『東大オタク学講座』1997年9月26日版 ン1997.Toshio Okada
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第一講 ゲーム概論

ゲームクリエーターのアノマリー分析


 それでは第一回の講義を始めます。

 今回のテーマはゲーム。とはいっても別にゲーム業界の裏話をしようというつもりはありません。「オタクにとってゲームとはなにか。われわれオタクはいかにしてゲームと付き合っていくのか」という問題について考えていきましょう。

 オタク文化におけるゲームのポジション

オタク文化というものはだいたい次の三つのジャンルに大別できると思ってください。

映像

デジタル

出版

 「映像」というのはアニメとか特撮ですね。サブジャンルとしてメキシコの変な空手映画とかがありますが、それはとりあえず置いときましょう。

 二番目の「デジタル」というのはゲームが中心を占めています。実際にはハードウェアやパソ通、インターネットなどデジタルの中にもさまざまなものがあるんですが、とりあえずここではゲームを中心としておきます。

 そして「出版」。まんがを中心とし、他にもSFなどがあって、同人誌やコミケの方向へと伸びていくオタクジャンルですね。

 オタク文化はだいたいこの三つのジャンルによって成り立っています。実はこの三ジャンル、お互いに仲が悪く、接点がない状態なんですよ。意外といえば意外なんだけれども、各ジャンルの間にポコッと真空地帯があるような感じで、距離が開いてるんです。

 たとえばアニメや特撮などの映像ジャンルから入ってきた人たちはゲームやまんがを軽視しがちなところがありますし、プロの現場においても、講談社や集英社などまんが出版物をメインにしているところは、ついつい「まんがが世界を席巻している。アニメもゲームもまんがから見たら版権の二次使用者だ」という風に考えてしまいがちで、まんがのバックグラウンドに対してアニメやゲームが果たしている重大な役割、それぞれの連携というものについては無自覚になりがちなんです。

 僕がアニメ出身だからこう思ってしまうのかもしれませんけど、なんか日本のまんがって異常なんですよ。異常というか、変。それで、日本人がこんなにもまんが好きである理由、まんがが得意である理由というのを、「なんか変だ。どこが変なんだろう」という疑問を絡めて考えた結果ふと思い当たったんですが、まんがってのは実はアニメなんじゃないか。

 納得いかない顔してる人もいるんでもうちょっとくわしく説明しましょうか。たとえば、まんがには「背景」がありますよね。よく目を凝らしてみてください。背景画とキャラクターのタッチやトーンが統一されていないということに気づきませんか?

 つまり、背景が写実的なタッチであれば手前のキャラクター=人物も写実的なタッチになるはずだし、抽象画っぽい背景だったらキャラクターも抽象画っぽくデフォルメされるはずですよね。ところが日本のまんがというのはすごく特殊で、「背景は写実的なリアルタッチ。人物は抽象的で簡略化された線」というのがとても多いんですよ。

 ここでピンときた方もいるでしょう。そう、これってアニメの背景とセル画の関係なんです。

 そもそも日本でまんがの人気が上がってきたのは、テレビアニメが盛んになってからなんです。よく「日本のまんがは手治虫が始めたんだ」なんていわれてますけど、彼が描き始めた頃は、まだまんがはそれほどメジャーな表現スタイルではありませんでした。その後に「テレビまんが」といわれていたアニメーション番組、アニメ版『鉄腕アトム』とか『宇宙少年ソラン』とかが子供たちに人気を博して、それからまんが文化が伸び始めたんですよ。

 これは歴史によって実証できます。それまでは月刊誌がメインだった日本のまんが誌が、テレビアニメが盛んになってからの時期、つまり昭和三五〜四〇年くらいの間になって現在のような週刊まんが誌の部数は大きく伸びたんですね。

 このように、アニメから入ってきた人間の目から見ると、「まんがとはアニメから色と動きを抜いたモノであり、ゲームとは受け手が自由に動かせるアニメである」という見方が可能なわけです。

 つまり、三つのジャンルのうちどこにポジションを置くかで見方が変わってくるんですよ。アニメにポジションを置く限り、まんがは「止まっているアニメ」でしかない。ところがまんがにポジションを置くと、アニメやゲームは「まんがを元としてテレビにメディア展開したモノ」になってしまう。要はどのポジションから見るかなんです。

 そんな事情があってですね、出版社の中でアニメやゲーム作品に携わっている部門というのはだいたい「ニューメディア事業部」だとか「マルチメディア事業部」という部署名がつくんですよ。かれらにとっての中心はあくまでも「出版」であって、そこからアニメなりゲームなりへとマルチに展開していくんだという思考が働いているんですね。

 ここで問題が出てくるんですが、実はゲームにホームポジションを置く人というのはほとんどいないんですよ。ゲームの人がアニメをどう見ているかというと、「いやあ、僕らもこれからは作品にどんどん映像を取り入れていきたいですねえ。CD−ROMなら情報の記録量が多いですからイベントのアニメムービーもガンガン入れられますよ」という見方がほとんどですし、ゲーム↓出版の動きにしても、「出版物で同時展開すれば展開が速くなるぞ。ゲーム開発には時間がかかるから、キャラクター設定と世界観だけ決まったら早速雑誌でマンガ連載をスタートしよう。アニメ化されたらブームに火がつくなあ」なんていう、エニックスみたいなことを考えてるわけです。メディアミックスとかいって密な連携を行っているようでも、実はそれぞれのホームポジションによって、お互いに対する見方はかなりの差があるわけです。

 

