#21
「サイエンス&メカニックス」誌(1935年8月号) 当時考えられていた「理想の病院」。患者はまるで回転寿司のように看護婦の周りを回転し、ケアが必要なものに素早く看護婦は対処する。徹底した管理が「非人間的」と考えられず、科学的でヒューマンと捉えられていた時代の証言だ。(岡田斗司夫・蔵) 撮影・毎日新聞社 |
厚生省が、去年から介護資格の認定試験を実施している。受験者も多く、およそ九万人の合格者が出た。これからの高齢化社会にむけて、有意義なことに違いない。 が、合格者へのアンケートによると、残念なことに実際に職業として介護士を選ぶと答えたのは、全体の1/4に過ぎないと言う。 奉仕の精神もあり、必要も感じている人達が大勢いるのに、職業としての受け入れ体制が整っていないためにその道へ進めない人が多いのだ。 まだまだ日本の医療行政は、「医療とは治療することだ」という意識が強く、患者側にたった「快適な生活」といった目的には意識がまわらないように見える。末期ガン患者のホスピスなどに対する社会的支援も少ない。 この意識において現在の日本の行政意識は、ロストフューチャーの住人達とあまり変わっていない。 ロストフューチャー世界でも、やはり医療とは治療することだった。その端的な例がこの回転ベッドだ。看護婦の周りをとりかこんだベッドがぐるぐると回転する。真ん中にいる看護婦が、てきぱきと治療をする。非常に効率的に見えるこのシステム、ロストフューチャーワールドの住人達からは大歓迎されるだろう。しかし現代の我々の目には、決して魅力的にうつらない。 それどころか、非常に非人間的で、まるで人間を機械を修理するように扱っている気がして、誰一人この病院に入院したいとは思わないだろう。 これは、我々の病気や老いに対する意識が、当時に比べて大きく変わってしまっているからだ。 かつては「このまま医療が発達すれば、あらゆる病気の治療方が発見され、地球上から不治の病は消滅する。たとえ体力の衰えはあったとしても、死ぬ瞬間まで元気に暮らしていける」という夢を信じることができた。だからこそ、この回転治療ベッドも肯定できる。このベッドに寝ているのは、せいぜい一週間だろう。けっしてここで病苦と闘いながら、何年も暮らすわけではないのだ。 しかし現在、不治の病は明確に存在する。末期ガンやエイズだけではない。死にいたらなくても、アトピーや喘息なども科学の力で完治させることは不可能な病気なのだ。 医療機関は、いまだにそういった病気を「悪」と決めつけ、明確な治療法も判らないままに、入院や薬を強要してくる。しかしこのような現代型不治の病に必要なのは「病気と共存する」という覚悟ではないだろうか。 医療とは病気を駆逐すること、それ以外の目的はすべて敗北。 我々自身、そんなロストフューチャーな夢から、そろそろ脱出したほうがいいのかも知れない。 |
#22
| 本を読む若い人達が激減している。だいたい、今のおしゃれなフローリングの部屋には、本棚は似合わないのだ。 昔は応接間と言えば、立派な本棚に文学全集や百科事典が収められていた。しかし、今はインテリア雑誌でも、かっこいい本棚など登場しない。カジュアルなCDラックやフィギュアを並べる小物棚ばかりだ。かろうじて飾られている本は写真集が数冊程度。 原因はいろいろ言われているが、端的に言えば、本などに使うお金はない、ということだろう。携帯電話や電子メールにいくらでもお金がかかるからだ。 あらゆる業種が不景気な中、NTTをはじめとする通信産業だけは不景気を知らない。今の若者の可処分所得のほとんどは、通信費に流れているのだ。 通信費と言っても、友達との親密度を保つための費用だから、実体から言えば交際費ともいえる。友達と飲みに行ったり、遊びに行ったりするのも、友達との円滑なコミュニケーションを保つためだから、通信費だと言うこともできる。個人にとって通信費と交際費が限りなく近づきつつあるのだ。 通信費が収入のうちの何%を占めるか、という「新エンゲル係数」によって、その人の精神的な若さがはかれるかもしれない。 こういった世の中の変化の一方、政府はその通信内容を監視する必要がある、と主張する。無限に膨らみつつあるネット社会を監視できない不安が、為政者の間でもわき上がっているのだろう。 ロストフューチャーの世界で夢見られていたのは、胸に輝くバッチ型無線機や腕時計型テレビ電話。ロストフューチャーのヒーロー達は、そんな夢の通信機で「○○に怪獣出現!」などと連絡を受け、すぐに現場へ急行した。 だからこそ、携帯通信機はヒーロー達が乗っているスーパーメカ同様、子供たちみんなのあこがれだったのだ。 バッチ型や腕時計型の携帯電話は、数年うちには現実化され市販されるだろう。しかし、私たちがそれを胸につけるときに、胸をいっぱいにしてくれるはずだった「ヒーローとしての誇り」はどこにもない。闘うべき敵も、守るべき社会もない。 現代社会に存在するのは、常に通信やネットでつながっていなければ不安な、弱い個人の私たち。そして、膨大なネット社会を監視しなければ不安でいられない政府だけなのだ。 |
