『東大オタキングゼミ』1998年4月15日版 ン1997.Toshio Okada
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第2章 インターネット


1.インターネットはカラオケボックス

 インターネットの発達というのが話題になっています。コマーシャルもガンガンやられていて、新しくパソコンを買う人もインターネットをやってみたいというのが大きな理由の一つになっているようです。今回は、そのインターネットについて、日本で起こっていることとその特色、ネット上の言論の規制の問題、インターネットと教育の問題について考えてみましょう。

パソコンが大ブームとなり、おじさんたちも含めて多くの人が買うことになったのは、やっぱあの、高倉健のコマーシャルがだめ押しだったみたいですね。あれでなんかみんな使えると思いこんでしまって、インターネットに接続したら何かあるっていう期待でいっぱいになってしまった。やっぱり人間、せっぱ詰まってるときっていうのは、アメリカ行きさえすれば何とかなるとか、運転免許さえあれば何とかなるとか、考えるじゃないですか。それと同じように、インターネットに入って、接続さえすれば何とかなるとみんな思っちゃったわけです。

 それで秋葉原や日本橋という電気街へ行って「インターネットください!」とボーナス握りしめて叫ぶおじさんが続出したわけです。で、店頭でインターネットを説明してもらうと、確かに役に立ちそうな気がするんですね。ところが、実際使ってみると、情報の量はやたらと多いんだけれど、それが本当に役に立っているかというと疑問も残る。

 日本のインターネットって、何だかんだいっても、大学生と、大学院生と、理系の研究員でもってるといえます。実際どんな人がアクセスしてるのか調査したりすると、普通の人はそんなにやってないですね。やっていても、ブラウザでホームページを見るだけっていう人が多い。

 97年に入って初めて、パソコンの出荷台数が前年比を割るというか、伸びが止まっちゃったわけですが、インターネット全体も、そんなにはやってるかといわれると、おさまってきた感じがします。

インターネットでホームページを見ていると、確かに役に立たないというか、どうでもいいようなページが多いですよね。ところで、先生は日本のインターネットとかホームページについてどんなことを考えているのですか。

 

この頃面白いと思うのは、インターネットって、私は「プチ論壇」って呼んでるんですけども、なんかねえ、論説する人が出てきて、評論する人が多いわけですよ。それがねえ、何て言うかなあ、大学とか、近所の喫茶店とかでみんな論争とか討論とかしなくなったのが、かわりにインターネット環境に移っていると思うんですね。

「ネット・ハンサム」って表現があるんですけど、電子ネット上ではすごく立派なことを言ってるんだけど、実際にその人物を見てみるとイマイチな人たちが多い。みんな、学生でヒヨヒヨのやつだったりねえ、ニコニコしてる小太りのやつだったりねえ、声が変に高かったりして(笑)。

 僕は、インターネットは巨大なカラオケボックスだと思ってるんですよ。「演説カラオケ」で、みんなマイク持って「今日僕はこんなことがありました〜」って言ったり「俺はこう思う〜」って言ってる。演説カラオケを見てるとねえ、やっぱりカラオケですから人の歌ってるときには聞かないっていうのが多いですよね。カラオケっていうのが日本発の発明で、世界に普及したように、なんかねえ、外国人の使ってるインターネットの使用法と、日本人の使い方とは、明らかに違うんです。

 例えばね、アニメーションとかのサイトを見ても、日本だったら、論説が多いんですよ。「うる星やつらをこう見る」とか、「エヴァンゲリオンはこうだ」とか、マイク持って離さないタイプ。でも外国のやつを見ると、まずアニメーションの情報自体が少ないからそうなるとも思うんですけど、情報系のサイトが多いんです。「この雑誌の何月号にこんなのが載ってた」とか、そういう情報が載っていて、その解釈っていうのは自分で考えましょうっていう方が多いんですよ。ニューヨークに住んでいるスティーブ・パールっていうアニメファンがいるんですけど、彼なんかがすごく尊敬されているのはインターネット上で自分の持っている情報をどんどん公開しちゃうからだ、と。つまり立派な見識・意見を持っているからすごいというのではなく、「みんなに情報をシェアしましょう」という姿勢・実績を評価するわけですね。

