロールして自分が善であるかどうであるか、社会にとっていいものであるかどうかを考えてみたけど、たぶんこれはバカの考え休みに似たりであって、あんまり考えてもしょうがないんじゃないか。それよりはこれを解放して影響力を持ったほうが、僕にとっても社会にとっても幸せなんじゃないのかと。

 でも、そういう生き方をみんなに強制することができないので、強制する根性のある人がやればいいやと。で、ほかの人はそれを見て納得するしかない。だからさっきのペストの例で、僕がやろうというのは、ペストで亡くなった人たちのお葬式をすごく盛大にやろうとか、ペストで死んだ人がかわいそうだという歌を作って歌うみたいなもんなんです。それによって何の実効力があるかというと、実効力はわからないけれども、そのくらいしかできないんじゃないかと。その中で、ベストを尽くせば、何かベストを尽くすなんて言葉を使うともうほとんど宗教ですけれども(笑)、でもベストを尽くせばという言い方にならざるをえないんですが、システムのほうが変わるんだったら変わるだろうし、それは計算して変えようとする努力と同じ程度か、ひょっとしたらそれを上回る効率があるんじゃないのかなと。

 僕がこれまでやってきてうまくいったことを客観的に見ると、それは考えてやったことではなくて、自分の内なる動機と表面用に考えて作った動機がちゃんとシンクロしたときだけなんですね。

宮台 ひとつだけ逆説を申し上げますと、自分の言葉にある程度の影響力を獲得することに成功したときに思ったことは、僕にとって自分の言葉は、どのように語っても人が聞いてくれないという状況であったときのほうが、語ることの自明性は高かった。つまり固い地面を信じることができました。ところが僕が何かを発言することによって、条例や法律に大きな変化が起こるかもしれないということが現実的になってくると、逆に不安は増大しますよね。「なんだ、固い地面だと思っていたのに、そうじゃない」と。たかが、僕程度の人間が、何かを言うかどうかによって世の中が変わるとすれば、ある別の観点から言えばそれは望むところでもあるんだけど、地面の存在を信じていた僕の中では不安は大きくなりますよね。

岡田 恐怖ですよね。

宮台 そうですね。じつは不安は大変に大きいんです。それは「失いたくない不安」でもあるんですけれども。自明性の崩壊や喪失ということで言えば、僕自身が物書きとして本が売れるようになればなるほど、僕自身の自明性は崩れていくという、妙な状態にありますね。ほかの物書きの方はどうなんでしょう……僕はよくわからない。小説家ならばいいんですけれども。

 ある種の宗教家の方々にとくに聞いてみたいなあと思うのは、彼らは生き方を説きますね。そのときに「何言ってんだ、バカヤロー」と言われているぶんにはいいんだけど「あなたのおっしゃる通りだ」と多くの人が言うようになったときに、不安は感じないのかということですね。それはいろんな人に聞いてみたいですね。何せ、何もかも複雑で、よかれと思ってやったことの帰結が読めないという感覚って、僕らの世代にはもう染みついたものとしてあるじゃないですか。

岡田 僕に宗教家の資質があるかどうかはわかりませんけれども、少なくとも僕は「あなたの言う通りです」と言われたときに不安は感じないですね。おそらくそういう不安がないという欠損のある人間だけが、そっちの世界に踏みこんでいけるんだと思います。前にも言ったんですけど、生得の権利だと腹の底から認識しているからですね。

宮台 そうか……。まあ腹のくくり方が足りないのかもしれませんね。

岡田 いや、くくり方とか覚悟で発生するものではなくて、ある種の壊れ方ですよ(笑)。

宮台 そうでしょうね。しかし、もし僕にアドバンテージと言うか、物書きとしての資質があるとすれば、たぶんその不安なんだと思うんですね。不安が結構あるわけですよ。そういう部分は僕の書いたものには随所に表われているはずです。たとえば、僕はよく「逆説」というキーワードを使いますけれども、僕が最も好きな言葉のひとつなんですね。パラドックス、よかれと思ってとんでもないことが起こるというのが、わかりやすい例になりますけれども、逆説というのは複雑な社会システムの至るところに満ち満ちていますからねえ。

