『オタク学入門』1996年5月25日版 ン1996.Toshio Okada
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「 粋の眼

「-1 見立てと特撮

「-2 世界と趣向

「-3 美少女キャラの文脈


「-1 見立てと特撮

●日本特撮は「リアリティ」より「かっこよさ」を目指す

 『ジュラシックパーク』
 『スターウォーズ』
 『ターミネーター2』
 これらハリウッド製のSFX映画のすごさは誰にでもわかる。が、日本特撮の良さがわかるのはオタクだけだ。それは、特撮の良さを味わうためには、「粋の眼」が必要だからだ。では「オタクの3つの眼」の一つ、「粋の眼」を、『ゴジラ』や様々な日本特撮などから説明してみよう。
 ハリウッドのSFX映画がめざすのは「本物そっくりのリアリティ」と「見たことのないもの」の融合だ。
「もし現実社会で○○○ということが実際に起きたらどうなるだろうか」
 これを、あらゆる最先端技術を駆使して描くのがハリウッドのSFX映画だ。リアル感こそがSFX映画の真骨頂なのだ。
 が、日本特撮は違う。特撮は、頭の中の「イメージ」を見せることをめざしている。科学的か、とか現実にありそうな、とかではない。どちらかといえば「かっこいい!」とか、「美しい!」とかのセンスを優先するのだ。
 SFXが「リアリティがあってすごい!」なら、特撮は「嘘みたいにかっこいい」「夢みたいにきれい」という感動をめざしている。見る人も「本物」と思ってはいないし、それでOKという世界なのだ。
 たとえば『ゴジラ』。
 スターウォーズ公開時、それは長年続いた怪獣映画ブームも、すっかり影を潜めた日本特撮の暗黒時代だった。そんな当時、アメリカから来た最新のSFX映画に触発されて、マニアや業界人たちはこんな話をよくやっていた。
 「もう1回ゴジラシリーズを作るなら、コンピュータ・シミュレーションでゴジラを科学的に設定すべきだ」
 「あの体長であの体型の生物なら、体重はおよそいくらか、その体重の生物がビル街で暴れたらビルはどういうふうに壊れるのか。きちんと計算して作らないとリアリティが出ない、ハリウッドのSFXに勝てない」
 しかし後に新ゴジラシリーズが再開されたとき、結局ゴジラはコンピュータ・シミュレーションとは関係なく制作された。
 なぜか?
 もし実際にシミュレーションしたとしても、やってみた結果がちっともかっこよくなかったとしたら意味がないからだ。
 ゴジラといえば、建物から上半身をのぞかせてすっくと立っている姿がかっこいい。ゴジラの膝下までしか建物の高さがなかったら、大きすぎて間抜けだ。逆に建物がゴジラの顔まであればそれはそれでつまらない。やはりゴジラは腰あたりまでの建物に囲まれてアンギャアと鳴くからよいのだ。その程度の大きさで尻尾や足でビルをがんがん壊しまくるから気持ちいいのだ。
 ところがリアルに計算してしまうと、ビルというのはあんがい丈夫で壊れない。そんな現実に忠実に、と作ったらどうなるだろう?
 ゴジラが尻尾を振るモビルにひびが入るモゴジラが痛そうにする・・・。
 そんなのでいいわけがない。観客はもっと「かっこいい絵」が見たいのだ。
 ここでリアリティの出番はおしまいになる。もっとイメージを優先させる絵作りこそ、ゴジラに求められているものだ。

 

●SFXで作った『ゴジラ』

 これが実感できる例が、レイ・ハリーハウゼン監督の『原子怪獣現わる』だ。実はこの作品はゴジラの2年前に発表された作品で、ゴジラの元ネタになった作品である。設定もまるまる同じ。「水爆実験でよみがえった怪獣が街を歩き回り、放射能汚染をばらまく」と、まんまなのだ。正確にはもちろん『ゴジラ』が『原子怪獣現わる』をパクッたわけだけど。
 それはともかくこの映画、ゴジラと撮り方が全然違う。
 『ゴジラ』は誰でも知っている通り、人間が着ぐるみのゴジラの中に入って歩いたり首を動かしたり尻尾を振ったりしている。
 で、回りの家やビルはミニチュアだ。人間大のゴジラに合わせて、ミニチュアの家を美術さんや小道具さんがトンテントンテン作る。そうやって手間ヒマかけて作ったオモチャの町並みを、ゴジラの皮をかぶった人間がアンギャーと壊すわけだ。
 ところがSFXの国アメリカで作られた『原子怪獣現わる』では、怪獣は人形アニメだ。人間が着ぐるみに入って演技する、なんてリアリティのないことはあまり好まれない。何しろ怪獣だから、人間と骨格も違えば関節の曲がる方向も違う。だから怪獣の人形を、まず針金で骨格を作り、上から筋肉と皮膚を被せる、という手法で作る。
 その人形を少しづつ動かして、一コマづつ撮影する。24回、人形を動かして、24コマ撮影したら、やっと映画フィルムの1秒分の撮影が完了。これが「人形アニメーション」という手法だ。
 『原子怪獣現わる』では、この手法が使われた。もちろん関節の曲がる角度、脚を踏ん張ったような演技、口の中でチラチラと動く舌、すべてに細心の注意が払われる。こうしてアニメーションの撮影にものすごく手間暇かける。町並みは実際のものを撮影し、フィルム上で光学合成する。
 リアルに動く怪獣にリアルな町並み。すっごくリアルで、すっごくおもしろいはずだ。だけど実際はこれが全然ダメ。平凡でつまんないのだ。
 「ゴジラ」はアメリカでも結構有名なのに、『原子怪獣現わる』はマニア間でのみ有名な作品なのだ。
 なぜか?
 もちろん『原子怪獣現わる』が古い作品でSFXの技術がお粗末だというのもある。が、それだけでは決してない。
 「ゴジラ」の方が圧倒的にイメージがかっこいいのだ。
 ひょっとして、今のSFXの技術を全部つぎ込んで『原子怪獣現わる』を作ればもう少しおもしろいものができるだろう。が、その「おもしろい」はゴジラとは全然違う種類のおもしろさだ。

 

