美術手帖 BT連載コラム第一回〜第十回
ン1995-1998.Toshio OKADA all right reserved.
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| 最初に私たちの約束事を確認しよう。この連載は2ヶ月に一度、マンガを初めとしていろんなオタク文化を君たちに紹介する、というコーナーだ。何で美術雑誌がオタク文化の紹介を載せるのか、私には判らない。「ふーん。アートって煮詰まってんだなぁ」というのが私の感想だ。だから私は自分が面白いと思ったことを語るし、君たちはそれを一生懸命理解しようと努力する。それがこのコーナーの約束事だ。OK?じゃ始めるよ。 「新世紀エヴァンゲリオン」というTVアニメがある。君たちはこれを是非、見なければいけない。そしてその鑑賞には作法がある。作法が必要なのは、オタク文化は「面白ければいい」というスタンスでは、その作品に含まれる面白さの半分も理解できないからだ。 アートの場合でもまずその作品のモチーフを知らなければ理解できない。例えば、エイズとかフェミニズム、民族紛争といった世界に蔓延している問題に関するアーティスト固有のテーマがその作品のモチーフになる。 同様にオタク文化の発信者達にもそれぞれ固有のテーマがある。そういったオタク文化発信者達の中でも特に今、最先端を走っているのが庵野秀明である。 その最新作「エヴァンゲリオン」は積み上げられてきたオタク文化の頂点に立つ映像作品だ。少なくとも誰もが「こんな作品をテレビでやっているなんて」という感想を持つ。毎週毎週オタクたちは目が六つあったらいいのにという勢いで超高速オープニングを見つめている。そして毎回、どれくらい「ヤマト」で、どれくらい「ウルトラマン」で、どれくらい「ガンダム」かを注意深く吟味する(庵野作品は常にこの3作品を共通モチーフとする)。これをモトネタ探しと考えるのは軽率である。君たちの業界で言えば、「その作品の文脈を探る」というところだろうか。 こんな風に、あんがい似ているアートとオタク文化は、いい友達になれるかも知れない。 |
| オタクたちの都市伝説の一つに「コミケに行けば、あらゆるものがある」というのがある。 コミケとは、言うまでもなく参加者30万人を誇る同人誌即売会場『コミックマーケット』の事。8月、12月の計4日間で小国の国家予算以上の金が動くという化け物イベントだ。そんな中で「マンガと差別表現」に関して、ものすごいマンガを発見した。 差別表現に関して有名なのは黒人差別表現を糾弾する会、という抗議団体だ。「ドクタースランプ」の中にブ厚い唇、腰ミノ姿の黒人が登場したので、単行本が差し替えられた、と言うアレだ。その他にも手塚治虫をはじめ、多数のマンガがこの団体の抗議で回収・修正となった。 現在までのところ、既存の言論界からは「いかに表現の自由を守りつつ、モラルを確立するか」という建前論ばかりだ。筒井康隆の絶筆宣言に至っては、そのダサさに「絶筆以前に才能の枯渇」と言われた。 しかし、コミケで出会った眠田直の「私は見た!」という一コママンガには感動すら憶えた。 ページ一杯に描かれた、もうどうしようもなくステロタイプの黒人の絵の下に「私はクロンボ星人とコンタクトした!」。 これによると鼻に刺した骨は大気成分変換器、腰ミノは有害な宇宙線からのプロテクター、竹槍型の光線銃、ブ厚い唇は大気の薄い惑星で進化したため、というわけだ。 そして欄外には「見ちまったんだからしかたがねぇや」という開き直ったコメント! たしかにこれなら、あのコワモテの「黒人差別表現を糾弾する会」でも、文句が付けられない。絵だけを見ると、誰がどう見ても黒人差別表現。しかし「こんな宇宙人を見た」って本人が言ってるんだからどうしようもない。「クロンボ星人」という名前だって、きっとテレパシーかなんかで自ら名乗ったんだろうしなぁ。 本当にコミケには何でもあるのだ。 |