岡田 そうですね。僕は昔から「神様は意地悪だ」と思っていましたから。何でこんなに祈った通りのことはしてくれるのに、その意味が違うんだろうと(笑)。こうなりたいとかこうしたいと思ったら必ずできるんだけどその意味が全然違うとか、善意を持った人がやったことというのは、なぜこんなに難儀なことを発生させてしまうのか、とか。

宮台 そうですね。一般に合理主義の非合理ってあるじゃないですか。ロジカルなのはいいとして、この人が過剰にロジカルなのは何なのかと。ロジカルであろうとする理由というのは、必ずしもロジカルじゃないからですよね。それは多くの人が潜在的に思っていることですが、その種のことには敏感でありたいなあと。僕自身がロジカルであろうとする理由は、まったく非ロジカルなものだし、誰にとったって、それ以外にありようはずがない。

岡田 一番最初に、宮台さんが、じつは非論理的であって感情的であるということを聞いて、じゃあその部分を出しちゃえばいいと言いましたのは、たぶんそのほうがパワーは三倍くらい強いのではないのかなあと思ったからなんですよね。つまり家族に対するのと世間に対するのでは、線を引いていらっしゃるわけですよね。家族に対するように世間に接するのも、おもしろいんじゃないですか?

宮台 今はちょっと実験的なんですよね。『ダ・ヴィンチ』でやっている『世紀末相談』という連載は、僕が「ちょっと考えている実験的なプランがあるので『相談』というかたちでやらせてほしい」と編集長に提案して始まったんです。これの反響が大きいのでちょっとびっくりしているんですよね。

 ですので、今は試行錯誤している状況で、それでうまく行くようであれば、岡田さんのおっしゃるような方向にいくのもありかなとは、漠然とは思っていますけれどもね。

 

●場を組織・提供するやつが勝利する時代

岡田 ところで、僕はこれまでの対談でクリエイティブは終わったと言っていまして。かつて、表現するべき強い自我を、みんなが目指して幸せになった時代は、みんなが作家になって自分の思うことを表現できるということはすばらしいと言っていた。で、これまでの百年くらいは「表現とは人間性の解放である」みたいなことを合い言葉として進んできたんですけれども、その欺瞞にもうみんな気が付いてしまった。だからみんな「クリエイティブ」じゃなくて、より小規模・小リスクな「ディスプレィ」で満足するようになってしまった。だから押しの強いクリエイターも生まれない。今の宮崎駿さんや庵野秀明くんから名作が生まれるということは、まだ僕はあると思います。でも、たぶん今の三十五歳以下からはここから先、新進の人は出てこないだろうなと。それがクリエイティブが終わっていると思うゆえんです。マンガ家も例外を除けば、昔みたいに二十代に山ほどの層があって、新人がガーッといて、という状況はない。今、編集者が考えるのは「どうやってこのマンガ家を引退させないか」ということなんです。メジャーデビューさせた瞬間に次の作品はマイナーになっていって同人誌に描いて、いろんな雑誌でジプシーのように、小さな連載を繰り返すようになってしまうわけですね。ゲーム作家もそうですし、アニメでもそうです。宮崎駿さんは後進が育てられませんでしたが、それは若い人がいないということでもあるわけですね。宮台さんがおっしゃってきたような社会状況から生まれてきた人には、クリエイティブは必要ないということなんでしょうね。

宮台 おっしゃる通りですね。今の若い子たちはDJに憧れますよね。たぶんクラブDJという人材は、ニーズも高いし、実際、質の高い人材も供給されているんだけれども、かつての作曲家とは全然資質が違っていて、要するに場を見極めて、その場が要求しているものを、その場で短時間に自分の引きだしの中からセットアップして出せる力なんですね。で、そこがどういう場であるのかということを観察して、その場に最もふさわしいメニューを短時間にセットアップできる能力。これはかつてのクリエイターに要求されていたこととまったく違う。これは、受け手が「おまえは何が表現したいんだ」ということにまったく関心がなくなって、その場で適当に盛り上がりたい、仲間うちで戯れたい、延々としゃべっていたいとかそういう要求しか持っていないことと結びついています。

