『東大オタク学講座』
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小林よしのり氏は、あの有名な「SPA!宅八郎論争」の中で、オタク否定派だった。 小林さんに、僕が個人的に持っているテーマ「オタクは社会の中で、どう生きていくのがいいか」をぶつけてみてはどうか。これが、小林さんをお呼びした理由だ。 まんが家である小林さんが、日本の政治や未来を語ることを否定的に見る人も多い。が、僕はそうは思わない。 それならば、文芸評論家が日本の将来をああだ、こうだ言う方が、よほど納得がいかない。昔、文学が政治に影響力を持っていた時代の名残りに過ぎないのに。 同様に、海外思想を日本に紹介する思想評論家の人たちが、日本の将来を云々するのも、さっぱり分からない。かれらは思想家ではなく、翻訳家であり、翻案者なのだ。 僕は、小林さんを、『ぼくたちの洗脳社会』で書いた強力な洗脳力を持つリーダーとして認識している。これはけっして悪い意味ではない。洗脳自由競争の現在では、より自分の洗脳力を拡大しようと各自が努力することこそ、動的に安定したより良い社会を作る唯一の方法だと考えているからだ。 では、これからの社会を、洗脳リーダーである小林さんはどう引っ張っていくつもりなのだろうか? その中で、私たちオタクはどのように行動すれば、支配階級に成り上がっていけるのだろうか? 果たして、この人は将来オタクの敵になるのか、味方になるのか。 普通「これからの日本、どうなる、どうする」といったテーマの場合、政治家や政治評論家を呼んできて訊く場合が多い。 が、僕は僕なりの選択基準で、小林さんに疑問をぶつけてみることにした。
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本物の愛はギャグかロマンか 岡田 普通、まんがを描く人って、「まんが描きたい」とか「こういうまんが描いて人喜ばせたい」とかっていうように、まんがを描くこと自体が目的ですよね。なんか、そういう風にまんがが目的化するじゃないですか。ところが、小林先生が描いてらっしゃるまんがというのは、この「まんがをもってして、何か別の目的のところへ読者を連れていかなければならない」ことが、ときどきありますよね。そこで、まんがを描くことと、まんがで別の目的のところへ読者を連れていくことがずれる時ってありません?「こういう風に描いたらこいつら絶対大喜びする」ってわかっていても、そう描くと意図とはずれちゃうと。 小林 ずれちゃうねえ。まんがを描く時には「絵を描くのが好きだ」とか「ストーリーを考えるのがすごく好きだ」とか、いろんな要素があるわけですよね。で、ワシの場合は、子供の時から絵を描くのも好きだったし、それ以上にストーリーを考えるのが好きだった。もう一つは、読んだ人の中にどんな形でもいいから、波を起こさせるっていうものがないとなんです。それはすごい反発でもいいし、すごく元気がでるものでもいい。反発されたとしても、それは自分の中の元気とか行動力の源泉になる。その意味で、何らかの感動とか感激とか、そういうものを与えて人が喜んでくれる、そのために描くっていうのがある。その辺が、いわゆるストーリーまんがを描いてる時と、『ゴーマニズム宣言』を描いている時とね、何かがずれているっていう感じもするけど、もう片方ではね、結局楽しませていればいいんだと。自分を楽しんでもらえればいい、というところがすごく大きいからさ、まあ、そこだけですよね。 岡田 具体的な例でいうと前のエイズの薬害の時に、「薬害魔王」と呼ばれた安部っていう人いますよね。あれを描く時にですね。目的としては小林さんは、「よし、まともに描いてやろう」ということで、悪く描くわけですよね。ところが、こいつにおちゃめなことさせた時、必ずウケがとれる。しかしそれでウケをとると、こいつ悪者にしようというコンセプトがずれてしまう。「でも俺としては、こいつにおもしろいことを一言言わせたい」っていう葛藤はないんですか? 小林 いやそれは、薬害のシリーズをやった時に、つい出てきたところがあるんじゃないかなあ。安部英≦たけし≧が以前、アメリカでエイズという奇病が流行りはじめている……っていうのをうけて、新聞のインタビューか何かで「非加熱製剤の中にエイズウイルスが入ってるかもしれない。だからそのことを思うと、いてもたってもいられない」って答えてるわけですよ。で、その「いてもたってもいられない」っていうすごく欺≦ぎ≧瞞≦まん≧的≦てき≧な言葉がおもしろいなあと思って、「いてもたってもいられない」って言いながら手足じたばたさせてるところ描きますよね。そうするとあのキャラクターは浮き上がってくる。 岡田 でもそれをやると、そいつカワイク見えちゃいますよね。 小林 そう。かわいく思える。安部英をすごく悪く描くつもりが、どこからか、安部英をもっと登場させてほしいとかね。そういう要望が聞こえてきそうになるんですよ。それがすごくマズいところです。だから、西部邁を描く時はね、ムチャクチャに描いても、何か愛敬は伝わるし、別に伝わっちゃってもいいと。けど安部英の愛敬を描いてしまっていいかなっていうところはあって。でもこの「薬害の真相を暴く」シリーズの時には小林よしのりを登場させるわけにはいかないでしょ、昔の薬害が広がっていく経過を描いてるわけだから。ワシはせいぜい解説の時にしか出てこない。