| 洋書屋でヘンな本を見つけた。『LE MANGA PASTICHE・漫画パロディー』と題された大判の絵本だ。ドラゴンボール、らんま1/2、セーラームーンといったオタク系マンガのキャラが暴れ回るだけ、といった「内容はないよう」作品だ。オマケに絵は激ヘタ。 日本のコミケだと、こうはいかない。著作権法違反で、何度も訴訟寸前まで問題になったこともある。なぜ、フランスではこんなパロディ本を堂々と販売することが出来るのか。実はフランスには「パロディ法」があるからだ。 その昔、フランス映画界で『ジャングルの恥・タルゾン』というターザンのパロディ映画が作られた。もちろん、すんごくつまらないZ級映画だ。これをターザンの原作者ウィリアム・バロウズの遺族は著作権法違反で国際法廷に訴えた。 田舎もののアメリカ人が、文化の国・歴史ゆかしいフランスを訴えるなんて! 怒り狂ったフランス政府は「パロディ法」という法律を作ってしまった。 「パロディはアートと認められる、従って原点を明記すれば、著作権法は摘要されない」 というわけで、フランスではアニパロが国家に認められることになってしまった。 今年の冬コミで晴海のコミケは最後、次からは幕張だ。でも幕張にはみんなどうもなじめないようだ。 いっそのこと、パリでコミケをしたらどうだろう。何しろパロディ法がある。フランスで印刷した本なら、日本で洋書として堂々と売ることも可能だ。これなら誰からも文句が付けられない。日本では絶対不可能なサザエさんの同人誌でも出し放題だぞ。売れるかどうかは別にして。 おまけにこれは「アート」なのだ。昨日までただのオタクだったヤツも、アニパロ同人誌出したら、今日から立派なアーティスト! パリ・コミケ。関係者は真剣に検討すべきだろう。 |
| 3月末に、大阪で世界初の怪獣美術展、『怪獣画廊』─開田裕治展─(主催・彫刻の森美術館)が開かれた。怪獣オタク、特撮オタクがどっと押し掛けるのだろう、という主催者側の予想に反して、一般客が圧倒的多数を占めた。子供連れ、カップル、おじいちゃん、おばあちゃん、様々な年齢の人達が、開田の怪獣の絵を見に来た。個展ではものすごく珍しい状況だと思う。 開田の作品は、海外の方が評価が高い。いや、日本では評価が低すぎる、と言ったほうが正確だろう。 ハリウッドで映画クリーチャーをデザインしている奴に聞くと、みんな開田裕治みたいに描いてみたい、という。しかし見せられたイラストは、やはり違う。彼らは怪獣が描けない。ヘタとか巧いとかとかいう問題ではないのだ。 彼らの描く怪獣は、怪獣じゃない。ビルから上半身を出して、咆吼する怪獣じゃない。地響きをたてて歩き、空を飛び、ビルを壊す怪獣じゃない。 どこか生物っぽくて、モンスターや恐竜みたいだったり、宇宙生物みたいだ。日本人なら誰もが共通して持っている「怪獣」というイメージがどうしてもつかめないのだ。日本人の子供なら、拙いながらも誰にでも描けるのに。 開田裕治の作品は、そういう「怪獣」らしさが、忠実に再現されている。日本人の心に住んでいる怪獣そのものが、そこにあるのだ。だから、開田の作品は日本人以外の人々にとっては新鮮に映る。オリジナリティあふれる作品に見えるかも知れない。 が、開田は心の中の「怪獣」を、ベストのシチュエーションで正確に再現しようとしているだけなのだ。作家性やオリジナリティをひたすら指向し、不毛化した現代アートへの批評など、彼は問いかけてはいないだろう。問いかけるべきは、我々の方なのだ。 |
| 最近僕が発見した、簡単にバカを見分ける方法。アニメのことを「ジャパニメーション」と呼ぶヤツ。こいつは100%バカだ。 なぜ、バカなのか。まず、ジャパニメーションなんて呼び方してるヤツなんか、日本のバカ以外には存在しない。アメリカのビデオレンタル屋でも、ディズニーとかは「ANIMATION」、トムとジェリーとかは「CATOON」、日本のアニメーションのことは、単に「ANIME」と分類されている。確かに5〜6年前、アメリカで一時的に日本製のアニメーションをジャパニメーションと呼ぼう、という動きがあった。が、JAP+ANIMATIONなんていう造語は、すぐ人権擁護団体の抗議にあい、たち消えになってしまった。「コークと呼ぼうコカコーラ」よりあっけなかったぞ。 それなのに、未だにジャパニメーションと呼ぶヤツ、特にアート系を気取る評論家とかに多い。こういうバカに限ってポリティカル・コレクトネスとか口走るのだから始末が悪い。 ぼくがバカと断定するのは、それが間違っているからじゃない。単純に無知という問題ではないのだ。