岡田 リソースとしてのクリエイターの作品は必要なんだけれども、かつてのとは違って、たとえば小説の映画化というのと同じように、リソースとしての素となる作品があればそこからDJみたいなのがやっていけると。

 僕は今おもちゃを集めていて、すごくそのあたりが気になるんですが、最近はおもちゃは売れるけど作品は売れないというケースが、ものすごく多いんですよ。ポケットモンスターも、ゲームよりアニメのほうが売れているし、アニメより関連商品のほうが売れているしと、どんどん作品のほうが単なるリソースになり果てて、関連商品のほうが膨らんでいく。『セーラームーン』も『エヴァ』もそうです。これを今までのように、著作権元が、全部のリソースはうちだと管理するのが限界にきているんですよね。

宮台 僕は、DJもそうですけれども、場を組織したり提供するやつが勝利する時代になると思うんです。それはコミケットの米沢さんみたいな行為が出発点に当たると思う。ポケモンも立ち上げにずいぶん苦労したみたいですが、成功したのはゲームが売れたこともさることながら、関連商品が売れたことが大きい。本当にそうやって人々が楽しめる場を作ることにコストをかけて、「場」を組織し終わったときに成功者が生まれる。でも多くの人は成功者の名前を知らない。それは人々はその「場」を楽しむことだけを考えているからということなんですけど。今の若い子たちは、DJ的な、あまり名前は覚えてもらえないけど「何かいいよね、この人」みたいのがカッコよくて、「俺は誰だ」なんて自問しているクリエイターはカッコ悪いと思っている。つまり自分としての自分だけが持っているものを、表に出すのはカッコ悪い。「何だよ、こいつ」ということになる(笑)。

岡田 僕が実感したのは、庵野秀明の幸せ度が上がらないことなんですよ。つまりあれだけの、日本の映像の歴史に残るほどのヒットを記録したのに、本人の幸せ度があんなに上がらないのは、本人の資質の問題ではなくて、クリエイティブはよきことであるという、クリエイター信仰の破綻ですよね。エヴァ本を出した人とか、関連商品で儲けたガイナックスのほうが幸せそうなんだもん(笑)。こんなことがあったらクリエイター神話は崩壊しますよ。

宮台 でも庵野さんというのは「場」を提供したじゃないですか。みんな『エヴァ』については語りまくったし。

岡田 彼はそれを幸せとは思えないんですよ。古いタイプのクリエイターだから。

宮台 そうなんですか。それは不幸ですねえ。

岡田 不幸ですよ。いろんな『エヴァ』論が出ている中で、すごい不満だと思う。そのへんではすごく宮崎駿的なんですよ。本人いわく「宮崎駿の弟子」ですから。自分の考えている、ただひとつの解釈が流布してほしくてやっているのに、さんざん勝手なことばかり言われて、という感じなんですよ。

宮台 なるほどねえ。でも庵野さんは僕らと同世代じゃないですか。その感覚はほんとに僕らの世代までだと思うんだよなあ。DJで有名な人というのも僕らと同世代だけれども、もとはヘビメタ・ファンだったりパンクロック・ファンだったりするわけですよ。そういう人たちが自分を捨てて解脱して、つまりクリエイター信仰を離脱してDJをやっているわけですね。僕らの世代がちょうど分水嶺なんですよね。今のDJ第一世代というのは、クリエイター信仰を苦労してあきらめた世代なんですよね。

岡田 それは捨てている、あきらめているという言い方もそうですが、宮台さんが前におっしゃった永続性や統一をあきらめて「今」というものに固執すると、DJにならざるをえないわけですね。