日頃、あまり自分の意見を主張しないとか、対立を避けると言われている日本人が、インターネットになると突然発言し始めるとき、いったい何を発言しているんでしょうか。個人で世界に対して発言したいことって、そんなにあるんでしょうか。個人でホームページを作る人の動機って何なんですか。

まずねえ、社会的な目的とか、正義感を持ってる人がひとかたまりいるんですよ。「これを言わねばなるまい」「この誤りをただす」とかですねえ、言わねばもうだめだ、っていう人。あともう一つの動機は、いま、いろんな情報が世の中にあふれてて、それを見たときに「いや、やっぱり本当はこうなんだよな」とか「僕はこういうふうに思う」ってみんな思ってるわけです。で、何が恐いかっていって、これがこのまま失われていくというのがすごい恐怖なんです。

 自分が失われる恐怖っていうのは何かって言うと、何か見たときの自分の感想であるとか、自分の意見であるとか、価値観みたいなものが、このまま誰にもわかってもらえずに消えてしまう恐怖です。知り合いの何人かにしゃべってみても、その言葉も消えていくわけですよね。聞いてくれた人も自分が言ったとおりの意味で覚えていてくれるわけではなくて、もう、別の人に言うときには意味が変わっちゃうわけじゃないですか。そうじゃなくて、自分だけの感覚っていうか価値観みたいなものを、形として残しておきたいって思ってるんですよ。実は物書きの人にとって、本を書く最大の動機でもあるんですね、こういう「喪失感」っていうのが。

 そういう「喪失感」をもっている人で、なおかつ1冊の本を書くほどの世界観・価値観が強烈にあるわけでもないし、細かいものを1つの系統にまとめて書けるわけでもないんだけども、そういうことを発言したいという人たちには、インターネットはすごくいいですよね。

他に、日本のホームページの特色というのはないんですか。

あとは、ページのデザインが平均してこんなにキレイだっていうのも日本独特ですよね。まだインターネットに女の子が入ってきてないからまだまだだと思うんですけど、彼女たちが入ってくるとさらにキレイになるはずです。昔からほら、学校でノートとるときって、女の子のノートってキレイでしょ。マーカーを何本も使ったり、ボールペン何色も使ったり。それはねえ、日本人がすごく好きで得意な、箱庭的な世界の作り方に対応していますよね。幕の内弁当作ったり、箱庭作ったり、家の中をきれいにしたりっていう、枠を決めて飾り付けるっていうのはすごい日本人は得意なんです。そういう意味でも、よその国の人から見ると日本人のホームページはヘンだと言われるんでしょうね。

 

2.ホームページと「ポルノ問題」

 一時期、ネット上での言論の自由とか表現の自由というのが問題になりました。まあ、昔よく言われたのは、インターネットに原爆の作り方が載ってるとか、反社会的な情報が載ってるが、こういうのは規制しなくていいのか。あとは、ポルノとかの問題ですよね。そういうものを子供に見せていいのか。ところが最近、そのような議論がだいぶ下火になってしまいました。それはなぜかというのが、ここで考えたいことです。

何でもいいですが、例えばポルノ写真をインターネットで公開することについて、「規制すべきかすべきでないか」というような議論があった時代っていうのは、「規制できる」っていう前提に立ってるわけですよね。例えば、人間、ヘアヌードとかにしても、「そういうものを見ないのが正しい」という議論は出ないですよね。人間には性欲があって、それはどうしようもないんだっていう前提に立ってますよね。だから、「ヌードを見たいという欲望を持たないようにしよう」っていう論議が絶対起こらないのは、そんなことはできないからです。だから、インターネットで「規制すべきかすべきでないか」っていう以上、それは「規制できる」っていう前提に立ってるわけです。

 ところが今はもうそういう議論がどんどん廃れてきてます。なぜかというと、規制できないということがわかってきてるからですよね。インターネット上で何か言論の規制をしようとすると、あっという間にミラーサイトっていう、同じ情報を持っているサイトを、世界中のいろんな場所につくられてしまうわけです。そこは法律も違えば言論統制の解釈も違うわけですから、手の打ちようがない。