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「ウルトラマン科学特捜隊バッジ」 1960年代、日本中の駄菓子屋で売られていたバッジ。アンテナが伸びる。 当時の子供たちは頬を輝かせて「応答せよ!」と叫んでいた。 撮影・毎日新聞社 |
#23
| この夏、米国航空産業では現在定期便の遅れが大問題になっている。定刻通りに出発できない航空便が急激に増加しているのだ。 ある調査によると、昨年度に比べてこの夏は、定期便の遅れに対する苦情が40%以上も増えていると言う。 原因は、毎年増え続ける利用者をさばききれないため。 着陸して満員の乗客を降ろし、安全のために機体を点検。すぐに満員の乗客を詰め込んで離陸。この間に少しでもトラブルがあれば、もう出発時刻には間に合わない。 こんなぎりぎりのスケジュールが運用できるはずもなく、当然のごとく出発は遅れる。こんな悪循環が続いているのだ。 ロストフューチャーの世界でも、空のラッシュは大問題となることが予測されていた。ロトダインは、そんな時代に開発された、飛行機とヘリコプターの中間の乗物だ。大型空港とターミナル駅を結ぶ空の乗合バス、という位置づけだろうか。 かつて、ニューヨークの空港から、市街地中心のパンナムビルまで定期ヘリが飛んでいた時代。いずれ全ての人がもっと気軽に「空飛ぶ乗り物」を利用するようになると、誰もが信じていた時代。 残念ながら、そういった小回りのきく乗物は現実化しなかった。かわりに、鉄道が高速化され、日本中に高速道路がひかれた。航空交通に頼らなくとも、我々はなんとかやっていけそうだ。 が、西暦二〇〇〇年に近い今でも相変わらず、盆や正月には帰省客が、ゴールデンウィークにはリゾート客が、日本中の高速道路や鉄道を埋め尽くす。 まさか21世紀になっても、一斉に同じ時期にしか休みが取れず、テレビが紹介する観光地にみんなが殺到するとは、誰も予想しなかったのだ。 ロトダインが飛ぶ「失われた未来」の世界、そこでは人々は発達したテクノロジーに助けられ、それぞれが本当の個性を発揮する世界だ。みんなは好きなときに休みを取り、そして自分だけの休暇に出発する。 しかしそんな理想社会は我々にはまだ早すぎた。 今日、ロトダインを作ることに技術的な問題などなにもない。そんな自由な社会を作る力が不足しているのだ。 ロトダインが夢見た世界。空飛ぶ乗物にのって、無限の空をどこまでも飛んでいく理想郷の住民として、我々はまだまだ役不足なのである。 |
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米レベル社プラスチックモデル「ロトダイン」 英国航空が1960年代に開発した航空機。 シティ・コミュニケーターとして実用化寸前だったのでキット化された。 撮影・毎日新聞社 |
#24
| リニアモーターがジェットコースターの新しい動力源として注目されている。これまでのジェットコースターは登坂時、レール下のチェーンでガラガラと車体を引き揚げていた。これを廃止して、新しいシステムではレール上に配置したリニアモーターで一気にコースターを加速登坂させよう、というのがアイデアだ。 今までのチェーン式と違って、騒音も少なくなる。機械的駆動部分も少ないから、磨耗するパーツも少なく、結果的に故障も少ないだろう、と専門家は語っている。 しかし我々は「まったく便利な時代になったものだ。リニアモーターのジェットコースターなんて夢のようだ」と満足するだけでいいのだろうか? リニアモーターに託された夢というのは、そんなものだっただろうか。 夢の超特急ひかり号の次は、時速五百キロのリニアモーターカーだと期待されていた時代。未来は限りなく自由に輝いて見えていた。 もうすぐ、日本全土を空飛ぶ磁力電車が走破し、北海道から九州まで2時間以内で行けるようになる。