僕がそういうバカ共に「ジャパニメーションなんてない」といくら教えてやっても、皆聞こうとしない。「じゃあ、どう呼べばいいんですか」と不機嫌に聞いてくる。どう呼べばも何も、単純にアニメと呼べばいいだけなのだ。その方がわかりやすいし正確だ。 が、バカ共はどうしてもアニメと呼びたくないらしい。どうやら、「アニメなんて呼ぶと、オタクと間違えられそうでいやだ、カッコ悪い」と考えているらしい。彼らも、今世界中で注目されているアニメに関して語りたい。何しろアメリカやヨーロッパで評価されているのだ。実際、オタク文化を無視して世界の文化を語れない状況に来ている。が、彼らは考える。アニメなんて言い方をすると、オタクっぽくてカッコ悪い。オシャッレ〜でカッコイイ自分を守りながら、アニメを語る抜け道、それがジャパニメーションという珍妙な造語なのだ。 僕はその、「アメリカやヨーロッパで評価されたものはとにかくありがたい」「オタクは暗くてカッコわるい」という単純な思いこみ、オヤジ的価値観の中にどっぷり浸かっていることにクラクラする。自分の目で何も見ていない。そこがバカなのだ。 君はそんなバカには、ならないように。 |
| ヤングジャンプで連載中の『サラリーマン金太郎』を語る。建設会社新入社員の主人公が、独特の美学で「男」を貫き通す「硬派」マンガだ。単純に言えば、上司をドツいたり、談合する市役所の役人を殴ったり、右翼の大物総会屋を怒鳴りつけたり、その息子をドツいたりする。痛快だ。先日はサハラ砂漠でアラブ人をドツいていた。ついでに言うと行く先々で女に惚れられる。会長の孫娘、人気爆発のアイドル、下宿先の娘(実は社長の隠し子)、政財界に顔の利く銀座のママ。書き写している僕も呆れるご都合主義だ。 この『サラリーマン金太郎』はベテランマンガ家・本宮ひろ志の久々の大ヒットだ。本宮ウォッチャーの僕としては、長年チェックしていた努力が報われた気分である。彼のマンガをウォッチングする醍醐味の一つ目は、その失敗の豪快さにある。とにかく、新連載で始めるほとんどの作品が失敗作。もう尻切れトンボだらけだ。二つ目は、その失敗の繰り返しを生かす点。数年に一度、連載の中から大ヒットを出す。その中には今までの失敗のパターンが上手く生かされているのだ。 本宮ひろ志のこの前のヒット作は、今から20年前の『俺の空』だ。舞台は日本の政財界。その中で主人公が、本宮的「男」を貫き通し(つまりズボンのベルト替わりに荒縄締めてるわけだ)、理想のヨメを捜す。このヒットで気をよくした本宮は、『俺の空・三四郎編』で大空振り。今度は、世界の政財界が舞台。男を貫き通す相手は、ストーリーが進むに連れて、大きくならざるを得ない。最初は、政界のボスの秘書あたりを怒鳴りつけたり、ドツいたりしていれば良かったが、じょじょに相手はグレードアップする。気がつけば、ユダヤ、フリーメーソンの陰謀は出てくるは、月にUFOの秘密基地があるは、火星にある米ソの秘密基地まで行ってくるは、エラい事になってしまった。読者も担当も、作者さえも訳がわからなくなったまま、連載は尻すぼみで終わってしまった。 こういった失敗作群を糧に、描かれたのが『サラリーマン金太郎』なのだ。設定はあくまでもリアル、破天荒なのは主人公の行動のみ。「ここでこんなことするのかぁ?」という意外さと壮快感が身上だ。この前まで『課長島耕作』で心を慰めていたサラリーマン達は今、『金太郎』で熱い血をたぎらしている。でも僕は、こんなにヒットした後の空振りは凄いぞ、と次回作に注目しているのだ。 |
| 最近発売されたNINTENDO64のゲーム、『マリオ64』は「理想のゲーム」だ。完全な主観映像で、3Dマリオが楽しめる。「こんなゲームがあったらどんなにすごいだろう」と僕が昔から夢想していた「理想のマリオ」そのものだった。が、実際にプレイすると、想像していたほどの感動がない。確かにゲームとしては楽しい。けど、水の中を泳ぐマリオなんか、初期の頃のドット絵の小さいマリオの方がずっと感動した。文句の付けようがない理想のゲームを前に、僕は呆然とした。 つい先日も同じ感覚を、『ガメラ2』で味わった。「怪獣映画だからと言って、いや、怪獣映画だからこそ、こんな安っぽいのじゃイヤだ!もっとリアルに描いてくれ!軍隊描写ももっと丁寧に!」 