『東大オタク学講座』1997年9月26日版 ン1997.Toshio Okada
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オリエンテーション


 皆さんこんにちは。岡田オタキング斗司夫です。今回、日本の最高学府である東京大学の教養学部で、「オタク文化論」というゼミ講座を受け持つことになりました。

 東大とオタク。一見なんの接点もなさそうなこの二つをつなげてしまった「オタク文化論」とはいったいどんな講座なのか。実際の講義を紙上体験していただく前に、まずはそれを説明しなければならないでしょう。

 本書は単なる講義録ではなく、私がいかにして東大生をオタクに染め上げていったかのルポルタージュでもあり、読者の皆さんにその過程をライブ感覚で追体験してもらうことも目的としています。そう、「オタク文化論」は論点ノートの形でまとめられるような、オタクの研究・分類を目的とした「学問」ではありません。皆さんの心の奥底にも眠っているであろう、「どうしたらオタクになれるんだ!」という叫びやエモーションが、講義というよりもトークショーのような形で吹き出したものなのです。

 もともとオタクとはある特定の人種、アニメやまんが、ゲームなどにハマっていて紙袋下げている奴を指す言葉ではありません。そういった人々がバックグラウンドとして持っている文化の総体が「オタク」なわけです。この文化に首まで浸ってしまうとだんだん太ってきたり紙袋下げたりするようになるというだけのことであって、なんらかの遺伝子を持つ特定の人種が「オタク」になるわけではありません。

 ではオタク文化とはいったいなんなのでしょう。これまで「アニメ文化」「まんが文化」「ゲーム文化」という各ジャンルは、それぞれ単独で語られてきました。しかしそれらすべてのジャンルを「オタク文化」という形に統合して論じることは誰もやっておりません。そこで今回、東大教養学部の一コマを借りてその試みに挑戦してみようというわけです。

 海外のオタク研究では最近、従来個々のジャンルごとに語られてきたアニメ、まんが、ゲームといったものたちがどうやらそのバックグラウンドに共通した何かを抱え、膨大な情報集積量を持つ文化によってそれぞれ裏でつながっているらしいということが論じられています。

 いわば日本はそういった「ヘンな文化」を数十年間にわたって育んできたのだともいえます。この「ヘンな文化」はまっとうな文化、いわゆるメインカルチャーにとっては大変な脅威であるわけです。海外でオタクが注目されているのは、メインカルチャーを脅かす力を持った「ヘンな文化」への畏≦おそ≧れと好奇心が元となっているからでしょう。われわれもその「ヘンな文化」を総括的な視線によって観察していこうじゃありませんか。これが本ゼミの目的であります。

 

 ところで皆さん、文学、音楽、絵画といったメインカルチャーにおいて、わが国には世界に誇れるようなものが果たして存在するでしょうか。

 はっきりいって、ありませんね。日本という国が地球上から消滅しても、メインカルチャーにとって困るような理由は何一つありません。

 松田聖子にしろ少年ナイフにしろ、邦楽を世界レベルでのヒットチャートに乗せようとする活動はここ三〇年ほど滑りっぱなしですし、絵画においても、ニューヨーク近代美術館に展示されるような作品はなかなか現れず、現れたとしてもそれはオリエンタルな雰囲気だけを売りにしたあからさまであざといモノでしかありませんでした。ファッションはイッセイ・ミヤケなどの活躍もあってそこそこ成功しているように見えますが、いくら世界的に評価されているといっても、パリやミラノでファッションショーを開かない限り業界は本物として認めてくれません。東京あたりでショーを開いても海外のジャーナリストは大して注目してくれないのです。

 つまり「このジャンルは日本が本場だ」と認められているようなメインカルチャーは一つもないわけです。たとえば、映画ならば「ハリウッド」という言い方がありますね。映画産業でにぎわう土地の名前ですが、これは同時に映画界全体の中心・本場を表す名前でもあり、「ハリウッドで成功する」とか「ハリウッドで認められた」という言葉が存在すること自体、アメリカ映画が世界に対して持っている特異性の表れとなっているわけです。世界レベルで「日本で成功した」という表現が通用するようなモノが、果たして存在するでしょうか?

