3.メディアリテラシー
インターネットというものがその性質上、何らかの規制をしようとしてももはやできないものだということがわかってきました。じゃあ、今後そのインターネットというものをどうやってうまく活用していけばいいのか、考えてみたいと思います。

インターネットをどうやって有効利用するかというときにまず考えることは、言語の問題になります。世界中の玉石混淆の情報を読み解くには、外国語、特に英語の読み書きというのが第一の問題になってくるんです。
まだ本格的に入ってきてないですけど、NOVAとかああいうところがインターネットで英語を教えようとしています。リアルタイム会話、チャットっていうんですけど、インターネットでその場で話し合うっていうものがあるんですが、それを英語でやったら、確かに英語力伸びるわけです。英語の今までの教育法って、直接行って話し合うっていうしかなかったんですけど、そうじゃなくて、文章を取り交わしあうと。メールをお互いに送ったり読んだりするっていうのは、英語教育としてはすごくいいわけですよ。だからそういう語学教育として、インターネットっていうのは有効なものになってきてます。
なんでこんな話するのかというと、日本語しかしゃべれない、日本語しか読めない以上、インターネットでも日本語のページしか行けないわけで、その向こうにあるよその国の言葉、実際には英語ですよね、英語文化圏に入れない。日本人が英語文化圏に入りたいっていう初めての「動機づけ」が、ここで出てくるわけです。
インターネットに入ってきた瞬間に、リアリティとして、これ読めたり書けたりしたらすごい面白いよっていうのがね、実感できるんですよ。だからインターネットはインターネットだけの可能性より、これが入ってくるとようやっと、日本の英語教育に意味が出てくるようになるんです。実は今までの、英語教育の一番の問題点っていうのはその「動機づけ」がない、つまり「英語ができるようになりたい!」という意欲をもたせなかったことにあるんです。だからこれからの学校の英語の時間っていうのは、これまでみたいに教科書があって先生が教えて子どもたちが発音して書いてっていうよりは、インターネットにつながせて、自分の見たいページを見させてそれのレポートを書かせるとか、そっちの方が教育としては有効だし、意味がありますよね。

そうですよね。いま、全国の小学校でパソコンが置かれてインターネットに接続できるようになっているそうですけど、小学生のうちからインターネットの世界に触れて、英語圏のホームページに簡単につなげて、でも英語が読めないとなると、英語ができるようになろうという動機が、かつてよりずっとはっきりしたものになりますよね。

アメリカではね、4、5年くらい前から通信と放送の間の規制が外されたんです。出版との間の垣根も取り払われた。つまり、タイムワーナーみたいな出版社がテレビ放送することもできるし、逆にテレビ局が出版社やることも可能になったと。
で、なんで昔はそれができなかったのかというと、巨大なマスメディア上のモンスターを作らないようにしてたわけですよね。ある特定の出版社が、例えば民主党を応援するとか、こういうキャンペーンを張るっていうのを、全メディアで展開することはやれないようにしてたわけですよ。雑誌でやって新聞でやっておまけにテレビでやるってなことをやられると、やっぱり人の心のコントロールというのは簡単にできるもんで、そういうようなことがないようにしてたわけです。
ところが、その規制がなくなったんです。そうしたら、それと
同時に起こったことが、小学校の段階からメディアリテラシーっていうんですけど、「メディアを信用しない術」というのが教育方針に加えられるようになったんですよ。
例えばテレビで討論番組があるとき、ある片方の人が発言してるときに、どこの部分を画面に映すのかとか、もしくは下から撮るのか上から撮るのか、照明の具合はどうなってるのかによって、実は作る側の意図というのが見えちゃうわけです。片方を悪者にしたい場合っていうのは、一見公平に放送されているように見えて、こっちを悪者にしようっていう意図があれば、こういうふうに編集することによって簡単にそう見せられるんだというようなことを教えるわけです。もしくは、人がごった返してますっていう風景でも、それをすこしロングで撮ってまわりのビルの画像が映った瞬間に実はそんなにいっぱいじゃないんだということがわかるとか。そういうメディアの見せ方とか、その裏側みたいなものを、小学校くらいの教育から導入するようになった。それがメディアリテラシーで、出版、放送、通信っていう事業が混在していいという法案が通ると同時に小学校で始まったんですよ。
で、インターネットでも新興宗教の勧誘みたいなページもあるわけですし、それに対する批判のページも簡単にできるんだったら、本来必要なのは、このメディアリテラシーなんです。いかに書いてあることを信用しないか。出版物の中で言っちゃうのもヘンなんですけど、本屋さんで売ってる本であろうと、テレビで発言してることであろうと、そこにはウソであったり、ウソと言ったらヘンですけど意図であったり、こういうふうに思わせたいなとか、こういうふうに思うように仕向けようっていう、作為が入ってるわけです。その作為っていうのが別の言葉で言えばクリエイティビティーでもあるし、ものを作るときの動機でもあるわけですね。
子どもたちに、環境の保護の考え方をもっと訴えたいとか、親子の愛情を伝えたいとか、これも意図であるし作為なんですね。じゃあそういうような作為っていうのがどのように作られているのか、それは個々人が気をつけて見るしかない。
それは、これまでは、メディアの側が責任もってやりましょうっていうのが良識だったわけですよね。言論規制にしても何にしても、そういうふうなものは消費者の力の及ぶ範囲にはないんだから、私たちが管理しなきゃならないという考え方だった。その管理能力というのがもう限界に達した。ありとあらゆる情報が、酒鬼薔薇事件のときのようにもう出ちゃうわけだから、メディアリテラシーというもので、その責任はそっちでとってくださいと。消費者側にその責任っていうのをもってきちゃうのがメディアリテラシーの考え方なんですよ。
昔、資本主義というのがこの世界に導入される以前というのは、それぞれの人が豊かであるとか貧乏であるというのは、村長みたいな人の責任だったわけですよね。村で収穫がいっぱいあったからみんな同じように食えるとか、食えなくなったやつの面倒はみんなでみるというふうに。個人の貧富の差はあったわけですが、富める村と貧しい村がある、という方が大問題だったんです。
ところが、資本主義の社会になって貨幣経済というのが一般化したときに、それぞれの人が金持ちであったり貧乏であったりというのは、それぞれの人の責任であるというふうに、私たちの社会ってドラマチックに変化したわけですよね。
それと同じように、メディアによっていろんな情報が流されているんだけど、それによってどんな考えの持ち方をするのか、それによって狂っちゃうのか、もしくは環境保護の戦士になっちゃうでもいいですし、それによって頭が良くなる、頭が悪くなる、いろんな結果があるんだけど、それはメディアの責任じゃなくて、受ける本人の側の責任というふうに変わってきてると思うんですよ。
インターネットの発達で見えてきたことというのはいくつかありますが、やはり最大のものは、個人個人が、情報というものに対して疑いの目を持つ必要性というか、その情報を流してる人がどういう意図でそうしているのかを見抜く力を持つ必要が出てきたということでしょう。そういう意味で、言語の問題も含めて、日本の教育がやらないといけないことというのも変わらざるを得ないのだと思います。
★1 日本ではこのあたりの規制というか危機意識が全くなくて、主要活字メディア、たとえば朝日、読売、毎日新聞なんか自前のTV局を昔から持っている。このような「メディアの相互乗り入れ」が、実際はいろんな報道弊害を生んでいると思うが、当然ながらそのような問題は「朝生(朝まで生テレビ)」などでは決して議論されることはない。
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