毎日新聞『失われた未来 LOST FUTURE 2000』第十一回〜第二十回
ン1996-1999.Toshio OKADA all right reserved.
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#11

アドベンチャー・ブックマッチ&ノベルティーサービス社製。(1950年代)ロケットと戯れるセクシーな美女たち。ある年齢以上の男性にとっては、とにかく惹かれてしまう図案だ。(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社
 職場における性差別は、きわめて今日的な問題だ。「婦人警官」とか「看護婦」という呼び方が日常から消える日も近いかも知れない。こういった小さな改革も、長い目で見れば、思いのほか効果を発揮するのだろう。
 一般職、総合職の壁をなくす、といったことも含めて、職場が少しでも男女平等になるのは、もちろん結構なことだと思う。
 が、職場の民主化と歩調を合わせて、家庭における民主化が進んでいるかと言えば、同感できる人は少ないと思う。まだまだ、家事をきりまわし、子供を育てることを女性に求める風潮は強い。
 結果、現代の女性は、職場では男性並みに働くことを要求され、家では主婦であることを要求される。現代社会の矛盾を押しつけられ、男の二倍働いてやっと社会人として一人前に認められるのだ。
 こんな逆風の中で鍛えられた現代の女性たちに、少しずつ変化が見えてきた。同棲はするけれど結婚はしたくない女性たち。結婚はしないけれど子供だけは欲しい女性たち。女性同士の飲み会で、男性コンパニオンを呼んで盛り上がる女性たち。
 いずれも、従来の女性観では捉えきれない行動や欲求を。はっきりと表明する女性たちが台頭してきているのだ。そういった価値観の変化に、男性はまだまだ追いつけていない。女性の方が進んでいるのかもしれない。
 それに比べると、ロストフューチャー・ワールドに登場する女性たちは、残念ながらヒーローに助けられるためだけの引き立て役でしかない。怪物に襲われ、叫んだり泣いたり大騒ぎするためだけの存在だ。単に父親が科学者だったり、偉かったりするから登場するだけ。ラストでヒーローに感謝のキスをして、家へ帰ってアップルパイを焼くような存在でしかない。
 そう、ロストフューチャーは男にとってのみの理想郷だったのだ。男のための冒険の場であり、闘いの場であり、遊びの場であって、女性はその世界に花を添える存在でしかない。男根を連想させる奇怪なメカニックに寄り添ってニッコリ微笑んだり、宇宙怪物に衣服を剥ぎ取られて叫んだり。進歩的女性運動家に見せたら、たちまち二時間は説教くらいそうな、あまりにもチープな性差別が満載だ。
 女性にとっての理想の未来社会。それは今だかつて提示されないままだ。その実像は、現在変わりつつある女性たち自身が、彼女たちの行動自身によって、形作っていくものなのだろう。
 輝く女性たちの未来は、失われた未来ではない。いまだ来たらざる世界なのである。