そうなると、この主人公は安部英になってしまうなあっていうのがあって。このまんがは、ちょっとやばいまんがだなあとも思ってねえ。 岡田 描きあがった時には、これでいいと思うわけですよね。 小林 うーん、だからそこは良心との葛藤をしつつ、でもやっぱりおもしろいからこれだ、ってなっちゃうんですよね。 岡田 やっぱりそういう部分はあるんですよね。その「おもしろいからこれだ」っていうのが、作家性ですよね。良くも悪くも、これでいっちゃいたいと。そういうことで、自分でもこれは失敗だった、というのはあります? 小林 失敗? うーん、そういうのってあるのかなあ。描いたものは、次から次に忘れていくからさ。だから『ゴー宣』の中でももう忘れてるのもあって、この場で聞かれてもちょっと思いつかないなあ。 岡田 いや、何で僕がこれを聞こうと思ったかというと、去年の夏に文庫本で『どとーの愛』の復刻版が出たんですよ。あれ、みなさん読んだことありますか? すごくかいつまんで話すと、主人公同士がすぐに結ばれればいいのに、両方が「これは本当の愛じゃない、愛じゃない」と言ってどんどん離れちゃうような話になっていて、俺覚えてるのが、クライマックスで新幹線の窓をこわしてすれ違いざまにキスする。キスする瞬間に顔の骨が砕けちゃう。で、後書きを見ると作者は「本当の愛」を描こうとしてるんですよ。ところが、そこにあるのは「ギャグ」なんですよ(笑)。じゃ、愛とはギャグであるということか、というとそうではなくて、その向こうに、作者が描こうとしているロマンみたいなものがほの見えるんです。けれども、あまりにもあの骨が粉々になるインパクトが強すぎて、ロマンがはるか向こうの方に行ってしまって見えない。あの作品は典型的な、目的をまんがを描くということのためにスパーンと落としてしまったと。 小林 ああ、そうでしょうね。あれはまさに、いわゆるラブコメとか柴門ふみが『恋愛論』とか書いてた頃で。あと家田荘子がイエローキャブだとか何とか言って、巷ではラブアフェアーだとか言っていた時に……。 岡田 九州男児としては許せん、っと。 小林 そうそう、やっぱり恋愛は怒涛でなくちゃ、と。二人の間にうねるような大きなドラマを作って、それでいて互いの成長がなくてはいけない。というわけで、ワシが本物の恋愛とは何かを見せてやる、と。 岡田 どのへんから、それがずるーっとすべっていったんですか。 小林 何ていうかなあ、ヒロインが山に篭もってね、サルの軍団にさらわれて、それを主人公が救いにいったりして。 岡田 今聞いてもすごいまんがですね(爆笑)。 小林 結局あれは、村の中に埋められるんだっけな。で、その埋められる時のイメージとして、唇だけがね。あ、その前に二人がキスの練習をしていて、唇が腫れ上がってしまってたんだ。その二人が山にカラダ全部埋められてて、腫れ上がってしまった唇だけが岩のテッペンに出てる。そういうシーンが絵としてフッと浮かぶわけよ。とにかく真実のキスを求めてた二人が、真実のキスを達成できないまま埋められてしまった、と。絶体絶命だ。そういうシーンが、すごくロマンチックだなあ、と思って……。 岡田 でも、すでに本当の恋愛をみせてやろう、というコンセプトから相当ずれてますよ。 小林 そこで、絵的なおもしろさ、それをどうしても描きたい、っていう気持ちが上回ってしまって、描いてましたよね。 岡田 そういうことって今描いている『ゴー宣』の中にもありませんか? 小林 うーん、『ゴー宣』の中では、まだまだ本当の意味で「ゴーマニズム」というところまで来てないから。そうねえ、現実がまだそこまでシュールじゃないからねえ。まあシュールと言えばシュールかもしれんけど、その折り合いが難しいからさ。 岡田 安部さんぐらいシュールになると、扱えるわけですか? ギャグキャラクターとして。 小林 ギャグキャラクターとして、『ゴー宣』の中でそんなにシュールに扱ったキャラクターってあるのかなあ。うちのスタッフぐらいなもんかなあ。
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まんがにそそのかされて来る奴って何者? 岡田 一時期、オウムの書き方がすごく過激になってきて、このまま『ゴー宣』読んでたら逆にオウムのファンになるんじゃないかって思ったことあったんですけど。 小林 たしかにねえ。オウムには破防法かけた方がいい、どれだけオウムが危険かっていうのをすごくドラマチックに描いていったら、「こんな楽しいドラマあるのか」っていうようにも思えたね(爆笑)。ああいうように、実在の人物を実際に使って物語描かせたら、ワシが一番うまいだろうなあ、っていうのはあるよね。 岡田 僕は、NHKで『ふしぎの海のナディア』っていうアニメーション作りまして、それやってて思ったのは、悪役にリアリティーつけてやればやるほど、スタッフ全員が悪役に感情移入してきて主役なんかどうでもよくなるんですよ。で、世界征服やらせてやろうじゃないか、と(笑)。なんかそっちの方にいっちゃうんですよね。 小林 それはやっぱりありますね。『東大一直線』を描いてる時に、どう考えても東大通が東大に合格するわけがない、ないけれども東大通に感情移入しすぎてしまってるから、どうしても通さざるを得ないっていうか。 岡田 そういうところから聞こうと思っていたのはですね、『脱正義論』のところでも描かれていたんですが、「厚生省前で集まれ!」と呼びかけられて、何千人か集まりましたよね。