●写実絵画SFX、印象派絵画日本特撮

 その違いをあえて言えば、写実画と抽象画の違い、写実絵画と印象派絵画の違い、ということになる。もちろん写実絵画がSFX、印象派絵画が日本特撮だ。
 日本特撮は印象派だ。
 ゴッホの『ひまわり』を見て、こんなのほんとのひまわりじゃない、といってもしょうがない。ゴッホの『ひまわり』はゴッホにとっていちばん花らしい花、イメージの中のひまわりだからだ。
 で、見る方も心の中にあるひまわりのイメージと照らし合わせる。
 「うーん、これこそひまわりだよな」
 「確かにカーッ!と照らす真夏の陽光の中のひまわりって、イメージの中ではこんな感じだよな」とか共鳴するものなのだ。
 こういうと何か心の問題でテクニックなど関係ない、というふうに聞こえるかもしれない。ちがう。もちろんそうじゃない。
 つまり抽象化というのは要するにデフォルメと省略のことだ。自分の印象深いものをデフォルメする。その他の部分は省略、もしくは縮小する。どこをどのくらいデフォルメするか、それが画家のセンスだ。と同時にそのイメージ通りに描くには当然鍛えぬかれた技術が必要なのだ。
 たとえばさっきの花の例で考えてみる。画家にとっての「花」が鮮やかな色の組み合わせだったら、本物以上に鮮やかな花を描く。めまいがしそうなほどの色の取り合わせかもしれない。また、別の画家にとっての花が小さい花びらの組み合わせだったら、本物の花よりずっとたくさんの花びらの組み合わせとして描く。いずれにしてもその効果を出すためには、とんでもない技術が必要だ。
 絵の基礎力がなければ抽象画が描けないように、もちろん特撮だって高い技術力が必要なのだ。ただ、その技術は本物そっくりに描く写実画とはまた違った方向をめざした技術と言えるだろう。
 だから、日本特撮がSFX映画に比べて本物らしくないという批判は筋違いだ。早く日本映画界もハリウッドみたいに、というのも無茶な話だ。 日本の浮世絵がヨーロッパの画壇に流れて、印象派絵画として開花した。それと同じく、日本特撮は印象派なのだから。
 写実主義であるSFXがいいか、抽象主義である日本特撮がいいか、これはそれを受け入れる文化の問題だ。で、日本で抽象主義である特撮が作られたり受け入れられたりしたのには、日本人の心が昔からそういった抽象化を楽しむ方へと訓練され続けてきたせいでもある。

 

●「見立て」としての日本特撮

 日本の文化には「見立て」という言葉がある。
 たとえば日本庭園の大きい石を島に「見立て」たり、玉砂利を波に「見立て」たりする。石もただの石ではない。わざわざ山奥で見つけた、風情のある巨大で重たい大岩を苦労して運んで来たりする。もちろん石をその形に彫ったりしない。石の色味が変わり、風情を損なうからだ。で、ちょうど縁側からながめたとき、岩島と2個の島が美しく並んで、「蓬莱神仙島」だ、と見立てたりする。教養のある客は縁側から庭をながめ、そこの名所を詠んだ有名な和歌などをそっとそらんじたり、オリジナルな続編和歌を詠んで悦にいるわけだ。
 これは『作庭記』という日本最古の庭作りマニュアル書によると平安時代から続くものらしい。部屋にアーティストのポスターを貼るのに比べ、ずいぶんと手の込んだ高尚な趣味である。
 茶室、なんてのは全てが「見立て」のカタマリだった。
 江戸時代に発生した煎茶道のコンセプトは、「古代中国の詩人・陶淵明の作品世界を仮想現実化する」である。つまり都会の中の、自宅の離れの一室を中国の山奥に見立てて遊ぼう、という大人の「ごっこあそび」だ。
 だから茶室に入るための、あのにじり口、と呼ばれる狭くて低い入口は都会から異世界に入る壺の入口だったり洞窟だったりする。中に掛けてある掛け軸にその異世界の風景が描かれ、置かれている道具は全て「由来」という物語を持つ。
 歌舞伎も見立ての世界だ。
 『助六』という演目では助六と心配性の兄、遊女、ライバルの遊び人、といった人物たちが他愛もない口げんかをするだけだ。しかしそこには12世紀の実話『曽我物語』という敵討ちを探す兄弟の話が見立てられている。だから助六はライバルに喧嘩をふっかけて刀を抜かせ、敵かどうかを見極めようとするのだ。
 江戸時代の観客は、同じ時代の助六たちのしゃれた言い回しを楽しみ、『曽我物語』を見立てて敵討ちの成功を願ってハラハラする。江戸時代のオタクたちも、同時にいくつもの「眼」で作品を見ていたのだ。

 

●『モスラ』のこだわり

 特撮も抽象画ととらえるより、「見立て」ととらえた方がしっくりくるだろう。だから、ゴジラの町並みにはリアリティは優先されない。ミニチュアが街に「見立て」られる事が重要なのだから。
 リアリティが優先されない、といってもそれはミニチュアの手を抜いてもいい、という意味ではない。円谷特撮の黄金期・1961年の『モスラ』では、モスラの幼虫に破壊される立川から青梅街道を通って渋谷の中心街まで、全ての建物一つ一つを写真と引き合わせて本物そっくりに作った。カメラでミニチュアの町並みをのぞき、その前に実際の町並みのスライドを重ねてそっくりか確認していたというから、ほんとに看板、店、ショーウィンドーまで完璧に実物通りに作っていたのだ。
 しかしそこまで作っても、やっぱり実際の町並みとは違う。それはよくできたドールハウスが実際の家と違うのと同じだ。よくできた鉄道模型が実際の電車と違うのと同じだ。
 細かく作ってあればあるほど実はその実際との違いが「スゴーイ」とか「カワイイ」とかいう気持ちを生む。というのも、細かく作ってあればあるほど作られてない部分が引き立って、結果的に作ってある部分が強調されることになる。
 省略と強調。
 思い出して欲しい。さっき僕は、「抽象化とはデフォルメと省略の事だ」と書いた。だから日本特撮は「抽象化された現実・印象派SFX」なのだ。

 

●スピルバーグの失敗

 さて、この「見立て」としての演出法だが、アメリカ映画界が使うとなぜかうまくいかない。
 たとえばスピルバーグ監督の「1941」というコメディ映画がある。これは太平洋戦争前夜のハリウッドの街並みの上を飛行機がブンブン飛び回って空中戦を繰り広げる、というスピルバーグ監督らしい派手な設定の映画だ。
 この映画ではアメリカ映画としては珍しく「特撮の手法」で作られた。つまりミニチュアのハリウッドの街並みの上を、ワイヤーで吊られたミニチュアの飛行機が飛び回る、という手法で撮影したのだ。ビルの窓の中の人影まで動く、というかつてないスケールのミニチュアセットだった。
 が、この映画がさっぱり受けなかった。
 面白味がないのだ。
 これに懲りたのか、スピルバーグは「1941」以降ミニチュアや吊りといった特撮の手法はほとんど使わなくなった。「ジュラシックパーク」では、恐竜はほとんどCGというSFX野郎ぶりである。

 