『ガメラ2』はこんな怪獣ファンの要望を忠実に汲み上げて作られた。根っからのオタクであるスタッフ陣はその要求を完璧にクリアし、怪獣ファン待望の「理想の怪獣映画」が完成したのだ。 が、僕はやはり、「理想の怪獣映画」を前にして、妙に心は冷めていた。それよりも、最近単行本になった「怪獣五円ブロマイド」の方が心が震える。なぜだろう? 五円ブロマイドとは今から30年近く前、職人のオッサン達が適当にスチルを切り張り合成して、適当に毒々しい色を塗ったニセモノ怪獣写真だ。たった5円のニセモノ写真になぜこうも惹かれるのか?別にノスタルジーだけではない。そこには「ホントの怪獣映画」のテイストがある。小さい頃有り余る時間をいっぱい使って考えた怪獣映画。それはドラマはおろかストーリーもない。本当にめちゃんこ強い怪獣がガンガン出てくる。めちゃんこ強い者同士だから戦うに決まってる(断定)。めちゃんこ強いというからにはゴジラ対ガメラだったりする。どっちが正義の味方もない。目から怪光線も、口から炎も、かっこいい技が次々とガンガン出る(断定)。壮絶な戦い!(断言) そんな頭の中にしかない怪獣映画が、5円ブロマイドにはあったのだ。 きっと本当の怪獣映画なんて、実在のフィルムではなく、見た人とフィルムとの間にある「関係性」なのだろう。怪獣映画を見て観客の心に燃え上がる、「怪獣映画魂」が勝手に創作してしまう、それが本当の怪獣映画だったのかもしれない。すでに理想の怪獣映画『ガメラ2』を得てしまった我々には、勝手に想像できる怪獣映画などないのだ。 |
| 映画『エイリアン』に登場する宇宙生物のデザインは爆発的に斬新だった。H・R・ギーガーの「骨と性器をモチーフにする宇宙生物のデザイン」がなければ、あの映画の怖さ、おもしろさも半減していたに違いない。あれっきりあんな斬新なモンスターのデザインを見たことがない。15年以上ご無沙汰なのだから寂しいことこの上ないぞ。先日アメリカで『インディペンデンス・ディ』という映画を見たが、やはりモンスターのデザインは「いかにも」というカンジでがっかりさせられた。 じゃぁ、この映画で、ギーガーにデザイン発注すればよかったのかというと、残念ながら事はそう簡単ではない。試しにギーガーの作品集を見てみればわかる。彼の作品はみんなギーガーしている。素人目にはどれもエイリアンのパチもん(大阪弁で贋物、の意味)にしか見えない。これをアート業界用語で「テーマ、モチーフを追求する」と言う。 考えてみれば当たり前の話で、アーティストとは自分のテーマ、モチーフを一生かけて繰り返し、理想のフォルムや色を求める。ギーガーの画集を見て「なんやこれ、全部エイリアンと同じやんけ!」と文句を言っても仕方がないのだ。 この法則を応用すると、ヒットするSFX映画を作る為には、まだ映画業界で使われていないアーティストを起用するべきだということになる。 例えば、もしピカソが生きていたら、どっからみても顔のあるモンスターをデザインしてくれただろう。 ダリだったらぐにゃぐにゃ融けてるハム型モンスターと、永遠の女性、ダリの嫁さん(ダラだかベラだか)の宇宙人だ。役どころはスターシアだな、やっぱり。 キース・へリングの地下鉄の落書きみたいなぺったんこ宇宙人もいいし、クリムトのバカでかいモノを布で包んでリボンでしばったようなモンスターもありかも。クライマックスで当然、包みがほどけて変身(?)するわけだ。彼はまだ元気だし、これは買いだな。 BTを読んでいるアーティスト志望の諸君。考えてみてくれ。ピカソは知らなくてもウルトラマンを知らない日本人はいない。アート史に名を残しただけで満足してはいけないのだ。アーティストとして明星を獲得した後、モンスターデザインをする。これこそ男の仕事だ。早く立派なアーティストになって、画期的なモンスターをオレ達に見せてくれ。 |