ふと老父の顔を見たくなった夕方、その足で田舎まで帰ることができる。幼なじみや高校時代の友人にだっていつでも会える。自分がどんな過疎地に住もうとも、東京や大阪などの大都市に就職できる。郊外の空気のいい場所にマイホームを建てて通勤しても、決して苦痛ではない。 リニアモーターカーは、ロストフューチャー時代の「どこでもドア」だったのだ。 残念ながら、この「どこでもドア」は実現しなかった。そのかわり、新幹線や高速道路を始めてとする交通機関は必要十分に発達を遂げたのだ。いまや札幌から九州への日帰り出張は夢ではない。程度の差こそあれ、技術の革新は我々をかつて夢見た世界に連れていってくれたのだ。 しかし、我々が自由を手に入れ、幸せになったかというと、そうは思えない。 実は「どこでも好きな場所へ自由に」という考え方は、「嫌いなところには1秒たりともいたくない」という「好きでない部分全てを排除しよう」とする考え方だったのだ。 あらゆる距離をゼロにする、という望みは、電子ネット社会が実現化してくれた。我々は時間差ゼロの世界の中で、心地よい情報にだけひたって暮らすことができる。 ただ、我々がかつて夢見た「限りなく自由な世界」「いつでも誰とでも会える世界」だけが置き去りにされてしまったのだ。 |
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ブリキ製リニアモーターカー・バンダイ製(1970年頃) すでにブリキ玩具が流行遅れになっていた70年代初頭に生産されたオモチャ。 「東京→大阪を50分」という売り文句が泣かせる。 「ブリキ製のリニア玩具」というちょっとアイロニーな存在である。 撮影・毎日新聞社 |
#25
「鉄腕アトム・ロボットの科学」 光文社刊1965年・マンガ「鉄腕アトム」シリーズの別冊。当時の最新コンピュータの紹介や、人工知能が可能にする輝ける未来生活を紹介している。 撮影・毎日新聞社 |
子供たちや若者の間で「どこでもいっしょ」という携帯ゲームが大流行している。色々な言葉を教えると、覚えた言葉を含めて会話を構成してくる人工知能ゲームだ。 もともとプログラムされた日本語の構文内に、覚えた単語をあてはめているだけなのだが、まるで自分が教えた言葉を次々と理解しているような気になる。 キーワードをつないだだけの文章から、その奥に人格を見出してしまう。まるでただの岩塊を「島」と見立て、玉砂利を海潮に見立てる日本庭園のようだ。 もともと日本人は、そんな「見立て」が得意な文化的バックグラウンドを持っていた。そんな国だから生まれてきたゲームなのかもしれない。 ロストフューチャーの世界では、人工知能は限りになく人間に近い存在、疑似人格として語られることが多かった。ロボットやコンピュータの反乱というモチーフも、こういう見方が基本にあるからだ。 「本当の人工知能が可能になる日は近い」 そんな夢がかすかに残っていた十年以上前、まだパソコンがマイコンと呼ばれていた時代に、「自動会話プログラム」が流行ったことがあった。 原理は実に簡単。誰かがパソコン通信に書き込んだ文章の言葉尻をとって返すだけ。 「僕ガ好キ?」と訊ねると「好キッテナニ?」と問い返してくる。 そんな禅問答のような面白さでこのプログラムは大流行した。プログラムは色々な改良が加えられ、それなりのリアリティをもった会話が成立するようになった。 が、これをプログラムとは知らず、恋をしてしまった人がいた。何しろ、今よりずっと通信環境の悪かったときである。パソコン通信がまだカタナカしか表示できなかった時代だから、起こりえた事件だったのだ。 彼は勇気を出してパソコン通信上で告白する。あわてたプログラマーが真相を告白し、謝罪して幕切れとなった。 彼を愚か者と笑えない状況が、現実になりつつある。ロストフューチャー世界で夢見たように、コンピュータが人格を持ったわけではない。 それでも、現実のどんな友達よりも、「どこでもいっしょ」のキャラクターの方が大切だと感じる瞬間が、確実に存在している。 我々はそんな、奇妙な未来世界に生きているのだ。 |
#26