 オタクにとってのゲーム

 では、オタクにとってのゲームとはなんでしょうか。これはずばり、「語るもの」です。遊ぶだけなら子供でもできるし、作るだけだったらただのゲーム屋さんですからね。ハイレベルなオタクをめざす上で必要なのは、自分自身のポジションからゲームについて語り、「自分にとってゲームとは一体なんなんだろう」と考えることです。

 朝から晩までゲームやろうと思ったって子供たちのヒマさにはとうていかないませんし、作るんだったらそこら辺のゲーム専門学校やコンピュータ専門学校へ通えばいいんです。オタクがゲームをやり込むのは、ただ遊ぶことやゲーム開発の研究のためではなく、「いかにして語るか」を見つけるためでなくてはなりません。

 つまりオタクにとってゲームとは「批評の対象」。いかにしてゲームやデジタル文化を把握し、個人の言葉によって批評できるか、これが皆さんのオタク修行にとってポイントとなるはずだと、僕はそう考えています。とりあえずゲームに関してのウンチクを深夜のファミレスで三時間ぶっ通しで語れるようになれば大したもんです。友達は減るでしょうけど(笑)。

 また、自分のスタンスとは異なる視点からはどう見えるのかという、それを想像する力も重要となります。

 たとえば、僕の住んでいる吉祥寺〜三鷹周辺の地図を一〇〇種類の異なるスタンスの人が見たら、同じ地図であっても一〇〇種類の見方が出てくるんです。教材の訪問販売員をやってる人が見れば短時間で何十件も営業に回れるアパート密集地や団地に注目しますよね。住民のいない大型体育館周辺や、井の頭公園周辺にはあまり注目しません。ところが同じ地図であっても、電気工事会社の人が見たらまず体育館に注目するわけです。街の配電を考える場合、まず大電力を消費する大型公共施設や商店街に基点を置きますから。さらに地上げ屋さんのポジションから見たら、もっとも気になるのは公園周辺です。地価高いですからね。お巡りさんが見たら吉祥寺駅裏とか三鷹駅南口とか、治安の悪そうな部分が注目ポイントでしょう。

 ゲームなどの場合でも、自分の立場・スタンスの他にどんな見方があるんだろう、ちがう角度から見たらなにが浮かび上がってくるんだろうということを想像していただきたいんです。他の視点との比較なしには独自の視点なんて得られません。

 

 ゲームを批評する

 さて、ゲームを語るとはどういうことか。ゲーム批評とはなにか。ゲーム批評のやり方について考えてみましょうか。あの業界の人たちはよく「ゲームには批評がない」とか、「これからはゲーム批評が必要になってくるんだ」とか口にするんですが、これは要するにですね、映画へのコンプレックスが元となってるんですよ。

 実際、「ゲームにも批評を!」と唱えてる人に「なんで批評が必要なんですか?」と質問すると、大体は映画批評を引き合いに出すんです。映画の世界は批評がちゃんと存在していて、映画そのものが売れなくてもいろんなメディアが批評的に取り上げてくれて、興行成績とは別に作品の意味をしっかり論じてもらえると。

 それに対してゲームの世界では、いくら革新的な試みをしている作品でも売れなかったら騒いでもらえないし、思想的に新しい作品でも誰も注目してくれない。これじゃいかん、ゲームも純粋に批評を行うような場が必要なんだ。それが「ゲーム批評必要論者」の意見なわけですね。

 でも売れなかったゲームを批評しろと言われても、「ああ○○ね。クソゲーだったよ」とか「中古ソフト屋じゃあいい値段で買い取ってくれないよ」とか、そういうことしか論じてもらえないんですよ。映画に比べて体験できる環境もプレイヤーの視点も限られてるから、批評するのがすごく難しいんです。『ゲーム批評』とか『ゲーム会議』とかが創刊されましたけど、そのせいでいきなりゲームがよくなるわけではないですよね。あまり直接的な効果は期待できません。

 実のところ、ゲーム業界にも批評が必要かどうかなんてのは、業界人ではない僕らには関係ないんですよ。批評を行うことでもっとも大事なのは、僕らオタクが「批評するという目的でゲームをやる」ってアプローチ方法を手に入れることなんです。それによって僕らは、業界人とも販売流通ともプレイヤーともちがう、ゲームに対する新しいポジションを得られる。

 だから皆さんも、批評的な視点で見るようにしてください。これはゲームだけではなく、映像・デジタル・出版の全ジャンルに対して批評的な観点を持とうということです。ムダに思えるかもしれませんけど日頃から批評的な見方をしていると三〇歳を過ぎたころから皆さんの頭の中でうまいこと醗酵してきて、きっといいオタクになれますから。

 

 批評のスタンス

 その批評を行う上でのスタンスについて説明します。夕日はなぜ美しいのか、ちょっと考えてみてくれますか? 夕日は太陽光の入射角が浅くなることで通過する大気の量が増え赤色光が目立つようになるという光学的な現象であって、しかしそんな科学知識は夕日が美しいとか感動的であるだとかにはまったく意味をなしません。

 では夕日の美しさを考えるときになにがポイントとなるかっていうと、夕日そのものではなくそれを「美しい」と感じた本人、観察者の方が重要なわけです。夕日単体ならただの「現象」ですけど、

それを観察者が目にすることによって「夕日は美しい」という評価が生まれるわけですね。その評価基準を形成しているのは、観察者が属している文化的バックグラウンドです。

 しかし、夕焼けを見るのがタブーとされている文化の中で育った人は、夕日を見ても「美しい」ではなく「恐ろしい」と感じるでしょう。サバンナかどこかで夜出歩くことが死を意味するような生活してたら、夕日は「危険な時間がせまったことを告げる信号」ですよ。夕日を見て悠長に感動なんかしてられませんよ。感動してる間に食い殺されますから。

