『オタク学入門』1996年5月25日版 ン1996.Toshio Okada
目次へインデックスページに戻る


 

、 「通」の眼

、-1 少年マンガ国盗物語

、-2 閑話休題ガレージキット

、-3 手塚治虫vs宮崎駿


、-1 少年マンガ国盗物語

●事情通だけが知る面白さ

 歴史の授業が面白くてたまらない人はあまりいないだろう。荘園の成立だの年号だの、大好きな人は変人と言われる。ところが、テレビの歴史大河ドラマが好きな人はいっぱいいる。
 歴史の授業と大河ドラマの差は何だろう。それは、その中に登場する人間のキャラクターを理解しドラマを見いだすことができるかどうか、というところにある。だから、自分の上司を「切れるけどワンマンな信長タイプだな」とか「ゆっくり他人が弱るのを待ってる家康タイプだな」とか考えるにわか歴史ファンも珍しくない。自分の上司を信長や家康にたとえるのも、要するに「キャラクター」を見ているわけだ。
 もし、それらのキャラクターがぶつかりあい悩み、成長するドラマを見いだすことが出来れば、味気ない歴史年表に隠された壮大な絵物語を見通すことが出来るのだ。
 アニメや特撮マンガといったジャンルの作品も、無名のスタッフたちが功なり名を挙げるために作られたものだ。クリエイター達の自分を認めてほしい、有名になりたい、一儲けしたい、といった欲望と、個々人の個性がぶつかりあって、様々なドラマが生まれ、いくつもの伝説が語り継がれることになる。
 映画の都ハリウッドも離婚や不倫・麻薬中毒・犯罪という、スター達の「ハリウッド・スキャンダル」とともに栄えてきた。
 日本のプロ野球人気も、観客の興味の本質は試合そのものではない。監督の親バカや選手と球団の対立・外人選手の日本批判・トレードの悲喜劇、といった東スポ的なスキャンダルにファンは熱中するのだ。
 これを読みとり、楽しむ野次馬根性、ジャーナリスティックな視点を「通の眼」と呼びたい。事情通・業界通という意味だけではない。老舗の伝統や格式に理解を見せ、ビギナーを奥深い世界へと案内する「通人(つうじん)」の視点だ。
 オタクの持つ「通(つう)の目」を見開くと、マンガ界にもアニメ界にもSFX界にも模型界にも様々な人間ドラマを見つけだすことができるのだ。

 

●ラーメン屋のマガジン、マン研のサンデー、網棚のジャンプ

 オタクの言葉に「ラーメン屋のマガジン、マン研のサンデー、網棚のジャンプ」というのがある。三誌の特徴を見事に表した言葉だ。
 暴走族ものやスポ根が多い少年マガジンはラーメン屋で読まれるし、都会的センスでマニア相手の少年サンデーは高校のマンガ研究会部室によく似合う。そしてバカみたいに売れている少年ジャンプは電車の網棚に捨てられている、といった意味だ。
 マンガを読むときも、ただ面白いかどうかだけで楽しんでいるのは素人だ。
 自分の好きなマンガの作家名を知らない、と言う言語道断の輩はともかく、好きな漫画家を追いかけたり発掘したりしているだけではまだまだ「通の眼」の修行が足りない。
 では、何を見るのか。
 たとえば、少年マンガ誌の歴史がある。
 少年マンガ誌にはそれぞれ編集部ごとのカラーやポリシーがある。それは、今も昔も変わらない伝統的なものだ。
「週刊マンガというのは、マンガ家が描くわけじゃない。マンガ家が描くのはただのマンガだ。その『ただのマンガ』をプロの場で通用する『週刊マンガ』に仕立てるのが編集者だ。編集者なくして商業マンガはあり得ない」
 というのがマンガ編集者の言い分だ。
 これは決して的外れなことではない。老舗の出版社が経営建て直しを計ってマンガ雑誌を創刊する。しかしなぜか全員、失敗する。これには理由がある。
 表面的な理由としては「老舗の出版社にはマンガの判る編集者がいない」というのがある。「お堅い文藝なんかやってた人達にマンガの事が判るのか?ケッ」ってなカンジでいかにも判りやすい理由だ。しかしこれでは本質を見失ってしまう。老舗の出版社が必ず失敗する理由。それは「商業マンガは編集が作る」という原則を理解していないからだ。
 まず老舗の彼らはマンガ家と直接、コンタクトを取りたがる。メジャーなマンガ家が原稿を描いてくれさえすればマンガは出来る、と思っているからだ。だから依頼の時に「先生の好きなものを描いて下さい」などと口走ってしまう。確かにこれで「マンガ」は出来上がる。しかしこれは決して「商業マンガ」ではない。どんなにスーパースターになろうとも、マドンナやプリンスはプロデューサーを必要とする。それほど「商業性」というのはアーティストだけでは維持できないものだ。
 さて、「ただのマンガ」を「商業マンガ」に仕立てるプロデューサー・編集者だが、当然、そのノウハウは出版社によって全く別物である。現に、現在活躍している週刊少年マンガ誌も、それぞれ編集部の方針によってまったくカラーの違うマンガ誌になっている。
 そのカラーは、時がたってもあまり変わらない。そのため、時代によってそのカラーが受け入れられてものすごく売れたり、逆にさっぱり売れなかったりする。
 これが面白いのだ。

 