宮台 そうです。つまり自分を表現するということは、一貫して変わらない自分があるという前提に立つことですし。そういう意味では、今は非常にいい方向に来ているんじゃないかなあと思いますけれど。日本はとくに、去年テクノ系のダンスがブレイクしましたけど、今年はほんとに広がると思いますね。それはみんなでねぶた祭りで踊っているようなものですね。ねぶたは一年に一回しかありませんが、ダンスはその「場」に行けばできるという。デートクラブもそうなんですよね。デートクラブの店長が「場」を作ってくれるんですよね。何の斡旋もしていなければ、紹介もしていない。女の子はその「場」をどうとらえるかというと、商売する「場」というのが名目だけど、実質はまったりできる「居場所」であると。そういうニーズが高まっていますよね。

 

●倫理的な崩れの世代間ギャップ

岡田 僕は鶴見済さんとの話で、日本はいずれ崩れていくだろうと言ったんですけれども、それは社会的なインフラ、たとえば下水道とか電線とかというもの、そういう職人的な仕事に対するロイヤリティは、今後下がる要因こそあれ上がる要因はないからだと考えたからなんです。

宮台 そのインフラを支える基本的な職人的メンタリティの低下というのは、じつはコンピュータ・ソフト業界などでも起こっているんですが、国際化による人材の流動性で埋め合わされて、日本からハングリーなやつがいなくなっても、シンガポールや台湾からハングリーなやつが入ってくるという状況になると思う。人材間のノウハウの伝達にさえ失敗しなければ、それはさしたる心配はない。

 でも全体の問題で言うと日本では、エンジニアリング的な面でのディスアドバンテージよりもむしろ、政治システムに象徴されるような制度面でのディスアドバンテージのほうが大きいですから。そういう意味で言うと、制度的なディスアドバンテージによって五年、十年という短いタイムスパンでは確実に沈没していきますけれども、ただそのことによって、何が変わるのかってことですね。テレビの『サンデーモーニング』でも言いましたけど、「経済的に沈む」ことを日本が傾くことだとか、「天下国家の一大事」だとかと騒ぎ立てる人がいますが、それは老オヤジと中年オヤジだけなんですよね。こういう類の「日本沈没主義者」は人口学的に一定の規模以上にはならない。あるいはどんどん減少していく。日本が二流国である、あるいは日本が二流国になる。だからどうなんだという人が増える。総理府のデータで言うと、「物の豊かさはあなたにとって必要ですか」という質問に対して、「必要です」と答える人間は、本当に世代が上になればなるほど多いわけですね。それは自分たちが加齢してきた過程で、社会がどんどん豊かになっていくということが現にあったわけだし、それが自分の人生の目標でもあったということもあるからそうなっているだけで、生まれたときから豊かさが自明な連中は、おもしろいことに、物の豊かさにもさしたるこだわりは示さないんです。これはヨーロッパと同じ状況です。つまり日が昇る国から日が沈む国へと移っていったとしても、でも、日が沈む国には沈む国なりの楽しみ方があるさ、という(笑)。

 そういう意味で言えば、鶴見済くんの言うように、今すでに生じているいくつかの動き、ダンス・カルチャーに象徴されるようなものは、どんどん広がっていって、それで定常的なシステムになる。岡田 僕は全世界的に、たとえば五十年がかりで似たような水準に達したとき、それで歴史が終わると言うんじゃないんですけれども、あきらめとか有限感みたいなものが上限に達してしまう。それによってモラルが崩れるという、そういう社会システムの崩れはあると。だから一流国、二流国という後退はあるだろうけど、誰もそんなこと気にしないような状態そのものが、崩れだと言ったんですよ。つまり僕らの世代ギリギリまでは、それが崩れだと思うけれど、鶴見さんの世代からみるとそれは崩れとは認識できない。

宮台 じつは、冒頭に申し上げた「自明性の崩壊」というのは、そういうことと結びついているんですね。みんながそこそこ今を楽しく生きるというふうになるわけでしょ。それが延々と続くときに、「まったり生きる」ことと「脳死状態」と、いったいどう違うのかということだけが、重要な問題となって残ることになる。