 このように、文化的バックグラウンドや個人の感受性・思想的ポジションによって、抱く感想や得られる印象はまるで異なるわけです。批評の本質というのはまさにここにあるんですよ。「対象と自分の関係」「自分が属している文化的バックグラウンド」が影響するため、「対象/受け手」の間が完全にクリアでまっすぐということは絶対にないんです。同じ映画やゲームを見たって人によって感じ方が異なるのは当たり前ですよね。それぞれ別の背景を背負っているんですから。よって、批評というのは対象そのものを語るのではなく、自分と対象との間に横たわる「感じ方を決定するバイアス」について探っていくものであると、そう言えるでしょう。

 音楽や映画の世界でクリエイターインタビューが存在する理由もそこにあるんですけど、「これはこの人が作ったのだから」という意識があるせいで、つい、「この作品についての真実、すべての正解は作者が持ってるんだな」と思いがちですよね。ところが、「正解=本質・理由」というのは、実は作者の中ではなく「対象と観察者」の間に存在するんです。さっき「作品と自分との関係について語るのが批評だ」と言いましたけど、それを忘れてしまうと、「作者と作品の関係」ばかりに考えがいってしまう。

 もっと具体的な例を挙げましょうか。

『金日成のパレード』という映画があります。タイトルを聞いて分かるとおり、これ、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で行われた建国記念式典パレードの記録映画です。金日成がまだ元気だった時代の作品で、集まった国民が彼の名前を感極まった声で絶叫したり、なんかシャレにならない数の人がマスゲームやっていたりと、まあそんな内容で(笑)、すごいですよお。プラカード使ってPL学園の甲子園応援団みたいにドット絵作ったりしてて、見れば確実に笑えます。

 でも、作った連中は僕らがそんなこと感じるだなんて想像してませんよね。まさか笑われると思って作ったわけじゃないでしょうし、作ったかれらは本気で「これ見たやつは北朝鮮の偉大さに驚くだろう」と、絶対そう考えてるわけですよ。もう撮影段階から「してやったり」って心の中でガッツポーズ取ってて、「ああ、この映画を見れば誰もが北朝鮮を好きになり、その偉大さを思い知り、金日成首領様を尊敬するにちがいない」と、まあそう確信していたでしょう。

 ところが日本人は『金日成のパレード』を見た瞬間、大爆笑するわけです。なんというか製作者の思惑とはまるっきり別の形で感動してしまう(笑)。民主主義社会に生きていて資本主義の世界に生きている僕らは、「なんだこれ。北朝鮮の奴ら、絶対変だ!」って笑いますよね。

 つまりはこれこそが「ある文化背景を背負っている自分/作品」の間に存在する批評なんですよ。いくら製作者にとっての正解=「作者と作品の間にある真実」が「北朝鮮すごい! 金日成偉い!」でも、受け手と作品の間には文化やセンスのちがいといったものがバイアスとして横たわっていますから、どうしてもそこでメッセージが屈折してしまって、まっすぐには届きません。製作者たちがフィルムに「北朝鮮を尊敬しろ!」だなんて想いを込めても、僕らにとってはそんな「作者の思惑」なんてとうてい共感し難いし、自分の文化背景の影響を受けて出てきた「北朝鮮笑える!」って感想の方が、はるかに納得しやすいしリアルなんですよ。

 このように、どんな単純なテーマであっても、作り手が込めた意思が観客までストレートに届くなんてことは絶対にないんです。思い通りの感想を与えようとしたらイメージの弾道計算をしなくちゃならない。

 これこそが批評の本質ですね。映画にしろゲームにしろまんがにしろ、もともとなにかを体験するというのは大変孤独なものなんですよ。なんでかっていうと、その作品と自分との「間」に発生した感想ってのは、作り手と共有できないでしょう。それどころか隣で一緒に見てる人とすら共有できない。年齢だとか性別だとか家庭環境だとか、これまで経験してきたものだとかによって、人それぞれ異なるバックグラウンドを持っている、別の人間なんですから。

 自分のこの感動・想いを誰とも共有できないというのは、たまらない孤独感ですよ。批評というのはだから、その孤独を解消するために「自分だけの感想・考え」を言語化し、他人と共有しようという行為なんです。「俺がこう感じた・こう考えたってことを伝えたい」というのが作者に向けられると「批判」になり、観客に向けられると「批評」になるわけですね。自分の感じ取ったものが他人のそれとは異なるということに、無意識ではあるにせよ自覚があって、それで他の人へ意見を述べるときに「これは批評だ」と宣言するわけです。この認識を踏まえた上で「われわれの批評・批判」を始めましょうや。

 

 ゲーム分類法・その1

 まずゲームの分類法です。アドベンチャーとかアクションとかRPGとかシミュレーションとかいろいろありますが、すべてのジャンルは「シナリオ先行型」と「プログラム先行型」に分類できます 。

 これはゲームの世界で呼び方が決まってるということではなく、僕流の分類法なんであまり気にしないでくださいね。

 僕自身が「プログラムは組めないけどシナリオは書ける」ってタイプなんで、それでゲームを見るときにもシナリオ先行型BGAKLプログラム先行型で分けてしまうんですよ。これまで僕が制作に携わってきたゲームというのは、どれもシナリオから先に入ったタイプのア ドベンチャーとかなんです。それに対してキャラクターの動作とかパラメータ設定とかの部分から入るタイプの「プログラム先行型」がある。

