『オタク学入門』1996年5月25日版 ン1996.Toshio Okada
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」 「匠」の眼

」-1 巨匠・宮崎駿の技

」-2 天才キューブリックの根性SFX

」-3 オタク監督・ルーカス、スピルバーグのこだわり

」-4 ストップウォッチのシナリオ学


」-1 巨匠・宮崎駿の技

 

●職人の技を楽しむ「匠の眼」

「匠(たくみ)の眼」とは何か。
 人の手によって順を追って作り上げられた作品を分解して、その手法や工程、システムを読みとろうとするエンジニアの眼である。
 それは、時計をバラす子供の目と同じだ。と同時に、バラした時計を組み立てようとする職人の眼だとも言える。このネジはどこのネジか、何のために要るのだろうか。長針が12回転したとき、短針が1回転するための歯車はどうなっているのか。複雑なパズルを解いたときの喜びは何物にも代え難い。
 幼い少年が紙飛行機を折って飛ばしながら見ているもの。羽の大きさ、角度、とばす方向、手首の返し方、紙の厚さ。彼はそのすべての関連をつかまえようと躍起になる。
 やがて、紙飛行機はゴム動力に替わり、ラジコン飛行機になり、飛ばすことはよりシビアに、より重要になる。翼の断面、重心の位置、先尾翼か後尾翼か。より遠く飛ばす為に、航空力学の勉強をしてみたりもする。うまく飛んだときの喜びは、その法則性を自分でつかまえた喜びでもある。
 蜂の巣の幾何学的な六角形のシンプルな繰り返しに感動を覚える心。
 自然が、グニャグニャグネグネした訳の分からないものではなくて、ちゃんとした規則性があるのだと発見する喜び。
 こういった少年の喜びは、科学者たちがDNAの螺旋構造を発見したり、クオークと物質の関係を把握したり、E=MC^2という単純明快な法則を証明できたりしたときに感じた喜びとおなじタイプのものだ。
 科学者の視点、職人の視点。これこそが「匠の目」だ。
 時計の仕組みの中に精密にできた小さい宇宙を見つけだすように、映画やアニメやゲームを見てみる。すると今までとは違うおもしろさが見いだせるだろう。

 

●大塚アニメの「タメ」

 たとえば『未来少年コナン』における宮崎・大塚アニメ。
 前々から何か他のアニメとは違う、と思っていたのがコマ送りすると具体的にどう違うかはっきりと判る。普通のアニメーターのアニメーションは動きがスムーズだ。たとえばボールを投げるシーンを動画8枚で描いたら、投球フォームの最初から最後までを7等分に分けて描いてしまう。
 が、大塚アニメは違う。「タメ」が長い。同じボールを投げるシーンでも、振り被ったポーズでしばらく止まってしまう。そこで「タメ」ておいてから投げるときは思いっきり早く動かす。こうすると、いかにも体重が乗った球を投げている感じがする。止まっている「タメ」の時間が長いから、セル枚数の節約にもなる。
 これに対して、ウォルトディズニープロのアニメーションは、人間のリアルな動きを忠実に再現する。たとえば白雪姫やシンデレラでは、ロトスコープという技法を使っている。実際の女優にアニメと同じ服を着せ演技させて撮影する。そのフィルムを一枚一枚アニメーターが描き写すのだ。
 ここまですれば、いやでも人間のリアルな動きが再現できる。シンデレラがスカートをつまんでくるりと回るシーンも、回り方から速さ、スカートの裾の広がり方からタイミングまで完璧に再現できるのだ。
 もちろんアニメーションだから、デフォルメはされているが、デフォルメされるのは形だけだ。
 たとえば人間の言葉をしゃべるオウムが出てくるとする。オウムの頭は大きく、羽は短く、かわいくデフォルメされている。が、羽ばたくときの羽がどう動くか、関節の位置や上がる角度、速度、すべて本物のオウムに近いほうがいいのだ。「ロトスコープ」というものの考え方自身がその価値観をよく表している。現実に存在しないものをリアルに見せようとする根性はSFXにも通じるアメリカ独特のものかもしれない。
 これに対して日本のTVアニメは1秒間に8枚しか使えないリミテッドアニメだ。ディズニーのアニメーションが1秒間に24枚なのと比べて、どうしてもカタカタカタカタと不自然な動きになる。動きをリアルに、とかロトスコープとか以前の問題だ。
 もともと日本のTVアニメは、昔は「TVマンガ」と言われていた。少年誌に連載されているマンガをTVで動かします、が目的の作品だ。当然、制作現場への注文も「リアル」よりもマンガの絵をそのイメージのまま動かすことに重点が置かれた。
 マンガの絵はデッサンとは違う。たとえば、人間の顔は必ず斜め右か斜め左のいちばんかっこいい角度からかっこよくデフォルメして描く。決して中途半端な角度から描いたり、真正面から描いたりはしない。
 そのかっこいい斜め右向きの顔から、斜め左向き顔までをできるだけ変にならないようにつなぐのがTVアニメの課題になった。
 鉄腕アトムの角がどっちを向いても必ず二つ見えていて、決して重ならないのは有名な話だが、これも同じポリシーに基づいている。
 日本のアニメはアメリカのように立体物を想定して、それを正確に動かそうとする方式とは正反対なのだ。
 この、アメリカと日本のアニメーションに対する考え方の差は、スローモーションで見ることによって、具体的にはっきりわかる。コマ送り、という家庭用ビデオの進歩がそれを可能にした。
 たとえば、重いものを持ち上げるシーン。
 アメリカのアニメーションなら、実際に人間が重いものを持つとき、どんなポーズをとっているのか、1/24秒ごとに把握する。
 膝の角度と開き方の関係は?
 踵はどの位置まで持ち上がっているか?
 どの筋肉を使い、どれぐらい膨らむか?
 ロトスコープまでしなくても、こういった解剖学的な正確さが重要になる。
 それに比べ、日本のアニメは違う。
 持ち上げようとするとすぐには持ち上がらない。この、持ち上げようとしたまま止まっている1秒ほどの描写が「重い」を表現している。そのあとゆっくり持ち上げる。途中で止めたりすると、いかにも重い感じがする。
 アメリカのアニメーションがとにかく「動き」を表現するのに対し、日本アニメは「止め」で表現する。西洋の演劇が「バレエ」という動の文化に進化していくのに対し、日本の演劇は「能」という静の文化に進化していった。国民性とも言えるかもしれない。
 静と動を自在に操るのが、宮崎・大塚アニメのおもしろさだ。

 

●『未来少年コナン』の風

 たとえば『未来少年コナン』で、ギガントという大きい飛行機の翼上を主人公コナンが走るシーンがある。飛行機は飛んでいるので、翼の上は当然、すごい風が吹いている。普通、風の表現は髪がなびくとか、服がはためく、木の枝が揺れる、木の葉が飛んでくる、というふうに「何かを動かして」表現する。アカデミーを受賞したディズニーの『シリー・シンフォニー』の嵐のシーンでも、こういった「何かを動かして」表現する描写が目白押しだ。
 が、『未来少年コナン』のこのシーンでは、コナンがすごい風のために前に進めない、という表現をする。
 タタタ、と翼の上を走るコナン。
 すごい風圧で吹き飛ばされそうになる。
 その場に踏ん張り、うーんと顔をゆがめて耐えるコナン。長々と絵は止まっている。
 次にまた、タタタと走るコナン。
 これを順に見せると、いかにも風圧がすごい中、コナンががんばってる感じがするわけだ。こういったことが、ビデオデッキの登場でコマ送りで見ることによってようやく認識された。「映像を時間ごとに分解して理解する」、という作品の見方、すなわち「匠の眼」を手に入れることができたのだ。一度、この事に気付いて注意して見ることを習慣づければ、別にコマ送りで見なくてもわかることも多い。
 オタクたちの「匠の眼」はますます鍛えられていった。

 

●『ルパン三世・カリオストロの城』をコマ送りで見る

 しかし日本アニメの技術力を見る絶好の教材といえば、なんと言ってもメジャーになる前で貧乏な頃の宮崎アニメだ。ここでのテキストは劇場アニメ『ルパン3世・カリオストロの城』のオープニング。注意しながら見てみよう。
 このオープニングは、ルパンと相棒の次元が小さい自動車でずっと道を走ったり、休憩したりする旅のシーンで構成されている。それらのシーン一つ一つが少ない絵、少ない動きで見事に演出されているのには驚かされる。「見事!」としか言いようがないほどの「止め」や「引き」の集大成だ。
 「止め」とは同じ絵をそのまま何コマも撮影すること。当然止まって見える。
 「引き」とは同じ絵を少しづつカメラの前で引っ張って動かしながら撮影すること。形はそのままでスライドして、動いて見える。どちらも絵の枚数を使わない、安上がりな演出法だ。
 監督の宮崎駿氏は「純粋にスタッフ訓練のため、この作品を作った」と後に語っている。たしかにこれだけ少ない枚数で多くの表現を実現した作品は空前絶後だ。具体的にそのオープニングを分解・観察してみよう。