岡田 僕のたとえで言うと、僕が駅前に自転車を止めるときは、鍵をかけなくてはいけないんですが、大阪では鍵をかけずに済んだんですよ。でも今は大阪でも鍵をかけなくてはいけなくなったそうなんです。これを鶴見さんの立場にしてみれば、もともと鍵をかけるのは当り前だと。これは崩れている世界にいる人間の自覚なんです。僕はその崩れた社会についていけないので、「何で東京では……」とか「この頃は鍵をかけなくてはいけないので物騒だ」と考えてしまう。でも物騒な世界に生きている鶴見さんは、それを物騒とはとらえずに当然のこととして、注意点として見る。では鶴見さんよりもさらに下の世代は彼よりさらに気を使うようになるだろうと。そういう崩れはあると思うんです。それを僕は倫理の崩れというふうにとらえているんですけど。

 

●緩慢で終わりなき日本的システム

宮台 ただ、難しいと思うのは、今コンビニがどんどん広がっていますよね。コンビニが広がると万引きも広がるんですね。今の中学生で万引体験者というのは全国で確実に半分を超えているんですよ。この間ラジオで東京の有名進学校の高校生を集めて話を聞いたときには、万引き体験者が三十人中三十人全員という状況なんです。これは僕らの高校のときだったら、本当に考えられない。僕らが高校生の頃だったら、同じ東京の進学校でも万引き経験者はたぶん二割いかなかったと思うんですよ。そのくらい万引きが広がっているんだけども、でもそれで僕たちのシステムが壊れるかというと、ちょうど三億円事件のときに、保険金のシステムがあるので誰も被害者がいないというのと同じで、コンビニ産業そのものが万引きされることをコストとして織りこんでいて、それで順風満帆にシステムが回るようになってしまっている。そういう状況、これがたぶん「終わりなき日常」なんですね。

岡田 なるほどなるほど。

宮台 それはたぶん「崩れ」ではあるんだけれども、「世の中が崩れる」と言ったときに、年長世代が言うような全面崩壊はやってこない。じつはそんなに簡単に崩れてくれないんだと思うんですよね。そのくらい僕たちの社会というのはフレキシビリティの深さがあって、問題を吸収できてしまう。 とくに日本は宗教がないのでそうなりがちです。みんなうまくいっているのでいいじゃないか、このシステムで、と許容してしまう。やくざという非合法的組織がずっと生き残れたのもそう、総会屋のようなシステムがずっと続いてこれたのもそう。でもこれについては、今は経済システムが国際化して、それではやっていけませんよというある種の外圧ですが、外在的な状況が変化したので、総会屋もたたみましょうと。これだって外圧不在でシステムがうまくいっていれば永久にそのままですよ。

岡田 それはその通りですね。

宮台 日本はそういうシステムなんですよね。「崩れ」ても問題はないんですよ。万引きとコンビニの関係というのは、よく考えれば苛立たしいことですよね。たとえばコンビニで万引きすると、昔なら通報しますよね。でも通報すると調書を取られて、時間的コストがかかりますよね。だから本屋なんかも含めて、今は多くのお店で通報しなくなってしまっている。

岡田 僕は、西部さんがおっしゃる意味で使っているんですけれども、伝統を守るにはコストがかかるということを、みんなが認識したほうがいいと思うんですよ。つまり学校側がコンビニに金払うしかないわけでしょ、万引きを減らしたかったら。それによって三十年前まであった、みんな万引きしないという文化は唯一守られるわけじゃないですか。宮台 万引きの問題が非常に克服が難しいのは、かつてみんなが万引きしなかったのは、必ずしも倫理観ではなくて、そういうことすると潰れてしまうお店が現にあって、その店も含めて、近隣社会は形成されているということがあったからなんですね。そういう地域共同体がなくなって、なおかつ保険のシステムや、さまざまなコスト計算のシステムができ上がってくると、日本人としてのメンタリティは何ひとつ変わっていなくたって、万引きしてOKとなってしまうんですよ。昔、日本の伝統社会で浮気してもOKだったのと同じなんですよね。日本人は不道徳だったかというとそうではなくて、それで社会がうまく回っているんで、お互いさまという感じ方の中で許容していたわけです。でもそういう部分って日本社会のある意味利点でもあるんだけど、ある種の潔癖な倫理主義者が日本に来ると、どうしても許せないところに見えてしまうでしょうね。