 シナリオ先行ってのはつまり、先にお話があるっていう意味ですね。このゲームはどういうストーリーにしようかなとか舞台設定は戦国時代にしてみようかなとか、そこから始まるわけです。有名ソフトだとドラクエなんかがそうでしょう。あれは堀井雄二さんがシナリオ書いて、戦闘部分や表示部分はチュンソフトがプログラム先行形式で作り、仕上げ段階で合体させるという制作方法ですね。ただドラクエも以降は完全にシナリオ先行型になってて、戦闘部分に関しても堀井さんがアイデアを出し、より深く物語を語るようになりました。アドベンチャーやRPGは大体この作り方なんですよ。先にシステム面の発想があってそれを活かすストーリーを練るというのは、あまり見かけません。

 このようにゲーム一つ取ってみても、分類の方法は様々なんですよ。専門誌のようにアクションだとかRPGだとかただジャンルだけで分類するんじゃなくて、制作スタイルから分類するって見方もあるんです。シナリオとシステムのうちどちらがイニシアティブを取ってるかだとか、「高額予算/低予算」だとか、「メモリをふんだんに使った大作/コンパクトにまとまった小メモリ作品」だとか、人によって様々な分類ができますね。

 そういうところからもゲームに対するその人のスタンスというのがうかがえるんですが、実は以前、こんなことがあったんですよ。だいぶ昔ゲームアーツという、ガイナと仲のいいソフトハウスが『LUNAR』というRPGを出したんですね。で、その企画が持ち上がったときそこの社長さんから「GAINAXさんはRPG作らないんですか? RPGは作るの簡単なんですよ。あれは要するにアドベンチャーなんです」と言われて、僕、目ぇ丸くしたんですよ。

 そりゃ当時のガイナはRPG作ってませんでしたけど、いくらなんでもアドベンチャーとRPGはまったく別ジャンルのものだろうと、社長さんに「それってどういうことですか?」と質問したわけです。

 すると社長さんがですね、「最初にアドベンチャーと同じようなシナリオ作っちゃうんですよ。シナリオのところどころに、それ以上先に進めないようなポイント作っておいて、なんか戦闘してアイテム取らなきゃ進めないとかそういう部分を付け足せばいいんです」と、そう答えるんです。

 だから、シナリオ先行型と一口にいってもこういうケースもあるし、僕の分類が完全に正しいものなのかというとそうではないんですよね。

 また、最初はプログラム先行型だったのがシリーズを重ねるごとにシナリオ先行型へ変化していくというのもあります。『ウィザードリィ』知ってますか? 大昔からある3Dダンジョン型のRPGですけど、これはシリーズが登場した頃、完全にプログラム先行型で制作されていたんです。それが日本に渡ってドラクエの洗礼受けたら、シナリオ先行型に化けちゃった。

 アドベンチャーゲームの発想法と同じなんですよ。物語の発端となる事件がまずあって、最終目的がある。ところがいきなり核心部分へせまることはなくて、まあ何度も同じ場所を訪れて聞き込みやったり、最初は「ワシは誰にも心を開かん。帰れ!」なんて言ってた爺さんが後になって「うーむ、大した少年だ。そろそろ本当のことを話すか」なんてことがあったりするわけです。はじめ「なによあなた、帰って!」なんて言ってた美少女がやらせてくれたら、それは秋葉原で売ってるエッチゲームなんですが(笑)。ともかくこのように、RPGの基本というのは「ある条件をクリアすれば先へ進める」って点なんですね。これを専門用語で「フラグを立てる」といいます。「条件Aを満たしているか? Y/N」で、YESならフラグが立つ。

 つまりRPGってのは一本のストーリー中に何ヵ所もフラグ立てのポイントを作って、折りたたんでいけばいいんです。フラグとフラグの間が小ストーリーになっていて、それが積み重なってる。フラグのある個所がストーリーのポイントになってと、こういう状態ですね。旅立ちの地があって、最初の城があって、試練の洞窟があって新しい街がある。さらに大平原やらなにやらのフラグ立てをクリアして最後に悪の大王と対決って、そんな感じです。

 この流れをたどっていくと物語のマップになるんですよ。全体から見ればスタートからエンディングまでの一本道、つまり一筆書きのマップなんですが、マップの書き方のコツというのは、いかにして一筆書きであることをゴマカすかってところにあるんです。ゲーム慣れした賢い奴が見たら一発で「なんだよ、一筆書きの一直線じゃないか」ってバレちゃいますから、途中で一見ムダに見えるような部分、たとえば船を手に入れて新しく行けるようになった島があるんだけれども現時点でそこに行ってもまだなにも起こらないとか、そういう作り方をするのがRPGのコツだそうでして、たしかに、そこらで売ってるRPGを見るとそういう構成になってるんですね。

 ゲームアーツの社長さんからそう教えられたときは、「そんな身もフタもないことを。なんとも正直だなあ」と思ってしまいましたが、まさかあの人も数年後に東大で開発姿勢を暴露されるとは予想だにしなかったでしょう(笑)。

 

 ゲーム分類法・その2

 ゲームの分類法をもう一つ挙げてみましょう。ここで参考にするのは、新興宗教の分類方法。新興宗教には二つのパターンがあると言われてます。これ、宮台真司さんのウケウリですけどね(『制服少女たちの選択』第七章)。

 第一のパターンは「個別的問題設定をするもの」。

 もう一つは「縮約的問題設定をするもの」。

 それぞれの典型的モデルとしては、「個別的問題設定をするタイプ」が幸福の科学、「縮約的問題設定タイプ」がオウム真理教ですね。キリスト教や仏教も成立当時は新興宗教だったわけですが、ある宗教が社会に認知されるまでには大体このどちらかのパターンを歩むそうです。