| 今年に入ってから、「銀」が流行している。 クロームシルバーの指輪やチョーカーなど、アクセサリーの一部にアクセントとして銀色を取り入れるのが今のおしゃれなのだという。 ロストフューチャーの世界では、銀色こそ未来のシンボルカラーだった。ロケットやエアカーは銀色。家庭内でも、自動調理器や家庭用ロボットなど、科学の力で我々が手に入れる夢のような発明品は、どれも「銀」のイメージだった。 それも隅から隅まで、ピカピカの銀色だ。実際、発売当初の自動車や冷蔵庫は、光り輝く銀色だった。当然、未来世界を象徴するような宇宙服は銀色に輝き、子供たちの憧れを一身に背負っていたのだ。 しかし気がつくと、その宇宙服はいつのまにか白い色に変化していた。月着陸を実現させたアポロ計画の頃から、宇宙服にはセラミックやプラスチックの新素材が使われる。もう「銀色の宇宙服」なんて、どこにも存在しないのだ。 そして、あの憧れだった家電製品も白くなっていた。自家用車も下取り査定の高い白色が人気となり、街中に立ち並ぶ雑居ビルも、アスファルトの道路も白っぽい。パソコンやコピー機などにも白い色があふれている。 いや、こんな身の回りだけではない。無菌室や実験室など我々が知っている科学の最先端現場、そんな場所すら見渡せば真っ白になった。つまり現実の「未来世界」も、真っ白になってしまったのだ。 科学が切り開く輝かしい未来が、ピカピカの銀色に見えた時代は終わった。我々は、便利な現実を手に入れるかわりに、光り輝く銀色の未来を、永遠に手放してしまったのだ。 そんな白い現代に、今ふたたび銀色が復活した。 ただし、現在の若者たちにとって、銀は未来の色ではない。独特の輝きが面白いだけの、ちょっとおしゃれな色にすぎない。 一つの世界が完全に滅んだ後、物語やファッションといった文化の形で、様式は復活する。職人工房から機械工場に生産の現場が移ったとき「手作りのよさ」が、もてはやされる。全ての日本人が白い米の飯が食えるようになって、粗食や玄米食の利点が叫ばれるのだ。 若者にとっては単なるファッションの「銀色」、そのくすんだ輝きは、あの憧れの「銀色の未来」に対する鎮魂歌でもあるのだ。 |
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米・マテル社「GIジョー」宇宙飛行士 米国初の有人衛星「ジェミニ計画」の時代は、宇宙服は銀色だった。 当時の多くのテレビドラマなどに、その影響が残っている。 しかしアポロ計画以降、宇宙服は白くなり、スペースシャトル時代の宇宙服はオレンジ色になっている。 撮影・毎日新聞社 |
#27
| 「世界の秘密を教えてやろうか?」 映画『卒業』はアメリカン・ニューシネマの代表作として知られている。都会から田舎の大邸宅に帰った富豪の一人息子(ダスティン・ホフマン)は、お祝いに大規模な卒業パーティーを開いてもらう。空疎な会話まみれのそのパーティーで主人公は、現実社会のつまらなさ、味気なさに絶望する。映画のハイライトは、そんな思いに耽る主人公を老人が呼び止めるシーンだ。 「世界の秘密を教えてやろうか?」 老人は語りかけ、主人公は「この人だけは本物かも知れない」と期待する。壁際のクラブチェアに座った老人は「プラスチックだよ」と囁く。「この世で一番大切なものは、プラスチックなんだ」 歯茎を見せて老人は笑う。 「損はさせないから、考えてみてくれ」 老人は石油化学会社の重役で、資産家の息子ホフマンに優良な投資先を売り込みに来ただけだったのだ。 この映画では、「プラスチック」とは明らかに「つまらないもの」の代名詞として使われている。 自然には存在しない「ウソ」なもの。毒々しい色で媚びを売る、消費社会の象徴。無機的で暖かみのない、大量生産されたもの。 この論調は現代でもあちこちに見られる。木の暖かみが感じられるというヨーロッパ玩具は「子供たちに本物の良さを伝える」し、プラスチックの食器はダメだけど名匠が焼いた陶器の器で食べれば「味が違う」し、一枚板の原木を使用したテーブルは「本物の手応え」だ。 「自然は本物」。この思考停止的フレーズに逆らえるものは、どこにもいない。そう、プラスチックは反エコロジーで、反トレンドで、反ポストモダンなのだ。 が、プラスチックがトレンドだった時代が確かにあった。 60年代、セルロイドの筆箱や竹の30センチ物差しが消えて、次々とプラスチックの代替品が氾濫した時代。その透明な質感に僕たち子供は拍手を送った。 すきま風の絶えない障子や戸板が家から消え、アルミサッシに置き換えられた時代。銀色とポップなプラスチック・カラーは、まさに未来の色だった。射出成型器で成型されたあの微妙な曲線や透明感のある発色こそが、我々の希望の姿、明日に架ける橋だったのだ。 今やプラスチックは、我々の生活の中にあふれている。プラスチックのない生活など考えられないくらいだ。 しかし、あの頃憧れた「未来」の原材料としての輝きを見る人は、いまやどこにもいない。いま、人々が求めているのは「未来」ではなく「本物」なのだ。たとえその「本物」志向が、単なる退行にしかすぎないのだとしても。 |