 これがどういう問題を引き起こすかというと、究極的にいえば、生きていることの意味がわからなくなるんですよ。このシステムの中では、ほぼすべてのことが許容されるという状況は、「壁がない」状況なんですね。壁に囲まれてなければ、そこがどこであるのか意味をつかむことができない。まあ、「意味の病」があるからなんだけれども(笑)、万人が意味の病から離脱することは絶対にありえないから、日本的な緩慢な、鶴見くん的に言えば変わらないシステムというのは、きつい奴にとっては本当にきついだろうと思う。ただそういうふうに言いながらも不安なのは、三十人が三十人万引きしちゃっていて、「万引きはいやだ。やらないよ」という潔癖な人間は一人くらいいないのかということですよね。

 

●アメーバのような壁のない社会

宮台 ご存じかもしれませんが、東京都が中学生を調べた「絶対にやってはいけないことランキング」というので、万引きが五位、援助交際が六位なんですね。援助交際よりも万引きはいけない。その万引きをクラスによってはほぼ全員がやっているんですよ。援助交際はまだ一割とか二割なんだけど。

 日本て、つまりこれなんだよね。援助交際が今はまだ一割二割なのは、もちろんある意味で万引きよりも敷居が高いから何だけれども、その敷居の高さは倫理観とはまったく関係がない、ということです。病気のリスクとか、ばれたら恥ずかしいとかそういうことです。で、ちょうど援助交際と同じくらい悪いというので並んでいるのが、友だちを叩くこと(笑)。

岡田 それはリスク高いですもんねえ(笑)。一位は何ですか?

宮台 一位は、クスリ。クスリは八割がいけないと答えています。これも、解釈には迷うなあ。これは「人間やめますか」という、いわゆる威嚇教育の成功かもしれませんね。でも単に威嚇教育が成功しているだけなら、アメリカを見ればわかるように、五年で終わりです。五年でクスリはいけないと思う人の割合は半減すると思います。

 立花隆さんが一九七七年に『アメリカ性革命報告』という本を書かれたときにすでに予言していることですが、(一九七七年の)現状の統計で見ると、日本のOLはアメリカのOLよりはるかに遅れているように見えるが、五年後か十年後かわからないが、しばらくすると日本のほうが性的にルーズになることは間違いないと。その通りになりましたね。朝日新聞の調査でもやりましたけれども、アメリカでは不倫はいけないという既婚者は七割いますけれども、日本では五割を切る(笑)。これはつまり日本の伝統なわけです。また、これは少し前の調査ですけれども、三十代の既婚者の婚外性交渉の数というのは、G7では日本がフランスと並んで最も多い。

 こういういろいろなデータを見ていくと、先ほど岡田さんがおっしゃった「崩れ」ですけど、そもそも新たに崩れるものなんてあるのかという気がしますよね。原則不在・共同体依存という点では非常にわかりやすい社会であるんだけれども、共同体的文脈次第でどうとでもなりうる、わけのわからないアメーバのような壁のない社会。酒鬼薔薇事件もいろんな理由がもちろんあるんだけど、半分以上の中学生が平然とわかると言ってしまうのがね(笑)。これは僕たちの社会が持っているもともとの構造ですよね。だから、これを前提にしてどうするかということしかありえない。全面的にアメリカのような社会に作り上げて宗教的倫理を持ちこもうとするのは不可能ですし。ただ否定しようが肯定しようが、これが日本の社会の変わらない前提ですからね。実験室的な意味ではおもしろいですよ。こんな社会はないぞという意味ではね。