#12
 西暦二千年問題が世間を騒がせている。
 今や我々の生活になくてはならないコンピュータ。そのコンピュータが社会の様々なジャンルで実用化されはじめてから約半世紀がたった。それらのプログラムはすべて、西暦の設定が下二桁のみでインプットされていた。当時の設計者たちはまさか21世紀まで同じシステムを使い続けるとは想定しなかったのだ。
 しかし予想は大きく外れ、来年はついに西暦二千年。コンピュータ内では00年と、99年も戻ってしまうプログラムも多いのだ。このことによって思わぬ弊害が出るのではないかと懸案されている。
 弊害が「思わぬ」ものである点が困りものだ。予想されるなら手の打ちようもある。が、すでに我々の生活や生産の現場に普及した無限のコンピュータと、その膨大なプログラムの中で、西暦が00年である結果誘発される(かもしれない)事故は、いったいいくつあるのだろうか。
 それはもはや、誰にも予測不可能なのだ。炊飯器や電子レンジのファジー回路なら被害も少ないだろう。が、銀行のオンラインサービスだとそうはいかない。航空機の管制システムや原子力発電所の制御用コンピュータなら未曾有の大災害という結果も招きかねない。
 いや、コンピュータだけでなくマイクロチップを仕込んだあらゆる機器に関して疑うべきだという識者の声もある。「『ノストラダムスの大予言』で言われた『1999年の破滅』とはこのことだ」と主張する本まで出版される始末だ。まさに世紀末の大混乱状況なのである。
 ロストフューチャーの世界でも、コンピュータが狂うことで世界が破滅する、という寓話が多く見られる。しかし大きく違うのは、世界の破滅が「進化したコンピュータである電子頭脳やロボットが、意志を持つようになったことで創造者である人間に反乱を起こす」という形で提示される点だ。
 このモチーフは、シェリー夫人が「フランケンシュタイン」で描いて以来、ロストフューチャー・ワールドで何度も何度も繰り返されてきたテーマだった。
 60年代、サイバネティック学者のM・ミンスキー博士は、「意識あるコンピュータは80年代までに登場する」と予言した。しかし、いまだにそのような革命的コンピュータは発明されていない。「意識あるコンピュータが人類を破滅させる」は、来なかった未来なのだ。
 現実の世界では、コンピュータはひたすら手軽になり、我々の生活のあらゆる部分、あらゆる局面に入り込んできた。そしてそんな世界で、我々は二千年問題に恐怖している。
 人類は「機械の知性」という最良の親友も最強の敵も持てないまま、コンピュータによる破滅という現実だけを享受することになってしまったのだ。

アメージング・ストーリーズ誌(1952年2月号)/ワンダーストーリーズ誌(1935年2月号)
進化したロボットが、その創造者である人類に牙をむく。米国のSF作家I・アジモフはこのパターンを「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼び、よりリアルなロボット像を描いた。その基本理念は「アシモフ回路」と呼ばれ、現実の人工知能学者に研究されている。(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社

#13
 コソボ紛争をはじめ、現代の戦場ではスマート(頭のいい)・ミサイルが主力兵器となりつつある。
 湾岸戦争で一般の人にもその正体を見せたハイテク兵器、人工衛星のデータを利用して、正確に軍事目標だけを狙うミサイルだ。
 ロストフューチャー世界のミサイル観は全く違っていた。
 ずらりと並ぶ巨大ミサイル群は、頼もしい「護りの神々」だった。地球の裏側まで攻撃できる最終兵器。これがある限り、敵は絶対に攻めてこない。究極の報復を誇示することによって平和を維持する、という逆説的存在。東西両陣営がそれぞれ、その正当性を疑わずに主張できた時代の価値観だとも言える。
 現在、そんな絶対的価値観は崩れ、国際情勢は限りなく相対的、個別的な様相を呈している。国際情勢を動かす強力なカードも、「核を使うぞ」という単純なものではなくなってしまった。
 核を持っている国が威嚇するのではなく、核を持っていない国が核を持つことをほのめかして国際的位置をあげようとする。
 豊かな国が世界をリードするのではなく、貧しい国が「このままでは国民が飢え死にする」とアピールすることで、国際世論を味方につける。
 輸出国が世界経済を掌握するのではなく、輸入国が保護貿易や貿易制限によって圧力をかける。
 クラウゼヴィッツが『戦争は政治の一形態だ』と喝破したように、軍備も戦争も、複雑化した世界情勢の中で相対化し様々な意味づけをされつつあるのだ。
 現在の国家安全保障を核ミサイルだけで守ろうというのは、何もかも大型トラックですまそうとするようなものだ。引越にはトラックが便利でも、近所へ買い物は自転車、家族旅行なら自家用車、と使い分けが必要だ。
 国際紛争でも、そのレベルに応じて破壊力の行使は使い分ける。その意味で、高性能、超小型ミサイルは、使い勝手がいいわけだ。
 結果、敵の軍事基地だけを攻撃する小型ミサイルは人道的な兵器、小型ミサイルを使った戦争は人道的な戦争だと宣伝された。
 が、実際には軍事基地の隣のミルク工場が誤爆される。民間人の乗った列車が、鉄橋を破壊されて大事故を起こす。この「人道的兵器」は、限りなくプロパガンダにまみれているのだ。第一、使うことができなかった核ミサイルに比べて、「使いやすい」小型ミサイルが本当に人道的だと言えるだろうか。
 我々は、世界平和という理念を失い、かわりに「人道的戦争」とやらを手に入れてしまったのかもしれない。