 

●二枚の絵で30秒を保たせる画面構成力

 オープニング・タイトルの直後、運河の土手にルパンと次元の車が止まっている。二人は背景の運河を進む船を眺めている。このシーンは夕焼けの逆光の中。だから絵は基本的にシルエットのみだ。
 背景の船がゆっくり右に動く。このシーンは、ほとんど車の絵と船の絵一枚づつで30秒近くを持たせている。ただの手抜きカットにならないのは、圧倒的な画面構成力(レイアウト)のうまさだ。
 まず、通り過ぎる船が変化に富んだ複雑な形をしている。その複雑なデザインが集中する甲板上部だけ見えている。だから、ゆっくり後ろを動いているだけでも見る方を飽きさせない。
 なぜ甲板上部だけ見えているかと言えば、後ろを流れる運河の水面は手前の土手よりずっと低いからだ。だから、車の高さで船を見れば上だけしか見えないわけだ。普通のアニメではついつい船全部を描いてしまい、画面が単調になってしまいがちなシーンだが、さすが宮崎・大塚コンビ。
 しかしさすがに、この2枚の絵だけで30秒持たすのは無理、と考えて手前の土手を3人の人物が通り過ぎる。最初は自転車に乗った人。次にゆっくり歩いている人。その次は犬と子供が楽しそうに駆け抜ける。この人間の動く早さと、船の動く早さの差で画面にスケールが感じられる。
 次のシーンはまたも横向きのアングル。画面中央を堤防が一直線に伸びて、その上をルパンらの車が走っている。画面の前も後ろも夕焼けに染まる海だ。
 このカットも車はたった1枚の絵だ。しかし「堤防と手前の海のセル画」を横向きに引っ張っているので、車は動いて見える。向こうの海の模様が3枚くらいの置き換えでチラチラと照り返して光る。こりゃタダの「セル置き換え」だ。これで10秒以上持たせてしまうのだ。
 スゲえぜ、宮さん!。ぼくたちオタクは賛美の声を惜しまない。
 次のシーンは雨の中、大きく右手に曲がる道をルパンらの車が走り去る場面だ。ここは手抜きしていない。曲がった道を自動車が遠近感で小さくなりながら走る、という大変技術的に難しいアニメーションに挑戦して、見事成功している。ほんと、うまいんだよなぁ。僕も『オネアミスの翼』で似たカットを作ってみたが、なかなか同じ効果は出せなかった。
 匠の技、恐るべし。

 

●真夏の日差しまで感じさせる望遠圧縮効果

 次は坂道を真正面からレイアウトしているシーン。それを思いきり遠くから望遠レンズで撮影したかのような効果で作画している。遠くのものを望遠レンズで撮影すると、遠近感が失われてちょっと面白い効果が出る。これは「望遠圧縮」と呼ばれて、黒沢明なんかが大好きな効果だ。
 手前をトラックが走ってくる。タイヤが回っていて、車体がゆっくり下へスライドして画面からアウトする。これで坂道を手前に降りていることがわかる。右側にはルパンの車の頭が坂の向こうからだんだん見えてきて、スライドでどんどん上へあがり、全体が見える。タイヤが回っている。と言ってもさっきのトラックと同じくタイヤの部分だけセルを置き換えてるだけだ。
 ルパンの車は、次にゆっくり下がる。今度は車全体が見えたままだ。これで道の向こうから手前へ坂を上って、降りてきたことがわかる。「望遠圧縮」だから、車の大きさは変わらない。ゆっくり上へスライドさせ、次に下へスライドさせているだけなのだ。しかし手抜きには見えない。逆にこの「望遠圧縮」効果が、真夏の日差しを感じさせる場面になっている。

 

●雲が真上に流れるダイナミズム

 次は、横向きに走る車を地面スレスレからのアオリで捉えた場面。自動車全部はフレームに入れきれず、左側のボディだけが見えている。窓ガラスに光が反射して中は見えない。こういうゴマカシは本当に名人芸だ。
 車は左向きにぴったり止まってるが、タイヤだけは回っている。これで車が左へ走ってるように見えるが、タイヤの回転は2〜3枚のタイヤの絵の置き換えだ。画面左上には、大きく空がレイアウトされている。
 このシーン、走り続ける車の孤独感と、何とも言えない壮快感が表現されている。しかし、相変わらず14秒もあるシーンなのに作画枚数は驚くほど少ない。まず、前輪だけ見えている車のタイヤが、3枚で動く。同時に道にそって並んで立っている街灯がリピート(同じセルの繰り返し)で動く。これだけで、車が走っているように見える。画面奥の反対車線を大型トラックが3台、すれ違う。1台目と3台目は全く同じトラック、つまり「セルの兼用」だ。
 しかし、このシーンのもっとも注目すべき技法は背景を流れる「雲の方向」だ。左手上に大きく見えている空の雲がゆっくり流れている。普通なら、車が左下へ進んでいるから単純に右上へ雲を引いてしまう。しかし天才宮崎・大塚コンビはそんな安易な構図は取らない。
 ここでは思い切って雲を真上に引っ張っている。この微妙な「引っ張り角度の裏切り」が不思議な効果を出して、画面に果てしない空のスケールを与えている。本来なら、次々と大型トラックが前から来る緊張したシーンが、この空の開放感でぐっとリラックスした感じになっているのだ。おまけに雲を右上という斜め方向に引っ張るより、真上に引っ張った方が撮影さんに払う料金も安上がりだ。
 次は踏切で列車の通行待ちのシーン。ルパンたちの車は画面左で向こうを向いて止まっている。その向こうを果てしなく長い長い列車が通り過ぎる。さらに画面手前には構図が単調にならないように野の花があしらわれている。
 ルパンが車の上へ腰掛け、次元は車の側で立小便をしている。この手持ちぶさたな演技で列車の長さを演出している。アメリカやヨーロッパではよくあるが、列車が長すぎて何十分も踏切が閉まり続けているのだ。
 カメラ位置が低いので列車の車輪の間からむこうの町並みが見える。動いているのは列車だけ。それでも見えかくれする町並みを見ていると、決して退屈しない。つまり引っ張りのセル一枚(列車)と止めのセル二枚(車とルパンたち、野の花)の三枚だけで6秒ものシーンを持たせている。
 オープニングでラストに近いカット。
 満天の星空。ゆっくり下へカメラがパンする。ルパンが車の上に座って星を見ている。これは縦長の星空の背景をスライドさせて撮るだけでいい。次元は、ピクリとも動かない。ルパンがタバコに火をつける。一瞬丸く、オレンジ色にタバコの火が光り、すぐ消える。
 これが上半身だけの演技なのだ。不自然にならないように下半身との境目は巧妙に寝袋で隠されている。
 この原稿を書くために僕はまた、何十回目になるか、このオープニングを見た。一人のオタクとしての感想は「凄い・・」だけど、アニメプロデューサーとしての感想は「この狸オヤジどもにはかなわねぇよなぁ・・」だ。
 どのカットも、ほとんど絵の枚数を使っていないのに全然退屈させない。それどころか、旅の孤独感や人に頼らないルパン達のダンディズムが伝わってくる。
 どのカットでも、彼らは常に二人だけだ。周りに人がいても、常にすれ違うだけ。それがよけいに彼らの孤独感や、異国の地へ来たという感じを盛り上げている。
 動かない中に、多くの意味を込める日本のアニメならではの手法。ぼくたちオタクは、それをビデオデッキの中で発見した。

 


」-2 天才キューブリックの根性SFX

 