●サンデー、トキワ荘メンバー獲得に成功

 少年サンデーは1959年、少年マガジンと同時に創刊された。出版界の名門一ツ橋グループのリーダー・小学館が少年サンデーを出せば、もう片方の名門音羽グループのリーダー・講談社も少年マガジンを創刊する。双方、二大名門のメンツにかけてこの戦いは負けられない。
 この二誌に途中から参戦した少年ジャンプ、少年チャンピオンを交えながら、「少年マンガ戦国時代」は始まった。
 現在、少年週間マンガ誌の王者は「少年ジャンプ」。発行部数は600万部を越える世界でも類のないバケモノ雑誌だ。しかし昔からジャンプが王者であったわけではない。創刊当時、ぶっちぎりの売れ数を誇っていたのは週刊少年サンデーだったのだ。
 なぜだろうか?
 この大成功の1番の理由は、なんといっても神様・手塚治虫を中心とした、いわゆる「トキワ荘」メンバー獲得に成功したことだ。
 「週刊少年マンガ雑誌を創刊する」、この未曾有のプロジェクトに対してサンデー編集部はまず、マンガの神様・手塚治虫の説得工作から着手した。この作戦は見事成功。当時既に小学館の月刊マンガ誌で華々しく活躍していた手塚治虫をはじめとする人気マンガ家がサンデーに続々参加した。
 そのため、少年サンデーは創刊当時から寺田ヒロオの『スポーツマン金太郎』や藤子不二雄の『海の王子』など、人気作家が目白押しだった。手塚自身も創刊号から『スリル博士』を連載はじめ、その後も『Oマン』『キャプテン・ケン』『白いパイロット』とサンデー誌上で人気連載を続けた。当然売れ行きは少年マガジンを大きく引き離し、このときの成功は少年サンデー編集部に大きなポリシーを植え付けることになる。
 それは、「人気・実力のある作家を起用して、得意分野の作品を描かせる」、というポリシーだった。「トキワ荘」メンバーたちに対しても、この編集ポリシーは受け入れられ、「サンデーは描きたいものが描ける」の噂はマンガ家仲間にも拡がった。その結果マンガ家たちはサンデーに殺到し、続々と人気作品が生まれた。
 横山光輝の『伊賀の影丸』、小沢さとるの『サブマリン707』、赤塚不二夫の『おそ松くん』、藤子不二雄の『オバケのQ太郎』。こんな連載をズラリと並べられたのだから少年マガジンに勝ち目があるはずはない。
 この「第一期少年サンデー」黄金時代は1966年頃まで続く。その後の現在まで少年サンデーは常に「人気・実力のある作家を起用して、得意分野の作品を描かせる」という作家制を守り続けている。

 

●マガジン、神様の逆鱗に触れた盗作事件

 これに対して創刊間もない少年マガジンは、売れっ子マンガ家を全部サンデーに持っていかれて途方に暮れていた。
 サンデー、マガジン創刊当時は月刊マンガ誌の黄金時代。マンガ家たちは月に1回の〆切に追われていた。そこへ突然週刊誌の仕事も受けてしまったから大変だ。いきなり月に4回もの〆切に追われることになる。貧乏根性が染み着いていたマンガ家たちは、みんな月刊誌の連載を一つもキャンセルしないで週刊マンガの仕事も受けたからだ。
 当然、人気や実力のある作家は殺人的な忙しさに追われていた。マンガ家も編集者も今まで経験したことのないパニックだった。
 こんな状況の中、新参者の少年マガジンは作家獲得戦争で完全に少年サンデーに負けてしまったのだ。結果、両誌には30万部以上の部数差が出た、といわれている。
 このままでは、少年マガジンは創刊したはいいけど潰れてしまう。音羽グループ「講談社」のメンツにかけて、この少年マンガ誌戦争に負けるわけにはいかない。
 そこで当時人気ナンバー1作家・手塚治虫の連載を、「何としても取ってこい!」という至上命令が講談社上層部からマガジン編集部に出される。編集部員は毎日、他誌編集者の「何しに来た」という視線に耐えながら手塚宅へ足繁く通う。そしてついに手塚を拝み倒して、なんとか連載を開始させることに成功した。
 ところがようやく始まった人気連載『ワンダー3』はほんの数週間で打ち切りになってしまう。
 その原因は同じマガジン誌上で始まった連載『宇宙少年ソラン』だ。
 ソランでマスコットとして登場する宇宙リスのチャッピーは、手塚のサンデーの新連載『ナンバーセブン』に登場する予定だった宇宙リスとまるまる同じものだった。誰がスパイしたのか、この真相は未だ、薮の中だ。
 とにかくおかげでせっかくの新連載『ナンバーセブン』はお蔵入りになってしまう。アニメ化の話も当然、オジャンだ。激怒した手塚治虫は、即座にマガジンの連載『ワンダー3』を中止する。と同時に、少年サンデーで『ワンダー3』の新連載を再開してしまった。『宇宙少年ソラン』の連載開始が1965年の20号、サンデーで『ワンダー3』が再開したのが23号、わずか3週間の即断即決だった。
 この一件で少年マガジンは手塚治虫だけでなく、彼を師と仰ぐトキワ荘系の人気マンガ家とも疎遠になり始めた。悪いことは続くもんで、翌年にはマガジンの中で唯一アニメ化された人気マンガ「エイトマン」のマンガ家・桑田次郎が拳銃の不法所持で逮捕されてしまい、連載打ち切りとなってしまう。
 その後も連載になかなか人気が出ない。事実、創刊4年目の1963年まで、少年マガジンではどの連載も2年以上持たなかった。
 まさにマガジン絶体絶命のピンチだ。

 