「ELECTRONIC COUNTDOWN」(IDEAL社・1960年代) 「核ミサイルによる平和」が信じられた時代の玩具。ミサイルをセット、ダイヤルを廻し、スイッチを押すと発射へのカウントダウンが開始する。(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社

#14
 この7月26日で、アポロ11号の月面着陸から20ちょうど30年。人類が最初に月面に立つという歴史的イベントを懐古するテレビの特番や記念出版物も増えてきた。
 が、今あらためて思い出してみれば、果たしてあの月着陸をめぐる大騒ぎは何だったのだろう。
 「コロンブスの新大陸発見」に例える人もいれば、「ベトナム戦争反対の運動から目を逸らさせる為の、国家レベルの謀略だ!」と叫ぶ人もいる。そう言えば、あの当時すでに、アポロ11号の発射基地周辺には「宇宙より職を!」というプラカードを持った黒人たちがデモをしていた。
 宇宙開発に関しては賛否両論、いろんな意見があるだろうけど、唯一はっきりしている事がある。もう、あんなことは二度とできない、ということだ。
 宇宙開発だろうと、核融合発電だろうと、いや戦争でさえ、そんな金のかかることが単独でできる国など、今や地球上のどこにも無い。それどころか、たとえ月着陸をこえる超国家レベルの大事業をぶちあげても、決してかつてのような大騒ぎにはならないだろう。
 いま注目されるのは、もっとプライベートな動きだ。たった一人の思いつきが、インターネットでヒットを生む。在庫も工場もない、あたらしいビジネスの形。そんな形が、最も現代っぽいと言われるようになった。
 ロスト・フューチャーの世界でも、宇宙開発は常に個人で行うものだった。裏庭や人気のない砂漠に作った実験場。そこから銀色の原子ロケットは飛び立つことになっていた。まだまだ、個人レベルでの発明が意味を持つ時代だったからだろう。
 しかし、やってきた現実では、巨大な官僚組織NASAによってロケットの開発は進められた。考えてみればよい。70年代、80年代というのは、何をするにも組織やシステムにとらわれる時代だったではないか。
 世界の大切なことはすべて、大企業や国家といった巨大組織によって動かされると考えられた時代。そんな巨大組織の動きだけが、世界の大切なことだ、とも考えられていた。
 そういう組織を運営できた者が成功する時代でもあったと言えるのだ。
 しかし、時代はめぐって、再び小さな組織や個人の力が発揮できる時代がやってきた。
「個人の可能性」が復権しはじめたのだ。
 組織の時代に「宇宙開発」という名でもてはやされ、やがて捨てられてしまったロケットたち。
 ようやく現実がかつての夢に追いつき個人の時代となったいま、「宇宙探険」を趣味として復活させてくれる人はいないだろうか。
 僕はそんな、手作りのロケットを見てみたい。

APOLLO LUNAR LANDER(アポロ月着陸船・米フランクリン・ミント社) 「宇宙空間専用」の乗り物なので、空気抵抗や地球重力を考えなくていい。まるで足を拡げた昆虫のようなデザインだ。(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社