 二つのパターンについてそれぞれの特徴を説明しましょう。

 まず「個別的問題設定」型の特徴は、行為的であり、大衆的であり、効率的であること。言いかえてみれば「なにか問題があったときに対処策を教えてくれる宗教」であるということです。風邪を引いたら風邪薬を飲めというのと同じく、なすべきことというのが決まってるんですね。また、ご利≦り≧益≦やく≧というか、その宗教を信じたらどんなメリットがあるのかについても、現実社会でお金が儲かりますよだとか出世しますよだとか功徳がありますよだとか明確なわけです。

 だからある意味、『BIGTomorrow』や『POPEYE』『Hot-Dog-Press』なんかもこっちの部類に入りますよね(笑)。「どうすればモテるんだろう」なんていう質問に対して「これを読めばモテる! さあ君もやってみよう」という具合ですね。

 次に「縮約的問題設定」型。このタイプの宗教というのは、「ぼくはなぜモテたいんだろう」とか「なぜ人間は悩むのだろう」とか「人間には原罪があるのだろうか」とか、なんか小難しいことを語り合うんですね。これが「縮約的問題設定」のものの考え方です。自分個人のことを一般化して神秘的に語ろうとするから、どうしても体験的になる。しかも知識人的アプローチがなされていて、非大衆的になるんです。「あなたなら分かるでしょう。いや、あなたのような人にしか分からないんです。この教義は東大生だって理解に三日かかるんですよ」なんて具合に、経済革命倶楽部みたいなアプローチをしてくるんですよ(笑)。

 つまり教義的なんですよね。体験的に得られることを一般原則にして、教徒たちが教義を学んでいく。この学びの過程が知識人的な「選ばれた人」のノリを醸し出して、知識への集約そのものが魅力になる。まあ、僕の考える「オタク的アプローチ」と似ていると言えなくもないですね。

 で、これがどうゲームと関わってくるかなんですが、実は前者の「個別的問題設定をする宗教」というのは、マリオなんです。つまり、ゲームをパッと見た段階で、一体どういうことをやればいいのかが全部分かっちゃう。「なんか岩が転がってきたから避けよう」とか「クリボーが出てきた。敵だから踏めばいいんだよな」とか、マニュアルをくわしく読み込まなくても画面を見ただけでなんとなくやり方が分かる。

 一方、「縮約的問題設定をする宗教」は、ドラクエですね。ゲーム好きな人は分かるでしょうけど、最近の攻略本ってすごく知識的でしょう。そのゲームのバックグラウンドを思想的に解説しているものさえある。「いやあ、ドラクエってのは失われた物語でだね」とかシュミラクルがどうしたこうしたとか、ワイヤードっぽい語りかたも可能なんです。これもゲームへのアプローチ方法の一つですよね。

 

 アメリカ人にとってのヴァーチャル・日本人にとってのヴァーチャル

 以前ワープの飯野社長と、「ヴァーチャルの嘘」ってものについて話してたんですよ。なんというか「アメリカ人ってなんでこういうのを作りたがるんだかねえ」って話題です(笑)。ついこの間もどこだかの発表会で「これが最新鋭のヴァーチャルリアリティー・システムです」なんてやってましたけど、五年くらい前からこの手のものについてになるくらい情報が出てきてるんで、どこがどう従来品とちがうのか、専門家でない僕にはまるっきり判別つかないというシロモノでした。

 そのシステムというのが、何か怪しいグローブみたいなのを着けてでっかいゴーグルみたいなの装着してってスタイルで、そこら辺のお年寄りが「ヴァーチャルってのは大きいメガネのことだろう?」なんて言ってるアレなんですよ。つまるところ、アメリカ人にとっての「ヴァーチャルリアリティー」というのはこのイメージが基本なんですね。

 ところが日本人にとってのヴァーチャルはちがう。なにがちがうかっていうと、僕らにとってのヴァーチャルスペースというのはアメリカ人がイメージする「主観映像で体験する擬似世界」ではなく「モニターの外から眺める、コンピュータ内の世界」なんですよね。つまり『バーチャファイター』の画面を眺めるのがわれわれにとってのヴァーチャル体験。中に入るんじゃなくて外から見てるんですよ。

 だから、もしアメリカ人が『バーチャファイター』作ったらどんなゲームができあがるかというと、アレですね、『パンチアウト』(会場大爆笑)。あったでしょう、昔のゲームで『マイクタイソン・パンチアウト』というのが。相手選手が正面に立っていて、画面がプレイヤーの視点から見た作りなんですよ。パンチを繰り出すと、実際に拳を突き出したときの視界と同じような映像が広がるわけです。つまりキャラクターの視点を通して擬似世界を眺めるのが、あちらの人たちが考えるヴァーチャルなんです。

 日本人の考えるヴァーチャルってのは、人間そっくりのポリゴンキャラを箱庭空間に登場させて、コントローラーのレバーとボタンを組み合わせて動作コマンドを入れるってものですよね。そういうシステムの方が僕らにとっては「それっぽい・リアルだ」と感じるんですよ、不思議なことに。考えたらあのコマンド操作とキャラの動作はまるでちがいますよね。でもそれでいいと思ってしまうんですから変といえば変かもしれません。このように一口にヴァーチャルといっても、実は日米間でそのイメージやスタンスに大きなちがいがあるんです。

 

粋<いき>の眼で見るゲーム

 ゲームの見方について「粋の眼」「匠≦たくみ≧の眼」「通の眼」という三つの視点を説明したいんですが、いきなりこんなこと言われても戸惑うでしょう。まずは「粋の眼」とはなにかというところから説明を始めます。