●マガジン、貸本マンガ作家起用で「劇画」立ち上げ

 「週刊マンガ連載なんて人間の出来る作業じゃない。マンガ家によるマンガ、は月刊誌が限度だ。これからの週刊マンガ時代に勝ち残るには、映画のような製作体制、すなわち『集団作業としてのマンガ制作』を確立しなければいけない」
 今までの苦い経験をもとに、少年マガジン編集部はこう考えるようになっていた。マンガ家にネタの提供だけではダメだ。マンガは編集者が作らなくてはいけない。
 編集者がまず、どんなマンガを載せるのかを決める。必要ならば、シナリオライターも雇う。そしてその話にもっとも相応しい絵柄のマンガ家を選んで、マンガを描かせる。作家の好みは関係ない。事実、『巨人の星』の川崎のぼるは野球マンガなんか描いたこともなかったし、『あしたのジョー』のちばてつやはボクシングのルールさえ知らなかった。
 「編集者はプロデューサーだ!」
 しかしこの全く新しいコンセプトは当然、トキワ荘を中心とするマンガ家たちには嫌われた。自分たちの作家性を否定されたのだから当然だ。このコンセプトに従ってくれる漫画家を捜さなくてはならない。
 そこで考え出したのが、関西で貸本マンガ家として活躍しているマンガ家たちの起用だった。この「マンガ界の野武士たち」をマガジン編集部は大胆に起用する。
 1960年代後半からマガジンで白土三平の『ワタリ』や、さいとうたかおの『無用ノ介』といった大人向け連載が始まった。それまでの「夢があって、楽しくて、子供向け」といったマンガのイメージを覆す絵とストーリーを、マガジン編集部は「劇画」と命名する。
 この「劇画」に読者は熱狂した。
 今までマンガ雑誌の読者だった子供達も、創刊から7〜8年過ぎ、そろそろ思春期にさしかかっていた。日本自体も60年代末の学生闘争時代へと向かいつつあって、それまでの「明るく楽しい子供マンガ」が受け入れられる土壌が崩れつつあったのだ。
 そんな時代、ニヒルでクールでスピーディな劇画の描写やストーリーは読者を虜にした。「大学生がマンガを読む」と言われはじめたのも、この時代からだ。
 もう一つ、マガジンの躍進には「SFブーム」も見逃せない要素だ。67年にはウルトラマンの放映が開始され、69年にはアポロ計画、70年には万博で日本中がわき返り、その影響を受けて日本中でSFブームが起きていた。
 マガジン編集部はこのSFブームを素早く導入。『幻魔大戦』や、『サイボーグ009』など、次々とヒットを飛ばし、マガジンの売り上げは急激に増加した。
 1966年、ついに少年サンデーの二大主力連載『伊賀の影丸』『オバケのQ太郎』が終了した。同じ66年、マガジンでは『巨人の星』の連載が開始する。67年には『天才バカボン』、そして68年には『あしたのジョー』が始まった。
 一方サンデーでは69年、『おそ松くん』が終了する。
 時代は確実にサンデーからマガジンへスライドしつつあった。
 当時の学生運動家の合い言葉に「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」という言葉があった。大人の雑誌なんか読まない。僕たちは大人になってもマンガを読むぞ、という決意の表れでもある。
 よど号乗っ取り犯が「我々はあしたのジョーである」という声明を発表したり、寺山修司がマンガキャラクター・力石徹の葬式を出したり、世の中はマガジン一冊に振り回されている感じすらした。
 まさに少年マガジン、我が世の春である。
 この「春」は、少年マガジン編集部のプロデュース能力によるものだ。貸本マンガ家に週刊連載向けの話を描かせたり、新人マンガ家に原作者をつけたり、マンガ家一人の能力ではなく、そういったプロデュース能力が花開いた編集の春だったのだ。

 

●紙不足、マガジンを直撃

 1971年8月、ニクソンが金とドルとの交換を一時停止するなど、ドル防衛措置を発表した。宇宙開発とベトナム戦争で疲弊しきった米国経済を立て直すための世紀の決断、いわゆる「ニクソン・ショック」である。
 これが経済界に与えた影響は計り知れなく、物価が高騰。続いて1973年の第4次中東戦争勃発をきっかけに、日本中をオイルショックが襲った。これは89年のバブル崩壊と同じくらい日本経済に深刻なダメージを与えた。
 マンガ界にとって、特に深刻だったのは、紙不足だ。デパートやスーパーのトイレットペーパーが次々と盗まれるほどのパニックの中、紙の値段が高騰した。このため、マンガ誌はすべてが赤字経営となり、全雑誌がページ数を減らす、という事態になってしまった。
 当然、全マンガ誌は売り上げがダウンした。
 その中でも少年マガジンのダメージが一番大きかった。不景気になれば、大人はマンガなんか買わない。ところが、マガジンは完全に大人向けの内容になってしまっていたのだ。その上、マガジンとサンデーの両方を買っていた子供達はサンデーしか買わなくなってしまった。マガジンの勢いは徐々に失速する。

 

●ジャンプ、ゼロからの出発

 少年ジャンプが創刊されたのは、サンデーが落ち始めマガジンが上り調子になってきた1968年だ。二大誌の交代劇に殴り込みをかけるような創刊だった。
 サンデーが、とにかくうまいマンガ家に描いてもらう、という方針、マガジンが絵のうまい奴と話のうまい奴を組み合わせるという方針でがんばっている中、創刊されたジャンプには有名なマンガ家はほとんどいなかった。何しろ、創刊号からマンガ家を大募集している、というスゴい出発だったのだ。
 「○○先生のマンガが読めるのはジャンプだけ」という柱の有名なコピーも、言い換えれば他に仕事がある人気先生はジャンプには描いてくれないと言うことだ。
 オイルショックが過ぎて、景気が回復し始めた1975〜76年にかけて、予想外に伸びてきたのは少年ジャンプだった。景気のいい世相を反映して、明るくスケールの大きい奇想天外な話が好まれるようになってきたのだ。
 『サーキットの狼』の車にも乗るが女の子も大好きな明るい主人公や、『包丁人味平』のリアリティにこだわらない大ボラが、オイルショック後のシラケ世代にウケた。
 大人気連載『アストロ球団』もマガジンのまじめで泥臭いスポ根路線を踏みにじるような内容だった。人間が20mも飛び上がってホームランボールを受けてみたり、あらかじめベンチの陰で切腹し、その死に際パワーでホームランを打ってみたり、破天荒で楽しければいいという思い切りがとにかくウケまくった。この破天荒さは、少年ジャンプのポリシー「雑誌内競争」から導き出された結果だ。

 

●ジャンプのアンケート至上主義

 少年ジャンプのポリシー、「雑誌内競争」とは何か?それは悪名高いジャンプの「アンケート至上主義」から生まれたものだ。
 元々、会社全体が体育会的ノリである集英社のマンガ誌、少年ジャンプは掲載マンガだけではなく、編集部内部も「競争競争また競争」の世界だ。編集者自身も他の編集に勝とうとヒット作を産み出すことに必死になる。いわゆる名門・大会社である講談社や集英社には無い、すさまじいパワーだ。
 毎週の人気投票で順位が決まり、3週連続最下位なら即連載打ち切りという少年ジャンプ独特の編集方針は、体育会パワーを爆発させた。とにかく連載は「引っ張る」、つまり意外なラストで次回に繋がせる。意外な展開なら次回の連載が読みたくなり、人気投票の順位が上がるからだ。
 マンガ家も編集も、新人しかいなかった雑誌だからこそできた、思い切った実力主義であり、新人の実力をはかる、手っ取り早い方法としてはこれしかなかったとも言えるだろう。これが大正解であったことは、後の「ジャンプ一人勝ち時代」で証明される。

 