#15
 98年度の『農業白書』によると、日本では現在、約650万人を養える食量が食べ残されているという。今や問題なのは資源問題ではない。適切な配分、という問題なのだ。
 この問題を30年以上も前から指摘していたのが、米国の思想家であり科学者でもあるバックミンスター・フラーだ。「宇宙船地球号」という言葉で有名なフラーだが、彼は実際に「宇宙船地球号」の限りある資源を適切に分配するという問題に関して、様々な考察や試みをおこなっている。
 その一つが「ワールドゲーム」。ゲーム上の資源や人口などは、極力、実際の数値を反映させる。うまく資源さえ配分すれば、地球上の全ての人々は、飢えないどころか、充分に豊かな生活ができる。
 このゲームによって、フラーは「全ての人類を平等にあつかえば、今の先進国の豊かな生活は不可能」という、一般的な考え方が間違いであることを証明したのだ。
 もう一つが、実際の活用例。最も少ない資源で巨大な建物が作れるダイマクシオン・ドームや小型で小回りが利いて燃費の良いダイマクシオン・カー。これらは、同じ機能を極力、省資源で作ることを課題に設計されている。もちろん、安価で大量生産が前提だ。
 フラーは、ジュラルミン製の戦闘機を製造していた兵器工場を、ユニットバスの量産工場に改造する、という画期的な試みも実行した。破壊のシンボルである兵器工場でさえ、科学的な指導のもとに「人々を豊かにする」目的に生まれ変われるのだ。
 フラーの発明品はドーム建築やユニットバスのように商品化・実用化された。しかし、人々はフラーの思想・理論を受け入れなかった。
 彼の描いた未来は、みなが同じ型の車に乗り、同じ型の家に住み、同じ型の風呂に入る未来だった。そんな「大量生産によって、全ての人たちに豊かな暮らしを」という思想は、ロスト・フューチャーの未来と共に葬り去られた。
 私たちは現在、豊かな生活とは一人一人が「個性的な生活」をすることだと洗脳されている。そして同じ車、同じ風呂では「没個性的」ではないか、とつい考えてしまう。しかし真の豊かさとは、そのような生活用品の種類が多いことだろうか?
 次々とモデルチェンジする自家用車を数年ごとに乗り捨て、注文建築の家で「個性的」な雑貨に囲まれた生活。そこで我々はテレビを通じて貧しい国の実態を見、心を痛める。「全ての人類が豊かな生活をするなんて、無理に決まっているから」と、宇宙船地球号の一等船客たちは、自分をなぐさめ続けているのだ。
 我々はもう一度、ロスト・フューチャー世界の預言者・フラーの言葉に耳を傾けるべきかもしれない。

教育玩具「ゾムツール5(米・ゾムワークス社製)」で作ったフラードーム。
最少の資源で、最大の強度と容積を実現している。(岡田斗司夫・蔵)

撮影・毎日新聞社

#16

Frank Reade library(米国の新聞小説 1892年11月12日刊)
19世紀の天才発明少年フランク・リードは「潜水艦」「蒸気人間」「空中艦」などを発明した。SF小説の始祖。(岡田斗司夫・蔵)

撮影・毎日新聞社
 デジタル業界の覇者ビル・ゲイツは、これからの経営指針を最新刊『思考スピードの経営』の中で、こう予言した。
 世界中のデータを常に手元で更新し、秒単位の素早い決断に合わせて、柔軟に変化する企業。この「速度」が全ての世界では、企業は常に「栄えるか、死滅するか」の二者択一を迫られる。
 彼の話を聞いていると、まるでそんな未来を実際に見てきたようだ。
 郵政省やNTT、それに大企業もこの競争に遅れまいと、デジタルネットワークに力を入れ続けている。中小企業ですら、積極的にデジタル化をはかっている。
 まるで、未来のあらゆるビジネスの成功、不成功が、デジタルネットワーク化だけにかかっていると思いこんでいるようだ。
 しかし、ロストフューチャーの教訓を忘れてはいけない。未来予測とは必ず外れるものなのだ。
 ロストフューチャー世界の古典、19世紀の新聞小説『フランクリード・ライブラリー』は「輝ける20世紀」への予言であふれていた。
 無限に発達する蒸気機関。この素晴らしいボイラーの力で世界は変わる。やがてはロボットの馬が駅馬車をひっぱり、果てしない荒野を駆ける日がくるに違いない。
 しかし蒸気機関はガソリンエンジンや電気モーターにその座を譲り、西部の荒野は住宅地となり、駅馬車は20世紀に入るとすぐ、時代遅れの産物となってしまった。
 このロボットの馬車を、「昔の人の創造力は素朴だねぇ」と笑うことはたやすい。