あの何千人も集められたというのは、本当に『ゴーマニズム宣言』の力だと思うんですが、あれで集まった何千人というのは、一体どういう人たちなんでしょう。 小林 そこが今となっては考えるところなんだよねえ、結局。 岡田 こういう言い方は変ですけれど、「まんがにそそのかされて来るような奴」ですよね(爆笑)。これは、俺、よっぽど怒って席立たれるんじゃないかと思ってビビりながら言ったんですが。 小林 それは、公には絶対言えないけどね(爆笑)。やっぱりたしかに、そう言ってしまっても、より正確って気はしますよね。 岡田 僕の考えでは、エンターテイメント作品であろうと本であろうと、ファン層がだいたい三つに分かれていましてね。まず、「理念」というのがあって、それを分かってくれる人がいる。もうひとつは「事情」をわかってくれる人。三つめは「感情」で理解してる。ここのすそ野はもうちょっと広いかなあ。で、この割合が、五対一五対八〇ぐらいかなと思ってたんです。 たとえば僕は『オタク学入門』っていう本を書いたんですよ。そこで、僕が「オタクはこれからの時代偉いんだぁ」と書くと「そうだ 偉いんだぁ」っていうの奴が必ず多くいるんです(拍手)。で、「ああ、なるほどそうも言えるよなあ、たしかに世界経済の中で日本のソフトがでてるのってカラオケとアニメぐらいだよなあ」と理性的な判断をするのが、の辺の人です。そして、要するにこの人はどういうことを言おうとしているのか、ということを理解するのがにあたる人たちです。何か目的があるはずだ、奥に何か意図があるんじゃないかと。これによって敵意を持とうが共感しようがかまわない、と。僕はこういうの人が五パーセントぐらいだと思っていたんですが、だんだんここってゼロじゃないかと(爆笑)。の人が五パーセントで、の人が九五パーセントじゃないかと思うようになったんです。 これが僕がやってる、活字っていう、わりと理性的なものです。まして絵の方は、より感情的なメディアとして機能しますよね。そうするとあれで知った何千人っていうのは相当の方がの人で、実は、小林さんが求めていたのはの辺のレベルの人じゃないかと。で、結局自分で調べて、じゃあ薬害っていうのはどうなんだ、と小林よしのりすら疑えって言ってるのに、疑えない奴がここで、の奴らっていうのは言われなくても、最初から運動をやってるから、小林さんとかの作品をあまり必要としてない。逆に言えば必要としてるけど、一言言えばすぐに分かって、それっきり巣立ってしまう人。またの辺の人は自分で勉強して大丈夫な人。だけどの辺の人は「来い」って言ったら、本当に来てしまった。というのは、感情でしか動いてないんじゃないかなあ、と。 小林 そうだなあ、自分でやっちゃってる人たちっていうのは、『ゴーマニズム宣言』をどういう風に読んでるか、ワシは分からないんだけれども、その理念の部分に、なるほどっと感心してついて来るみたいな感覚で読んでるんじゃなくて、自分でも何となくわかってることを言ってる、と。それでも何か、まんがとしてのおもしろさがあるわけでしょ。だって、いわゆる知識人がわざわざ『ゴーマニズム宣言』なんて読まなくてもいいでしょ、かれらはもっと先を考えてるわけだから。でも読むというのは、かれらがおもしろいと思う何かがあるわけ。だからそのレベルで読んでる人っていうのは、ずいぶんいると思うよ。この前、菅直人と共産党の志位和夫と自民党の加藤紘一の政治家三人とテレビの番組で対談したけど、読んでないのは加藤紘一だけだったね。名前だけ知ってて読んでない。でも、志位和夫が読んでるのには、ものすごくびっくりしたよ。まったく正反対なこと書いてるのにね。まんがの内容に何かブツブツ言ってたけれども。だからまったく正反対なことを考えてる人間だって何かがおもしろくて、つい読んじゃうわけでしょ。そうすると、そういう人たちは、この中のどれにあたるのか? と。 岡田 やっぱりそれはの辺ですね。 小林 やっぱりこのあたりね。 岡田 だから僕が恐怖を感じてるのは、のあたりの人がゼロじゃないかなあ、と。ものを書く人っていうのは究極的にはの人を求めて書いてて、それがダメならの辺で、人気とるためには、の辺のために描いておこう、と。実は、の人っていないんじゃないのかっていう恐怖ってないですか? 俺が書いてるまんがで実は描きたいことを分かる奴っていうのは、直接話した奴ですら、いないんじゃないのか、と。 小林 ワシは、本音を言うと、そこまで徹底的に自分のこと分かってほしいって思ってないなあ。誤解もふくめて、の辺の人が多いっていうのは分かるな。ワシのところに読者から手紙がたくさんくるじゃない。でも不思議なのは、初めて手紙を書きますっていう人たちは、かなり分かってくれているような感じなわけ。で、分かってくれているなあと思って欄外でチラッと紹介したりすると、二通目三通目と手紙を送ってくるんだけれども、だんだん変になってくるわけよ(笑)。そうなると一回だけ手紙を出してきた人でも、こっちが反応したところを見せると、どんどん変になっていくのかもしれないって疑惑もワシの中にはあるから、ある程度ニヒルにしか見れないっていうのはあるなあ。 岡田 自分の意見がある程度、社会の中でメジャーになっていくと、その人を変にする、というのか、壊しちゃうっていうことはあるんですかね。何かおかしな方向にもっていくという。 小林 ワシは、自分が果たして本当に立派なことを言っているかどうか、それすら分からないですよ。