●ダークホース・チャンピオンの黄金時代

 ジャンプと同時に意外な躍進を遂げたのは、今まで話題にも出なかった少年チャンピオンだ。
 サンデーやマガジンという老舗の低迷を尻目に『がきデカ』や『ドカベン』で着々と部数を伸ばす事に成功。また、すっかり落ち目になった手塚治虫に連載を頼むとそれが『ブラックジャック』で大当たり。
 少年チャンピオンはマンガ雑誌で初めて発行部数二百万部を突破した。この70年代後半が少年チャンピオンの黄金時代だ。
 ここまでの各マンガ誌の方向性を再確認しよう。
 小学館の少年サンデーは「作家制」、つまり作家が何を描いていいか判らないとダメになる。
 講談社の少年マガジンは「プロデューサー制」、つまり編集者が何を描かせていいか判らないとダメになる。
 集英社の少年ジャンプは「競争制」、つまり世の中がイケイケでないとダメになる。
 秋田書店の少年チャンピオンは‥‥、まあ、我が道を行くマンガ雑誌だ。
 これらの編集方針の違いにより、得手不得手が発生する。小学館は時代の気分や若者の気持ち・流行を発信する。大ヒットしたホイチョイプロダクションの『見栄講座』は小学館らしい作品だ。
 また講談社は大河ロマンや大規模作品が得意だ。たとえば一時代を創った『沈黙の艦隊』には軍事・政治ブレーンや写真資料が絶対必要である。つまりプロデュース・システム無くしては生まれない大作なのだ。
 集英社は新人作家開発能力がすさまじい。その結果、時代を創る作品・異色作品は常にジャンプから生まれてくる。
 オタクたちは、こういう「通の眼」で各雑誌の特徴を捉えている。

 

●サンデー、ラブコメで息を吹き返す

 さて1970年代末、マンガ界にとうとう「ラブコメブーム」がやってきてしまった。
 きっかけは78年からマガジンに連載された柳沢きみおの『翔んだカップル』だった。この作品自体は、あっと言う間に暗くてドロドロした恋愛ドラマになってしまったのだが、少年マンガの読者に「恋愛マンガの面白さ」を教えてくれた。
 「別に甲子園での優勝や宇宙の危機なんかなくても、恋愛があるんだ」
 この新しい世界に読者たちは注目した。しかし今までスポ根、社会派とSFしか経験のない「硬派」な少年マガジンは、このラブコメ路線のマンガ開発に失敗した。大作指向になりがちな「プロデューサー制度」からは、どうしても恋愛の機微を描くラブコメは生まれなかったのだ。
 ラブコメマンガの開発・量産に成功したのが長期低迷に苦しむ少年サンデーだった。『翔んだカップル』と同じ78年、サンデーでは高橋留美子の『うる星やつら』が始まった。このヒットと同時に78〜80年には『男組』『サバイバル』等の、マガジンのマネしてはじめた劇画路線作品が次々と終了、代わってアニメ絵の新連載が連続する。
 1981年、ついに少年サンデーであだち充の『タッチ』が始まった。
 アニメっぽいかわいい路線の絵。すれ違いでうまくいきそうでいかない恋愛ドラマ。一緒に住んでいる女の子のシャワーシーンをたまたま見てしまう、とかのちょっとしたHシーン。
 これによりサンデーの人気は急上昇する。同じラブコメ路線の『さよなら三角』等も成功し、82年から85年にかけて少年サンデーは第二期黄金時代を迎えた。
 このラブコメブームに乗っかろう、と他誌もがんばった。
 たとえば少年マガジンは『かぼちゃワイン』や『胸騒ぎの放課後』『俺のデカプリンちゃん』を連載開始した。が、ラブコメはマンガ家の感性がすべてである。原作プロデュース方式のマガジンでは、どうしても微妙な感じが出ない。
 促成栽培されたマガジンのラブコメは妙に即物的だ。はっきり言うと「オッサン臭い」ラブコメばかりだったのだ。女の子のスカートをめくるとか、胸にタッチするとか、その感性は当時のオタクからも「マガジンのタッチボイン路線」「肉体路線」とバカにされた。
 この時期、混乱したマガジン編集部はとにかく新連載を乱発する。84年〜86年のマガジンの混乱ぶりは数字にも表れている。この期間に始まった新連載は36本、打ち切られた連載は34本。これらの路線はもちろんほとんどウケず、マガジンの部数はメキメキ落ちていった。
 マガジンの屋台骨を支える長期連載といえば『あした天気になあれ』『ゲゲゲの鬼太郎』という一世代前のマンガばかりだったのだ。
 破天荒勝負マンガばっかりの少年ジャンプもラブコメの導入にチャレンジした。しかし勝負ものばかり描かせていたジャンプ編集部には「ラブコメ」なんて難しすぎた。
 そこで始まったのが『ホールインワン』『テニスボーイ』等のスポーツマンガだ。今までの勝負ものと全く同じだが、女の子も勝負に参加させ、パンチラを見せる。この結果、ジャンプの殺伐とした雰囲気が少しは改善されたものの、まだ「ラブコメ」とはほど遠いものだった。
 こうして、バブル景気で日本が浮かれ出すまでサンデーは唯一の「ラブコメ少年誌」として圧倒的な売り上げを誇っていた。

 

●ジャンプ、バブル経済を味方につける

 1980年代後半、バブル経済でみんなが浮かれ出すと、破天荒のジャンプが少しづつ頭角を現してきた。
 84年『ストップ!ひばりくん』と『キャッツ・アイ』の連載が開始され、ようやくジャンプもラブコメの描けるマンガ家の育成に成功。過剰なラブコメ描写は『ギャルがライバル』『キック・オフ』などという怪作も産み出した。
 同時にジャンプ独自の破天荒勝負路線として『キン肉マン』『聖戦士星矢』『ドラゴンボール』『キャプテン翼』といった人気マンガも次々に大ヒット。いわゆる「少年ジャンプの奇跡」「ジャンプ一人勝ち」時代が始まったのだ。
 逆に少年サンデーは緩やかに下降線をたどり始める。87〜89年のサンデーでの新連載開始数は37本、打ち切り本数は32本。まさに「どんな新連載がウケるか判らない」といった編集者自身が混乱している証拠だ。
 一方少年マガジンも、ラブコメ路線をすっかりあきらめ、伝統のスポ根路線に邁進する。『名門!第三野球部』『オフサイド』や変形スポ根ものの『バリバリ伝説』『ミスター味っ子』『スーパードクターK』といった連載群だ。
 当時のマガジンは「絞ると汗が出る」、とかげ口をたたかれるほど、男臭い汗くさい内容のマンガばかりだった。

 