●『ゴジラvsデストロイア』の手抜き

 このことからもわかるように、特撮には特撮のセンスやコツや技術がいる。リアルがまったく不必要なのではなく、時に応じてはリアリティに徹する方が「見立て」がうまくいく場合も多い。日本特撮界だって、オタクから見ればブーイングもんの手抜きや勘違い演出をすることもあるのだ。
 たとえば新ゴジラシリーズの最新作で、最後のゴジラと鳴り物入りで公開された『ゴジラvsデストロイア』。主役メカ・スーパーX3の発進シーンは、スーパーX3が火を吹いて一直線に斜め上向けて飛び出してしまう。
 火を吹くのはいい。が、一直線はダメだ。
 普通、どんな航空機も短いカタパルトから発進するときは、すぐには上がりきれない。カタパルトから飛び出した瞬間、一瞬沈み込み、それから上昇する。スーパーX3、なんて名前からしてリアルではないし、そのミニチュアはオモチャ同然だ。これを「見立て」るには、どうしてもリアルな動きが必要だ。
 吊りで飛行機を飛ばすときは、上にレールを張り渡し、その上に置かれた台車から極細ワイヤーでミニチュア飛行機を吊る。このレールのラインが飛行機の飛ぶ軌道になるわけだ。飛行機がまっすぐ飛ぶなら、レールもまっすぐでいい。もちろんレールがまっすぐなら楽だが、曲げるのは手間がかかる。レールに頼らず、人間が手でワイヤーを持って直接動かすというのもできる。が、こちらは熟練の技術が必要だ。失敗して何度も撮り直し、という可能性もある。
 スーパーX3はカタパルトから発進後、いったん沈み込むように飛ぶべきだった。しかしその為にはレールを曲げなければいけない。もちろん、特撮監督はじめ現場スタッフたちはそのことを知っていたはずだ。
 その手間を惜しんでしまい、スーパーX3はオモチャのように空に飛び出した。
 嘆かわしいことだ。
 オタクたちはこのことに関して科学的に間違っているから怒っているのではない。一瞬沈み込んでから飛び上がった方がスーパーX3に重量感が出るではないか。オモチャを飛ばしているからこそ、この重量感が大切なのだ。
 それが「見立て」の心だ。
 それに一瞬沈み込んでから「うーん」と飛び上がった方がスーパーX3が頑張ってる感じがするぞ。そういった「特撮の心」をないがしろにしたことに怒ってるわけだ。「特撮の心」を軽んじると、特撮自体に足下をすくわれる。そのことを日本特撮界はイギリス人に教えられた。
 すこし「通の眼」を交えながら日本特撮の歴史の話をしよう。

 

●日本特撮映画史は戦争映画からはじまった

 1960年代は、いわゆる第一次怪獣ブームの時代である。当時の日本特撮界、特に東宝は、世界一の特撮技術・設備を誇っていた。しかしそれは太平洋戦争の「負の遺産」でもあった。
 戦時中、東宝を初めとして邦画各社は旧日本帝国軍に協力して戦意高揚映画をたくさん作った。もちろん、帝国陸軍強い、飛行機強い、連合艦隊強い、という内容だ。
 なんせ軍部の目が光る暗黒時代である。戦争に協力する映画でないと、配給品であるフィルムすら廻して貰えなかったのだ。そんな中で東宝は「実録戦記物」というジャンルを得意としていた。そこで東宝特撮技術は磨かれ、華開いたのだ。
 どんな国の映画界にも「戦意高揚映画」、つまり「戦争ってかっこいいなぁ映画」はある。とりわけ熱心だったのはアメリカで、ウォルト・ディズニープロだって戦争中はえげつないアニメを山ほど作っていた。アメリカの陸・海・空軍もそういった映画には全面的に協力した。撮影のために本物の飛行機や戦車をバンバン動かしてくれたのだ。
 けれど、アメリカと違い、日本軍部は映画のために戦闘機や戦艦を動かしたりしてくれなかった。それどころか、資料や写真も借りられない。機密保持の考え方が厳しかったからだ。
 仕方なくミニチュアの飛行機をワイヤーで吊って飛ばし、でっかいプールに模型の戦艦を浮かべた。本来ロケに使う予算で贅沢な特撮セットを組んだ訳だ。
 そのとき作ったプールや培ったミニチュアの技術、スタジオ等が戦後の怪獣ブームの基盤となった。逆に、アメリカは軍からもらう実写フィルムや軍の飛行機を実際に飛ばしてもらうという手法ばかりに頼っていたため、特撮技術は少しも進歩しなかったのだ。
 この当時の日本特撮界とアメリカSFXのレベルの差をあらわすエピソードがある。終戦後、アメリカ占領軍が東宝に『ハワイ・マレー沖海戦(1942年)』のフィルムを押収に来た。彼らは円谷英二が撮った真珠湾攻撃シーンが特撮とは信じられず、てっきり記録フィルムだと思いこんで、押収したのだ。

 

●東宝・大プールに浮かんだ全長13メートルのミニチュア空母・赤城

 『ゴジラ』から始まった日本特撮映画は、次々とヒットを飛ばした。
 『フランケンシュタイン対バラゴン』『サンダ対ガイラ』で特撮としての最高峰の映像を作り出した。
 特撮界は飛行機をはじめとしてメーザー車というどっしりした戦車やロケットや円盤まで吊って吊って吊りまくった。
 東宝の大プールには造波装置がとりつけられ、湖、湾、太平洋のど真ん中とスイッチ一つで作り出せるようになった。
 船のミニチュアはどんどん巨大になった。『太平洋の翼(1953年)』の空母・赤城のミニチュアは、なんと全長13メートル!人間20人が乗り込み、搭載したエンジンで実際に自力でハワイまで航行できた。それでも撮れない大艦隊行動のシーンは、撮影ステージ一面、大海原に見立てて寒天を敷き詰めた。職人たちが丁寧に白い傷をつけリアリティを出したりした。
 そして1966年、とうとうテレビシリーズで毎週特撮ものを放映するという大胆な番組、『ウルトラQ』が放映された。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』と続くこのシリーズは、後にウルトラシリーズとして長きにわたり放映され続けられることとなる。
 さて、ウルトラマン制作当時、日本特撮界は得意の絶頂だった。特撮ならどこの国にも負けない自信がみなぎっていた。
 当時のSF先進国・アメリカで放映されていたテレビ特撮は『スタートレック』や『アウターリミッツ』。SF設定やドラマ作りはおもしろかったが、テレビシリーズだけあって低予算な作りだった。何かというとすぐ砂漠の惑星だとかいって、ロスの田舎砂漠を色フィルターをかけて撮ったりしている。出てくる宇宙人も、センスの悪い着ぐるみだ。宇宙船はちゃちな合成で画面の中をよろよろと飛んでいる。
 こんなのに比べられる方が迷惑というのが、当時の特撮スタッフの正直なところだ。さいわいSFX映画ブームのきっかけとなった名作『2001年宇宙の旅』はまだ公開されていなかった。

 