 簡単に言うなら、「粋の眼」とは「作者の意図や作品の意味を見通す眼」のこと。先程「批評」のところで触れた、作者/作品間に存在するものを見抜く眼力ですね。「テーマ性を探る」というようなものです。たとえばゴッホの『ひまわり』があるでしょう。その作品を「粋の眼」で観察すると、どんなことが浮かび上がってくるか。

 ゴッホはどうも、日本という国に対してものすごい誤解をしていたらしいんですよ。日本に興味を抱いたきっかけが浮世絵だったんですけど、彼の日本観はこのイメージに支配されてたわけです。それで、「色が淡白だから日本はきっと日差しの強いところなのだろう。強烈な陽光の下、すべての色彩が色褪せてしまうような気候にちがいない」と、まるで日本をフロリダかハワイのようなところだとカンちがいしちゃったらしいんですね。で、「そんな土地のひまわりは、絶対にこう咲いている!」と頭の中でヴァーチャルな花を咲かせて、あの名画『ひまわり』を描いたわけです。つまりこういう裏事情を読み解くのが「作者の意図を見抜く」ということ。

「作品の意味を見通す」というのは、『ひまわり』が美術界に与えた影響を、「これを見た当時の人たちはこういう考え方をしていて、こういう勢力図にあったから、たぶんこんな経路で影響が出てきて美術界に変化が起きたんだ」と、全体的な流れ・関係をつかむこと。これが「粋の眼で見る」ということです。

 ところがですね、ゲームの世界ではこの「粋の眼」というのがなかなかないんですよ。作品の意味ぐらいだったらなんとか論じられてはいるんですけど、作者の意図が見えるようなゲームがない。これが「粋の眼」が出てこない理由でしょうね。で、そんな状況下にあって唯一作者の意図を見つけるための方法として、僕は「アノマリー」=異常性の発見を提案してるんです。

 異常性というのは、よい言い方をするなら個性ですよ。制作者の個性というのは、作品内の異常な部分に表れてるんです。よく子供の個性を伸ばそうだとか個性を発揮してゆとりある教育をなんてことが論じられてますけど、しかしですね、自分の個性に苦しめられてきた者として言わせてもらいますよ、個性なんて伸ばしちゃいけません。個性ってのは殺してちょうど。でもいくら殺しても殺しても殺しても殺してもね、出てきちゃうんですよ個性っつうやつは。やめろと言われてもアニメ見てしまうようなもんで(爆笑)。

 やめろと言われて潰れちゃうのって個性じゃないですよ。「子供の頃は絵が描きたかったんだけど、受験戦争で諦めた。私は個性を殺された」なんてのは大嘘もいいとこでね、どんなに「やめろ」と反対されたって、描く奴は絶対隠れて描いてしまうんです。授業中になんかノートの端っこにイラスト描いてたりして(笑)潰しても潰しきれないのが個性なんです。

 ゲーム作家の個性で僕が「怪しいなあ」と思ってるのが「ドラクエの堀井さん、なんで父と子の親子関係にここまでこだわるんだろう。なんかあるんじゃねえか?」(大爆笑)

 でもこれってデータ揃ってないから実証できるところまでいかないんですよね。堀井さん自らがインタビューで答えてるのは、「ドラクエには日本人が好む要素をすべて入れました」とか「日本人は復讐とかお家再興とか、あと血縁、父と息子のドラマ、失われた母親といったものが好きなんですよ」。しかしそういう「好まれる要素は全部入れろ」ってのはどこのソフトハウスでもやってるでしょう。なのに、堀井さんが「全部突っ込んだ」場合しかドラクエにならないんですよね。

 おそらく堀井雄二という人のアノマリーはこのあたりにポイントがあるんじゃないかと思ってます。

 他のゲームだと『シムシティ』がありますよね。実は僕、あのゲームにゆがみを感じるんです。なんでかというと、『シムシティ』の街って人口が増えると犯罪者も増加するでしょ。人口密集地に犯罪者が増えた場合、第一の対処法は警察署の設備にカネを回すことなんですけど、奇妙なことに鉄道が増えても犯罪が減るんです。ところが道路を増やしても犯罪は減らない。実に不思議なロジックですよね。鉄道で減るのに道路では減らないってのは。

『シムシティ』制作者のウィル・ライトは「このゲームはすべて、現実の都市設計の条件に即してデザインされています」と発言していて、日本のゲーム評論家たちは彼のその答えにみんな納得してるようなんですが、疑い深い僕らオタクとしては、そんな答えで許しちゃいかんのですよ(笑)。な〜んか隠してんじゃねえかぁ? ウィル・ライトって地上げ屋みたいな思考回路してんじゃねえか? と、そう疑ってしまうんです(笑)。

 そこで「粋の眼」で見るんですよ。「公園の設置で犯罪が減るというアイデアはなんで生まれたんだろう」とか「なぜ彼は原子力発電所のメリットをここまでアピールするんだろう」とかね。『シムシティ』をプレイした人は分かると思うけど、あのゲームは火力発電所より原発の方が、圧倒的に優れたモノとして表現されているんですよ。だから『シムシティ』やってるとついついなんとなく「やっぱ火力より原発だよ原発」という気分になってしまう、そんな効果があるんです(笑)。つまりそこからウィル・ライトの中にある普通とはちょっと異なった偏向や個性が見えてきて、そういったアノマリーが『シムシティ』のゲームシステムに影響してるんじゃないかと考えさせるわけですね。