●ジャンプ、減速

 さて、バブルが崩壊した現在、ジャンプの売れ行きは減速しつつある。世の中がイケイケから離れているからだ。
 サンデーも長期低迷から抜け出せない。多様な価値観が共存している現代社会では、作家自身が特定の価値を選べない。作家主義のサンデーとしては、まだ苦闘は続きそうだ。
 唯一好調なのがマガジンだ。長期低迷時代に「本来の子供読者を取り戻す」、つまり雑誌の読者層を下げるという難事業に成功したマガジンは今、我が世の春を謳歌している。
 しかし、この関係もいつまで続くか判らない。マンガ雑誌の世界は下克上・昨日の敗者が今日の勝者だ。社会の変化に連れて読者の指向も変わり、売れ行きはどんどん変化する。次の五年でどこが勝つのなんか、誰にも判りっこないのだ。
 こんな風に、サンデー・ジャンプ・マガジン、それぞれにカラーを持ちながらの努力は、見ていて実に興味深い。時代に迎合しようとして生み出される失敗作も、またなかなかに味わいがある。
「景気が悪くなったと思ったら、やっぱりジャンプが苦しんでますね」
 とか
「混迷期にもさすがチャンピオン、同じ調子でがんばってますね」
 とかが季節の挨拶に使えるのが、一流のオタクというものなのだ。

 


、-2 閑話休題ガレージキット

 

●ガレージキットブームの発生

 すこし個人的な話をしたい。
 僕は大阪で生まれて育った。オタクとして、大阪で生まれて良かった、と思うことはあんまりない。やはり圧倒的に東京が有利だ。しかし80年代のはじめ、日本中のオタクが大阪に生まれなかったことを悔やんだ時期があった。
 その当時、ガレージ・キットの本場は大阪だったのだ。海洋堂、ムサシヤ、ボークス、ゼネプロ。これら超一流のメーカー同士が関西圏で覇を争い、お互いに憎み合いながらも切磋琢磨してオタク心をくすぐる模型開発にいそしんでいた。僕自身もゼネプロを率いて、そんな開発と悪口の日々を生きていた。
 そんな中でも最大のキャラクター・海洋堂の大旦那の話だ。これも「通への道」だと思って聞いて欲しい。
 (株)海洋堂というのは、大阪は門真市に本社のある老舗の模型専門店だ。現在では、渋谷にショールームとギャラリーを出店し、日本でも最大手のガレージキットメーカーとして業界に君臨している。
 ガレージキットというのは、もともとはアマチュアが少量生産して販売する、手作りプラモデルのことだ。それがなぜか模型専門店がアマチュアのモデラーを雇って原型を作らせ、自分の店で量産して売るようになった。
 タミヤやバンダイといった大手メーカーではフォローできない、マイナーなニーズをとらえ、プラモデルでは考えられないほどの高精度の模型を高価格で売る、というガレージキット商売は大当たりした。模型専門誌も、毎月毎月大々的に取り上げた。通販中心だったのが、小売店での販売も始まり、模型の一大ジャンルとなった。興味のある方は今度、模型専門店へ行ってみて欲しい。プラモデルやラジコンしかなかった昔とは違い、今や日本の模型店はガレージキットなしでは考えられない、ということがお判りになるだろう。
 このガレージキットブームの初期から現在に至るまで、常に第一線で活躍しているのが海洋堂だ。海洋堂の現在の成功は、若旦那と呼ばれる大旦那の息子さん・現(株)海洋堂専務の功績に負うところが大きい。しかし実は、社長である大旦那も、昔は予想外の大活躍をしていたのだ。

 

●プラモデルはアートだ!

 今から三十年も前、海洋堂の大旦那は「プラモデルはアートだ!」と宣言、帆船のプラモデルを店に出入りする模型少年達に次々と作らせた。色も綺麗に塗らせ、ガラスケースに入れた。それを持って大阪中のお金持ちや会社経営者の邸宅を廻った。
「絵画や掛け軸を飾るのは既成の価値観をなぞっただけ。この帆船模型こそが現代のアートだ!」
 と言ったかどうかは知らないが、この「アート」を何十万という値段で売って売って売りまくった。
 が、大旦那の情熱はそれだけでは収まらなかった。
「こういう考え方を他の模型店がしないのはけしからん。他の店も模型をアートにするべきだ」
 とその熱い思いを説いた同人誌「アートプラ」を自分で編集、それを背中に背負って全国の模型店を回って説教したという。説教された方も驚いたことだろう。
 ためしに模型屋の店長さんで、ちょっと年配の人が知り合いにいたら「海洋堂の大旦那」知っているか聞いてみるとおもしろいだろう。知らなかったらその店は「モグリ」だと僕は思う。
 僕が初めて海洋堂に行ったとき、もちろんそんなことは知らなかった。1977年の夏、模型とSFが好きな小生意気な浪人生だった僕はひたすら海洋堂の雰囲気に圧倒された。
 店内は、店というより巨大な倉庫だった。
 とにかくだだっぴろい。幅も奥行きも何十メートルもある。床から天井も20m位はある。その高い天井まで、壁一面、模型の箱がうず高く積み上げられている。
 種類も様々。古今東西の模型すべてがここにある、という感じなのだ。模型ファンにとっての「理想の店」だったのだ。
 僕が行った当時、ガンダムプラモのブームもすっかり下火になり、模型自体ぱっとしない時代だった。そのため、店内のスペースの半分はインベーダーゲームが置かれていた。それでも残り半分には、模型の壁とショーウインドウばかりだ。そのたくさんのショーウインドウの中には、これまた凄い数と種類の完成品が飾ってある。
 もちろんデパートなどで見慣れた「プラモを色を塗って組み立てただけ」のもいっぱいある。が、僕が見たこともない模型の完成品が、がんがん飾ってあるのだ。それもそのはず、プラ板を切って、自分で作ったオリジナル模型がいっぱい混じっているのだ。
 そこらの模型屋とはレベルが違う。
 中には埃が積もっているような完成品もあるが、それすら年代を感じさせてくれて、アンティークの香りがした。感動のあまり、僕は珍しいプラモデルや古いプラモデルを山ほど買いまくった。

 