自分で自分が絶対に正しく立派なことを言ってると思いこむなんて、それこそ「ゴーマン」ですよ。ただワシは、自分の言ってることに、人は刺激を受けているはずだし、楽しんでいるにちがいない、自分が何か言い出さないとおもしろいことは起こらないと思っとるわけよ。それでたとえば、ワシの作品を読んだ人たちが、たしかにおもしろいことがこの方向にはある、と思って賛同してくれれば、何か一つの「祭り」が始まるっていう感覚がワシにはあるわけ。 岡田 その祭りはどこに持っていくという目的はあるんですか? 小林 目的は、さしてあるわけではないし、とにかく「祭り」優先。絶対何かおもしろいものを見せてやる、きっとクライマックスには相当のカタルシスを与えきれる何かがある、と。ワシは直感的に、そこまでもって行ける自信みたいなものがある。もともとはギャグまんがなんだけど、ワシの場合はギャグがストーリーになるから。構成を直感で描いていって、どんどん話全体が布石のたくさんあるすごく複雑な話になっても、その前後の布石をかき集めて、すごいイメージとして作ることができるっていう無意識な自信があるわけよ。だから、必ずワシの「祭り」にはクライマックスという決着がきて、その決着がおもしろいわけだから、それをなんとなく直感で感じている奴がいる。もちろん、いろんな奴がいろんな手段や芸能で「祭り」をやろうとしているけど、その中から、小林よしのりの「祭り」が、どこかおもしろいと直感する人がついてくればいいわけよ。 岡田 そういう場合に普通は、こんな「祭り」を起こすから、そのクライマックスは「正しい」と言いますね。で、「正しい」からついてこい、って言うんですけど、小林さんは今、ごく自然に「おもしろい」と言いましたよね。たとえば、教科書の問題にしても、薬害エイズにしても、小林さんは問題点をどんどん大きくしていって、あのまんがの中で書いているコンセプトにしても、小林さんが意に反していろんな討論をしているのも、「おもしろい」じゃなくて、これはこうやらなければいけないとか、「正しい」「正しくない」っていう線が通ってますよね。ところが、描く時には「おもしろく」してやれと、「おもしろく」することが「正しい」という一種の期待感があって、やられてるわけですか。どんどんおもしろくしていけばゴールがあって、そのゴールというのは自分が考えてる「正しい」というのと一致しているという見込みがあるんですか。
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「純粋まっすぐ君」たちの怪しさ 小林 けっして失望感では終わらないだろう、っていう感覚はあるね。そのためには、まんがだけじゃなく、テレビにもガンガン出ていって、その結果、出てくるものは、必ず以前の状態よりはいいものだと、もっとおもしろい段階に達していると、日本国中がおもしろい段階に達しているという、そういう感覚があるわけよ。 岡田 俺、この理念の部分を聞こうと思ってたんですよ。たとえば、いま教科書問題で、以前だったらエイズ問題で、その中間ですごく本質に見えたものがあって、社会運動っていうのがあって、個人の中の正義感みたいなものと、社会の中の正義感みたいなものをどうとらえるか、これをうまく描かれていた気がするんですよ。で、小林さんはゴールが見えてたんじゃないかと思ったんですよ。「よし、ワシがこのゴールへ持っていっちゃえぇー」と。で、この持っていく先というのは、これからは言論の人とかがガンガン話しだすから、今よりマシにちがいない、と。何かそういう確信ってないですか。 小林 そういう歴然とした確信っていうのはないなあ。たとえば、一つには自分の周りの人間を見ててもすごく退屈してる、っていう感覚がある。いま資本主義が高度に発達したから、何か余裕みたいなものができている。そんな、なんかグスグスにやることなくって、目的なくって、なんかただれてるところは結局、誰かがそれを昇華してやらなきゃいけないわけでしょ。その役割はミュージシャンがやったり、作家とかテレビとかがやっていて、その中のまんがなり、まんがと言論のあいの子みたいなものが、ワシのものになる。そして、ワシのやりかただと、そのへんのグスグス状態の人も昇華していける、と。だから、ワシが教科書問題とか慰安婦問題とかやってると、賛成の人も反対の人もカッカしてやることが見つかったわけじゃない。やること見つけてあげたのはワシだからね(笑)。今までやることなくて、沈静化してたわけだから。くすぶったままの状態では、かれらは絶対自分の中に決着つけないままに、何か悪いことするにちがいない、と。だからそれを全部昇華してあげようっていう感覚になるわけよ。そのために、この問題はすごくいいぞ、と。 岡田 なんかそれって老人ホームの「餅つき大会」と同じですよね(爆笑)。 小林 似てる、似てる。くすぶっちゃって、そのままブスブスに死んじゃう人たちをもう一回きっちり昇華してあげましょう、と。昇華した人は、きっと浄化したすばらしい人になるだろうと(爆笑)。そういう自分の中でもてあましちゃってるエネルギーを昇華してあげよう、と。そんな役割だから、じゃあ言論というもの、社会のことを考えてる人は、そういった余剰を昇華してるのかっていう問題あるでしょ。でも、あまりそれをやってないから、やれていない言論人たちのありあまったエネルギーもワシが昇華してやろうと。 岡田 じゃあ、理念の部分って誰が考えてるんでしょう? 