 例えば、酒鬼薔薇聖斗っていうあの事件の少年の顔写真を自分のサイトに載せると。そうすると苦情がくる。大手新聞が、そのまま載せたらそのページのアドレスを夕刊に書くぞとかいう脅しが実際にあったらしいんですけど、これまでだったら、そんなことがあれば「載せるのも表現の自由だ」とか、「いやそれは表現の自由の履き違えだ」とか、論議が起きたはずなんです。ところがその論議が起こらずに、「じゃあアメリカで開きます」とかいって、同じ内容を世界中のいろんな場所でポンポン開いちゃうとか、おまけにそれを見て面白いと思った人が、「じゃあ俺もこれと同じ内容を自分のとこに開いちゃおう」って始めたら、それがもう多発的にあちこちに開かれてしまう。そういうことによって、もう言論の規制自体が、たいへん難しくなっちゃってるんです。

インターネットというものが、実は規制されるということに対してものすごく強いというか、もう規制なんてなされようがないものとなってきているんですね。

今までは、日本で言論の規制ってどうやられていたのかというと、実は警察がやってるんじゃなくて、いちばんは取次(出版業界の問屋、日販、トーハンなど)がやってたわけですよね。実際問題、こういうものを載せるとどうなるかっていうと、例えば警察が出版社に介入すると同時に取次に介入するわけですよね。そうすると雑誌が出せなくなる。雑誌が出せなくなるとたいへんだから、ギリギリのルールは守ろうよと。

 あんまり問題があって回収騒ぎになったときは、取次ににらまれちゃう。例えば『Focus』みたいな雑誌が酒鬼薔薇の写真載せたときに何が痛いかといって、回収するときに取次に違約金払わなきゃいけないし、何回もそういうことがあったら、取次の方から「もう『Focus』は勘弁してくださいよ」といわれちゃう。そうしたらキヨスクに置けなくなる。それは雑誌の死活問題だからということで、取次というか、つまり流通経路による規制力というのが発生してたわけです。ところがインターネットは、その流通経路っていうのが、ユーザーの自由、一人一人が取次になれるわけですから、まったくねえ、規制のやりようがないわけです。

 もう、私たちはこれから、規制のないところへ入って行くしかないんです。読者の意見っていうのも、読者コーナー2ページだったらその枠で載せるだけなんですよ。ところがインターネットになったら、何か論争が始まったら、関係ない人間もどんどんどんどん参加して、すさまじい分量になっていって、永遠に終わらない。論点も広がって。そういう、ある種、編集部っていう検閲であるとか、もしくは警察っていう検閲、取次っていう検閲っていうものが、検閲っていうと悪いものに聞こえますけど、それで常識的な枠をはめてたわけです。

インターネットは分量としては無限で、しかもなんの検閲もないとなると、個人的な誹謗中傷とかの応酬になっても、いつまでも終わらないということにもなるんですね。

そうです。読者からのお便りでも、「こんなヘンなのは載せられない」とかいう編集部のチェックがあって、あまりにとんでもない意見というのは雑誌には出ることはないんです。

 例えばアニメ雑誌の読者コーナーに来たお手紙で、「天皇家があるから日本のアニメはダメだ」みたいなのがあったら、「ああ、これは春になるとこういうお手紙がくるんだよね」(笑)ということで落としますよね。それは言論の規制では恐らくない。インターネットだと、そういうのが載ってるわけですよ。

これまでは、雑誌なり新聞なりを作っている編集部の考える「常識」というような枠組みがあって、それに収まる範囲の内容しか活字になって人目に触れることはなかったわけですね。ところが、インターネットの世界では、それに収まらない内容のものもホームページで公開されていると。

あとね、僕が今インターネットで好きなのは、一人架空の人格を作って、その人間のホームページを作ってる人が結構いるんですよ。

 みんな、普通は自分のホームページを作りますよね。でもそうじゃなくて、実際にはいない架空の人物を作って、そいつのプロフィールとか履歴とか、綿密に作るわけですね。で、それのホームページを立ち上げるんですよ。そのプロフィールを見ると、その人は16の時に高校を中退していて、ナントカ先輩に会ってアムウェイを教えてもらって、アムウェイで成功の道をたどって、お母さんが真言宗かなんかで、自分は創価学会に入っていて、お母さんの誤りをいつか正さねばならないと思ってるんだけど、お母さんは結構いい人で、でも僕は創価学会の教えに関しては悩んでいたんだけど、青年数学(青年数学っていうのがあるそうなんです)3級をとって、それで池田先生が云々……っていうものすごい綿密なプロフィール作って、それでその人の日記を書いてるんですよ(笑)。まったく新しい創作の形ですよね。