●ゴジラは赤く塗れ

 で、それを買うときふとレジで目にしていっしょに買ったのが、海洋堂の同人誌「アートプラ」だった。その本の中に「ゴジラは赤く塗れ!」という文章があった。大旦那の書いた文章だ。
 僕はその文章に心の底から感動した。
 当時はガレージキットのブームが起こりだしたばかりで、それは怪獣ブームとワンセットになっていた。いろんな人がゴジラやウルトラマンの怪獣を制作して模型誌で発表し、それが評判になったりしていた。
 でそんな中、ゴジラは何色に塗るべきか、は最大の争点の一つだったのだ。
「ゴジラはやはり緑に塗るべきだ」
「キングコング対ゴジラの時はブルーグレーだ」
「初代のゴジラは濃いグレーだ」
「フィルム上の発色はこう見えるが、実際の着ぐるみはこっちの色だ」
 みんながゴジラの「本当の色」について侃々諤々議論していた。雑誌でも盛んに取りざたされたりした時代だった。
 そこへ「ゴジラは赤く塗れ!」だ。
 大旦那は力説する。
「今のゴジラファンはあかん。ゴジラのほんまの色がどうの、顔の形がどうの。そんなんとちゃうんや。井上工房の二メートルゴジラ(そんなキットが実在した!)は、そんなセコいもんとちゃう。井上くんのイメージのゴジラなんやから。色もそうや。ゴジラのイメージは燃えさかる紅蓮の炎や。そやからゴジラは赤く塗る。これがアートや!」
 僕は感動した。
 すごい衝撃だった。
 僕もゴジラは何色に塗ったらいいか考えてしまう、イマドキのゴジラファンだったからだ。それから長い間、この「ゴジラは赤く塗れ!」という言葉は、あの夏の日の凄い量のプラモデルと共に、僕の中でも消せない記憶になった。

 

●ティラノサウルスは赤く塗れ

 それから十数年の後、渋谷の海洋堂・アートギャラリーで『ファイブスターストーリーズ』というマンガに登場するロボット「レッドミラージュ」が発表された。
 西洋ファンタジーの鎧を着た人間をデフォルメしたような繊細なデザインを見事に立体化したこのガレージキットは、ガレージキット史上最高の芸術品であると同時に、最高に複雑な設定がなされていた。色もここは金、ここはロイヤルブルー、肩のマークは七宝焼なので艶を出して、といった具合だ。
 マンガ自体が複雑な設定を膨大に施した架空世界が舞台で、読者もそれが楽しいといった種類の作品だった。だから、その設定を見事に再現した「レッドミラージュ」の模型はすさまじい評判を呼び、五万円を超える価格設定と共にオタクたちの話題を独占した。
 ところが、その発表会場にチラシが置いてあった。そこには「レッドミラージュは赤く塗れ!」という大旦那の檄文が載っていたのだ。
 僕ははっと気づいた。
 あわてて、アートプラのバックナンバーを集めて読んだ。すると、次々と見つけてしまったのだ。
「零戦は赤く塗れ!」
「戦艦大和は赤く塗れ!」
 僕はやっと気がついた。
 そうか、大旦那はこれはと惚れ込んだ模型はいつも「赤く塗れ!」と書いていたのだ。気づいて、僕は大笑いした。そして、今まで以上に大旦那の大ファンになってしまった。
 大旦那の「赤く塗れ!」はもちろん本気だ。模型をアートにしたいという熱い情熱の現れとも言える。でも熱い情熱がいつも「赤く塗れ」なのが面白いじゃないか。その熱い情熱が大旦那に同人誌を作らせ、日本全国の模型店を行李を担いで廻らせるのだ。それを誰が止められよう。
 少なくとも僕は応援する。
 それからというもの、僕は期待しながら海洋堂のチラシや広告を見るようになった。で、とうとう数年前の恐竜ブームの中、大旦那の「ティラノサウルスは赤く塗れ!」の記事を見つけた。
 長生きはするもんだ。
 僕は鬼の首を取ったように喜んだ。
 海洋堂の大旦那は、今度はいつ、何を「赤く塗れ!」と言ってくれるだろうか。オタクたちはやっぱり海洋堂から目を離せない。

 


 

、-3 手塚治虫vs宮崎駿

 

●テレビアニメの創立者・手塚治虫

 アニメ界を語るとき、まず最初に出てくる人物は手塚治虫である。彼もまた、ウォッチングするのになかなかいい対象だ。死んでしまって本当に残念だけど。
 彼の作った日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』は誰もが知っているとおり大ヒットした。その後『鉄人28号』だの『ビッグX』だの、次々とテレビアニメを作ることができるようになったのも、手塚さんのおかげである。
 何しろ、それまでアニメと言えば東映がそれなりの予算できちんと作っていたマンガ映画しかなかった時代だ。マンガ映画なら1時間とか1時間半作ればすむ。が、テレビは毎週30分、1年放映しようと思えば26時間も作る必要がある。時間単価をマンガ映画並に計算すると、莫大な金額になる。
 おまけにテレビマンガなんて、初めての試みだから受けるかどうかも疑わしい。当然スポンサーがなかなか付かなかった。
 が、手塚さんには見えていた。
 「これからはテレビアニメの時代だ。日本全国のお茶の間にテレビアニメを届けるのだ。それこそがこれからの日本文化の進むべき道だ!」
 情熱に燃える手塚さんは、東映なら貧血で死にそうなほどの出血大サービスの予算(後に出てくる宮崎氏の発言によると、1話あたり50万円だという)でテレビアニメを受けてしまった。
 彼の回りには彼の情熱に感動したスタッフが次々と集まって、手塚治虫のアニメ製作会社・虫プロダクションは設立された。虫プロでは情熱のあるスタッフが日夜がんばったが、いかんせん、いつも貧乏でスタッフ数はぎりぎり、スケジュールはオセオセだった。そのため、スタッフはスタジオに寝袋で泊まり込み、というのが当たり前になった。
「手塚さんがもうちょっと我慢すれば、テレビアニメ制作費の相場も、ずっとましなものになったのに」
 というのは、アニメ業界人なら誰もが言う台詞だ。彼が亡くなったとき、マンガ専門誌の追悼記事にまで書かれてしまうほどだ。
 僕はこの前、アメリカのオタクにまで「センセイ・テヅカがダンピングしたために日本のアニメはリミテッドアニメなんだろう?」と聞かれてしまった。バレてるんだよなぁ。

 