小林 ああ、何らかの理念があるって感覚のこと? この問題は、たとえば『脱正義論』に書いたことにつながってくるけど、どこかに理想の王国がある、物事に全然不正なことはなんにもない輝ける王国があるはずだ、だから人々はそこに向かわなければならない、と。そういう風に考えていると、結局そっちにむかっていくことが「正義」だって思うわけでしょ。だからその怪しさを、ワシは『脱正義論』で書いたつもりだったのね。それは多くの、特に日本人が、すごく陥ってる一つの病みたいなもので、ワシはそれを「純粋まっすぐ君」っていう風に描いています。 要するに、井上嘉浩や林郁夫といったオウムの信者を見たとき、かれらはもともとが完全に純粋な人でしょ。「人間はとことん純粋にならなければならない」「この地上を純粋な楽園にしなければならない」と考えて、そのために結束して、自分たちの理想の王国のためなら「今の不浄な人間たちを何人か殺してもたいしたことない、何百人殺してもいい」って思っちゃったわけでしょ。で、それが結局失敗した。そして、かれらが今どうなっているかというと、「麻原は詐欺師だ」「自分たちはだまされた」と言って、自分たちはまた純粋な人間に戻ってるわけだよね。だからオウムに入る前と後でなんにも変わらないわけ。そこまで「自分だけはつねに純粋でありたい」と思ってる人間を見ると、ワシはもうそれは病気だと思ってしまう。一方で、あの中でいうなら土谷は、自分のやったことを最終的には引き受けてるよね、「自分はもう信仰に生きて信仰に死ぬ」と。つまり「麻原はやっぱり神だ」って思って死んでいくことを決めちゃったわけよ。多分、ワシが信者だったら、自分の信仰のためだったら自分の犯した悪も自分で引き受けてしまおうと考えてしまうんじゃないかな、と思うわけ。自分で選び取ったんだから、悪罵を投げつけられようと、犯罪人だろうと、引き受けてしまおう、とね。でも結局、オウムを見て思うことは、人間っていうのはそうじゃないじゃない。そこそこいいところもあり、そこそこ悪いところもあって、その対応をするのが人間っていうわけだから。そこに「理念」っていうのがあって、どこかに善良だけに埋め尽くされた世界があるっていう風に思ってて、そこに向かっていかなければならないという、ベクトルの向け方自体がすでに危険じゃないかというわけよ。 岡田 ではですね。さきほどおっしゃった「輝いてる」という言葉ですが、結局、ここに人間の心がありますね。そして、人間の心も日常の中でだんだん汚れていき、ゴミみたいなものがでてくる。このゴミみたいなものが「正義感」であろう、と言えますね。この部分を燃やしてやれば人はきれいになれる。完全燃焼してやれば、こんなことは考えない。この「正義感」っていうのは、自分では「正義」だと思ってるけど、ただの「ゴミ」だから廃熱であり、邪魔なものである、という風に考えられるわけですね。 小林 要するにね、ここにこのくらいのコブができてるわけよ。だから心の中の善と悪のバランスが崩れるわけ。ここの部分をよくみなさい、これだけ悪の部分もあるでしょ。あなたの心の中はそれでバランスとれているんじゃないかな、と。オウムみたいな人は、ここがコブになってる分、自分は全体が善だと思ってるわけよ。で、悪の部分が見えなくなってるわけ、バランスが崩れてるから。 岡田 そうすると、保守系、革新系、左翼、右翼に限らず、言論人と言われてる人、意見を言おうとしている人というのは全員、これにかかってるんじゃないか、とも思うんですが。 小林 まあ、そうでしょうね(笑)。あるいはもう意図的に考えるかもしれないですね。もっとここが肥大した奴もおるかもしれないし。 岡田 そうなってくると、今の従軍慰安婦の問題にしても、これを取り上げることによって、今の日本の中でくすぶってる問題を浮上させ、ガーッと表に出させるというのが目的の第一であって、その結果教科書は改定されなくてもいいなっていうのはあるんですか。 小林 あ、それは、べつに、いいんですよ。 岡田 わぁー(爆笑)。 小林 そんなにこだわってるわけじゃないんだけど。 岡田 おみそれしました(笑)。 小林 だって、教科書自体を読んでないもん(爆笑)。ワシは、もういやだと思ったら読まないから。 岡田 それよりは、グチャグチャ思ってるのに言ってない奴がいたり、思ってもいないのに言ってる奴がいることを利用して、カサにかかってる奴がいることがなんですか? 小林 そうだね。だからたとえば、鳩山由紀夫は、なんか病気にかかってるんじゃないかとワシには見えるわけです。あの姿は、やっぱり井上とか林に重なって見えるわけよ。これはもうほとんどオウムだという感覚がする。でも現実に政治の一番上のところにまで出てしまっているでしょう。ワシは今、そんな政治家の顔とか見てると危険だなあと思うわけ。政治家がオウムの信者的な顔の奴らばっかりになってきてる。昔の政治家、田中角栄なり中曽根なり佐藤栄作なりの顔の系譜を見ればさ、みんなすごく悪賢そうな顔してるじゃない。それなりの政治家の面構えをしてるでしょ。でも今、菅直人……。 岡田 それまでは、なんか敵いそうな顔だったのが、敵いなさそうな顔になってますね。 小林 だから、何にも恐くないわけよ。会ったら、どんどんやり込めて、ヒッチャカメッチャカできるわけ。でもワシみたいな漫画家がヒッチャカメッチャカにしてしまえる政治家って恐くない? 国際社会にでていって、中国の首脳とかアメリカの首脳とかとやりあってるわけだから。