 なんかそういう、ホームページ上で語られている普通の人の夢とか、こんな絵を描いてるんで僕をみんなで応援してくださいっていうのってよくあるんですけど、それを逆手にとって、架空人格のやつをやってるんです。こういうのが、去年くらいからようやっと出始めて、ああちょっとインターネットも一段変わったなあと思ったんです。独特の芸の世界になってきたというか。どんどんその、本来のインターネットの目的から離れていって、いいんですよ(笑)。

 このように、ネットの中に入っちゃうと、ありとあらゆる規制っていうのがきかないんで、規制っていうのはある程度ネット内でユーザー同士が「そんなことやっちゃだめだ」とか、「そういうことやるのはマナーに反してるよ」というふうに注意しあうくらいしかもうないんですよ。防ぎようがないんで、中国みたいにインターネットに対して国民が接続するのを禁止するとか、インターネット自体に対して規制するしかないんです。

 でも、そんなことはいつまでもできるはずはないですよね。

 

3.メディアリテラシー

 インターネットというものがその性質上、何らかの規制をしようとしてももはやできないものだということがわかってきました。じゃあ、今後そのインターネットというものをどうやってうまく活用していけばいいのか、考えてみたいと思います。

インターネットをどうやって有効利用するかというときにまず考えることは、言語の問題になります。世界中の玉石混淆の情報を読み解くには、外国語、特に英語の読み書きというのが第一の問題になってくるんです。

 まだ本格的に入ってきてないですけど、NOVAとかああいうところがインターネットで英語を教えようとしています。リアルタイム会話、チャットっていうんですけど、インターネットでその場で話し合うっていうものがあるんですが、それを英語でやったら、確かに英語力伸びるわけです。英語の今までの教育法って、直接行って話し合うっていうしかなかったんですけど、そうじゃなくて、文章を取り交わしあうと。メールをお互いに送ったり読んだりするっていうのは、英語教育としてはすごくいいわけですよ。だからそういう語学教育として、インターネットっていうのは有効なものになってきてます。

 なんでこんな話するのかというと、日本語しかしゃべれない、日本語しか読めない以上、インターネットでも日本語のページしか行けないわけで、その向こうにあるよその国の言葉、実際には英語ですよね、英語文化圏に入れない。日本人が英語文化圏に入りたいっていう初めての「動機づけ」が、ここで出てくるわけです。

 インターネットに入ってきた瞬間に、リアリティとして、これ読めたり書けたりしたらすごい面白いよっていうのがね、実感できるんですよ。だからインターネットはインターネットだけの可能性より、これが入ってくるとようやっと、日本の英語教育に意味が出てくるようになるんです。実は今までの、英語教育の一番の問題点っていうのはその「動機づけ」がない、つまり「英語ができるようになりたい!」という意欲をもたせなかったことにあるんです。だからこれからの学校の英語の時間っていうのは、これまでみたいに教科書があって先生が教えて子どもたちが発音して書いてっていうよりは、インターネットにつながせて、自分の見たいページを見させてそれのレポートを書かせるとか、そっちの方が教育としては有効だし、意味がありますよね。

そうですよね。いま、全国の小学校でパソコンが置かれてインターネットに接続できるようになっているそうですけど、小学生のうちからインターネットの世界に触れて、英語圏のホームページに簡単につなげて、でも英語が読めないとなると、英語ができるようになろうという動機が、かつてよりずっとはっきりしたものになりますよね。

アメリカではね、4、5年くらい前から通信と放送の間の規制が外されたんです。出版との間の垣根も取り払われた。つまり、タイムワーナーみたいな出版社がテレビ放送することもできるし、逆にテレビ局が出版社やることも可能になったと。

 で、なんで昔はそれができなかったのかというと、巨大なマスメディア上のモンスターを作らないようにしてたわけですよね。ある特定の出版社が、例えば民主党を応援するとか、こういうキャンペーンを張るっていうのを、全メディアで展開することはやれないようにしてたわけですよ。雑誌でやって新聞でやっておまけにテレビでやるってなことをやられると、やっぱり人の心のコントロールというのは簡単にできるもんで、そういうようなことがないようにしてたわけです。