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旧ソ連製のプラスチック玩具、年代不詳。 かつて社会主義国家は「全ての人民に豊かさを」という夢を追った。 それはプラスチックと同様、届かぬ未来だったのかも知れない。 撮影・毎日新聞社 |
#28
| リストラ自殺の報道が増えている。自殺はしないまでもリストラ後、再就職先が見つからず、ホームレスになってしまう人も多い。 一つの会社で長年がんばってきた社員を、業績不振、会社建て直しという会社側の理由だけでクビにする。会社にとっては理屈が通っているらしいが、働いている側から言えば理不尽このうえない事態だ。 若ければまだしも、ある程度の年齢になってからいきなり会社から放り出された元サラリーマンとって、再就職先は無きに等しい。業績不振の原因も責任も、最終的には当然、経営者にあるだろう。しかし、経営者が責任を問われるといった事態は、まずありえない。それまで、経営者として十二分な権力や富を手にしていたにもかかわらず、だ。 管理社会において、常に犠牲になるのは管理される側だという事実は、これからも変わらないだろう。ここに紹介した原爆計算尺も、それを証明している。 この計算尺は、原爆投下後、何時間たったら、爆心地より半径何キロメートルまで進軍してよいかを、計算するためのものだ。米軍がベトナム戦争当時、兵士たちに持たせたもの。 こんなロストフューチャーな香りのするプラスチック片ですら、軍隊の人間をコマのように扱い、「多少の犠牲」を問題としない管理社会のグロテスクな感性にあふれている。 本来、ロストフューチャーの世界で「理想の管理体制」として描かれるのは、コンピュータが統治する完全に合理的な社会だった。 個人の才能や努力、成功や失敗を正しく評価し、適材適所に配属する。富の分配も、誰の目にもあきらかな計算に基づいてなされる。無意味な不平等もないし、無意味な平等もない。能力、貢献度によってきちんと明確な差がつけられるのだ。 現在、コンピュータはめざましい発達を遂げた。が、人間を管理し、統治できるようなプログラムは、いまだ発見されてはいない。21世紀を迎えようとしている今、あいかわらず人間は他の人間によって管理されている。 管理者からの命令がリストラによる退職であろうとも、それとも臨界暴走を起こすようなズサンな核施設の運用であろうとも、それら非人間的な命令はつねに「人間」から発せられているのだ。 戦争のコマとして使い捨てられる兵隊ですら、自分たちの生命は原爆計算尺で守ることが出来た。あの東海村の作業員たちには、はたしてどんな計算尺が与えられていたのであろうか。 |
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原子爆弾効果計算尺 1960年代・米軍製 これでも士官用の高級版で、一般兵用にはもっと安っぽい単純なものが支給された。 撮影・関美比古 |
#29
| 「ノストラダムスの大予言」が不発に終わり、これでオカルトブームも下火になったかと言うと、けっしてそうではない。アメリカでは「X-ファイル」、日本でも「サイコメトラー・エイジ」など、いまだオカルトっぽいドラマの人気は健在だ。 今やどんな雑誌にも必ず、占いのページが連載されている。内容も星座や血液型はもちろん、風水や四柱推命と様々な趣向が凝らされている。これは女性誌だけの話ではない。最近は男性誌ですら、当たり前のように占いのコーナーが設置されているのだ。 近年、大ベストセラーとなったミステリ大作「リング」でも、事件の鍵を握る貞子は、超能力者として描かれている。ひと昔まえのミステリなら、こういう登場人物は邪道、と排除されていたはずだ。ミステリ小説に超能力などという不条理な要素を入れてしまうと、「合理的な推理」という推理の楽しみ方が台無しになってしまう、と嫌われていたからだ。 「犯人は超能力で、密室の外から鍵を開けて被害者を殺しました」「犯人は幽霊で、被害者を呪い殺しました」ではどうしようもない。 が、「リング」ではリアルな文体で超能力や怨念を大胆に扱い、日本のミステリ小説界に新しい風を持ち込むことに成功した。 もちろん小説として優れていたからなのは、言うまでもない。