たとえば、こう言っちゃ自分の話になるけど、四〇過ぎて、こんなワシのような顔をしててはイカンのだ。本当言うと、もっとしぶい顔しとかんといかん。ワシなんかは、子供の時からずっと成長が遅れてるわけよ。中学の時に小学生みたいな背丈と雰囲気だったし、高校生の時にやっと中学生なみの背丈と雰囲気なわけ。だからそのコンプレックスを克服しようとして、自分のことをワシと呼ぶようになったわけよ。なんとか舐められないようにしようと。 岡田 そこで、舐められないために「ワシ」と呼ぶというのもなんか(爆笑)。いい味だしてますねえ(爆笑)。 小林 なんとか貫禄つけようと思って、高校ぐらいの時からワシって言いはじめた。ある意味、オウムのサティアンの中の子供は、やっぱりマインドコントロールをかけられてて、成長が止まってるっていうじゃない。ああいう現象が、日本人にも起こってるんじゃないかなと思ってるんだよね。だから四〇、五〇になってもね、ずいぶん大学生みたいな顔、すごく未熟な顔をしている。本当に大丈夫なんだろうかって思うね。 岡田 僕は、大丈夫じゃないって思ってます。それでこういう風に聞いたのはですね、さて小林さんこれを引き受ける気あるのかな、と思ったんですよ。こういえば失礼ですが、おもしろいまんがもこの世の中にたくさんあるからもういい。まんが家が今の日本に一人増えてこの世の中がおもしろくなる必要ってもうないじゃないですか。楽しいことはもう十分! 楽しいことの価格下落! 供給過多! それよりはこっちの方が大事じゃないかなと思ったんです。で、小林さんこちらの方へいかれるのかなあと思ったんですよ。
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独裁者とその信者 小林 朝生(あさなま)とかの番組に出た後、いつも反省するんですよ。まんがの方がまだ魅力的だぁー(爆笑)って。これじゃまだついてきてくれない、もっとなんとかしなければならない、とね。なぜまんがの中ではうまいこと描けるのに、実物だとこうなるんだろう。まず、これをやらなければ人は聞いてくれない。世間は人を見て、聞くからさ、理屈だけでは聞かないわ、やっぱり。だからワシがそこまででたらめなこと考えてないってわかってもらえるほど信頼してくれるか、っていうことだよね。 岡田 うーん、ちょっと待ってください、僕自分の言葉でまとめてみますけど、それは、まず自分の理念とか理想とかロジカルなものに対する恐怖感ではなくて、最終的に自分がなにをやるのかっていうことを全人格的に見て、そして、ついてくるかどうか判断しなさい。その判断をしてもらった上で、俺ってこういう奴だっていうのを見せるから、それをもって人格的に判断しなさい、と。それって、けっこう人治主義的なものがあるとでも言いましょうか。けっこう法治国家に根底から抵抗するものですよね。いや、ぜんぜん俺対立しても構わないですけど。 小林 いや。物書きっていうのは基本的に独裁者になりたい、っていうか、全部自分の思い通りに反応してくれるのが一番うれしい。だからみんな、それはもう分かってるでしょ、っていうこと。 岡田 「これはもう分かってるでしょう」が前提? 小林 そうそう。要するにそこはもう相対化する能力はみんなについてるでしょ、と思ってる。だからときどき、金正日とかを自分になぞらえて描くわけね。まあ、独裁者だよ。だからそんな独裁者が本当に悪いかどうか、っていうのもあるわけでしょ。ペルーだって、ほとんど独裁みたいなもんかもしれない。けれども、あれはフジモリさんならいいんじゃないのっていうので、ついてきてる部分あるかもしれないよね。だからそういう可能性も全部含めて、今のところやってみませんか、と。 岡田 はあ、なんか、すっげぇー恐ろしいこと言ってますねえ(笑)。いや、俺おもしろいからいいけど。 小林 あと自分の成長の過程を全部見せるような、自分がこれほど未熟な段階だとか、この程度の段階だったとか。だからワシの昔の『ゴー宣』とか見るとぜんぜん矛盾したこと言ってるよ。でもそれは自分の成長の過程を全部見せてる、っていうかもう情報公開してるようなもんなわけだから。 岡田 普通の人で言えば、自分の中学の時の日記見せてるような。 小林 そうそう。でもまんが家って、大衆、うーん大衆って言っていいのかな? なるべく多くの人間たちと通じてるところがないと、ついてこないからね。だからみんなと同じレベルのところから、みんなの先端にいてみんなといっしょに成長すればいいっていう。とにかく絶対、読者を逃したらいけないわけよ。で、読者逃がさないでずっと描いてれば、全体的に底上げができるっていう。そうすれば、そこから論壇になんかすごい奴が出てくるかもしれないし。 岡田 でも、それでいくとですね、去年の夏ぐらいの薬害エイズの時に「ついてこーいと言ったけど、個の連帯は幻だった」というのと、幻もなにも、もともとコンセプト自体は「俺についてこーいっと思ったら、なんかついてこない」っていうのと同じですよね。 小林 だから、俺についてきたと思ってたら、実は大したことなかった奴だと。実は最初は、もっとすごい奴が読者にいるかも、とか思ってた。 岡田 いない、いない(笑)。あれについて来た人って相当いいレベルの人だと思いますよ。だってあの手の問題で動く人って、なんだかんだいっても珍しいじゃないですか。で、それをやってるうちにだんだん人間についてくるはずが、言葉にからめとられて運動になったわけですよね。