| 『史上最強の絶倫サイボーグ・タフミネーター』、もうイキナリ表パッケージから「7大人気女優と絶倫5大男優の15分に及ぶ凄絶バトルFUCK!!」と飛ばすとばす。まずはストーリー&解説から見てみよう。 「近未来から超絶倫SEXサイボーグがやってきた。彼の使命はある女を見つけだし、自慢の巨砲で徹底的に犯しいたぶることだった。それを阻止しようとするもう一人のサイボーグが加わり、物語は世紀末に相応しい倒錯のクライマックスへと突入する。 あのターミネーターをモチーフに、スーパーハードコアのショッキングシーンがこれでもかとばかりに脳細胞を直撃するメガトン級超絶迫力ポルノの決定版!」 どうもメーカー側はこの作品を超大作、として売りたいらしく、出演者紹介にもいじらしい努力の跡が見える。 「30Bの巨砲で共演したい男優宸Pウッディ・ロング」 こいつが未来から来たサイボーグ。この作品イチオシ俳優だ。 「2年連続『ベストファック賞』に輝くアンジェラ・サマーズ」 そんな賞があるとは今この瞬間まで知らなかった。もう忘れたい。 「気に入った作品にしか出演しないロリータ風美女トレーシー・ウィン」 そんな事言われてもなぁ。「ロリータ風」ってのもヤだ。 「2穴同時FUCKで注目の新人ブリジット・エイム」 そりゃ注目するわな。 「バックでイカせる淫技宸Pトリキシー・テイラー」 そろそろ紹介文もネタ切れらしい。 「15才の誕生日をもってポルノ女優に登録 フレイム」 だからどーした。 「今年2年目のワイルドが持ち味の成長株ニッキー・ワイルド」 賭けてもいいけど、これ絶対に名前からの連想。それだけ。 「これがデビュー作の、初めてのロシア出身アメリカンポルノ女優アナスターシャ」 同じく名前からの連想。ロシア系ポルノ女優なんて腐るほどいるぞ。 「スタッフから絶対の信頼があるアナルFUCKのエキスパート マーク・ウォールス」 イヤな信頼である。 解説は「近未来世界で展開する延々15分に及ぶ、女7人、男5人の凄絶大乱交!」「目を疑う強烈FUCKシーンの連続攻撃!」 で、実際にビデオを見ると、もちろん画面はモザイクまみれでウッディの30B砲もブリジットの2穴同時FUCKも、何が何だかわからないのであった。おそまつ。 |
| マンガの楽しみ方は少なくとも2通りある。 一つ目はそのマンガそのものを楽しむパターン。純粋にストーリーが面白かったり、キャラクターが魅力的だったりで、のめりこんで読むという楽しみ方だ。が、これだと質が高くて好みにあった作品しか楽しめない。 そこで登場するのが二つ目。マンガから作者の状況を邪推して喜ぶ楽しみ方だ。例えばワイドショーの不倫インタビューを見ながら 「ただのお友達が家まで遊びに行くかよ」とTVの前でツッコミをいれる。この感覚だ。 有名なのは「作者急病の為、今回は連載をお休みします。」というお知らせ。さすがにこれを素直に信じる人は少ないと思う。そう、大抵の場合は単に間に合わなかったのだ。 「人気があるのでやめさせてもらえない」という事情がほの見えるパターンもある。ストーリーは盛り上がるだけ盛り上がって、クライマックスの山も越え、大団円を迎えるしかない。そこでいきなり始まる新展開。1回ならともかく、新展開が2回3回となると「新」の部分を作り出すのも苦しくなる。どんどん敵の設定や舞台が破天荒なって収拾がつかなくなる事も多い。 こういう状態を「マンガが壊れる」と言う。 やっと成仏させてもらえたけど、この前までの「ドラゴン・ボール」「幽☆遊★白書」なんかが典型例だろう。 こういう状況が長く続くと、マンガ家自身も壊れてしまう。描けなくなってしまうのだ。昔で言うと「マカロニほうれん荘」の鴨川つばめなんかがそうだ。こういう壊れていくマンガ家の、壊れていく過程を観察し、原因を推察し未来を予測してみる。そうすると、最近なんかおもしろくないなぁとしか見ていなかったマンガが、めきめき面白くなってくる。 さて今、注目株は「新・ゴーマニズム宣言」の小林よしのりだ。 ヤング・マガジンで小林が連載していた「次元漂流記」「普通の人々」は明らかに「壊れたマンガ」だった。もちろん作家・小林はまだ壊れていない。しかし僕の邪推では、「壊れる」との境目ぎりぎりを走っているのではないか、と思う。失速すれば倒れる。そんな危うさだ。小林がこのまま壊れてしまうのか、それとも新境地を開拓してもちなおすのか、予断を許さない状況だ。 マンガとして「ゴー宣」を楽しく読むのもいいが、小林よしのり壊れかけ度をチェックする為に読むゴー宣も、なかなかエキサイティングで面白いぞ。 |
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