●オタクたちをひれ伏せさせた『2001年宇宙の旅』

 「匠の眼」が冴えるのは、何といってもSFX(スペシャル・エフェクト)に関してだろう。このSFXを語るためには、名作『2001年宇宙の旅』(以下、『2001年』)から始めるしかない。
 『2001年』は天才スタンリー・キューブリック監督が1968年に作ったハードSF映画だ。宇宙船ディスカバリー号に装備されているコンピュータHALが、ある日人間のいうことを聞かなくなる。故障か?と思ったら、実はコンピュータが独自に進化していたためだった。乗組員とHALは決闘し、勝った乗組員はやがて人類を継ぐもの、「スター・チャイルド」として生まれ変わる、というとんでもないストーリーだ。フツーの人にはちょっとついていけない、「ハードな」SF映画なのだ。
 公開されてから25年以上たつ今でも、『2001年』は最高のSF映画としてオタクたちの間で特別の評価と尊敬を受けている。それはこの映画がいまだにSF作品としても超一流であり、同時に努力と根性のSFXが光っているからだ。
 もう『2001年』は宇宙船ディスカバリー号のデザイン一つとってみても「いわゆる」なSFロケットとはほど遠い、ものすごくヘンなデザインだ。その精子をモチーフにしたという形状も、表面のでこぼこやパイプも、すべて厳密な科学的考証がついていて、僕たちオタクはひれ伏すしかない。
 たとえば馬車やカゴしかない中世の時代人たちがF1マシンのデザインを見たら、ヘンに感じるだろう。それで当たり前なのだ。同じく『2001年』なんていう33年も先の宇宙船のデザインが1968年の観客にとってヘンでないはずがない。
 よく当時に、ここまでやった。
 いま自分たちに、同じ仮題を与えられたとして、どこまで出来るか?
 僕たちはそう考え、ひたすらひれ伏した。が、ひれ伏しながらも「落ちつけ〜!」と自分にカツを入れる。匠の目にぐいっと力を入れる。
「いったいこのシーン、どうやって撮ったんだろう」
 と、根性を込めて見つめるのだ。それは1999年にもし、目の前に後光を背負った神様が降りてきても「こいつの循環器系はどうなってるんだ?」と観察を忘れない生物学者と同じ、立派な態度だといえる。
 で、その結果何とか見抜くことができた秘密の一つ目、それが「長時間露光」という奴だ。

 

●1秒の画面に4時間の撮影時間

 「2001年」が制作されていた頃は、いわゆる宇宙ブームのはしりだった。宇宙空間で撮った写真が初めて公開され、人々は熱狂して、そんな写真を見つめた。
 宇宙空間で撮られた写真には特徴がある。変に明暗の差(コントラスト)がはっきりしている。太陽の当たるところは真っ白に飛んでいるし、当たらないところは真っ黒に写っている。そして画面の手前から奥まで、全てピントが合っているのだ。
 明暗差が激しい理由は簡単だ。地球上だと、大気のせいで光が拡散して、暗いところも明るいところもそれなりに見えるのに宇宙空間は真空なので光の拡散がまったく無いためだ。しかし画面手前から奥までピントが合っている理由は、宇宙用カメラには広角レンズが搭載されているためだった。
 広角レンズで撮ると、広い視界が撮れて面倒なピント合わせの問題もない。自動操縦や遠隔操作の多かった初期の宇宙機用カメラには広角レンズが必需品だったのだ。
 もともとドキュメントカメラマンだったキューブリック監督は、このリアリティにこだわった。地球上でも、太陽の光が燦々と降り注ぐ南の島や砂漠で撮影するとコントラストの激しい写真になる。ということは、それよりもっと大量の光を当てながら撮影すれば、宇宙空間で撮った写真のようになるはずだ。
 しかし太陽の光は強力だ。人間の作るライトでは、砂漠の太陽光ですら再現できない。ましてや宇宙空間の空気に拡散されない太陽光なんて制作不可能だ。
 おまけに画面の手前から奥まで焦点が合ってる映像なんてキチガイ沙汰だ。そんな被写体深度の深い映像を撮るためには、レンズの光量(絞り)を限界まで絞らなければならない。そんなことをしたら画面は真っ暗になってしまうだろう。針の先ほどまで絞り込んだカメラで、砂漠の太陽光より強い光を撮影する。キューブリックはこの、全く矛盾する2つの問題にアプローチしなければならなかった。
 そこで、キューブリックが採用したのが「長時間露光」という撮影法だ。
 普通カメラのシャッタースピードは、晴れた日なら1/1000秒から1/250秒、曇りなら1/100秒だ。シャッタースピードはカメラの中に入る光の時間を調節する仕掛けで、よく晴れた日なら1/1000程度の光で撮影できるわけだ。
 逆に真っ暗な中での撮影は、シャッターは多い目に開けなくてはいけない。夜景を撮るときなんかには「シャッター開放」といって2〜3秒、多い時には10秒以上シャッターを開けっ放しにする。
 キューブリックは宇宙空間のシーンを撮影するとき、ミニチュアにありったけのライトを当てながら、絞りを限界まで絞り込んだ。その結果シャッターを何と10分間、つまり600秒、開放することになった。
 一方向から強いライトを当てながら600秒もの間、シャッターを開けっ放しにする。するとどうなるか?
 ディスカバリー号は、光と影だけの存在となった。そして10メートル以上あるその宇宙船のミニチュアの船首から艦尾まで、完全にピントが合っている。
 この映像は、NASAとかが発表する宇宙写真とそっくりだ。いや、それよりもリアルじゃないか!
 誰も見たこともない、しかし圧倒的にリアルな宇宙空間が撮れたのだ。
 しかしそのかわり1コマ、24分の1秒分のフィルムを撮影するために10分かかる。たった1秒分のフィルムを撮影するのに4時間も必要なのだ。つまり努力と根性と、非常識なほどの制作期間が必要というわけだ。
 当然、お金もかかる。人件費もスタジオ代も当然1日ごとに増えるからだ。
 「2001年」以降、様々な映画で、いろいろな宇宙シーンが撮影された。が、1秒につき4時間という非常識な長時間露光に挑戦した映画会社はない。あのスターウォーズ・シリーズですら、出来なかった撮影法なのだ。
 日本特撮映画『さよならジュピター』では『2001年』みたいなリアルなデザインの宇宙船を登場させた。しかし『2001年』みたいな撮影スケジュールは取れない。ライトを近くから当ててみると、ミニチュアの宇宙船は融け出してしまう。とうとう特撮班は宇宙船の影になる部分に黒い色を塗りはじめた。小さいミニチュアを大きく見せるため、広角レンズで撮影した。おかげで映画は思いきりセコくなってしまった。

 

●日本特撮が合成を嫌うわけ

 この長時間露光という技法は、余裕のある予算以上に、余裕のあるスケジュールがないと実現困難なのだ。しかも、多重露光で撮影したディスカバリー号は1コマずつ動いていて、星空と合成してあるのだ。
 これはむちゃくちゃ大変だ。
 実際の話、日本特撮界は合成が大嫌いだ。宇宙を飛ぶロケットを撮りたい場合は、星空のホリゾント(背景)の前で、ワイヤーで吊ったロケットを動かす。ロケットのお尻には火薬を仕込んで火を吹かせる。この方が、スタッフ全員、今何を撮っているのか具体的によくわかって現場は盛り上がるのだ。
 合成の場合はロケットだけ撮って、星空だけ撮って、ロケットの炎だけ撮って、となって、何をやってるか自分たちでもよくわからなくなる。その場で成功・失敗が判ることを好む職人気質の特撮屋さんはカメラの前の一発撮り・「吊り」を好むのだ。
 おまけに合成は手間がかかる。
 たとえば星空の背景にロケットを合成する手順をちょっと説明してみよう。面倒な人もちょっと我慢してくれ。
 まず、ブルーバックの前でミニチュアのロケットを撮影する。青の背景にロケットだけが映っている奴だ。これをフィルムAとする。
 さて、フィルムAでロケット以外、つまり青い部分を黒く抜いたフィルムA@を作る。これはフィルムの現像時に特殊な赤フィルターを使うことによってフィルムAから簡単に作れる。このA@を逆に焼くこと(反転焼き)によって、ロケットの部分だけを黒く抜いたAAが出来る。これを「合成用マスクを切る」という。憶えておくと、いつか役に立つ日が来ないとも限らない。
 次に星空を写したフィルムBを用意する。この星空のフィルムと、ロケットの部分を抜いたAAを合成すると、ロケットのシルエットだけがぽっかり空いた星空のフィルムB@ができる。
 ここで、ロケットだけのフィルムA@と、ロケットのシルエットだけ抜けた星空のフィルムB@を合成すると、ようやく星空の中をロケットが飛んでいるフィルムABが出来あがる。
 大変な手間だ。書いてる僕も面倒くさいし、読んでるあなたも面倒だろう。しかしこれは最も簡単な「二重合成」なのだ。実際に撮影する人達は、もっと面倒な四重合成、五重合成なんかをやっている。本当にご苦労さんだ。
 しかも、動いているロケットを撮影した場合、当然ロケットのシルエットはほんの少しブレて映る。そのため、ロケットだけのフィルムA@と、ロケットの部分だけ抜いたAAに微妙なズレが生じることが多い。ズレたまま合成すると、大変なことになる。
 星空のロケット型穴よりロケットが小さすぎるときはその差の部分が青く抜けて光ってしまう。そのまま映写すると、ロケットと星空の間に白い光の筋ができる。おまけに、コマごとに筋があったり無かったりするから、続けて見ると青い筋がちらちら光ることになり、とても不自然だ。逆にロケットが大きすぎると、当然ロケットの上に星が光ってしまう。
 「こんな不自然なもの、お客様にお出しするわけにはいかない」というのが日本映画界・特撮職人の心意気だ。だから合成より吊りにたよる。けれど吊りのロケットに星空のホリゾントだと、いかにもおもちゃのロケットが青く塗った宇宙の絵の前を飛んでいる、というふうにしか映らない。

 「こんな嘘っぽいもの、面白いはずが無い」というのがアメリカ映画界・SFX職人のクールな判断だ。だから合成を多用する。しかし何も考えずに合成しまくった飛行機と背景はパース(遠近感)がずれていたり、合成画面がクリアでなかったりして、なんだか締まらない映像になってしまう。

 

●合成の境目をなくせ!