 そう、たった一つだけ日本が中心たりえるモノ、それが「オタク文化」なんです。アメリカ人のオタクや、パリのコミック専門店に集っている人たちに「いま一番行きたいところはどこですか?」と質問すると、全員が全員「ハルーミ!」と答えるんです。世界のどんな場所よりも晴海だとか秋葉原だとか、そういったところが中心・本場たりえるモノ、ある文化の最先端となりえるモノがわが国にもあったわけですね。

 

 さて。ここで一つとても重要な問題として、「オタク」はいったい「ファン」や「マニア」とどうちがうのかという点を明らかにしなければなりません。

 一つ一つ定義づけていきましょう。まず「ファン」というのは、対象が好きでたまらないという状態。「もう好きで好きで好きでなんでもいいっ!」という、恋愛や宗教みたいなもんです。とにかく好きなモノの悪口言われるのが勘弁ならない。だから「エヴァンゲリオンの綾波レイがイイ!」と叫んでるようなのは、これはオタクではなくて「ファン」なんです。

 これが高じて「マニア」になると、対象そのものよりもそれに対する研究や収集の方にのめり込んでいくようになります。アイドルのコンサートに行っても、ステージの上にいる女の子なんかろくに目もくれず、メモを片手に「ああ、今日はイントロが何秒だった」とか「ここの振り付けがちょっとズレていた」とか、そういうチェックに熱中しているという、つまりはこれが「マニア」ですね。対象への愛情が一度裏返ってしまって、愛するための手段=収集や研究という客観的なスタイルへ走ってしまったという形です。このスタイルでいくらディープな方へ突走っても単なる「マニア、コレクター」でしかなく、まだまだ「オタク」とは言えません。

 つまり「ファン」や「マニア」と「オタク」との差は、対象と自分との関係を振り返れるかどうかなんです。一方的に愛情を注いだり闇雲にデータを集めたりするだけでなく、それらが自分にとってどういうものなのかを考えて再配列しなければなりません。

 司馬遼太郎的な言葉でいえば、独自の視点、「歴史観」とでもいうようなものが必要なわけですね。『銀河旋風ブライガー』が好きなら、ただ「ブライガーがいい!」と叫んだりあらゆるアイテムをコレクションしたりするだけでなく、「なぜ『銀河旋風ブライガー』という作品が自分にとって素晴らしいのか、特殊なのか」を自分の言葉で語らなければならないのです。当然、これには「好きなだけ」「集めるだけ」とは一線を画した、高度な知性が要求されるでしょう。

 知性が要求されるならば、東京大学で学ぶような人には皆オタクの資質があるのではないかと、これが全受講生オタク化を思いついたきっかけでした。

 そうです。オタクというのは研究したり分類したりするような「学問」にはなりにくいんです。学問というのは研究対象の上にさらに自分なりの研究を重ねる形で発展していきますね。先達が従来の数学研究の上に新しく構築したなんらかの公式なり定理なりがあって、次の人はそれらをすべて踏まえた上でさらに新しい何かを上乗せしていく。そのような形で発展していきます。

 ところがオタクは学問というよりもむしろ茶道や華道のような「道」に近く、他人の成果の上に自分なりの新成果を積み上げることができません。「学ぶもの」ではなく「なるもの」であって、どちらかというとインナースペースへの旅、自己求道に近い、実践的なものなんです。だからいくら私が「〜というわけで金田伊功のアニメはすごいんだ!」とか「『銀河旋風ブライガー』の歴史的ポジションってのは、まず国際映画社というのがあってね」などとやっても、それを皆さん自身の言葉として吸収し、さらに新しい論理を展開するというのはまず不可能でしょう。

 しかし一見不可能なこと、ムダなことのようではあっても、「道」の場合は「心得と指南」を伝えることができます。

「心得」というのはたとえば、あるジャンルに対してオタクぶりを発揮しているゲストの姿を見て、かれらがどのような方法で対象にアプローチしているのかを観察し、自分のとらえ方と比較するためのものです。

 また「指南」とは、どのような見方をすればよいのか、どんなアプローチの仕方があるのかを知るためのサポート的なものですね。学問でない以上「これが正解だよ」という教え方はできませんが、「こういうやり方もあるよ」とサポートすることは可能なわけです。たとえば「ここの場面の格好よさは、コマ送りで見ると分かるんだよ。ほらここの部分、すごいイカした流れになってるだろう」というような形で解説することもできますし、他に「通の眼」というものもあります。制作現場やバックグラウンドの事情を知れば、「この作品のこの時期は予算も時間もなかったからこんななんだよ」と論じることができますね。

 試しに『新世紀エヴァンゲリオン』を通の眼で見てみましょう。

『エヴァ』は従来のアニメ作品と一線を画す精密な描き込みなどで評判になりました。ところが『エヴァ』の総監督である庵野秀明さんは、前作『ふしぎの海のナディア』ではここまで細かい作画をしませんでした。じゃあなぜ『エヴァ』でブレイクしたのか。通の眼で探っていくと彼のルーツである大学時代へと突き当たります。