 あと『卒業』とか『ときめきメモリアル』にもアノマリーはあるといえばあるんですが(爆笑)……しかしそりゃあすべての男にあるアノマリーでしょう(大爆笑)。まあ言わぬが華ですけど。このように作品に対して「粋の眼」を向け、作者の心のゆがみを探してみようという接し方をすれば、作品のテーマというのは結構見出せるものです。

 

 匠の眼で見るゲーム

 次に「匠の眼」。ハードウェア・ソフトウェアの双方からテクノロジーを批評してみます。

 イラストは、『スーパーマリオ・ブラザーズ3』のマリオが、クリボー踏んづけて思い切りジャンプしてる瞬間です。ボタンを一回だけ軽く押したときのいわゆる「小ジャンプ」と、ボタン押しっ放しのいわゆる「大ジャンプ」ですね。

 これって実はすごいんですよ。ピョコッと跳びはねるときはコントローラーのボタンをチョンと押すだけで、高いところへ跳び上がるにはボタンをグッと押しっ放しにするわけでしょう。つまりボタンの押し具合がジャンプの「実感」になっているんですよ。

 これはプログラム上の演出テクニックですけど、日本のゲーム評論では、こういうテクニックの妙というのはこれまであまり語られませんでした。ゲームを批評・批判するなら、背景色がどうだとか動きがどうだとかポリゴン化けがあるとか言う前にまず、ボタンの押し具合がジャンプの高さと体感的につながっているというプログラム・テクニックを論じなければダメですよね。ボタンを押し続けた分だけ高く跳べるという、地味なようでいて高度なリアリティ演出は注目に値します。

 さっきの『バーチャファイター』と同じですよね。人間の動作におけるヴァーチャル上=仮想上のリアリティを、デバイスと人間との関係で作っていこうという考え方なんですけど、こういう部分に「よくこんなこと思いついたな」「自然なゲームシステムだなあ」というテクノロジー評価を与えられる視線が、つまりは「匠の眼」なんです。

 ゲームの面白さの一つは、ゲームそのものが「発展途上のテクノロジー」であることですよね。新作ソフトが出てくると、決まって「こんなすごいの体験したら、もう今までのゲームなんかじゃ満足できない」って反応が出てくるでしょう。こんな反応、他のジャンルでは出てきませんよ。映画でもまんがでも昔の名作が現在でも高い人気をキープしていますし、「新世代の作品を見たらこれまでの映画/まんがなんかじゃ満足できない」なんて、まず思いません。

 ところが、ゲームだとやはり『バーチャファイター3』を体験しちゃうと『ストリートファイター』の初代はもうできないってのがあるんですよ(笑)。新世代のものがすごい威力を発揮しちゃうと、それより前のものが全部否定されてしまうという部分があるんです。発展途上の業界だから、最新テクノロジーによる旧世代テクノロジーの無価値化が発生するんですね。

 このあたりに、ゲームというジャンルが多層的・歴史的に語られにくいとされる原因があるんです。同時にユーザーにとっても新しいものへの贔屓というか、「最新版はここまでできるようになったか。すごい!」っていう心理が働いてしまうんですよ。NINTENDO64と同時発売された『マリオ64』もそういう宣伝してましたよね。「今度のマリオはここまでできる」って感じで。他のジャンルじゃそんな宣伝しませんよ。映画とかで「ここまでできるようになりました」とか、「今度のガメラは街の中で暴れるようになりました」とか(爆笑)。

 皆さんがゲームのソフト買うときも、テクノロジーへの期待込みで買ってるわけですよね。「このゲーム機を買っておけば将来すごいソフトが出そうな気がする」とか「バーチャファイターはこれからもどんどんすごい進化を見せてくれるはずだ」とか、そういう思い入れ、期待が入ってるはずです。そういう思い入れを冷静に自己観察できるよう気をつけて、客観的な観測眼を持たないと、いい批評・批判はなかなかできません。

 

 通の眼で見るゲーム

 さて三つの視点、最後は「通の眼」です。これは物事を社会的に見るというか、ゲームの歴史や進化過程を、それが社会に与えた影響と関連づけてとらえるという見方ですね。さっきの『シムシティ』でいえば、「あのゲームがウケる裏にはどんな社会事情があるのか。プレイヤーの思考にどんな影響を与えるのか」という視点から論じていくわけです。

 それで「通の眼で見るゲーム」ということで、具体例として僕の実体験というか内輪話を出すんですが、ええと僕、昔『電脳学園』というゲームを作ってたんすよ(会場爆笑)。いま笑った人は知ってるみたいですけどね、クイズゲームなんですよ。それもなんかこう、すげえオタクな出題ばかり。そのオタククイズに正解すると女の子が脱いでいくわけっすね(笑)。発売したのは一昔前だけど、これを作ったおかげで、そりゃあもうボロ儲け(爆笑)。この『電脳学園』ね、初めて作ったゲームだったんです。ガイナの中で「俺たちの手でコンピュータゲームを制作できるだろうか」っていう話が持ち上がって、それで挑戦というか実験してみたわけです。そういうの作ったことないから「ゲームとして絶対に必要不可欠な要素とはなんだろう」ってとこから考えはじめて、出た答えが「ゲームとは三枚絵の紙芝居だ」ってことでした。

 たとえば最初の絵で女の子が立っていて、「ジャンケンしようよ」とか誘ってきますよね。そこでジャンケンの勝ち負けによってルートが二つに分かれる。負けたら女の子がアカンベーしておしまい、勝ったら服脱いで「イヤ〜ん」。そこで「ゲームの本質はこれだ!」って(大爆笑)。