●『サンダーバード』の衝撃

 こうして奢り高ぶっていた日本特撮界に冷や水を浴びせかけたのは、何とアメリカではなくイギリスからやってきたテレビ特撮『サンダーバード』だった。
 登場人物まで全部ミニチュアというこの画期的な特撮番組は、子供たちだけでなく日本特撮のスタッフたちも皆テレビの前に釘付けにした。
 『サンダーバード』放映当時、『ウルトラマン』とその企画に影響されて始まった『マグマ大使』が隣同士のスタジオで制作されていた。で、サンダーバードが放映される時間になるとみんな一斉に作業を中断し、それぞれのテレビを見始める。見終わると、あれはこうやって撮ったに違いない、あのミニチュアは何分の一のスケールに違いないとみんなが興奮して話し合ったというエピソードが伝わっている。
 当時の人々にとっても、『サンダーバード』には画期的にリアリティがあった。
 まだテレビ受像状態の悪い地方では、登場人物が人形とは気づかない人が結構いたというから、その信じられないほどの出来の良さがよくわかる。イギリス人は頭がでかいと思っていたトンチンカンも結構いたに違いない。
 当初、日本特撮のスタッフたちに新鮮だったのは、登場するメカの重量感、水のリアリティ、炎のリアリティだった。
 特撮の神様・円谷英二は長年の研究の末、理想的な特撮スケールを1/12、と算出していた。これに従って今まで特撮をやっていたスタッフたちは、『サンダーバード』の特撮を完全に見誤った。
 「これはきっと1/6か、1/4位のものすごく大きいミニチュアを使っているに違いない。なんせ外国のTVは金がかかっているから」と考えたのだ。
 これはある程度は真実だ。現在、世界最高のSFX技術を持つILM(Industrial Light and Magic)社の内部資料によると、ミニチュアのサイズは以下の方程式で算出される。
 24×√D/d=f
(f=シャッタースピード、D=対象の本当の大きさ、d=対象のミニチュアサイズ)
 D/dが1に近い、つまりミニチュアのサイズが大きいほど、自然なシャッタースピードで対象が撮影できる。リアルな絵が撮れるわけだ。
 が、事実はまったくその逆。『サンダーバード』のミニチュアは大変、チャチなものだった。当時、貧乏の頂点だったゲーリー&シルビア・アンダーソン夫妻が、もうどんな仕事でも受けるしかないという窮地で受けたのが『サンダーバード』。「毎週一本TV放映する人形特撮番組」というとんでもない仕事だった。
 「そのときはこれがどんなに大変な仕事かわからなかった」、と夫妻は後に語っている。
 だから、日本の特撮スタッフのように、でかいプールも広いセットもなかった。設備といえばちょっと広いめの倉庫と、そこらに落ちている木切れだけだった。登場人物が人形なのも、その方が出演料がいらないし、スケジュール調整もなしですむからだ。しかも、コクピットや部屋といったセットも小さい人形にあわせて作ればいいから安上がりだ。「とにかく安く」が『サンダーバード』の合い言葉だったのだ。
 それが功を奏した。
 『サンダーバード』のよくできたミニチュアの世界は、見事にドールハウス効果を発揮した。たとえば『サンダーバード』の人形は頭がでかい。小さな人形に表情を出したり口を動かしたりという仕組みを組み込むため、仕方なく頭だけ大きくなってしまったのだ。それが実にイイ味を出している。
 ばかでかい透明プラスチック製の汗をかいたり、ヘルメットの透明部分がすごく分厚かったりする。そのことで小さい人形であることがいやがおうにも強調される。そのため、逆に人形のつけている安全ベルトの金具がきちんと作られていたりするのが引き立つ。きちんと縫製された服が、縮尺の関係でちょっと分厚くて不自然なのが精密感を醸し出すわけだ。
 『サンダーバード』の大ヒットでお金持ちになったアンダーソン夫妻が次に『キャプテンスカーレット』で人形の頭を小さくして8等身にすると、人気はガタ落ちになってしまった。頭のでかい人形だからこそよかったのだ。

 

●サスペンションは台所用スポンジ

 同様に日本特撮のスタッフが感心したリアリティ、つまり登場するメカの重量感、水のリアリティ、炎のリアリティも、実は「ドールハウス効果」だった。
 まず重量感。
 『サンダーバード』の記念すべき第一話、原子力旅客機ファイヤーフラッシュ号に爆弾が仕掛けられ、国際救助隊サンダーバードが救出に向かう回のワンシーンだ。着陸脚を出すと爆発するというので、輸送機サンダーバード2号のコンテナにエレベーターカーを乗せて発進する。
 で、コンテナからエレベーターカーが出てくる場面。
 なんとエレベーターカーの車体がサスペンションで大きく揺れ、ぎしぎしきしみながらおりてくるのだ。ゴムタイヤも車体の重みでへこんでいる。
 何という重量感!
 確かに現実の車にはすべて自重を支えるためサスペンションがついていて、ゆっくりたわむようにできている。が、冷静に考えれば本物の車はこんなにぐにゃぐにゃに揺れたりしない。このオーバーサスペンション表現は、前輪と後輪の車軸を台所用スポンジ(貧乏!)で支えることによって成功した。タイヤだってコンドームを流用したミニチュア・タイヤだ。そしてこれらのミニチュアは、日本特撮のミニチュアより小さく、つつましいサイズだったのだ。
 次に水のリアリティ。
 海には特に力を注いで巨大プールや巨大戦艦を作ってがんばっていた日本特撮界は、『サンダーバード』の波のリアリティに驚いた。どんな大きいプールがあるのだろう、とか我が社ももうちょっと大きいプールを作った方がとか話したりした。
 が、実際は彼らにはプールなんか無かった。さっきまでミニチュアを作っていた作業台の四隅に板を打ちつけて、その中にわずか深さ3センチに水を張って撮影していたのだ。
 波の巨大感とは、要するに波の大きさと速度によって醸し出される。だからその水を職人の親父さんがいろんな力や速さで揺らしてみて、撮影してみる。そうやってちょうどの波を見つけたわけだ。何度もやっていると親父さんの波づくりの腕も上がってくる。撮り直しも減ってくるわけだ。
 実は、『サンダーバード』の海のシーンをよく見ていると、どれもカメラフレームが固定していてほとんど動かない。どうやら小さいプールらしいというのは冷静になればわかるのだ。が、まさかテーブルの上で撮っているとは当時の日本特撮スタッフたちは思いも寄らなかったのだろう。
 けれど、テーブル上での撮影は東宝の大プールと違い屋内なので、天候に左右されず、いつでも気軽に撮影できるという利点がある。とにかく安上がりだ。
 次に炎のリアリティ。
 それまで日本特撮界はロケットの炎などは、すべて火薬を仕込んで点火していた。だから炎といえばシューシュー出る花火みたいなものばかりで、その表現をだれも疑わなかったわけだ。
 が、『サンダーバード』は違う。炎がものすごい勢いなのだ。煙も出ていて、ロケットが本当に今にも飛び出しそうに見えた。日本スタッフたちの間では「何だ!? あれは?」と大騒ぎになった。これは本物のロケットエンジンを使用していたのだ。
 戦闘機の座席には脱出用ロケット、という小型ロケットエンジンが付いている。飛行機が故障したときに座席ごと脱出するためのロケットだ。すべての戦闘機に付いているから当然、大量生産で、当然安く、安全だ。『サンダーバード』のスタッフはこの小型ロケットエンジンに目を付けた。
 『サンダーバード』は低予算番組だ。だからあらゆる事にリアリティを追求できない。そこで本当に大事な部分を決め込んで、そこを思い切ってお金をかけてリアルにする。他の部分は目をつぶるわけだ。ロケットの火と煙にリアリティをつける。すると全体に驚くほどのリアリティが出た。つまり省略とデフォルメだ。

 