で、運動になったら、その中で人格でついてきてる人間が封建的に映るわけですよね。で、そうするとかれらが一番得意とするところの「見ろ、あの人は封建的人格、私たちは民主的な人格」っていうように、すぐにシャキーンって持ち込めるわけじゃないですか。 小林 そうだなあ。まったくその図式になってる。 岡田 人を集めても、小林さんの方法って目に入る範囲だったらいいけど、少しでも注意をそらしたら、そこのところで一番信じてた人が「いや小林さんが考えてることはこういうことなんだ」ってどんどん言語化しだして、かれらが最大の裏切り者になるっていうのが、ありますね。歴史上でも独裁者が倒されるパターン。 小林 だから最初は読者としてやってくるわけよね。でも運動に関わったらワシ以外の弁護士や何やらの言葉を直接聞くことになる。そのとき同時にワシの言葉も同じ時間聞いてれば、またちがってくるんだろうけども、やっぱり弁護士とその弁護士に育てられた仲間うちの言葉にどんどん染まってしまって、で、かれらが正義っていう風に思ってしまうわけ。そうすると今度はまんがはまんがでしかないわけだから、って言いはじめる。だから、ワシは同じまんが描いてるのに、『脱正義論』を読んで、あっち側の正義に染まってしまった奴は「なんてつまらないんだ」ってなるし、今までの読者は「やっぱりおもしろい、もっとおもしろくなった」となる。だから読者の質自体が、向こうの弁護士とかに組み込まれたわけで、自分の近い人の言葉にある意味洗脳される可能性が高いよね。 岡田 あの弁護士さんの時にはあらかじめ、小林さんに対する警戒意識があった、という分かりやすい図式だったと思うんです。しかし、よりヤバいのは小林さんの信者、ここはあえて信者っていう言い方しますね。信者であって、それが小林さんが病にふせた時でも、はじめはついてきていた。でもそのうち、いつのまにか勝手に集まりだして、「今の小林よしのりは本当の小林よしのりじゃない」ってとんでもないこと言い出すことって、歴史上よくあることじゃないですか。だから本質的に人間っていうのは全能じゃない。信者に対しても、一度に一万人相手に話ができない限り、目の前の範囲でしか作動しない、それ以上になると苦しくなる。だから、まんがというメディアを使われて、動きやすくなってくるぶん、余計にそこに書いてある文字とかテキストとかネームに、とらわれる人を増やすような状況になってくるんじゃないのかなあ。
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小林よしのりにぶら下がる言論人 小林 でも、その中間のところにいる、実際にワシが引き連れてきた、引き連れてきたって言っていいのかどうかわからないけど、たとえば二〇万から三〇万の人間がたしかに何らかの理想を求めてたり、何らかの社会を変革しようと思っていたり、いろんな奴がいるんだよね。だから、誰でもその中の層を取れるんだったら取っていいんだよ。でも誰も取りにこないからやってるわけよ。いつでもその間を取っていいわけですよ。小林よしのりはニセモノだと言っていいじゃないですか。活字の人だろうと誰だろうとやってきて、全部ワシの読者を取っちゃえばいいんだよ。それはそれでワシは荷が下りるというか、楽になるだけだから。そこに固執してるわけでもないし。ワシが提示する楽しみっていうか楽しませ方よりも、もっと有効な楽しませ方があるんだったら、それが現れていいし、それはそこのジャンルで敗れたってだけのこと。だからまた別のジャンルに行けばいいし。才能なくなってしまってれば、当然、消えていくし、それはみんなが決めればいいことであって。 岡田 そういいながらも、負ける気しないんじゃないですか? もし勝つ奴がいたらもう見えてるはずだと。だれかがいきなり大きくなって俺の顧客層とっていきそうだ、とも思えないんじゃないですか。 小林 うーん、そうだなあ。それはもう、そう言われれば、苦しい可能性になるけどさ。 岡田 ですから、言論の人たちが逆に小林さんを利用して、より自分たちの流通経路広げようという動きはあるんですが、小林さん自身が利用するものって特にないですよね。たとえばテレビに出てまんがをもっと売ろうとか考えてもしょうがないじゃないですか。っていうのはテレビの小林よしのりは完全体じゃなく、作品じゃない。まだ作品の域に入ってないんです。それは役者でもないかぎり永遠に達し得ないわけです。小林さんの考え方をおもしろがってもらうには作品を見てもらうのが一番いいわけです。じゃあ、そのためにテレビに出ても、別にまんがの層って増えないわけですよね。 小林 増えない。 岡田 ところが、言論の人とか政治の人が小林さんのとこに来ると現に利益があるわけですよ、自分に対してプラスが。で、そのプラスを自分自身では何も感じないってことは、今のところほぼ市場は独占状態にあって、脅かされる状態にないわけです。それを俺はですね。いま無敵の状態で、帝王の状態、王様の状態で、そうなると「王様には王様の義務がある」のではないか、と。 小林 それは、やっぱり一面だけの感覚じゃないわけで、もうこんな身分はいやだっていう感覚が本当はものすごくあるわけ。こうまで顔が割れてしまったらもうどこに行ってもダメなんよ。道歩いても、横から車が追い越そうとしたら、「小林よしのり!」って叫んで、キーッと停まって車の中からワシのこと見るしさ。 