 この難問をキューブリックは又、根性で解決した。
 「2001年」の星空は見事だ。真っ黒な星空にまぶしいほどの星がちりばめられている。紺色の紙の上に銀色で描いた星とは大違いだ。おまけに、合成ラインが全然わからない。チラッとも光らないのだ。
 それは、1コマごとに止まっている宇宙船を撮ったから当然、と考えるかも知れない。が、実は1コマごとに人間の手でロケットを少しづつ動かすと、当然がたがた揺れて、もちろんあんなに優雅に動いてはくれない。
 そこでキューブリックが考え出したのは、次のような装置だった。
 10メートル以上もある長〜い金属棒を用意する。この棒の端から端までネジを切る。つまり超巨大なボルトを作ったわけだ。この10メートル・ボルトにナットを取り付け、それに宇宙船のミニチュアを据え付けた。
 棒を一回転させると、ネジの上をナットがほんの少し動く。するとミニチュアの宇宙船もほんの少し、動く。回転を1/2回転とか1/4回転にすると、もっと微妙に宇宙船を動かせる。この方式だと1回転すれば何ミリ、半回転なら何ミリ、と正確に一直線上を移動できるわけだ。
 この装置を使ってディスカバリー号を少し動かして1コマ撮り、またちょっと動かして1コマ撮り、という方法を使った。これだけ聞くと、昔ながらの人形アニメーションと同じ気がする。が、この作業はさっきの長時間露光とセットなのだ。
 つまり、ネジをちょっと回して、10分間撮影し、またネジをちょっと回して10分間撮影する、という気の遠くなるような作業を何十日も繰り返して、ようやく数秒のカットが完成するという仕組みなのだ。
 こうやってできあがったディスカバリー号のフィルムを、星空と合成する。もちろん1コマ1コマ、別のA@とAAとB@を作ってから合成するのだ。単にディスカバリー号が宇宙を飛んでいるシーンだけでこれだけの手間がかかる。

 

●ミニチュアの窓の中で人間が動く理由

 「2001年」には、もっとすごいシーンがいっぱいある。
 たとえば、月面で謎の石版が発見されたため、調査隊員たちがムーンバスという月面飛行艇に乗って調査にいくシーンがある。ムーンバスは月面ぎりぎりを飛ぶ。だから、ムーンバスのミニチュアを長時間露光で撮ってから、星空と月面を順に合成する。
 すごい手間だ。
 が、ここまではいい。このシーン、ムーンバスの窓からは中に乗っている調査隊員が見えている。しかもそいつは動いているのだ。のんきにサンドイッチのバスケットを覗きながら「ハム、ハム、ハム、ハム」とハムサンドを探していたりするのも映っているのだ。
 星空や地面は動かないからいいが、ムーンバスの窓は当然ムーンバスといっしょに動いている。動く窓に別の映像を合成なんかしたら、どんなにがんばっても窓の形がグニャグニャグラグラ動いて見えてしまう。
 こういう絵を撮りたい場合、普通は中に小さな人形とライトを入れたミニチュアを撮影する。が、それではハムサンドを探したり、コーヒーをついだりする人間の自然な演技は絶対にできない。そこでそういうシーンを見せたい場合には、まずムーンバスを映し、次のカットで船内を映す、という風にカットつなぎで見せる。演出の力でごまかすわけだ。
 が、キューブリック監督は逃げなかった。
 まず、ミニチュア模型のムーンバスの窓に、スライド用スクリーンの布を張る。で、この布にあらかじめ撮っておいた人間の演技を1コマづつ映写するのだ。この状態のまま撮影すると、窓は絶対グニャグニャ形を変えたりしない。また、窓の中と外とで質感が変わってしまうのも防げる。いいことずくめなわけだが、当然その為の手間は膨大だ。
 ムーンバスを、さっきのギアを回して1コマ分進める。
 次のコマのスライドを映写し、それから10分間撮影する。
 そのフィルムを月面や星空と合成する。
 たった1コマにものすごい手間と根性がつまっているのだ。

 

●眩しい光のシーンは1コマ1時間

 さらに凄いのは、ディスカバリー号のアンテナが故障したために、ディスカバリー号から作業用の小型艇が発進するシーンだ。
 まず、ディスカバリー号の球形部分やや上の方に窓があって、ボーマン船長が見守っている。ここはさっきも説明したスライド方式で1コマづつ映しているのだ。
 次に、下の方の作業用ハッチが開くと、ハッチからぱーっとまぶしい光が漏れる。長時間露光したディスカバリー号よりまぶしい光なのだ。これは、多重露光といって、いったん撮ったフィルムを巻き戻して、その上からもう一度、ハッチから漏れる光だけ撮り直しているのだ。そんなまぶしい光を撮る方法はただ一つ、さらに露光時間を長くするしかない。特撮監督のダグラス・トランブルは「あのシーンは1コマ撮影するのに、まる1時間の露光が必要だった。もうあんな映画はゴメンだ」と語っている。
 次に、作業艇がすーっと発進する。動くのだから、当然別撮りで一コマにつき一時間だ。次に、発進した宇宙艇のヘッドライトがピカーッと光る。ここも多重露光しているわけだ。ここまで複雑な作業がわずか数秒のシーンの中に詰まっているのだ。
 書いてるだけで目眩がしてきた。しかもこれらのシーンは「2001年」の中で一番難しいシーンではないのだ。
 ボーマン船長が光の渦に呑み込まれるシーンで使われた「スリット・スキャン」と命名された光学撮影。
 CGよりも美しい木星を作り出すために開発された「ジュピターマシン」というメカニズム。
 そのどちらもが「2001年」以後も。ほとんどの特撮マンたちが手を出せない、という超絶技法だ。これら根性のSFXこそが「2001年」の圧倒的な高級感を作り出しているのだ。


」-3 オタク監督・ルーカス、スピルバーグのこだわり

 

●『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』の見所は雪だ!

 「2001年」の次に、SFX技術が圧倒的に進化したことを知らされたのは「スター・ウォーズ」によってだった。特にシリーズ第二作・『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』の雪の惑星・ホスのシーンには度肝を抜かれた。
 『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』は、公開前からこの「雪の惑星」というのが話題の的だった。というのは、白い背景、たとえば雪の上なんかでは正確な合成は不可能だというのが当時の常識だったからだ。
 どんなに正確に合成用マスクを切っても白い背景の上に合成なんかしたら合成線がチラチラ光って見えてしまうはずだ。それはSFXマンにとって死ぬより恥ずかしい醜態だ。あの名作「2001年」ですら、合成のバックは真っ黒な宇宙だったのだ。
「雪の惑星?白?えーっ!?どうすんだよ。どうせ、雪の上ではちょっと鉄砲撃ち合うだけで、すぐ宇宙に逃げ出したりするんだろうな」
 とか話し合ったりしていた。
 で、公開当日。もちろん僕は徹夜で大阪のOS劇場前に並んで『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』を見た。
 問題の「雪の惑星」のシーン。心臓がドキドキした。
 「デンデデデ、デンデデデ」とジョン・ウィリアムスの景気のいい音楽が鳴り響き、純白の雪山の上を画面は滑るように飛ぶ。
 「まさか!やるつもりか!?」
 と思った瞬間、いきなり真っ白なスノースピーダーがびゅーん!とすごいスピードでフレームの中に飛び込んできた。
 「し、白い雪の上に、白い飛行機の合成!!」
 おまけにスノースピーダーは魔法の絨毯みたいに左右にぶーんぶーんと揺れている。しかも、フラップやら方向舵やら、あちこちの装置をぱたんぱたんと複雑に動かして、進路を変えているのだ。どうやって合成用マスク、切ったんだ?
 オタクたちは皆喜びの悲鳴を上げた。
 「えーっ!?こんな事ができるようになったのか!?」
 スターウォーズ・シリーズが凡百のSF映画と違っていつまでも語り継がれるのは、こんな風にいつも「不可能への挑戦」をやってくれるからだ。しかもこれがいかに凄い挑戦か判るのは、世界中のオタクだけなのだ。
 ジョージ・ルーカスから放たれた、オタクたちだけに判るメッセージ。それが「雪山の上を飛ぶ、純白のスノー・スピーダー」という名シーンだ。