いや、ゲームの本質ったって『ウィザードリィ』や『シムシティ』はちがいますからね(爆笑)。

 その時の僕ら、『トップをねらえ!』ってアニメを作ってて、一ヵ月先のお金もないという状態だったんすよ。預金残高は六〇万円あるけどその月末の支払いが三〇〇万、次の月にはさらに一五〇〇万の支払い。さらにその次も二五〇〇万円支払わなきゃならないって状態でですね、僕らに一体なにができるっていうんですか。「イヤ〜ん」しかできませんよ(爆笑&拍手)。それで「俺たちに作れるゲームってなんだ?」「ゲームとは三枚絵の紙芝居だ!」「よし、それを複雑にすればいいんだな? 分かったぜ!」と、そんな調子で制作がスタートしたわけです。

 で、つぎにフラグ立ての部分を練るわけですよ。僕らのフラグ立ては、まず一人めのコが脱ぐ(笑)、二人めが脱ぐ(爆笑)。で、三人めが脱ぐ……と、なのはここですね。三人脱いじゃうとこのゲーム終わっちゃうんですよ(笑)。

 さらにね、ただ女の子が出てくるだけでなく、やっぱ迂回させなきゃってことで、校舎内をあちこち歩き回るようにしたんです。途中でアドベンチャー風イベントみたいなのも入れようとか。でも基本的には僕にとってのゲームって、三枚の絵なんですよ。枚数をどんどん増やしていけばアドベンチャーになるし、絵と絵の間に戦闘とかフラグを入れればRPGになると、そう考えてたわけです。「絵の間にフィールド歩かせれば誰が見たって∞12RPGだよ、オッケー!」って。

 ともかく本質はここです。フラグを立てれば脱いだ絵が見れる。言いかえれば、ある条件を満たすことで続きが見れるという、コンピュータ管理の紙芝居。これがゲームの本質だと見抜いたんですよ。

 さあそこからが大変でして、なにしろ銀行の口座には六〇万円しか残ってないのに月末には三〇〇万支払い請求がくるっていう、そんな状態ですからね。なんとしてでも儲けを出さなきゃならない。儲からなきゃマジでヤバかったんすよ。で、そんときに聞いたのがですね、フロッピー一枚が一五〇円だって話でした。当時はCD−ROMなんて普及してないから、市販ソフトはフロッピーで販売してたんです。一枚当たり当時一五〇円のフロッピーで。これを販売する場合どれくらいの値段が適正価格なんだという話になってよそ様の値段を調べたら、大体一万二八〇〇円とかで販売してまして、つまりこれがゲームの本質です(爆笑)。三枚絵の紙芝居を複雑にしたようなゲームを一枚一五〇円のディスクに入れて販売し、お客さんから一万二八〇〇円取っていいのがゲームであると、これはねえ……ショックでしたよ(笑)。だってその頃、『トップをねらえ!』の制作費って一話分で実質二二〇〇万円かかってたんすから。予算は一話一三〇〇万円なのに、なんというかもう、バカですよね。

 とにかくアニメってのは金食い虫で、作品を作れば作るだけ損をするという状態なんです。だから時々損をしないようにペースダウンさせてみんなでバイトして食いつなごうって気持ちで始めたら、世の中にはこんな儲かるものがあるのかって、すごいショックを受けたんですよ。ところが世の中にはもっとすごい人たちがいるもんでして、いまはもう解散しちゃったのかな、ウルフチームというところが……(爆笑)。ああはい、知ってる人たちは名前聞いただけでウケてしまう、そのウルフチームが「うちのゲームはフロッピー六枚組みだ。だから値段も一万六〇〇〇円だ!」って、六枚組みソフトを出したんですね。ところが、一枚一五〇円だから六枚だって九〇〇円にしかならないわけですよ(笑)。

 いや、これはフロッピーの原価だけの話ですよ。当然、開発費とかはソフトごとに違うわけなんですけど。でもあの時代、たしかに「フロッピー六枚組だから一万六〇〇〇円」っていうのには値頃感があったというのは、事実なんです。

 こういう実体験があるんで、ゲームの原価が高いとか開発費がかかるとか聞いても、ディテール聞かないかぎり素直に信じられないんですよね。たとえば開発期間半年だったら、プログラマーとグラフィッカーの人件費だけで七二〇万かかりますよ。一般的なレベルで、一月当たりの拘束費がプログラマー=七〇万円、グラフィッカー=五〇万円ですから。で、開発だけなら半年で済んでもデバッグに三ヵ月は必要ですから、チェック頼むテストプレイヤー数人とデバッグ担当のプログラマー二人で、ワープの飯野社長によるとこれが一月二三〇万はどうしてもかかるそうです。三ヵ月で六九〇万。バグ取りも案外シャレにならない出費ですよね。

「いまマトモなゲームを作ろうとしたら五〇〇〇万円はかかる」ってのは、こういうところから出てくる数字なんです。人件費の他にも宣伝広告費やらパッケージデザインやらが必要ですし、さらに会社や企画運営を維持するための管理費やらマニュアル代やらを乗せていったら、五〇〇〇万円なんてあっという間に使い果たしてしまいますよ。そういう具合に、「五〇〇〇万円はかかる」と聞いた途端、頭の中で「人件費がいくらで原価がいくらで……」と計算しちゃうんです。経済面からゲームの制作状況を推理してみるってのも、社会的な「通の眼」ですよ。

「粋の眼・匠の眼・通の眼」とか「ゲームの見方・評論」についてお話ししましたけど、要はこうやっていろんな角度から分解して観察しようってことですね。

 

 


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