岡田 特に、言論っぽくなると誰かれかまわず言ってくるっていうのありますよね。 小林 そうそう。しかも記者会見でも、新聞記者なら何があったかっていうのを報告するために書いてくれればいいのに、討論しかけてくるし。もうあることないことむちゃくちゃに書かれていくでしょ。こんなのはもう全然楽しいっていう感覚にはなれないでしょ。本来は本当に内気な人間だしさ、ワシ。 岡田 「内気な人間だしさ、ワシ」っていうテキストすっげー変!(笑)。 小林 しかも悪いことできないからねえ本当に、うん。 岡田 悪いことできない、と悩む社会人っていうのもすごい。 小林 だからもうフツーになりたいわけよ。普通になりたいっていう願望もものすごく強いからね。だから誰かがやってくれれば一番いいと思ってる。 岡田 あの、僕自身はね、よっしゃ俺はここだって思ってるんすよ。で、思ってて行ってない奴がいっぱいいるだけの状態だと思ってるんです。で、そいつらがさっさと行ってパッパと権力争いした方がすっきりする。で、逆に行くつもりない奴はゴチャゴチャ言うなって思ってるんすよ。 小林 それはワシも下に向かって行けとは言わないな。そしたら自分で行けって話になってしまうけれども。 岡田 でも、人生でまんが使って真ん中やったんだから、今度ここに行くっていうのいい気しません? 小林 うーん……そうなるとなあ。だから、ある種天命の部分があるんだ。ワシが物語でまんが描く方に戻るべきならばね。何がなんでも書きたいっていう衝動があれば描いちゃうからさ。 岡田 でも、以前『次元冒険記』って描かれましたよね。あの中で、若い小林よしのりっていうのがでてきましたよね。それとの問答がでてきた瞬間にですね、この人これから先まんが描けるのかなあと思ったんですよ。これ描いちゃって、どうやってこれから先創作っていうものができるのかなあと思って。ほとんどフタが割れたような気がするんですよ。 小林 だから分からない。描いてみて成功するのかどうか。完全に失敗するかもしれないし、果たしてワシがこれから先作品が描けるのかどうか。『ゴーマニズム宣言』よりもおもしろくて、これよりもっとスリリングなものが描けるのか、分からない。だけど、義務的に描くというわけじゃないから。描きたいから描くわけでしょ。 岡田 それはですね、まんがは老後の趣味に、純粋エンターテイメントはとっておいて、今ガンガンいったほうが、おもしろいじゃないですか。これは別にそそのかしてるわけでもなくて、俺は、いま小林さんが行かなかった方がすごく楽なわけですよ。俺にとって最大の敵というか。でもこのままだと俺が将来戦う相手はものすごく少ないとか思うわけですよ。 小林 ここの意志って自分じゃすまないところがあるんだよね。自分じゃ放り投げることもできないしね。要するに人は望まれることしかできないわけよ。それはもう波の上に乗っかっていくしかないとこってあるわけ。 岡田 その波っていうのは? 小林 だからその波っていうのは、たとえば人気がなくなってしまえば、すっきりするよね。ああ、自分はここまでが限界だったかと。それが今のところ雑誌の部数も伸びてるし、まだまだ人気があるわけ。そうするとやっぱりまだ読者からは望まれてるわけよ。そうなるとやっぱりまだ描かざるを得ないよね。それはもう、読者というか、波に「乗っかってるなあ」という感覚でしかないわけ。それをみんながいらないと言えば、もうおしまいなんよ。それはワシは『ジャンプ』で出てきた時に感じてるわけ。ワシはまんが家になって、これで一生まんが家になれたって思っていた。そしたら連載はじめて「一〇週で人気なかったら切る」って言われた時に、「そしたらワシどうやって食べていくんですか」って編集者に聞いたら、いや「それは一からやり直すしかない」って言われたからね。なんだワシ浮浪者になるわけかと思って、結局、「読者に支持されなかったら終わり」だっていうのは植え付けられてるからねえ。だから全部読者次第ですっていうのは、お客様は神様ですじゃないけど、もう読者の望むようにやるしかないよね。だから、代議士とか政治家とかの存在がいなのは、「なんとか自分を通してください」って頭下げるわけでしょ。その構図がもう根本的にワシいだから。要するにいま現在おもしろいから、もっとやれ、もっとやれって読者から言われて、「あ、受けちゃったの、じゃあまたやるか」と思う、この感覚の中だったら自分のプライドは保てるけど、「ワシやりますから、とにかくワシを通してください」っていうのはなんだよね。そういう人間がワシなんだ。そういう人間になれないんだよね。 岡田 独裁者のポジションに行かないんですか、というのはですね、政治家になりませんかとか、言論人になりませんかというのではなく。そうじゃなくて、今のポジションのままで、今とまったく同じことでは天命はきませんかって、思ってるんです。まんがを読んでいると、きてるような気がするけど、バシッときませんかと。逆に言えば政治家とか言論の人がどんどん落ちてるわけですよね。小林さんのところに今天命きてると思うから、みな集ってきてて小林さんの下にぶら下がって、小林のキャラになってなんとか生き延びようとしてるわけでしょ。だから政治が偉いとか経済が偉いとかいうのなくなってしまって、純粋にキャラクターを前面に出せるかどうかという勝負になった時点で、勝てる人間って数が限られてるわけだから、だったら行けーって。 小林 まあ、それはもう運命のものだというしかないな。 |