 

●モーションコントロールカメラの威力

 あの「2001年」でもできなかった、白の上に白の合成を可能にしたのは、コンピュータを利用したモーションコントロールカメラだ。当時アップル社から発売されていたパソコン・APPLE2を改造してカメラ台につないだのが、モーションコントロールカメラの原型だ。
 スタッフのジョン・ダイクストラが考案したこのカメラ、当時はダイクストラ・フレックスと呼ばれていた。しかしすぐ他でも応用され、今ではモーションコントロールカメラというのが一般名詞になっている。余談だが、ちょっと古いファンの中には、未だにダイクストラフレックスと呼んでしまい、年がばれてしまうことがある。
 それはさておき、この発明のおかげでカメラは正確にまったく同じ動きを何十回でもできるようになった。「2001年」のように一直線上だけではもちろん無い。上下左右前後、縦横無尽に動けるのだ。望遠からクローズアップのタイミングも割合もすべて自由自在だ。これのおかげでスターウォーズのスピード感のある自由自在の宇宙船チェイスが可能になった。

 

●CGを手描きで描いた『2001年』

 『2001年』から「スターウォーズ」の間にコンピュータ技術は驚くほど進化した。『2001年』の頃には映画にコンピュータを利用すること自体が不可能だったのだ。
 たとえば『2001年』には、コンピュータHALがディスプレイに自分の故障個所を表示するシーンがある。まずワイヤーフレームでアンテナが表示され、それが上下左右にぎゅいーんと回転し、根元の故障個所がピーッピーッピーッと光る。
 いかにもCGらしい表現だ。コンピュータが見せる絵なのだからコンピュータグラフィックらしいのは当然だ。が、実はこれがニセCGなのだ。当時のコンピュータ技術では、こんな単純なワイヤーフレームの動きすらできなかったのだ。バーチャファイターの複雑な動きを当たり前と感じてしまう今とは雲泥の差だ。
 で、キューブリックは仕方なく人間の手でCGっぽい絵を描くという手段をとった。こうやって手で描いたアニメーションを16ミリで撮影し、これをHALのディスプレイの後ろから映写する。すると、いかにもHALが表示しているCGという感じに仕上がるわけだ。
 10年後の「スターウォーズ」では、本物のCGが登場する。デススターの弱点を手に入れた共和国軍が、その弱点をみんなに説明するシーンだ。
 でっかいスクリーンにワイヤーフレームでできたデススターの立体図が表示される。この立体図がぎゅいーんぎゅいーんと前後左右に回転し、弱点がピッピッと赤く点滅する。すると、赤く点滅している溝の部分がぐーっとアップになって、渓谷に入っていく感じになる。どんどん渓谷を進むと、赤く点滅する弱点に到着し、そこで爆弾が発射され、爆発する。
 「2001年」の時よりはるかに複雑な動きを、スターウォーズでは本物のCGでできるようになったのだ。

 

●300重合成!!

 このコンピューターの発達は思わぬところでいろんな成果を生みだした。
 『スターウォーズ3・帝国の逆襲』では、モーションコントロールカメラは新型のコンピューターで更に複雑な動きが可能になった。そしてそれをフルに利用して、映画史に残る究極のオプチカル合成を敢行したのだ。
 それは敵要塞・デススターの前で帝国軍と共和国軍が艦隊決戦を繰り広げるシーン。迫り来る宇宙艦隊の奥から画面手前に向かって、何十機の敵戦闘機が自由自在にびゅんびゅん飛んで来る。味方の艦隊と戦闘機隊がそこに突っ込み、画面の中は双方のレーザー光線と爆発で一杯になるシーンだ。
 「2001年」では、1コマづつミニチュアをギアで動かして撮ったから単純な動きしかできなかった。しかし『スターウォーズ3・帝国の逆襲』ではコンピューター制御で何千回でも同じ動きが出来る新型モーションコントロールカメラが開発された。これによって、どんな形の宇宙船であろうとも、どんな複雑な3次元の動きでも自由自在になった。
 それぞれの宇宙戦艦と戦闘機は、みんなバラバラに動いている。だから、一機一機別々に撮って合成するしかない。まず宇宙をとる。次にデススターをとり、合成する。これで二重合成。これに戦闘機Aを合成、これで三重合成。その戦闘機Aから発射されるレーザー光線をとる。これで四重合成。こうして戦闘機をとり、爆発をとり、どんどん合成していくとなんと三百重合成以上になってしまった。
 前にも説明したように、合成には手間がかかる。AとBを合成するにはA@とAAとB@のフィルムを作ってからABにするしかない。三百重合成というのは二百九十九回、この作業をして、初めて数秒のフィルムが出来上がる、という意味だ。ここで使われる「オプチカル合成」という手法は、二本のフィルムを完全な同期を保ったまま同時に上映し、その二つの映像を複雑なプリズムやレンズを使って一台のカメラで再撮影する、という作業だ。だから三百本のフィルムを合成する、というのは、AとBを合成してCを作り、その上に又Dを作ってという作業を繰り返すしかない。すると、この合成はどうしてもズレてしまうのだ。
 旅行の写真なんかを友達に見せたとき、焼き増しを頼まれるときがある。そんなとき、あの小さい絵がずらりと並んだネガの中から目的の写真を探すのに苦労したことはないだろうか?
 映画の撮影に使われる35ミリフィルム、というのは私たちが写真で使うフィルムとまったく同じ、と思っていい。幅がわずか3.5センチしかなくて、その横にはパーフォレーションというフィルムを送り出すための穴がズラリと空いている。フィルム一コマにつき、四つの穴が空いているのだ。
 さて、映画フィルムの1コマの大きさは写真用のフィルムと同じ、少し大きい目の切手サイズ、といったところだ。映写機やカメラという機械は、この小さなフィルムの横に空いた穴に歯車を引っかけて動かす。歯車仕掛けの機械だから、当然「遊び」という機械の隙間・余裕があることには変わりない。
 オプチカルプリンターとは、2台の映写機の映像を一つのカメラで撮影する機械だ。当然、この「遊び」がある。だからどうやっても、合成された映像には、僅かのズレができる。切手より少し大きい絵が劇場のスクリーン一杯に拡大される。人間の目には見えないほんの少しの傷でも、スクリーンには拡大されて映ってしまう。わずか0.01ミリのズレも、スクリーン上に拡大されると5センチになってしまう。ズレると白い合成ラインがチラチラして、大変みっともない。これで三百重合成なんかやれるはずがない。ぼくたちオタクが、その宇宙戦闘シーンに驚いたのはこういう理由があったからだ。
 タネ明かしをすると、スターウォーズではズレを0にするのではなく、最小限に抑える努力をしたのだ。
 まず、SFXシーン撮影時に35ミリフィルムではなくて70ミリフィルムを使用してみた。これでフィルム面積は2かける2で四倍だ。(わかるね?)しかしこの方法はうまく行かなかった。70ミリフィルムは種類が少なく、特撮向きとは言えない。
 次にチャレンジしたのはビスタ・ビジョン方式だ。説明しよう。
 通常、カメラに対してフィルムは縦に走る。しかしビスタ・ビジョン方式では、フィルムは横にして撮影される。これだと通常の35フィルムの面積は2倍以上になる。当然フィルム横の4つの穴・パーフォレーションの数も8つに増える。穴が増えると、機械の「遊び」もそれだけ少なくなる。つまりズレもうんと小さくなるわけだ。もちろんフィルム面積が大きいのも、ズレを少なくするのに役立っている。
 さて、こうやって完成した「パーフォレーション8つ式オプチカルプリンター」は、とんでもなくばかでかい機械になった。一部屋まるまるを占領してしまうほどだった。
 「これで次は八百重合成の注文が来たってOKさ」とスタッフは大いばりだった。けど、その後すぐコンピュータ内で合成するデジタル合成の技術が開発されてしまったのだ。コンピュータ内でフィルムの中の絵を直接切ったり貼ったりできるようになってしまった。この方が簡単だし、やり直しもできる。合成ラインのズレなんか探してもない程だし、おまけに色調の調整だってできてしまう。
 なによりも困ったことに、ある程度複雑な合成の場合は、このデジタル合成の方が安くついてしまうのだ。スタッフ自慢の合成機は、あっという間に粗大ゴミと化してしまった。コンピューターの発達がモーションコントロールカメラを発達させ、究極のSFXシーンの合成を可能にした。しかし同じコンピューターの発達が、今度はそのシステム自体をお払い箱にしてしまったのだ。