岡田 こういうときに今までのパターンで言うと、日本というのは何か内的な事情で崩れたり次の段階が来るというのではなくて、外側からの引き金みたいのがあって、それでいっせいにコロッと変わるというのはありますよね。その要因が全然見えないですよね。私たちがその概念の中にいるから見えないのかもわからないけど。

宮台 おそらくかつてのように外圧があっても、おそらく「動員」はできないんですよ。たとえばヨーロッパと日本は伝統があるので、近代が成熟して未来に輝きがなくなったときに「サッカー、ダンス、セックス」というのはよく似ているんだけど、決定的に違うのは、ヨーロッパはまだ動員ができるんですよ。

 たとえば労働組合ひとつ取っても、労働組合の組織率はフランスなんかでもまだ半分を超えて、六割くらい。でも日本はもう二割を切っているような状態です。背景には失業率の高さとかの問題もあるんだけど、一般に何か問題があったときに、人を動員するということが、日本ほど難しい国が今はほかにないことも事実でしょう。

 日本はヨーロッパのような階級社会じゃないし、アメリカのように貧富の差が大きいわけでもないので、利害の対立軸が不鮮明なのが大きいですね。日本の労働組合というのは産業別ではなくて企業別で、企業共同体であることを前提としていますよね。企業が共同体じゃなくなってくると、もう労働組合は意味がないんですけれども、ヨーロッパは階級社会ですから、階級的利害が今でも厳然と存在しています。簡単に言えば、労働組合も産業別で、ある種の同業者組合なんですよ。

岡田 日本人にとって階級に相当するものって、物理的な距離だと思うんですよ。ですから、話が一挙に飛びますが、キー局の崩壊しかないんじゃないかと思います。キー局の崩壊と地方局の乱立によって今のテレビの自由化をもう少し推し進めて、道州制なんてものではないくらいに、日本が単一国家であるということを捨てて、ヨーロッパ並みにする。日本は島国だからみんな狭いと思っているけど、高低差はあるし恐ろしく広いですよ。地域ごとに人の考え方も違う。だから、物流のコストをものすごく上げればいいと思います。その地方で取れたものをその地方で食って、その地方のメディアを見る。そうやって多国籍化しないと。今の日本で唯一、あるグループ内の人たちが、今は寂しいなあとか、うれしいなあと共通して感じられるのは、「気候」しかないと思うんですよね。つまりそれが「地域」なんですよ。たとえば、今、雪が降っているところでトレンディドラマを見せられても腹が立つだけですよ。雪国は雪国だけの価値観を持って、すべての物のコストを持っていいのではないか。で、表裏という言い方をやっぱりしちゃうんですが、裏日本、表日本っていうのも、その地域差によって、個々で違ってくるのだろうと。

宮台 そうですね。有能な官僚の考えというのは、今の岡田さんの考えと非常によく似ています。つまり、今後自由化していくと、地域間格差というものが広がっていくだろうと。反対する人は地域間格差が広がることを、最大の反対理由にあげるんです。でも有能な官僚にとっては、それが賛成理由なんですね。つまり、利害で結集することができない日本の状況、平均的政治意識が低いまま、国民的共同利害について話し合うような土壌も生まれない状況を変えるには、とにかくいったん利害が対立するような状況を広げていくしかないんですね。階級的特殊利害なき日本の場合、岡田さんの言うように地域的利害が重要なんですけれども、それに加えて世代的特殊利害というのも見逃せません。

 まあ僕がやっていることのひとつは、世代的特殊利害というのが、地域間格差を除けば、今の日本の中で見つかる唯一に近い利害対立なんで、徹底的に世代間対立をあおるということですよね。階級もないし、地域間格差にも乏しいという中で、かろうじて世代的利害の対立のみが存在する。それ以外に動員の口実、そこそこの規模で人々を共感させうる口実はしばらくの間はないと思っています。


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