 しかし、我々も現に同じ事をしていないだろうか。
 デジタルネットワーク化しないと乗り遅れる。デジタルネットワーク化さえすれば、未来で生き残れる。
 こんな短絡的な考え方は、何にでも蒸気機関を応用するのに似ている。いま急激に進歩している技術だけに気をとられて、世の中の全てが変わると信じていいのだろうか?
 いま進歩している技術は、次のレベルに進んで、忘れ去られてしまうかも知れない。
 偶然、発見された新技術や単なる流行が、あなたのいる業界そのものを無意味化するかも知れない。
 技術進歩は予測できても、その中で生活する人々の生きざまは予想できない。だから、どんなに賢明な未来予測も、必ず外れる運命にあるのだ。
 「ロボットの馬に曳かれた駅馬車」は、我々にそんな警句を知らせてくれる。

#17

「未来の家」パンフレット・1967年 すべてがプラスティックとガラスで作られた未来の家。米国のディズニーランドで実際に展示販売されたモデルハウスの販売パンフレット。(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社
 「包丁のない台所」問題をご存知だろうか。
 最近、包丁のない家庭が急増しているそうだ。別に一人暮らしの若者の話ではない。スーパーやコンビニで、調理済みの弁当やパンなどを買う、というライフスタイルに関しての話ではないのだ。
 主婦がいて、子供がいる、ごく普通の家庭に、包丁のない台所が急増している。そういう家庭では料理を作らなくなったわけではない。
 冷凍のピラフやコロッケ、レトルトのハンバーグやミートボール。すでに切ってあるサラダや、炒めもの用の野菜。カットフルーツや下味がついて、一口大に切られた牛肉や鳥肉。
 あとは、焼いたり、炒めたり、調味したりするだけの商品が大型スーパーなどに氾濫しているのだ。
 ひょっとしたら「台所から包丁が無くなった」というよりは、コンビニやスーパーが台所の役割を受け持ち始めたのだ、と言えるかも知れない。
 必要なものを少量づつ、必要な分だけ。しかも便利な半調理、あるいは全調理品が豊富。
 小綺麗にパッケージされ並んでいる、そういった商品群は、本部からの指令を受けてたえず移動し在庫を補給する配送車の存在によって成立している。そう、今や我々の「包丁のない台所」は自動車社会によって維持されているのだ。
 ロストフューチャー世界での台所はどうだったのだろうか。
 1956年、米国ゼネラルモーターズ社は、「夢のキッチン」を発表した。ボタン一つでローストチキンを焼き、TV電話がメニューを教え、全自動皿洗い器が設置されている、全てが銀色の台所。
 同社のプロモーションフィルムでは、ポニテールにエプロン姿のヒロインが、「全てボタン一つで作ってくれる、すばらしい明日のキッチン」と歌う。
 かつて自動車会社が予言した、何もかもボタン一つですむキッチン。それはもう一つの「包丁のない台所」だった。いや、包丁どころか、鍋もフライパンすらもない、銀色でピカピカ輝く清潔な台所だ。
 40数年後の現在、自動車社会は我々に「夢の台所」を手渡してくれた。一口大にカットされた野菜や冷凍食品を新鮮なまま、完全な在庫調整をしながら巨大スーパーへ供給する。あとはそれらを買って、自宅で調理するだけだ。
 我々が手にした「夢の台所」、それは自動車社会が生んだコンビニキッチンとセットで存在する、「包丁のない台所」だったのである。