●特撮の心

 『サンダーバード』を見てショックを受けた日本スタッフたちが、これらの衝撃の事実を知ったのはだいぶん後になってからだった。
 奢り高ぶっていた日本スタッフたちが、設備やミニチュアの大きさにばかり頼って「特撮の心」「見立ての心」を見失いかけていた頃、イギリスでは貧乏な中「特撮の心」「ドールハウスの心」をたっぷり盛り込んだ作品が作られていたというのもなかなかいい話じゃないか。特撮の心とは「イメージを大切にする心」であり、本物そっくりではなく「すごい」「かっこいい」「いかにも」「かわいい」といった感情を引き出すことを意識して作ることでもある。
 そのための方法論としてデフォルメと省略がある。何をどのくらい強調し、何をどのくらい省略するか、に特撮監督のセンスを見て欲しい。それが「粋の眼」で特撮を見ることなのだ。
 わざわざ山奥から運んできた大岩。
 由来を持つ茶器。
 極限にまで精密に作られたミニチュアセット。
 こういうものが「見立て」に値する。
 だから最近のゴジラシリーズは、オタクたちには不評だ。あれを作っている人達は「ミニチュアは見立てなんだからリアルである必要はない」なんて開き直って、全然汚れていない、生活感のないビルなんかばかりを作っている。小さい電気はいっぱい点灯して、綺麗なんだけど、そこには「粋」がない。
 オタクたちの期待の星として、昨年復活した『ガメラ』は、特撮の心を受け継いだ作品だ。中学を卒業してすぐ、アマチュア特撮界に入った樋口慎嗣特撮監督は今、極限までリアルなミニチュアを作ろうとしている。そんな彼はもちろんオタクで、見立ての心も判っているからだ。
 しかし映画としてはゴジラの方が、ガメラよりヒットしている。オタクに不評のゴジラの方がメジャーなのだ。
 それは登場人物の着物がみんな綺麗でリアリティのない水戸黄門の方が、黒沢明の「七人の侍」よりメジャーなのと同じ理由だろう。
 邦画界を殺したのは見る目のない観客だ、とも言われている。みんなもっとオタクになるべきではないだろうか。


「-2 世界と趣向

 

●スーパー戦隊ものは忠臣蔵である

 オタクたちの間で「スーパー戦隊もの」と呼ばれているテレビシリーズがある。『秘密戦隊ゴレンジャー』とか『太陽戦隊サンバルカン』などの、東京地方では毎週金曜日、午後5時半から放映している例のアレだ。もう20年も続く人気シリーズだから、子供の頃見た方も多いだろう。5人の正義の味方が、赤とか青とか黄との原色コスチュームに変身して、一人の怪人をよってたかって殴ったり蹴ったりしてやっつける、という番組だ。一時、イジメの原因だとか言ってPTAや教育委員会で騒がれたこともある。
 この戦隊シリーズ、普通の人から見れば、いったいオタクたちは何が嬉しくて毎回ビデオに録ってまで見ているのか、さっぱりわからないだろうと思う。どの話を見ても同じに見える。毎年新番組としてタイトルも変わるが、どこが変わったのかわからないくらいだ。ストーリーは単純な勧善懲悪だし、怪人やモンスターの趣味も悪く、見るからに子供だましだ。
 「どうせオタク連中は、ヒロインのパンチラが嬉しいんだろう」、などといわれたりしてしまう。
 が、それは下司の勘ぐりというもんだ。戦隊シリーズのヒロインはアイドル性も高くなく、パンチラもあまり見えても嬉しくない。第一、いちばん激しいアクションシーンでは、いつも変身してパンツどころか顔も見えない。変身後、スーツの中に入っているのは男か女か判らないぐらいだ。
 実は、楽しいところはそんなところじゃない。
 これはフツーの人たちが「世界と趣向」を理解できずに戦隊ものを読みとろうとしているところからおきる誤解といえる。「世界と趣向」というのは歌舞伎の作劇用語だ。江戸時代の歌舞伎マニュアル本『戯財録』では、「世界」というのは事件・時代・登場人物・ストーリーの基本展開といったものを指す。いわば「江戸時代の黄金パターン」だ。
 たとえば忠臣蔵というお話がある。切腹を命じられた主君の仇を討つために47人の家来が敵の家に乗り込む、というストーリーや、47人それぞれのキャラクター(生真面目とか、愛妻家とか、元服を済ませたばかりのまだ年端もいかない少年とかいった設定)が「世界」である。いわば観客も承知している約束事だ。このストーリーと設定によって発生するドラマや「泣かせ」は、変えたりはしない。が、これだけでは毎年同じものをすることになるし、どこの劇団の出し物も同じになってしまう。
 そこで、それぞれ独自の「趣向」を取り入れる。「趣向」とは今の流行や意外な視点、新キャラなんかのことだ。
 今回は女忠臣蔵で47士の奥さんや恋人の心情を中心にやってみよう、とか今回は舞台を現代に持ってきて大企業内の派閥争いにしてみようとかするわけだ。
 つまり、そのときの流行を取り入れたり、中心人物を変えてみたり、タッチを変えてみたりして目新しくする。こういう工夫を「趣向」と呼ぶ。歌舞伎を見に来るお客さんたちは「今回はどんな趣向だろう」というのを見に来るのだ。だから知ってるお話、つまり同じ世界の話を何度でも見に行く。日本の伝統文化では、こういう決まった「世界」を様々な「趣向」で楽しむ、というパターンのものが多い。
 落語なんかを例に考えてみるとわかりやすい。同じネタを違う落語家が話すと、また別の味が出る。聞く方もすっかりオチまで知っている話を、その味を目当てに聞きにいく。「世界」を承知していて、「趣向」を楽しみにいくわけだ。まさか落語ファンを爺ファンと考えたり、歌舞伎ファンを化粧ファンと考えたりする人はいないだろう。というわけで、同じようにスーパー戦隊もののファンはパンチラ姉ちゃんのファンではないのだ。

 

●『マジンガーZ』から『新世紀エヴァンゲリオン』まで、世界は同じ

 オタクの世界で評価の高い作品の中には、こういった「世界」があって「趣向」を楽しむものが多い。
 たとえば「ロボットアニメ」と呼ばれるジャンル。
 主人公は、10代の少年である。その子供が極秘で開発されたロボットに乗って戦う。戦う相手は人類の敵のように描かれるが、最後のあたりで「実は〜」といった因縁や真相が語られる。主人公の身内は、たいていは父か祖父がロボットの開発に関わっている。
 このフォーマットはこの25年間、まったく変わっていない。古くは『マジンガーZ』から、今やクラシックといえる79年の『機動戦士ガンダム』も、画期的なアニメとして95年秋に放映された『新世紀エヴァンゲリオン』も、この「世界」から一歩も出ていない作品群だ。オタクたちはこの「世界」を承知の上で、その上に乗っている「趣向」を楽しむ。
 たとえば大ヒットした『機動戦士ガンダム』の趣向を見てみよう。
 ロボットものとは思えないリアリティのある戦争物としての設定。主人公はジオン公国の独立を認めない連邦軍側の戦争嫌いの少年だ。偶然で乗ったガンダムで戦うハメになりながら、そのまま連邦軍に組み込まれてしまう。単純な勧善懲悪とは違う、戦争映画の面白さだ。
 人間ドラマも、これまたリアルだ。ガンダムを作った父は、戦争の後遺症のため連邦軍をクビになり、片田舎で廃人同然の生活をしている。母は生計を立てるため、地球で愛人と暮らしている。苦しむ主人公は、結局自分の生きる道として大嫌いな連邦軍の戦艦のために戦う。そこには自分を必要としてくれる人々がいるからだ。
 で、またロボット戦争の日々が再開する。
 いかがだろうか?ロボットアニメ、としての「世界」を一歩も踏み外さず、新しい「趣向」として現代の若者像・戦争像を取り入れていることがお判りいただけるだろうか。

 