 ところが、その規制がなくなったんです。そうしたら、それと

同時に起こったことが、小学校の段階からメディアリテラシーっていうんですけど、「メディアを信用しない術」というのが教育方針に加えられるようになったんですよ。

 例えばテレビで討論番組があるとき、ある片方の人が発言してるときに、どこの部分を画面に映すのかとか、もしくは下から撮るのか上から撮るのか、照明の具合はどうなってるのかによって、実は作る側の意図というのが見えちゃうわけです。片方を悪者にしたい場合っていうのは、一見公平に放送されているように見えて、こっちを悪者にしようっていう意図があれば、こういうふうに編集することによって簡単にそう見せられるんだというようなことを教えるわけです。もしくは、人がごった返してますっていう風景でも、それをすこしロングで撮ってまわりのビルの画像が映った瞬間に実はそんなにいっぱいじゃないんだということがわかるとか。そういうメディアの見せ方とか、その裏側みたいなものを、小学校くらいの教育から導入するようになった。それがメディアリテラシーで、出版、放送、通信っていう事業が混在していいという法案が通ると同時に小学校で始まったんですよ。

 で、インターネットでも新興宗教の勧誘みたいなページもあるわけですし、それに対する批判のページも簡単にできるんだったら、本来必要なのは、このメディアリテラシーなんです。いかに書いてあることを信用しないか。出版物の中で言っちゃうのもヘンなんですけど、本屋さんで売ってる本であろうと、テレビで発言してることであろうと、そこにはウソであったり、ウソと言ったらヘンですけど意図であったり、こういうふうに思わせたいなとか、こういうふうに思うように仕向けようっていう、作為が入ってるわけです。その作為っていうのが別の言葉で言えばクリエイティビティーでもあるし、ものを作るときの動機でもあるわけですね。

 子どもたちに、環境の保護の考え方をもっと訴えたいとか、親子の愛情を伝えたいとか、これも意図であるし作為なんですね。じゃあそういうような作為っていうのがどのように作られているのか、それは個々人が気をつけて見るしかない。

 それは、これまでは、メディアの側が責任もってやりましょうっていうのが良識だったわけですよね。言論規制にしても何にしても、そういうふうなものは消費者の力の及ぶ範囲にはないんだから、私たちが管理しなきゃならないという考え方だった。その管理能力というのがもう限界に達した。ありとあらゆる情報が、酒鬼薔薇事件のときのようにもう出ちゃうわけだから、メディアリテラシーというもので、その責任はそっちでとってくださいと。消費者側にその責任っていうのをもってきちゃうのがメディアリテラシーの考え方なんですよ。

 昔、資本主義というのがこの世界に導入される以前というのは、それぞれの人が豊かであるとか貧乏であるというのは、村長みたいな人の責任だったわけですよね。村で収穫がいっぱいあったからみんな同じように食えるとか、食えなくなったやつの面倒はみんなでみるというふうに。個人の貧富の差はあったわけですが、富める村と貧しい村がある、という方が大問題だったんです。

 ところが、資本主義の社会になって貨幣経済というのが一般化したときに、それぞれの人が金持ちであったり貧乏であったりというのは、それぞれの人の責任であるというふうに、私たちの社会ってドラマチックに変化したわけですよね。

 それと同じように、メディアによっていろんな情報が流されているんだけど、それによってどんな考えの持ち方をするのか、それによって狂っちゃうのか、もしくは環境保護の戦士になっちゃうでもいいですし、それによって頭が良くなる、頭が悪くなる、いろんな結果があるんだけど、それはメディアの責任じゃなくて、受ける本人の側の責任というふうに変わってきてると思うんですよ。

 インターネットの発達で見えてきたことというのはいくつかありますが、やはり最大のものは、個人個人が、情報というものに対して疑いの目を持つ必要性というか、その情報を流してる人がどういう意図でそうしているのかを見抜く力を持つ必要が出てきたということでしょう。そういう意味で、言語の問題も含めて、日本の教育がやらないといけないことというのも変わらざるを得ないのだと思います。

★1 日本ではこのあたりの規制というか危機意識が全くなくて、主要活字メディア、たとえば朝日、読売、毎日新聞なんか自前のTV局を昔から持っている。このような「メディアの相互乗り入れ」が、実際はいろんな報道弊害を生んでいると思うが、当然ながらそのような問題は「朝生(朝まで生テレビ)」などでは決して議論されることはない。

 


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