#18

指輪のフタをあけると、本物の放射性物質が入っている。暗い場所で見ると、チェレンコフ放射でぼうっと光っているのが見えたらしいが、今はもう消えてしまっている。(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社
 広島、長崎に落ちた原爆を「平和のために使われた兵器」と考えているアメリカ人は、いまだに驚くほど多い。我々日本人には、どうしても承伏しがたいことだ。
 いったい、どうしてなのだろうか。
 太平洋戦争の末期は、完全な消耗戦に突入していた。旧日本軍が占領していた軍事ポイントを一つ一つ奪取することで、アメリカ軍も大変な数の死傷者を出していた。

 米国にとって、この戦争に勝てるのは明らかだった。しかし一体、あと何千人あるいは何万人の死傷者を自国民から出さなければいけないのか。
 最初は景気の良かった国民も、大戦末期には厭世的な気分に包まれつつあった。
 そんなときに使われたのが、原子爆弾だった。
 この人類初の原子力兵器は、米国の予想をはるかに上回る甚大な破滅を日本にもたらす。一挙に日本の二都市・広島と長崎を文字どおり消滅させてしまったのだ。
 これによって日本は無条件降伏することになり、結果的に大量の帰還兵がアメリカ本土の土を再び踏むことができた。
 被爆地の悲惨な現状を知らされていない彼らは、この終戦を原子力によってもたらされた平和、「アトミック・ピース」と名付け、祝った。
 この当時の様子は映画『アトミック・カフェ』にも詳しく紹介されている。戦勝国の国民は原爆に感謝するラブソングを歌い、ダンスに興じた。
 喜びにわく当時の米国では、アトミック・カクテル、アトミック・カフェなど、原爆の名前をつけた便乗商品が大流行することになったのだ。
 ここに紹介する指輪は、その当時発売された、無数の「アトミックピース」商品の一つだ。
 戦争を終わらせ、二人を再会させてくれた原子爆弾。それをかたどった小さな指輪である。
 ようやく再会できた恋人や夫婦が、お互いにその再会を喜び、その記念にこの小さな、恐ろしい指輪を贈りあう。
「原爆が愛を実らせた」
 指輪の宣伝コピーは、日本人である我々にはあまりにも感覚が遠すぎる。
 この恐ろしい指輪の問いかける認識のギャップに、我々は答える言葉を持たないのだ。

#19

ポピュラー・サイエンス誌1938年12月号(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社
 『スターウォーズ・エピソード1』が大ヒットしている。このシリーズの原作者でもあるジョージ・ルーカス監督は、第一作を作った20年以上前から、全6作の構想をすでに持っていた。が、当時の技術では自分のイメージ通りの映像を作ることはできなかった。
 そのルーカス監督に、再びシリーズ再開を決意させたのは、CG(コンピュータ・グラフィックス)技術の進歩である。自らが特撮技術開発のためにおこした会社ILMで担当した『ジュラシック・パーク』のティラノサウルスを見て、彼は映画の未来像を確信した。
 満を持したかいあって『スターウォーズ・エピソード1』では、かつて我々が見たこともないような宇宙人や怪物が、CGの技術でスクリーン上を自由自在に動き廻っている。そこにはコンピュータグラフィックスで作られた仮想の世界が存在し、仮想の戦争が繰り広げられているのだ。
 『スターウォーズ』のような空想の戦争だけではない。今や現実の戦争でも、コンピュータの助けなしではできなくなっている。戦闘機や戦車、ミサイルなどのハイテク兵器はコンピュータの助けなしでは何の値打ちもない。
 特に戦闘パイロットの教育・訓練の分野では、『スターウォーズ』同様、コンピュータ・グラフィックスで作り出される仮想現実がそのまま利用されている。現実の地形や大気の状態、航空機の性能をデータ化し、コンピュータ・グラフィックスにおきかえた、きわめて現実社会に類似したものだ。
 コンピュータの性能があがり、データの精度が増すにつれて、仮想現実はより現実に近づく。我々の社会は交通や電力など高度なシステムに支配され、ますますその故障は許されなくなってきている。管理者を訓練するにはたいへんな時間・コストがかかり、失敗はそのまま破滅へと繋がる。仮想現実による訓練や実験の必要性はますます増加しているのだ。
 現在売り出されたり、開発されたりしている家庭用ゲーム機のソフトですら、緻密なCGとすばやい動きで、リアルな戦闘体験をさせてくれるものが増えている。
 ロストフューチャー世界から来たこの雑誌でも、仮想釣りゲームに興じる男性と観客が描かれている。が、この機械は、現在のゲームソフトと目的が違うようだ。
 ポピュラー・サイエンス誌1938年12月号の記事によると、『我々の全てが豊かさを手に入れる近未来、上流階級の遊びトローリングも庶民の手の届くものになるだろう。この機械は、その日のための練習用装置なのだ』とある。
 この機械で釣りの楽しさを味わうのではない。実戦用訓練シミュレーターと同様の、トローリング訓練機なのだ。
 が、その未来社会に住んでいるはずの、現在の私たちはどうだろう。釣りもゴルフも野球も、家庭のゲーム機で気軽に楽しんでいる。けっして訓練のために仮想現実を楽しんでいるのではない。実際に体を動かして楽しむのではなく、仮想現実のゲームだけで充分に満足しているのだ。
 そんな我々には、けっして来なかった未来のために、釣りの訓練をするロストフューチャーの住人達を笑う権利などないのかもしれない。