●美少女は必ずペットを飼っている

 ロボットアニメと同様見逃せないのが「美少女変身アニメ」だ。こちらも厳然たる「世界と趣向」がある。
 「世界」は普通こうなっている。まず、かわいい女の子が主人公で、不思議なアイテム(オモチャ会社がスポンサーなので、当然、光ったり電子音が鳴ったりする)で変身する。変身することでフツーの女の子では解決できない問題を次々と解決していく。自分が変身できることは秘密で、可愛い動物のマスコットと一緒に住んでいる。
 これが美少女変身ものの「世界」だ。
 美少女変身ものの大メジャー作品『美少女戦士セーラームーン』の「趣向」はこうなる。まず主人公以外にも変身できる女の子を登場させる。その子たちとの友情や恋の鞘当て、日常のキャラクター劇がラブコメタッチで描かれる。しかし、基本の「世界」は忠実に守ったままだ。

 

●スーパー戦隊ものは水戸黄門である

 ではいよいよ例の「スーパー戦隊もの」を理解するために、この「世界と趣向」という視点・粋(いき)の眼を使ってみよう。
 「スーパー戦隊もの」、とは何か。それは「東映特撮変身ヒーローもの」という他の子供番組シリーズの中でも、特に強烈な「世界」を持つ番組である。あまりにも他の作品とは一線を画した世界を持っているのだ。
 まず、その「世界」、つまり決まっている約束事を説明してみる。スーパー戦隊もの、とは特別の回(第1話、最終話)を除いて、だいたい毎回のお話は同じようなパターンだ。
※正義の5人の戦士が各色に変身して、一人の怪人を5人がかりで倒す。
※5人の戦士の上には、なぜか必ず上司がいて、いろいろ命令したりアドバイスしたり、番組内の設定を教えたりする。
※敵には大ボス、幹部、怪人、戦闘員がいる。戦闘員は全部同じデザインのやられ役である。
※怪人は毎回新しいデザインのが登場し、毎回20分目には巨大化する。
※5人の戦士は自分専用の乗り物を持っていて、毎回、20分目あたりでそれぞれの乗り物が変形しながら長々と合体して巨大ロボットになる。
※5人は巨大ロボットに乗って戦い、必殺技でやっつけ、怪人は爆発してめでたしめでたし。
 このあたりが初期設定としての動かしがたい「世界」である。もちろん正義の味方が3人だったり、怪人が一度に二人出て次の回でまとめてやっつけられたり、という多少の変更はある。が、ほとんどはこの通りだし、決して5人が一人になったり10人になったりしない。そんなことをしたら「スーパー戦隊もの」ではなくなってしまう。
 で、これらの「毎回の約束事」プラス「年間を通じての約束事」もある。これも毎年、大体同じだ。
※新番組が始まる2月には、正義の5人は「変身アイテム」、「剣」、「銃」が与えられる。
※3月中旬頃、5人のロボットは合体する。
※ゴールデンウィーク頃、新兵器が登場する。
※夏休み前、強力な敵に今までのロボットは敗れ、新型ロボットが登場する。
※秋になったら敵の幹部の内輪もめが始まる。
※クリスマス頃、敵の大ボスは内輪もめで倒され、真の敵が現れる。

 

●趣向は忍者から西洋ファンタジーまで

 では、ここまで厳しい「世界」の中で「趣向」はどうなっているだろうか。比較的最近の人気シリーズ「ジュウレンジャー」「ダイレンジャー」「カクレンジャー」で、それぞれの味付けを見てみよう。
 「恐竜戦隊ジュウレンジャー」のカラーは西洋ファンタジーだ。
 登場する怪人はゴブリンやキルケ、大ボスは魔女パンドーラ。部下はグリフォンや小鬼といった、それぞれいかにも「ファンタジー」なデザインだ。
 主人公たちの変身前の衣装もファンタジー小説の表紙みたいだし、使う武器もアーチェリーや剣、斧などとファンタジーの様式を踏襲している。
 ここまでくると、主人公たちの乗り物守護獣もドラゴンやペガサスという感じもするが、残念ながら恐竜ティラノザウルスやプテラノドン、トリケラトプス等々だ。恐竜ブームに合わせたのだろう。
 これに対して「五星戦隊ダイレンジャー」は中国ファンタジーだ。
 主人公達はカンフーを修行し、「気」の力を使いこなし、龍、麒麟、鳳凰、獅子、天馬という中国の伝説上の動物を呼び出す。これらが主人公たちの乗り物・奇伝獣だ。もちろん変形してロボットになる。主人公たちがこの乗り物を呼ぶアイテムは天宝来来の珠。中国の風水みたいだ。
 上司は道士・嘉挧、服装もカンフーぽい衣装だ。老道士・虞翻は中国のギラギラ刺繍入りベストに白く細い髭。
 これに反して敵のファッションにはバリエーションがある。大ボス・ゴーマ15世は平安貴族風。三幹部がボンテージ感覚のレザールックという流行を取り入れるのも忘れない。
 「忍者戦隊カクレンジャー」は日本ファンタジー。
 主人公たちは忍者の子孫。それぞれ鶴姫、サスケ、サイゾウ、セイカイ、ジライヤというイカニモな名前だ。普段はグランジファッション(当時流行っていた)だが、戦闘シーンになるとまず忍者装束に変身する。ただし、自分のカラーをマフラーにしていてカラフルだ。次に戦闘スーツに二段変身するわけだ。
 主人公達の基地である風雲幻城が変形合体したロボットが「無敵将軍」で、胸に天守閣、という思い切ったデザイン。
 敵の怪人も河童、天狗や座敷わらしといった日本の妖怪。大ボスも妖怪・大魔王だ。

 

●バンダイの意図

 このように毎シリーズごとになかなか趣向が凝らされている。これが20年も続いているのだから驚きだ。20年間「世界」をかたくなに守り続けながらも、より作品としておもしろくするにはテクニックもアイデアもより高度なものが要求される。普通は新しい別の作品を作りたくなるものだ。その方が作る方も楽だし見栄えもする。しかしスーパー戦隊シリーズはかたくななまでにこの「世界」を守り続ける。
 なぜか?
 この戦隊シリーズが別に高視聴率の超人気番組というわけではない。いつも10%前後をうろうろしている普通の番組だ。ではなぜ20年も続いて21年目も中止の声を聞かないのか? 答えは単純。スポンサーのおもちゃ会社、バンダイがシリーズ続行を望んでいるからだ。
 バンダイは日本最大のオモチャ会社であり、この番組の内容にも深く関与している。だから主人公たち5人は何がなんでもそれぞれ1台ずつ乗り物に乗るし、5体のロボットは合体する。子供に人気の超合金ロボットを売るためだ。
 超合金は結構大きく、重く、合体させたり分解したりのメカニズムも複雑なので、おもちゃの中では高額商品だ。長年のノウハウの蓄積で、出来もいい。生産や販売のラインも完備している。子供の満足感も、オタクたちの評価も共に高い商品だ。
 毎年巨額の売り上げを約束されているスーパー戦隊シリーズは、2月中旬に新シリーズに切り替わる。で、だいたい3〜4回の放映でメンバーの紹介や各人のメカの紹介が終わり、3月中旬、初めてロボットが華々しく合体する。同時に超合金おもちゃのCMも開始する。つまり、子供たちが春休みで、入学・進学のお祝いがもらえる季節である。
 もちろん、それまでも番組関連のおもちゃは売っている。主人公たちの持っている変身用アイテムだったり、ピストルとか剣型の武器だったり、主人公たちのビニール人形だったりする。これらは超合金よりかなり手頃な値段である。
 で、買ってもらえる子供が一通り買ってもらったあと、満を持して高価な合体ロボット発売となる。
 バンダイの戦略はこれだけでは終わらない。
 ゴールデンウィーク前には新しい武器。
 子供が帰省し、祖父・祖母からお小遣いが貰える夏休みには新型ロボット。
 そして最後にして最大の稼ぎ時、クリスマス・お正月にすべてが登場して、在庫一掃をめざす。これを売り終わったあと、戦隊ものはまた新しいシリーズに変わるわけだ。
 というわけで、戦隊ものでは春休み前にロボットはようやく合体し、ゴールデンウィーク前には強い敵が現れ新しい武器が登場して何とかやっつける。夏休み前、新しい正義の味方が持ってきたりして新しいロボットが登場する。お小遣いの少ない秋口には敵の内輪もめでドラマを盛り上げて、そして年末にはストーリーとしてもクライマックス、いろんな武器やロボットが総登場して大活躍する。
 これが1年間通してのストーリーであり、戦隊ものの世界の重要な骨組みとなっている。このあたりの事情を理解し面白がれないと、スーパー戦隊ものの魅力はなかなか理解できない。一人前のオタクたるもの、自宅に数セットの合体ロボットがあるものだ。