●貧乏だから選択したリミテッドアニメ

 アメリカでアニメーションと言えばディズニーとかのフルアニメーションのことだ。つまり、1秒間24コマすべてが動いているアニメである。フルアニメなら1秒間で24枚のセルがいる。
 それに対し、貧乏な虫プロが開発したのはリミテッドアニメ。1秒間用に8枚だけセルを作る。で3コマずつ同じセルを撮影する。これで合計24コマになる。フルアニメに比べ、多少カタカタ動くが、まあストーリーを伝えるにはこれで充分だ。
 その後日本アニメはリミテッドアニメが当たり前となってどんどん進化し、日本独特のアニメ文化を生み出す結果となった。
 僕なんかは「制限のあるところにこそ進化があるんだよな。うんうん」なんてノンキに考えてしまうが、業界関係者はなかなかそうも達観できないようだ。

 

●放映中にコンテを切る

 が、手塚さんはそれで懲りたわけではない。その後もぼくたちウォッチャーの期待通り、順調にムチャを続けてくれた。
 特に有名なのは毎年日本TVの「24時間テレビ・愛は地球を救う」で放映される2時間スペシャルアニメ。これの制作状況のハチャメチャさは語り草だ。(アニメの制作スタッフ同士はときどき「今までにこんな難局を切り抜けたことがある」という自慢話をする。しかし未だに「手塚の24時間で、こんなムチャをした」という人物が現れると、みんな脱帽するしかない)
 放映時間が2時間もあるTVスペシャルなんて、映画と同じだ。が、もちろん手塚さんは破格の値段で受ける。(1度、数字を聞いたことがあるが、同じアニメの作り手として絶句するような金額だった、とだけ言っておこう)
 巷ではヤマトだのガンダムだの華やかな頃だ。ここは一発俺だってアニメを作れるところを見せたい、と手塚さんは張り切ってしまうからだ。
 この頃、手塚さんはすでにマンガもたくさんヒットしてお金もあり、評価もされ、大先生だ。それなのに「ここは一発俺だって」と考えられる彼に、僕たちオタクの心は熱くなる。
 が、皮肉なことにその情熱の結果が破格の値段なのだ。当然スケジュールがメチャクチャになる。金がないからにっちもさっちも行かない。
 24時間テレビの第一回アニメ『バンダーブック』では1巻目(最初の20分リール)を放映している最中に4巻目を現像していたという、信じがたい噂が囁かれている。
 このすごい記録は毎年更新され、とうとう最後の作品『フウムーン』では、アニメ放映中なのに手塚さんはまだコンテを切っていた、という伝説がある。(コンテとは脚本を元に作るアニメの設計図。もちろん、アニメ制作には絶対必要不可欠である!!)
 放映中の作品のコンテを切っていても、もちろん間に合うはずはない。しかしオンエアには絶対に穴を開けてはいけない。そこで現場では、一週間も前に制作スタッフが今までで完成したセルや背景を適当に組み合わせ、ばんばん撮影して放映してしまうのだ。僕にこの話をしてくれた人は「ありゃアニメの制作じゃないね。ただのパズルだよ」と言っていた。
 じゃあ、何故手塚さんは放映当日にコンテを切っているのか?
 まあ、それが情熱家・手塚さんの手塚さんらしいところなわけだ。
「オレの作品なんだから、オレがコンテ切るに決まってる!」
 世界の手塚にそう言われてしまえば、もうだれも「センセイ、もうオンエアしてますけど」なんて突っ込めるもんじゃない。以前、友人が手塚さんの24時間アニメの制作をやったときに内幕を聞いた。彼は「放映二週間前になると、さあ今年はどうやって乗り切ろう、と気合いが入る」と笑っていた。あのプロダクションは制作に至るまで豪快さんばかりなのだ。
 だから、オタクたちは24時間テレビのアニメを楽しみに見る。
 最初の方のそれなりに絵もきれいでストーリーもしっかりしているところを見て「ふんふん、こんなのをやりたかったのだな」と理解する。
 キャラ崩れが起きたり、止め絵が多くなると「おっ、乱れてきたな」と楽しむ。
 そしてストーリーのつじつまが合わなくなる頃には「お〜、何とここまで!!」と喜ぶのだ。そして、手塚さんの情熱とスタッフの必死のがんばりに思いを馳せるのだ。

 

●宮崎駿の追悼文

 さて、その手塚さんが情熱の人生に幕を下ろしたとき、マンガ評論誌「コミック・ボックス」では大々的に追悼特集をやった。そこにこんな文章が掲載された。
<手塚さんの特集だそうですが、悼む大合唱はたくさんあるだろうから、それに声を揃えて一緒に大合唱する気は、ぼくはないです。(中略)
 アニメーションに対して彼がやった事は何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います。
 いちいちそれを言葉に挙げていうのはしんどいから言いませんが『展覧会の絵』(`66・11)も、何だこの映画と思ってみていた。『クレオパトラ』(`70・9)も、ラストで「ローマよ帰れ」と言うあたりに嫌味を感じました。それまでさんざん濡れ場ばかり一生懸命やってて、何が最後に「ローマよ帰れ」だと思って、その辺に手塚さんの虚栄心の破綻を感じたんです。
 一時彼が「これからはリミテッドのアニメーションだ。三コマがいい三コマがいい」とさかんに言ってましたが、リミテッドアニメーションは三コマという意味ではないですし、その後言を翻して「やっぱりフルアニメーションだ」とあちこちで喋るに至って、フルアニメーションの意味を知らずに言ってるんだと思ってみてました。同じようにロートスコープをあわてて買い込んだ時にも、もうぼくらは失笑しただけです。
 自分が義太夫を習っているからと、店子を集めてムリやり聞かせる長屋の大屋の落語がありますけど、手塚さんのアニメーションはそれと同じものでした。
 昭和38年に彼は、一本50万円という安価で日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』を始めました。その前例のおかげで、以後アニメの制作費が常に安いという弊害が生まれました。(中略)
 アニメーションに関しては--これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますが--これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。(後略)>
 死者にムチ撃つ、とはこのことだ。とにかくすごい内容だ。これが、手塚さんが元気なときに発表された文章ならともかく、追悼記事なのだ。今さら言ってもしようのないことを、ここまで言うとはいくらなんでも大人げない、という衝撃を受けたのを覚えている。
 当然、他の同業者や文化人も手塚さんを讃えたり、悼んだりしている。当たり前だ。なんせ追悼特集号の記事なのだから。当時、朝日ジャーナルを初めとして、ありとあらゆる雑誌が「手塚治虫追悼号」を出版した。そこでは日本中の文化人が手塚氏を悼み、褒め称え、偉業を讃えていた。
 その絶賛の嵐の中、このヘンな文章は異彩を放っていた。
 この大人げない文章を書いたのは、当時すでに日本一のアニメ監督の座を獲得していた宮崎駿だった。
 才能に恵まれ、後輩の指導にも熱心で、人徳者として知られている彼が、ここまで書くからにはよほど何かあったんだろう、と下司の勘ぐりを働かせてしまう。それ以後オタクたちは、宮崎駿の発言はすみからすみまで読み、下心で作品を見直し、いろんな人の語る宮崎論もチェックして、考えをめぐらせる。
 そうやって、自分なりの宮崎像を作ってオタク友達と語り合うことも、通の目を養うためには大切なことだ。僕が今から書く宮崎駿像は、そうやって僕が友達と作ったものだから、本人に聞いても本人と親しい周りの人に聞いてもまったく違う意見かもしれない。
 ただ、僕ががんばって集めたデータから、意外な宮崎駿像を組み立てることができた、ということがなんと言っても僕には面白いわけだ。
 というわけで、僕なりの宮崎駿像である。