#20
 電力会社は「豊かな生活を保証するためには原子力発電が必要だ」と主張している。
 彼らのいう「豊かな生活」とは何だろうか。それは、我々国民が使いたいだけ電力を使っても不自由しない生活だ。
 電力需要には、季節によって大きな波がある。その消費ピークは当然現在、すなわち真夏の盛りとなる。真夏の暑い日にクーラーのきいた部屋でビールを飲み、テレビで甲子園の球児たちを観戦する。
 この時間帯が日本の電力消費のピークであり、当然ながらすべての発電施設はこの「豊かな生活」をまかなうためにいまだ増設され続けているのだ。
 あえて極論すると、日本という国は真夏にクーラーのきいた部屋で甲子園中継を見るために、原子力発電を推進していることになるだろう。
 しかし今、原子力産業にこだわっているのは、日本とフランスくらいだ。
 他の国が別に技術的に遅れているわけではない。原子力はコストがかかりすぎるのだ。実用に耐えうる安全ラインを維持するには石油等の資源を大量に消費し、高度な管理者を育てなければならず、その維持にはたいへんなコストがかかる。
 日本とフランス以外の国では、このコスト負担に耐えきれず80年代末期までに原子力発電から撤退してしまった。
 すると撤退した他の国々は、こう考える。なんでまた、あの国はそこまで原子力発電にこだわるのだろうか?コスト高や危機管理を覚悟してまでやる、というのは、何か別の目的があるとしか思えない。
 「日本は近い将来、核装備するに違いない。だから原爆の原材料であるプルトニウム作成のために高速増殖炉を建造してるのだ」
 痛くない腹(であればいいのだが)を探られ、こう非難されるのも日本の原子力開発行政に一因があると言わざるをえない。
 まさか「真夏にクーラーをかけて高校生の野球を見るために、究極のエネルギー・電子力発電が必要なのです」と言っても、どこの国も本気にしてくれないだろう。
 ロストフューチャー世界では、原子力はいつだって正義の象徴だった。鉄腕アトムも原子力で動いていたし、「水爆でヒマラヤ山脈を消し去って、ユーラシア横断道路を造れ!」とまじめに語られたこともあった。
 しかし今、我々の中に、そんな原子力に対する信頼とあこがれは微塵も残っていない。
 正義を失った我々に残されたのは、ヒステリックな反対運動と、猫なで声で必要性を訴える電力会社だけである。
 スリーマイル島事件から20回目の夏、また暑い夏がやってきた。

「未来の世界」(講談社・高木純一, 岸田純之助著) 昭和30年代によく見られた楽観的未来像の集大成。「台風は水爆で消す」など、原子力の平和利用に多くを割いている。(岡田斗司夫・蔵)
撮影・毎日新聞社




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