 

●17分の趣向

 そういった目で戦隊ものを見直すと驚くべき事が発見される。
 普通30分のテレビ番組はCM、オープニング、エンディングを抜くと正味22分くらいだ。だから3話構成の「サザエさん」などは1話7分のフォーマットで作られる。
 が、戦隊ものは違う。ストーリーに22分も使えないのだ。
 変身、決めポーズシーン。
 ロボットを呼んで、乗って、合体するシーン。
 必殺技を決めるシーン。
 これらを毎回、入れなくてはならない。なんとこれらはすべて毎回、同じフィルムの使い回しだ。つまり正味5分くらいはおもちゃのCMが本編のクライマックスとして組み込まれているのだ。その結果、ストーリー、ドラマは22分じゃなくたった17分で解決しなくてはならない。おまけに始まって約17分目が合体シーンだとほぼ決まっている。
 これらすべてが驚異の戦隊ものの「世界」なのだ。
 さて、クリエイターにとってこんな極寒の環境で仕事をするのは至難の業だ。それでも彼らは精いっぱい「趣向」を凝らしてくれる。そして感動を運んでくれるのだ。まさに職人芸としかいいようがない。
 そんなスーパー戦隊ものの中でも、その職人芸が頂点に達した珠玉の作品が『五星戦隊ダイレンジャー』だ。近年の名作として評価も高い。
 この作品の趣向について少し語ってみたい。これを読めば、オタクたちがどんな趣向をどう楽しんでいるのか、わかってもらえると思う。
 ダイレンジャーにおける趣向の見所はたくさんある。テンポがよく、美しいアクションシーンを一度見ると、スティーブン・セガールの格闘シーンなんかおおざっぱで見られなくなる。マスクは「それぞれのキャラクターの個性」と「伝説上の動物の意匠」を洗練されたデザインで融合することに成功している。お馴染みの戦闘スーツも最高峰の名にふさわしく、日本人の体型を計算し尽くしたバランスでどんなに動いても皺一つ寄ったりしない。
 が、なんといっても第一の絶大な魅力は、バカみたいな「世界」を忠実に守りながらも作り出すリアリティやキャラクター劇だ。
 まず、主人公たちの描き方。彼らの社会的立場がラーメン屋やペットショップ美容院の店員だったり、留学生だったり、地に足がついている設定だ。
 普通の戦隊ものは空手やカンフーの達人だったり、科学者だったり、冷凍睡眠していた古代人類のプリンスやプリンセスだったり異星人だったりだ。よく言えば夢のある、つまり現実感のないものばかりなのだ。
 そのオープニング。主人公たち一人一人を順に映す、おきまりの紹介シーンからして非凡な構成だ。
 ダイレンジャーでは早いカットつなぎで、決めポーズ→ヘルメットのアップ→普段着の主人公が自転車で走るカット、とテンポよく進む。自転車のシーンでは画面中に変身後の色を取り入れている。主人公・亮(赤)は赤いブルゾン、という具合に見分けがつきやすくて親切だ。
 その自転車の乗り方でキャラクターの紹介をやっている。この演出が見事。
 主人公の亮(赤)は笑いながら元気よく、照れ屋の大五(緑)はゆっくりまじめそうに、熱血漢・将児(青)は必死で自転車を左右に揺らすほど早く、オシャレな知(黄)は片肩にジャケットをかついでキザっぽく、紅一点のリン(ピンク)はにこやかに楽しそうに。これだけで見ている子供達には、彼らの性格が判ってしまう。
 もちろん本編内にも、こういった配慮が行き届いている。
 たとえば、落ちこぼれで元暴走族、現在はプロボクサーめざして修行中という将児が、自分と同じ落ちこぼれの敵怪人3人組に心が動いて、3人の嘘に振り回されるという話がある。
 「落ちこぼれの俺が信じてやらなきゃ、誰があいつらを信じてやるんだよ!」、となかなか感動的だ。
 なんとこの3人組は6月・8月・11月と3回も登場し、最後には正次の熱い心に触れて「兄貴と呼ばせてくれ!」という名台詞まで残すイイ話になっている。
 まあスタッフとしては怪人3体作ったんだから合計で3話分もたさなければいけないのは当然なのだが、忘れた頃に登場させるのがうまい。見ている方も、長編ドラマを見た気で感動してしまう。怪人のデザインも話自体もコミカルなタッチに仕上げているところも成功の秘訣だろう。これをシリアスにやると、着ぐるみの怪人相手ではさすがにつらいはずだ。
 こういった主人公一人一人にまつわるキャラクター劇が、ダイレンジャーではきちんと用意されている。
 まじめな大五と孔雀明王との悲恋もの。
 リーダー亮とゴーマによって怪人にされる魔拳士・ジンとのライバル友情もの。
 ヒロイン・リンと6人目のダイレンジャー・コウ(9歳)との軽い恋愛もの。
 田舎出身、今は反動でものすごいオシャレな知と田舎弁丸だしダサダサの亀男とのコミカルな友情もの。
 これだけの内容を、あの締め付けの強い「世界」の中で表現しているのだ。あの制限の中で、よくこんなにはめ込めたと感心する完成度だ。ちゃんと合体ロボットの登場もストーリーに絡めて見事にこなしている。
 夏休み前に出る新キャラ・キバレンジャーコウ。リンにあこがれる9歳の少年として登場して、新しい武器やロボットをもってくる。同時に行方不明の母が敵の幹部に捕まっていると知り「母恋い物」としてドラマは進む。捕まえているのは実は双子の兄の阿古丸だ。自分の味方になれとせまられ、因縁の戦いが続く。寄せ木細工のような見事な構成だ。
 ドラマ自体はどれも単純でわかりやすい。普通のホームドラマでこんなのをやったら見れたものではないだろう。着ぐるみの怪人やおもちゃ丸だしのロボットが出てくる戦隊ものの世界だからこそ、こうしたちょっとしたドラマが映える。
 決めポーズやアクションが見事に決まる「世界」だからこそ、こうしたドラマやキャラクター劇が「趣向」として映える。