 

●お金と時間

 スターウォーズでは革新的な技術だけではなく、若手SFXマンの新鮮なセンスがそこらじゅうで見たこともない映像を産み出した。
 たとえばXウイングファイター3機並んで、順番にカシャンカシャンと翼を広げてX字型に変形するシーン。お尻のロケットノズルがぼんやりと光る。徐々に温度が上昇する感じがして、いかにもそれっぽいのだ。これは火薬でもなければ豆球でもない、光の合成でもない。いままでに見たことのない「ロケットノズルの光」だった。ロケットノズルに関しては少しウルサい僕も、当時驚いたのを憶えている。
 「どうやって、あの色を出したんだろうか?」
 実はロケットノズルに、腕時計の文字盤なんかにある夜光塗料を塗っていたのだ。夜行塗料の光はホントにうっすらとした光だ。それをカメラに収めた、ということは、あのシーンは考えられないほど長い時間をかけて撮影、つまり長時間露光撮影した、ということだ。
 こういった細かい気配りや工夫は、残念ながらスターウォーズ2や3には見られない。スターウォーズ1の爆発的ヒットによってスターウォーズ2や3は1に比べてはるかに膨大な予算が注ぎ込まれた。しかし、そのかわり1が忘れられないうちに2・3を公開しようということで、スケジュールがギチギチだったのだ。
 当時のスタッフはいまもそのことにグチをこぼしている。「2001年」の長時間露光なんて、夢のまた夢という状況だったわけだ。

 

●スピルバーグの苦悩

 スターウォーズ3公開後もコンピュータ技術はめざましい進歩を遂げた。その成果は、ついに恐竜そのものをCGで作ってしまおう、という「ジュラシックパーク」を生み出すにいたった。
 スピルバーグ監督のこの超ヒット映画「ジュラシックパーク」、実は制作当初はそんなにCGを多用する予定はなかった。それまでの作品「ジョーズ」や「ET」でも、動物は基本的に機械仕掛けのロボットだった。この技術を改良して、恐竜を動かそうというのが当初の予定だったのだ。
 「ジョーズ」では、でっかい機械仕掛けのサメを作って、それをカリブ海に浮かべて撮影した。笑わないで欲しい。その頃の動物パニック映画なんて、みんなそうやって作ったんだから。
 この「ジョーズ」の撮影、スピルバーグ監督に言わせると「生涯で最も辛かったロケ」だそうだ。
 ロボット・サメの口が開かなくなる。
 逆にどこまでも開いて止まらなくなる。
 口を開けたり閉じたりするだけでもこれだ。おまけにサメの調子のいい日に限って台風が来る。
 スピルバーグ監督はエラい目にあった。しかしやはり迫力のある恐竜を登場させるには、この「実物大ロボット」という方法しかないだろう。でもあんな「ジョーズ」みたいな張りぼて丸だしの作りモノじゃダメだ。
 そこで考えついたのがモーションプラットホームの応用だった。
 ちょっと気の利いた遊園地などにある「動く椅子で見る映画」をご存じだろうか。ディズニーランドの「スターツアーズ」なんかが有名だ。モーションプラットホームというのは、あの動く椅子のシステムのことだ。
 お客を乗せた椅子を、右を向いたり上を向いたり自由自在に映画に合わせて動かす。油圧や空気圧で動く、コンピューター仕掛けのシリンダーが数十本、椅子を下から自由に動かすのだ。
 これは飛行機なんかの操縦シミュレーター用に開発されたシステムである。なんせジェット戦闘機なんてのは1分間飛ぶだけで十五万円分の燃料を消費する高価なオモチャだ。パイロットの訓練費もバカにならない。そこでモーションプラットホーム仕掛けの張りぼてコクピットにパイロットを乗せ、周りにリアルな映像を流すわけだ。
 セコいなんて言っちゃいけない。我々が乗ってる旅客機のパイロットもこのシステムで訓練したんだ。知ってた?
さて、「ジュラシックパーク」に登場する花形恐竜・ティラノサウルスを、このシステムに恐竜のぬいぐるみを乗っけて動かしてみた。が、やはり少し不自然だ。どうも動きが固い。
 そこで、その不自然さをごまかすために雨を降らせてみた。これはよく使う手だ。「ブレードランナー」でずっと雨が降っているのだって低予算をごまかすためだ。ところが恐竜の表面は硬質ウレタンでできている。こいつは細工しやすい反面、ひどく水を吸って重くなりやすい。もともと3tもあるティラノサウルスは5tにまで増えてしまい、動かなくなってしまった。
 仕方がないので1カット撮るたびにスタッフ達が恐竜に駆け寄って、バスタオルで拭く、という大騒ぎとなる。それでも思うように機敏に動かすことは不可能だった。うんざりするスピルバーグ監督。
 やっぱり「ジョーズ」と同じか。

 

●CGとの出会い

 そこへCG班が恐竜のCGを見せに来たわけだ。特にCGに期待していたわけではなかった。ちょっとしたシーンならCGでごまかすのも手だろう程度の気持ちだった。ところが、見せられたCGが実にいい。実に機敏に動いているのだ。
 スピルバーグは急遽、人形アニメで撮る予定だった恐竜のシーンを次々とCGに振り替えていった。既に実際に子どもを乗せたまま走れるロボットのトリケラトプスとか、完成しているものも多かったが、どんどんボツにしてしまった。当然、フィル・ティペットをはじめとする人形アニメ特撮班は次々と失業。かわりにCG班に発注が殺到した。こうしてできあがったのが「リアルなCGの恐竜」が売り物の「ジュラシックパーク」というわけだ。
 コンピュータの発達は今も絶好調だ。
 まず、ハードが発達する。メモリーが増え、処理速度も速くなる。
 それに伴いソフトも多様化する。映像素材の取り込みやコンピュータ上での合成もどんどん簡単になっていく。するとコストが安くなる。それと同時にどんな複雑なことも可能になってくる。
 これからのSFXも、ますます目を離せない。
 現在スターウォーズの1998年続編公開に先駆けて、ルーカス監督はスターウォーズ1の特撮パートのうち稚拙な部分、見苦しい部分をCGで作り直している。もうすぐ、圧倒的にヴァージョンアップしたスターウォーズシリーズが見られることだろう。
 同時に最新のコンピュータ技術を駆使したスターウォーズの新作も開始される。「2001年」で気の遠くなるような作業の結果ようやく手に入れた「見たこともない映像」は易々と更新され、どこまでも進化し続けるのだ。
 オタク達は、気を引き締め科学の眼を見開いて、これを見守り続けるしかないのだ。


」-4 ストップウォッチのシナリオ学

 

●映画と料理

 映画を見るときも、僕たちオタクは単に映画を楽しく見るだけで終わらない。楽しく見ると同時に俳優やスタッフの配し方だの、SFXだの、結構理性的に見ているのだ。
 中には時計をチラッチラッと横目で見ながら、
「30分見た、ここで主人公の動機が明確になったか」
「90分目、いよいよクライマックスだな」
 とか考えながら見たりする奴もいる。
 特に、ハリウッド映画はセオリー通りに作られていて、しかもそれぞれに料理の仕方が違っていて非常におもしろい。僕なんか、ハリウッド映画を見るときは必ず時計を見てしまう。
「そんなのは邪道だ。映画というのは、完全に没頭してみるべきだ」、という考え方もあるだろう。
 が、ちょっと考えてみてほしい。たとえばすばらしいフランス料理を食べに行ったとしよう。もちろん料理そのものを純粋に楽しむのもいい。
 けれど「きれー」「おいしー」「ああ、おなかいっぱい」「ごちそーさまー」で終わってしまうだけなのはちょっともったいなくないだろうか?
 それよりは、
「これは珍しい! フランス料理に醤油を使っている」とか
「このほのかな香り、これはターメリックが入ってる」
「焼いているのにこの柔らかさ、さっとあぶってから蒸しているとみた!」
 とか考えてみる方がおもしろいに違いない。
 別の店と比較してみたり、シェフに作り方を聞いてみたり「自分にとってこの店は二つ星だ!」とか評価してみたりということをする。1回のフランス料理で二度おいしい、とってもお得な楽しみ方だ。料理には材料や料理法という要素があって、それを理解した方がより楽しめる。これこそ「料理通」というもんだ。グルメ番組なんかが流行る理由もこれである。

 