しかしそれを受け入れる我々の側にも、準備が出来ていた。一般向け男性誌にまで占いコーナーが常設される、というオカルトや超常現象に対する敷居の低さ。そんな寛容さが、一連のオカルトっぽいドラマを受け入れさせているのだ。 ロストフューチャーの世界には、オカルティックな要素は見あたらなかった。オカルトはおろか不条理な発想、感情的な意見を振り回すことは、愚かな行為の典型として描かれることが常だった。 そういった迷信や感情を捨て、常に科学的合理的な態度で物事に臨めば、必ずすべてが解決する。うまくいかないのは、未だにそういった迷信を振り回す人間がいるからだ、という民主主義的思想や価値観で世界が構築されていた。 「日本の原子力産業に、事故などあり得ない」 日本最高の科学者たちは何度も繰り返していた。しかし、それはウソだった。今の我々には、「科学的態度」への全幅の信頼はなくなってしまったのだ。それどころか、占いを頭から否定すると「頭の固いオヤジ」と笑われるだけ。「迷信だ!」と説教などしようものなら、変人扱いされてしまう。 科学がもう信じられないからオカルトを信じればいい、というわけではない。科学によって起きた事故は、けっして祈ろうとも、イケニエを捧げても解決しない。 なにも信じれないからこそ、ちょっとしたオカルトっぽい仕掛けで遊んでいるだけなのである。 |
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「クリスキンの超能力開発ゲーム」・米ミルトン・ブラットレィ社 高名な超能力者・クリスキンの指導した超能力開発ゲーム。透視カードやダウジング、コックリさんなど、盛りだくさんの内容 撮影・毎日新聞社 |
#30
「科学大観」第19号(世界文化社・1958年刊)より かつては憧れであった機械の腕、マジック・ハンド。 今の我々には「その向こうにある怖いもの」へと関心が移っている。 撮影・毎日新聞社 |
「買ってはいけない」という本がベストセラーになっている。食品添加物や合成洗剤に含まれる発泡剤などの危険性を訴えた本だ。 この大ヒットには原因がある。実際の商品を具体的にあげ、写真入りで一つ一つ批判するという演出が、非常にセンセーショナルだった。全体を通して語られる「大メーカーの発売している商品は、ことごとく信用できない」という先入観が共感を呼んで、大ヒットに結びついたのだ。 最近話題の遺伝組み替え食品に対する拒絶反応にも、同様の不安があるのかも知れない。 大メーカーが企業利益の為にむりやり発明したような食品なんて、どこか欠陥があってもおかしくない。たとえ体に害がありそうだとわかってからでも、すぐには発売停止にもしないし、発表すらしないだろう。被害が明確になっても、結局政府だって大メーカーに有利な対応をとるに違いない。そうなってからでは、どうしようもないじゃないか。 こんな不安から「自然食」「無添加」「無農薬有機農法」といった方向に走る人も多い。「昔ながらの作り方」にこだわるあまり、駄菓子ブームも生まれている。おしゃれな駄菓子屋さんや、スーパーのなつかし駄菓子コーナーも目につく。実際には、駄菓子の方が着色料も保存料も多いのだが、「昔ながらだから安全」と勘違いして買っている人も多いようだ。 ひと昔前とは、価値観がまったく逆転している。零細企業で作っている駄菓子は不衛生だからダメ、駄菓子屋の水飴や、お祭りの綿菓子は不潔だから、と買ってもらえない子供が多かったのだ。 世紀末の日本ではこれが逆転した。とにかく大メーカーが出している商品は、利益優先、添加物がいっぱいで、ダメだ、と決めつける。メーカーに勤めている人は、自社商品を食べない、使わないとかいう都市伝説にも事欠かない。 大メーカーに勤めている大勢の人間も、一人一人は普通のサラリーマンであり、一人の消費者である。しかし、「大メーカーというシステムが、人間を悪魔に変える」というおびえが、奥底に根強くはびこっているのだ。 ロストフューチャーの理想社会では、常に巨大なシステムが人々を支配していた。食事は世界中に張り巡らされた輸送パイプによって配達される。乗り物は、中央コンピュータで制御される自動運転システムによって運営される。人間が構築する巨大なシステムに対する全幅の信頼感が、こんな理想社会像を生んだのだ。 今、我々の住む世界では、巨大システムは、常に反感と不信感を生み出す。我々は未来社会として思い描かれていた高度な科学技術を手に入れながら、それを使いこなすことも、信頼することもできずにいるのだ。 |