 

●騙されてあげた上で評価するオタクの粋

 そしてオタクたちはそうした趣向を「ちょっといくらなんでも無理があるんじゃない?」とか「おお、今日はお見事」とか「ちょっと安易すぎ〜」とかいいながら楽しんでる。子供向けの番組に一度騙されてあげて、その上で評価する。騙されてるのを承知の上で、本気で感動したりもする。
 ヨーロッパの貴族にとってスポーツがステイタスになりうるのは、「徹底的に無意味な戦い」だからだ。領土をめぐる戦争と違って、勝っても負けても何一つ得るもののないスポーツに熱中できるのはジェントルマンの証、と言われた。
 それと同じく、「子供騙し」の番組を大人になってからあえて見る、と言うのも相当無意味な行為だ。ましてやそれに本気になる、なんて相当な粋人(すいじん)でなければ出来ない。
 「粋(いき)」はオタクに必要不可欠な要素なのだ。

 


「-3 美少女キャラの文脈

 

●文脈を押さえる

 アート業界には「文脈を押さえる」という言葉がある。
 今までいろんな作品が発表されてきた。その個々の作品の個性や関係性を考慮しながら、最新の作品を捉える、という意味である。
 何を継承していて、何が新しいのか。
 こういう見方、つまり「文脈を押さえ」ていないと、作品を理解することもできない。
 ぼんやり見ていたのではアートは理解できない。
 ただ、目に映るものを見るだけではいけない。
 これはあまり語られることのない真実だ。アート業界の人はすぐに「ただ、見ればいいんです。素直に感じればいいんです」とか言う。もちろんウソっぱちだ。素人相手のメクラマシだ。「文脈を押さえる」ことこそ、アートの本質なのだ。
 アニメにも、やはり文脈を押さえてみないと理解できないことがいくつもある。
 1980年代半ば、それまで存在しなかった店舗・ビデオレンタル店が日本中に氾濫した。それと同時にオリジナルアニメビデオブームが起きた頃のことだ。それまでアニメなど企画したこともない会社まで次々とオリジナルアニメを作り始めた。
 東芝映像ソフトという会社も、九千万という大金をかけて60分のオリジナルアニメ、『ザ・ヒューマノイド』を作った。同じ頃、僕は『トップをねらえ!』というオリジナルアニメを45分で一巻あたり二千五百万で作った。
 結果、『ザ・ヒューマノイド』は二千本しか売れず、『トップをねらえ!』は一巻あたり三万本以上も売れた。そのとき東芝映像ソフトの担当に「何故『トップをねらえ!』は売れて『ザ・ヒューマノイド』は売れないのだ?」と聞かれたことがある。
 僕は、そのときは「見たらわかるじゃないか」としか説明のしようがなかった。
 たとえば『ザ・ヒューマノイド』の主役は、空山基(そらやまもとき)がキャラクター設定している女性型ロボットだ。当時、空山基は大人気で街中のポスターなどでもやたらお目にかかることが多かった。超人気イラストレーターだったから見覚えのある人も多いだろう。だから売れる、とアスミックの担当者は判断したのだ。
 でも、アニメファンにとっては空山基のハイパーリアル姉ちゃんなんか色っぽくもなければ可愛くもないのだ。それに比べて『トップをねらえ!』のキャラクター設定は『超時空要塞マクロス』で大人気の美樹本晴彦、こっちが受けるに決まっている。だから僕は、そのとき「見たらわかるじゃないか」としか言いようがなかったのだ。
 でも、それはアニメをずっと見続けていないと判らないことだ。どんどん絵柄が進化しつつある中で、今のアニメファンにとって可愛い女の子、色っぽい女の子はどれかちゃんとわかっていないと判断できない。
 東芝映像ソフトの担当者は、「文脈を押さえて」いなかったのだ。

 

●池上遼一の美少女とラムちゃんの色っぽさ

 村上隆、という現代アーティストがいる。彼の作品『ヒロポンちゃん』を初めて見たのは1994年の秋だった。巨大なオッパイの女の子が、自分の乳首から飛び出る母乳でナワトビをしている、というトンデモない作品だ。
 村上氏は僕に「オタクの王様として、遠慮のない意見を聞かせて下さい」と尋ねた。そこで僕は思いっきり遠慮無く、本当のことを答えた。
「こりゃブッサイクですね〜。どれぐらい不細工かというと、まるで1985年あたりに不動産屋が『いっちょ映像業界にでも進出するかぁ。まずアニメでも作るべ』とか言ってスカみたいなスタッフ集めて適当にでっち上げて発売したはいいけど三百本しか売れなかったアニメのキャラクターみたいにブッサイクです」
 村上氏は一瞬当惑して、その後大笑いした。
 彼は判っていたのだ。自分がアニメキャラの「文脈を押さえて」いなかったことを。
 フツーの人が考える「色っぽい女性キャラの絵」は、たとえば池上遼一のような劇画っぽい絵のことだろう。アニメファンに大人気の『うる星やつら』のラムちゃんは「かわいい」に分類されると思う。
 これがまず大間違い。
 ラムちゃんの方がずっと色っぽい、というのがアニメファンなのだ。
 アニメの文脈を押さえるためには、何といってもアニメをどれだけ見ているかがモノをいう。アニメを見始めて半年の大人より、三年目の子供の方が目が肥えているというのがこの世界なのだ。
 たくさん見る中で少しづつ、どんなキャラが可愛いか、どんなメカがカッコイイのか、どんなお話が面白いのかわかってくる。そうして初めて、ちゃんとした創作なり批判なりができるようになる。
 この作業を抜かしてアニメを作っても、大抵は失敗する。
 キャラデザイナーは誰か、メカデザインは誰か、シナリオライターは誰か、そういうスタッフリストだけでオタクたちに見抜かれてしまうのだ。
 「ちゃんとわかってる奴」が作っているかどうか、オタクたちは想像以上に敏感だ。一般には評価が高くてもオタクの中では人気の低い人材を使用したりすると、一発で「若輩者の浅知恵!」と言われてしまう。
 女の子のキャラクターひとつとってみても、歴史的文脈がある。
『魔女っ子メグ』から始まって『キューティーハニー』モ『うる星やつら』モ『気まぐれオレンジロード』モ『不思議の海のナディア』モ『ああっ、女神さま!』モ『セーラームーン』モ『エヴァンゲリオン』と、可愛い女の子は変遷している。
 使うキャラクターが今までの文脈にちゃんと載っているのか?
 外れているとすればどれくらいどの方向へずれているのか?
 そしてそれは許される範囲なのだろうか?
 こういった判断を間違えたままアニメを作ると、結果的に金をドブへ捨てることになる。
 アニメの世界は骨董美術の世界に近い。目利きでない人はいくらお金を持っていても他の世界で権威があっても全然信用されない。そんな「半可通」はいいカモにされて、金だけ巻き上げられるのがオチだ。
 これからのマルチメディア時代、アニメやゲームのソフトを作ろうとしている会社も多いだろう。忠告しておくけど、こんな風に「文脈を押さえて」から始めた方がいいよ。でないと、ひどい目に遭うぞ。

 


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