●映画は短い方がいい

 これと同じように、映画にも材料や料理法に相当するいろいろな要素がある。中でも時間ごとの映画の構成というのは、重要な要素だ。特にハリウッド映画の場合、ほとんどの作品がなんと数分のずれもなく決まっている。
 というのも、ハリウッド映画は商売として少しでも儲かるようにプロデューサー側が監督に圧力をかけるためだ。
「このシーンはいらないから切れ!」、というのがその典型的なパターンだ。
 プロデューサーにとって、映画は1分でも短いほどいい。早い話、90分の映画なら1日6回上映できるのが、130分なら1日4回しか上映できない。1日6回やっていれば、それだけ観客は増えるし、興行収入はUPする。
 特に「少し暇ができたから何か映画でも」と考えている人は「あと1時間で上映」なら「ちょっとお茶でも飲んで待とうか」となるが、「あと2時間で上映」の場合は待ってくれない。一人でも多くの客をつかまえるために1日6回上映は大切なのだ。
 おまけに、フィルムが長ければ現像代もその分高くつく。全米で興行となれば2000本もフィルムを焼かねばならない。5分の節約も2000倍になるのだ。日本の相場で120分の映画現像費は50万〜100万くらいかかる。それで換算すると5分の節約は何千万円単位の節約となる。
 というわけで、プロデューサーは口を開けば「切れ、切れ、切れ、切れ」というのが仕事になる。それに対抗して、監督のとるべき手段はただ一つ。
「このカットは必要です、このカットがないと映画がおもしろくなくなります」、と論理的に反論することだけである。
 そういうわけで、ハリウッド映画には理由のないカットは一つもない。すべて論理的に計算され、説明できるカットばかりという構成になっている。それがハリウッド映画のアベレージの高さの理由である。と同時に大体の映画が似たり寄ったりのパターンになる、というデメリットもあるのだが。
 ハリウッド映画は幸か不幸か極限までシェイプアップされている。
 人間はきれいにシェイプアップすると男も女も皆似たような体型になる。同様に、映画も極限までシェイプアップされていくと、恋愛映画もアクション映画もコメディ映画も皆似たような構成になる。その構成の中でいかにストーリーを動かすか、その構成にいかに様々な要素をはめ込むか、これが脚本家や監督の腕の見せ所になる。同時に、映画のもう一つの見所でもあるのだ。
 さて、見事にシェイプアップした映画を鑑賞するためには時計が不可欠だ。肉体美にメジャーが必要なのと同じ事だ。
 まず時計、できればストップウォッチと自分の好きな映画のビデオを用意する。で、ストップウォッチ片手にビデオを止めながら見て、1分ごとに主人公の行動をメモする。LDならカウンターが読めるのでもっと便利だ。これをやると、今まで見えなかった映画の構成が急に見えてくる。まるで、暗闇で赤外線スコープを使ったような感じだ。
 が、さすがにこれはしんどい。
 僕は「ジョーズ」でこれをやったが、丸2日かかった。僕にとってこの2日間は、それまでの漠然と見ていた映画に対するイメージがバキバキと壊れていき、目からウロコがポロポロ落ちっぱなしという、非常に有意義な2日間だった。暇と根性と興味のある人にはおすすめだ。とはいえ、そんな酔狂な人はめったにいないと思うので、ここでかいつまんで説明してみよう。

 

●30分目に動機が語られる

 2時間映画の場合、まずポイントとなるのは30分目と90分目だ。30分目までは導入部、主人公と回りの人間関係が紹介され、映画全編を通して行われる主人公の行動の動機や理由が語られる。この「動機」といわれるものが語られていることがこの導入部の肝心なことだ。
 『E.T.』では主人公がE.T.を兄貴に見せて「僕が彼を守る」と宣言するのが30分目。
 『ターミネーター』の30分目はヒロインがディスコで殺されかけるシーン。これによって自分の命が狙われているのが判り、「誰から逃げるべきか」が明確になる。
 『ジュラシックパーク』では、それまでパークに夢中だった主人公の恐竜学者が恐怖に震えるシーンだ。映画の冒頭で研究していたヴェロキラプトルという最悪肉食恐竜をパークが作っていたことを知り、パークの開設に反対しはじめる。
 映画内での全ての出来事がラストシーンに向かって収束するのが90分目だ。それまで事件に振り回されていた主人公は、ここから自分の力で「解決」しようとがんばり出す。ジェットコースターで言えば「最大の下り坂へ向けての頂上」となるシーンが用意されている。いわゆる「クライマックスの快感」への突入準備だ。
 『E.T.』では、90分目で主人公が死んでしまったE.T.にお別れをする。しかしその直後、E.T.は生き返り、主人公は国家や大人からE.T.を連れて逃げ出す。
 『ターミネーター』の90分目シーンはトラックの大爆発だ。これでターミネーターは死んだ、と安心するヒロイン。しかし炎の中からターミネーターは蘇る。「逃げているだけではダメだ。戦うしかない」とヒロイン達は思い知らされる。
 『ジュラシックパーク』では、主人公が最悪恐竜が繁殖していることを知るのが90分目。このままでは被害はますます拡がってしまう。自分が何とかしなければいけない。

 

●『ダイ・ハード』の主人公は30分目に決意する

 では映画を「匠の眼」で具体的に観察してみよう。テキストは「ダイハード」。大ヒットしたアクション映画だ。
 強盗団にハイテクビルが乗っ取られ、中にいた人は皆人質となる。ただ一人、捕まらなかった主人公が強盗団をやっつけ、自分の奥さんを含む人質全員を救出するというアクション映画だ。全世界で大ヒットしたこの映画を今から分解する。
 いきなり30分目を見てみる。
 強盗団に金庫の鍵を開けるように脅された社長が殺されるシーンである。主人公は隠れて見ているが何もできない。
 このシーンは非常に重要だ。
 まず、それまで電話線が切れていて何か変だなと思っているだけの主人公が、ビルでおきている犯罪を知る。同時に、自分が警官であるのに、目の前で人が殺されてしまっても何もできなかったというシーンでもある。
 殺された人物も重要だ。前々から仕事ばかりで別居中の奥さんに不満な主人公にとって、いちばん憎い自分の奥さんを働かせている会社の社長である。その社長が、意外にも正々堂々と会社のため、強盗団の脅しにもひるまず死んでいく。
 「しまった。こいつはたいした奴だった。俺の心が狭いせいで、勝手に悪く思っていたのだ」という後悔のシーンでもある。
 同時に、旧姓を使って働いている奥さんにいらだっていた主人公が、自分の妻は本気で仕事のために働いていたんだと気づくシーンでもある。さっき喧嘩別れしたその妻は、今人質になっている。
 主人公が人質を助けるために行動する論理的理由も、感情的理由もこれでばっちりOKだ。
 次に90分目を見てみよう。今まで一人隠れて何とか警察を呼んだり、こっそり強盗団の手下を一人づつ殺していた主人公が、強盗団のボスに見つかるシーンだ。これ以降、映画は主人公と強盗団の直接の戦いへと突入する。
 銃撃戦、足を怪我して逃げる主人公。
 FBIが電源を切ったせいで開く金庫。
 屋上の爆弾を見つけ知らせようとする主人公。
 強盗団の幹部に見つかる主人公。
 幹部との戦い。
 金庫の金をもって逃げるボス。
 幹部をやっつける主人公。
 主人公消防ホースを巻き付け屋上から下の階へ。
 ボスとの戦い。
 この90分目からラストまでは、息もつかせぬ展開になっている。

 