 庵野監督は大阪芸大在学中、二一歳くらいの頃に『帰ってきたウルトラマン』という特撮映画を自主制作しました。ミニチュアは全部紙製だし庵野さん演じるウルトラマンは素顔でカラータイマーつけただけというデタラメな作品で、制作スタッフとして関わっていた私はフィルムを見るたびにツラい思い出ばかりが頭をよぎるのですが、ここに彼のルーツがあるわけですね。

 で、分かる人には分かると思うんですが、『エヴァ』の細かい作画や画面演出というのは特撮映画から技法を持ってきているんです。ある場面を作るときに、庵野さんは「特撮映画だったらどうなるだろう」と、頭の中で一回画面を組み立てているんですね。だから第一話「使徒、襲来」の冒頭で、侵攻してくる使徒を見ながら戦略自衛隊のお偉方が騒いでる場面などでも、「特撮映画なら机の上に電話や灰皿の小道具があって……」という具合に、従来のアニメだったら無視されてしまったような要素を特撮映画のノリで持ち込み、そうやって『エヴァ』の画面を作っていたわけです。

 このような事柄は、放映されたアニメーション本編だけ見ていても分かりません。「通の眼」によって庵野さんのルーツや特撮映画についても知識を深め、得た情報を自分なりに整理・発展させていかないと分からないんです。オタクというのはこのように、『エヴァ』を見ても「ああ、特撮のノリでやってるな」と絶対に見逃してくれない連中のことを指すんですね。

 

 さて、この「オタク文化論」の講義は、前期・後期に分かれています。前期は主にアニメ、まんが、オカルトなどのテーマを扱い、ヴィジュアル・デジタル・パブリッシングといったオタクメディアの中心部分にスポットを当てていきます。

 光あるところに闇があるというか、たとえばマッキントッシュという「光」の裏には、「アップル社は、創始者であるスティーブン・ウォズニャックとスティーブ・ジョブズがブルーボックスという電話タダがけ機を製作していたのがルーツであった」という「闇」の部分があります。この「怪しげな学生ビジネスの過去=闇の部分」、アンダーグラウンドから表舞台へと顔を出した部分が通常知られている「世界的コンピュータメーカーであるアップル社=光の部分」であり、こういった図式はあらゆるジャンル、あらゆるメディアが抱えているんですね。闇から光へと出てくる人もいれば、光から闇へと転落していく人もいます。

 ですから、後期ではさらに「闇」に近い、もはやカウンターカルチャーなのか犯罪なのかの判別すら難しいようなテーマを扱っていきます。主にアート、ゴミ、やおい、ミリタリー、エログロといったモノ、一般にカルトとか悪趣味とかスカムとか鬼畜とか言われているようなモノですね。「闇」の部分により重点を置いてその隠れた部分を知ることにより「光=表」の状況をより深く理解していただければと考えています。あらゆる文化はその裏や水面下に「イヤなモノ」を抱えていて、ふだん表に出ている部分というのは氷山の一角に過ぎないんです。下手をすれば面白半分の変態入門になってしまうかもしれません。

 ただしこれも皆さんの受け取りかた次第でしょう。ただヘンなモノを提示されて「このゲスト変わってる。笑っちまえ」で終わりにしたり、顔をしかめてやり過ごしたりというだけでは、なにも学んだことにはなりません。ですから、講義にきていただいたゲストの姿を見たら、自分の中にも存在するであろうドロドロした部分、イヤ〜な部分についてもしっかりと見つめ直すようにしてください。僕やこれからお招きするゲストの方々はいわゆる「オタク」であり、ゲームやアニメやオカルトに対して人よりもより強く増幅された情念を抱えているわけですが、そういった情念は、たとえまだ増幅されておらず、明確になってはいないにせよ、皆さんの中にも必ずあるはずです。つまり、皆さんの心の裏側にも闇の部分、オタク的な部分が潜んでいるのです。

 これは『スター・ウォーズ』のルーク・スカイウォーカーに対するダース・ベイダー、光のフォースと闇のフォースのようなものといえるかもしれません。光あれば闇あり。その暗黒面を知ることによって一流のオタクになれるんです。なったところで嬉しくもなんともないかもしれませんが。

 それでは皆さん、一流のオタクになるべく、東大の学生さんとともにこの講義へご参加ください。すべての講義を読み終えたとき、あなたの中に燃えるオタク魂が芽生えていることでしょう。では、「オタク文化論」ゼミ、始まりっ!


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