 

●赤旗でマンガ連載開始

 宮崎駿の父は、戦争中は戦闘機を作る下請け工場の工場長だった。社長は伯父さんで、つまり彼はお金持ち一家に生まれた坊ちゃんだったのだ。
 空襲のさなか、無一文で空襲を逃れて非難する人たちの中を、宮崎一家は自家用車で移動したというのだから相当なブルジョアだ。その当時の彼は、戦車や飛行機が大好きで、手塚治虫のマンガが大好きだった。勉強もよくするいい子として成長した。
 高校生の頃、思春期を迎えた彼は好きだった兵器関係の洋書を庭で燃やした。生まれ育った環境から、何の疑問も持たないままに、大好きだった戦車や戦闘機といったメカを「戦争の道具」として初めて認識し、これではいけないと思った、というのが彼の弁だ。当時盛んになり始めた学生運動の影響で「虐げられた人民が無理矢理行かされる戦争」というイメージも大きかった。
 高校卒業後、彼は典型的なおぼっちゃまコース・学習院大学に進学する。ここで彼はマンガ家を志し、マンガの連載を始めた。それも、よりによって赤旗で、だ。『砂漠の民』というSFとマルクス主義を合体したようなマンガだった。しかししばらくして、彼は連載をやめてしまった。どうしても手塚治虫を越えられない、というのが理由だったという。
 彼は悩んだ末、あっさりマンガ家を断念してしまう。

 

●米帝ディズニーに対抗できる人民アニメの拠点

 学習院大学卒業後、宮崎駿は東映に入社し、アニメーターとなる。その理由が凄い。
「米帝ディズニーに対抗するアニメの拠点を日本で作る」
 というのが、青年・宮崎駿の志望動機だった。
 何のことか判らない人も多いだろうと思うので説明する。「米帝」というのはアメリカ帝国主義のことで、つまり植民地主義のことだ。
 貧しい国の国民を低賃金で働かせて、アメリカばかりが豊かになるような政策といったような意味。学生運動が盛んだった60年安保の頃にはアメリカ批判としてよく使われた言葉だ。
 確かにディズニーはアメリカンな考え方全面肯定の映画ばかり作るし、戦争中は戦意高揚映画もいっぱい作ったりもしている。それにしても「米帝ディズニー」と熟語みたいに言い切るところがスゴい。
 その「米帝ディズニー」に対抗する東映で彼は、高畑勲という先輩に出会う。高畑勲は東大仏文科を卒業してヤクザ映画会社東映に入社した、という変わり者だ。仏文科なんか選んでサルトルを読むような奴は、マトモに就職する気なんかなく、もちろん屈折しまくっている。
 その高畑勲に、宮崎駿はモロに思想的な影響を受ける。思想の根幹は共産主義だ。裕福な自分の生い立ちに疑問のあった宮崎駿は、そういったことに見識の深い高畑勲にイチコロでまいってしまった。
 僕にはなんだか、素直に育ったムーミンが、ひねくれ者のスナフキンに人生の裏を教えられてるイメージを投影してしまう。

 

●手塚治虫への怒り

 こうして宮崎駿の思想は、より強固になっていく。
「米帝ディズニー許すまじ」
 だったのが、
「ハンバーガーを食う若者は大嫌い」
 となり、
「ディズニーが大好きと何度も公言する手塚治虫は許せない」
 と発展してくる。
 もともと大好きで、あこがれていて、どうしても超えられなかった手塚治虫。そのためにマンガ家を断念せざるをえなかった手塚治虫。
 だからこそ、手塚治虫が「米帝の手先」なのは許せない。反抗の対象となってしまうのだ。
 手塚治虫が手塚プロを作って鉄腕アトムを作り始めたときも、宮崎駿はめちゃめちゃ怒った。
 東映などの日本アニメの映画はリミテッドアニメといっても2コマのリミテッド、つまり1秒間に12コマだった。それが手塚治虫は3コマ、つまり1秒間に8コマしか使わない粗悪品にしてしまったのだ。
 しかも内容は、ロボットが喧嘩をするという大衆に迎合した低俗なものだ。もちろん、宮崎駿がこのとき考えていた「大衆に迎合しないもの」とは「労働や連帯の素晴らしさを謳い上げる」「啓蒙的な内容」のアニメだ。つまり「共産主義を子供達に教育する」である。
 そんなもの、どこを探しても鉄腕アトムに入っているわけもない。
 もちろん、極端なダンピングで、手塚治虫がアニメを受注してしまったことも許せない。予算が少ないということは、アニメーターたち労働者の労働環境が悪くなるということだ。案の定、『鉄腕アトム』のスタッフ達は低賃金で泊まり込み、徹夜までして働いている。
 手塚治虫はいいかもしれない。マンガの収入が山ほどあるのだから。アニメでいくら損をしても彼は平気なのだ。だが、他のスタッフ達は違う。アニメ業界全体のことを考えたら、絶対そんな条件で仕事を受けるべきではない!
 大好きだった手塚治虫だからこそ許せない。
 どうしても越えられない才能の持ち主だからこそ、許せない。
 その心が、手塚治虫の追悼記事にまで、大人げない恨み言を書いてしまうわけだ。
 うう〜〜〜ん、いいぞ、宮さん!ぼくたちオタクは、そんな「濃い」生き方をしている宮崎さんが大好きだ。いつまでも大人げないことを言い続けて欲しいと思う。
 間違っても分別臭い環境論なんか、語って欲しくないもんだ。

 


次章へ目次へインデックスページに戻る