●60分目で事件は社会問題に発展する

 では30分目から90分目、中盤はどうだろう。これもハリウッド映画にはパターンがある。動機をもって行動する主人公が様々な障害にあって、結局クライマックスの行動をとる、というのがセオリー通りの中盤展開。この1時間の間に主人公の行動はことごとく失敗し、どんどん追いつめられていく。
 30分目から90分目までの中間60分目、映画においてもちょうどド真ん中の60分目が映画の「転回点」だ。この時点でストーリーは折り返し点を過ぎ、いよいよ本質的な問題が浮上してくる。
 また、60分目で映画内の事件は「社会的事件」になる。主人公の行動が全体に影響を与えたり、世間が注目しはじめたり、という奴だ。この「社会性の導入」がうまく行かないと映画のスケールが小さくなってしまう。
 『E.T.』では、真夜中の森に通信機をセットしにいくのが、60分目。E.Tを家に隠すだけじゃなく、故郷の星に返してやらなくてはいけないと主人公が決意するが、国家にE.Tを知られてしまう、という転回点だ。
 『ターミネーター』ではヒロインが保護されていた警察署が破壊され、荒野で一夜を過ごすシーンが60分目。ここでヒロインは未来から来た青年がずっと昔から自分を愛していたことを知り、二人は結ばれる。この映画の本質が「アクションSFの皮を被った恋愛映画」であることが明らかになる。
 『ジュラシックパーク』では60分目は嵐の中、探険車がエンストするシーン。いよいよティラノサウルスが襲ってくる直前の場面だ。ようやっとこのあたりから「ジュラシックパークの恐怖」が始まる。
 では「ダイハード」で見てみよう。
 60分目は主人公が帰ろうとするパトカーの上に犯人の死体を落とすシーンだ。これによって、ようやく警察は事の重大さに気づき動き出す。
 30分目から60分目はずっと主人公が警察に知らせようとし、警察は信じない、しかも警察に知らせる行動により強盗団に居場所を知られ危機にさらされる、という展開だ。
 まず主人公は一人で見回りに来た強盗団の手下を殺し、エレベーターでボスたちのいる階へおろす。ここで宣戦布告をして、動揺させると同時に犯人たちの会話を盗み聞きして人数や居場所、誰がボスかといったデータをメモする作戦だ。
 殺した手下から奪ったトランシーバーで警察へ通報。
 しかし、信じてもらえない。
 通報したため犯人たちに隠れ場所が見つかり銃撃戦。
 必死で逃げる主人公。
 やっと警察がくる。
 とぼける犯人たち。
 帰ろうとする警察。
 主人公が異常を知らせるため、窓を割る。しかし警察は気づかず、手下がやってきてしまう。手下を射殺する主人公。異常なしを報告するパトカーに落ちる死体。逃げるパトカー。撃たれて壊れるパトカー。
 警官、ようやく本部へ報告。
 ここまでが中盤前半だ。主人公の行動、状況の変化、主人公の行動、状況の変化、とピンポンのように気持ちよく進む。しかも、すべて合理的で、特に中盤以降「たまたま」といった要素はほとんどない。見事な脚本だ。

 

●60分目から90分目の間に、主人公はますます不利になる

 次に、中盤60分目以降、クライマックス90分目までを見てみよう。60分目以降90分目までは、クライマックスをすぐ後ろに控えてアクションは押さえ気味で、主人公は前半ほど活躍しない。かわりにこの事件が社会的になったことによって、ますます不利になっていく主人公の立場が描かれる。
 警官たち突入する。
 突入部隊撃たれる。
 装甲車発進、ミサイルで破壊される。
 ニュースで主人公のプロフィールを知るボス。
 ボス、起爆剤をよこせと主人公を脅す。
 断る主人公。
 警官にまで責められる主人公。
 ボス、政治テロを装うため政治犯の解放を要求、完全にだまされている警察。
 FBIが来る。
 ここまでが中盤後半部だ。
 前半部が単に隠れ場所を知られるという追いつめられ方だったのに対し、後半は役に立たない警察、自分のいうことを聞かない警察、強盗団にだまされている警察、自分のプロフィールを敵に知らせるマスコミ、と社会的・心理的に追いつめられていく。ここまで追いつめられているからこそ、90分目以降の主人公の超人的活躍に一も二もなく拍手喝采をおくれるわけだとも言える。

 

●15分毎に見ると伏線がわかる

 これが、シェイプアップされた映画の30分ごとの構成だ。人間でいうと、スリーサイズというところだろう。これをもうちょっと細かく見ると、またおもしろい。
 たとえば導入部15分目は主人公が奥さんと喧嘩別れするシーン。
 これ以降、主人公は奥さんとずっと会えない。どうしても奥さんを助けたいと思う原因のシーンである。同時に奥さんと喧嘩してスネた主人公はパーティに出ない。そのため、ただ一人強盗団に見つからなくてすむ、という説明のシーンでもある。
 導入部30分で描かれている主人公の動機のもっとも中心となるシーンだ。
 また、45分目を見てみよう。
 コンビニでドーナッツを買っている気楽な警官に警察からビルを調べるよう連絡が入る。ビルを見上げる警官、ビルの屋上に光り、銃撃戦の光だが気がつかない。
 これも、中盤前半部で主人公が警察に異常を知らせるという話の中で象徴的だ。
 半信半疑の警察、 ビルの屋上では銃撃戦、気づかない警官と、すべての要素が入っている。
 中盤後半分の真ん中75分目は、炎上する装甲車。もう説明するまでもないだろう。
 こうやって細かく見ていけばいくほど、また新しい発見があるわけだ。見過ごしていた伏線もいくつも見つかったりするが、やはり中心は30分目と90分目だろう。

 

●おさらい

「ダイハード」以外の作品の構成を、簡単におさらいしてみよう。
 まずは「ET」。
 UFOからとりのこされた宇宙人ETを主人公の少年がかくまい、宇宙へ帰してやる話だ。
 ETの30分目は、主人公が兄にETを見せるシーン。それまで驚いたりかわいいと思ったりしていたETを、自分がかくまうと宣言するシーンだ。
 90分目は死んだと思ったETに、主人公が別れを告げるシーン。これ以降、ETと主人公はNASAから逃げてUFOまで自転車で走る、というクライマックスになる。
 中盤の真ん中60分目は、ETが送信機を作るシーン。それまでETを隠していればよかった主人公は、ETが外に出たがったり病気になったりで守ることがどんどん難しくなっていくわけだ。みごとに30分ごとの構成になっている。
 お次は「ターミネーター」。
 未来からヒロインを殺しに、殺人ロボットが来る話。同じ未来から来た男がヒロインを助け、本人は死んでいくというSFアクション恋愛映画だ。
 これの30分目を見てみよう。ヒロインを殺そうとするロボットと未来男が撃ち合うシーン。ここまではなぜか自分はねらわれているらしいということしかわからなくておびえていたヒロインが、ロボットが自分を殺そうとしていることを知り、とにかく未来男と逃げることにするシーンである。
 次に90分目は燃えて死んだと思ったロボットが動き出すシーン。これまで隠れていたり、乗り物に乗っていたりで直接ぶつかることのなかったロボットと、生身で対決することになるシーンでもある。
 このあとはクライマックス、ロボットも主人公たちもどんどん怪我をしたり壊れたりして互いに追いつめられていく。
 ではど真ん中60分目を見てみよう。60分目はロボットに全滅させられた警察からヒロインと未来男が逃げ出すシーン。これによって、この事件が社会的になる。と同時にヒロインが「未来男は頭がおかしいのでは?」と疑っていたのが、頼れるのは未来男しかいないと自覚するシーンでもある。
 60分目から90分目は中盤後半、クライマックスを後ろに控え、比較的穏やかなシーンだ。未来男とヒロインが逃避行の中結ばれる。また、ヒロインの気のゆるみから実家へ電話して居所を知られてしまうシーンも含まれる。結果的にクライマックスへとなだれ込むことになる。同時に「自分なんか」と思っていたヒロインが、未来男から自分の未来の使命と自分に対するあこがれとを聞かされ、意識を変えるシーンでもある。これがクライマックスのヒロインのがんばりにつながるわけだ。こうしてクライマックスの戦いへと、あらゆる事件がセッティングされていくわけだ。

 

●ハリウッドのプロデューサーになったつもりで

 さて、ここまで読んで見たことがある人なら気がついたと思うけど、自分の記憶している話とずいぶん違って見えたのでは?と思う。
 たとえば「ダイハード」。ダイハードという映画を話すとき、普通は自分の感情といっしょに話してしまう。
「主人公をやってるブルース・ウィリスがかっこいいのよね。足を怪我して、血を流しながら戦うとこなんかドキドキしちゃう」とか
 「悪役も頭が良くてクールでいいのよ。やっぱり悪役がかっこいいほど主人公もよく見えるってなモンよね」とか
 「ハイテクビルだからこそ、いったん乗っ取られたときはこわいんだよな」とか、単なる感想にしかならない場合が多い。
 この感想は料理の例で話した「わーきれー」「おいしー」「ごちそうさまー」と同じだ。実は映画も料理と同じ。理想の形をめざして人間が設計したものだから、基本もあれば応用もある。
 で、その基本の基本がさっき説明した60分目、90分目という分刻みの構成なのだ。これによって脚本家や監督といったクリエイターたちが何をめざしていたのかを推察することができる。同時にそのおもしろさがどう成功したのか、どう失敗したのかまで論理的に説明できてしまうことも多い。
たとえば「なるほど、30分目以降で重要人物が初めて登場している。これじゃダメだ」とか
「90分目過ぎても主人公が悩んだり困ったりしないぞ。やれやれ、これじゃクライマックスが引き立たないわけだ」とか、いっぱしの批評もできてしまうのだ。
 君も一度、ハリウッドのプロデューサーになったつもりで映画評をやってみることをおすすめする。結構改良点が見つかったりしておもしろいと思うぞ。

 


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