毎日新聞『電脳文化的今日』第一回〜第十回
ン1996-1997.Toshio OKADA all right reserved.
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#1

   「コンピュータ」だの「デジタル」だのといったカタカナを見ただけで逃げ出したくなる人も多いだろう。このコラムは、そういう人のためのものだ。
 だいたい、パソコンなんて買うだけでも面倒だ。電気屋やコンピュータ専門店に行っても、店員の目は厳しい。「いや、ちょっと勉強したいと思って」なんてモゴモゴ言っても納得してくれない。「ワープロですか?」「通信にお使いなら」「図版のレタッチも考えてますか?」とか、怒涛の説明責めにあう。これが洗濯機や冷蔵庫なら、せいぜい「ご家族は何人ですか?」でOKだ。
 何で店員がこんなに質問してくるのか、といえばパソコンは、何でもできるというのがウリだからだ。が実はこれがクセモノ。何でもできるというのは、結局何でも中途半端にしかできない、という意味。
 文章を書くには、パソコンよりワープロの方がいい。ゲームもゲーム専用機の方がソフトも多い。計算なら関数電卓で充分だ。パソコン通信だって、今はインターネット接続まで出来る専用機が安く売り出されている。
 このように本当に「必要」で「役に立つもの」は、必ず専用機が売り出される。専用機はパソコンより使いやすくておまけに安い。
 ではパソコンの存在意義とは何か?それは「中途半端な機能に対する夢」だ。
 今はこれだけの機能しかない、しかし来年には次のバージョンが出て遥かに使いやすくなっているだろう。
 こんな昔の少年誌グラビアの「君の未来」みたいな夢がパソコンを支えている。だからパソコンを買った人達は、永遠にパソコン誌を買い続けるのだ。そこには「来月、こうなる」「来年、こうなる」といった夢とロマンが書き立てられている。
 愚か、という人もいるかも知れない。しかしその「人間のような中途半端さ」が、人の心を惹きつけてやまないのだ。




#2

 今回は「インターネット=ブランド説」だ。
 バブル経済の時期。一気に景気の良くなった日本人は、ブランドものを買いあさった。そこへ、ブランドのニセモノが出回りだす。コピー商品の質はどんどんあがり、ついにはホンモノの工場から横流しされたニセモノ、というホンモノだかニセモノだかわからないものも出てくる。ブランド側は「ホンモノは商品タグの位置が微妙に違います」なんて説明する。もはや「質がいいからブランドになった」なんて当初の伝説はどこかへいってしまった。だから今、ブランドものを嬉しそうに持ち歩いている奴は、「私は金持ちです」と、天下に公言したい輩ばかりなのだ。
 さて、TBSの『ニュース23』ではインターネットで視聴者の意見を募集している。番組の内容もホームページで公開している。『ニュース23』だけではなく、大多数のマスコミが今や、自前のホームページを開設して「世界に情報発信!」なんて言っている。
 なぜインターネットなのか?海外でインターネットの評価が高いのは、それが誰でも使えて、安価だからだ。しかし現在の日本では高価なマシンと専門知識を必要としている。だから今、インターネットに接続している圧倒的多数の日本人とは大学院生・理系研究者・コンピューター、マスコミ関係者だ。「視聴者の皆様の意見」が訊きたいなら、普通のパソコン通信ネット上で募集すべきだろう。その方がずっと安価で簡単だから接続人口も多い。なんでわざわざ割高のインターネットで情報を公開し、意見を募集するのか?
 きっと番組スタッフは「インターネットしているオレ達ってカッコイイ!」と思っているのだろう。そんな番組の中では相変わらず有識者が「ブランドものをありがたがる日本人の愚かさ」を語っている。ふん。
 とまあ、人様を偉そうに批判する私ももちろん、自分のホームページをオープンしている。だって流行ってるんだもの。




#3

 あまりだれも指摘しないようなので、言っておく。日本のCD−ROMソフトの価格は高すぎる。例えば、いろんな出版社から出ている辞書もののCD−ROM。これが一万五千円ぐらいする。百科事典は八万円ぐらい。これも本で買ったら十万円のものだ。なぜ、こんなに高いのか。
 本来CD−ROMというのは、安くてコンパクトなのにいっぱいデータが入る、というのがウリだ。実際、原価となるプレス代は一枚百五十円くらい、アメリカなら六十円。印刷に比べて激安なのだ。その一枚に単行本十冊分がまるまる入る。「家もせまいから、小さい安ものでいいや」という時に買うべきなのがCD−ROMなのだ。単行本に対する文庫本みたいなものである。
 ずいぶん昔、ナイロンのストッキングが発売された当初、絹のストッキングより高かった時があった。破れにくく高級だ、というウリ文句で、バカ高い値段が付いていた。今のCD−ROMのバカ高さはそれに似ている。
 もちろんメーカーにはいろいろ言い訳がある。「値段はソフト代だ。例えば3Dソフトや翻訳ソフトは十万も二十万もするじゃないか」とか言う。が、そういうソフトは、コンピュータ用にゼロから開発されたものだ。
 しかし辞書や百科事典は全く条件が違う。もともと本として出版して、原価を回収してしまったものだ。それなのに、この値段。「デジタルだから高くて当たり前」とでも勘違いしているのだろうか。
 僕の考えるデジタルの本質は「安かろう、悪かろう」だ。手塚治虫全集を本で買って棚に横一列に並べたら七メートル近く必要だ。それがCD−ROMなら十枚で収まる。本のように高級感もないし扱いも面倒くさいけど、これなら場所もとらずに安い。それがデジタルの目的なのだ。
 この問題、出版社はどう考えているのか。
「勘違い」でつっきれるとは思えないのだが。




#4

 先日、インターネットのホームページで、自分の著作物を発売と同時に全部公開した。ここに来れば僕の本が丸ごと、タダで読める。発売と同時、というのは世界でも初の試みだろう。興味ある人は以下へ。(http://NetCity.or.jp/OTAKU/okada/)
 これを決行するにあたって、まわりから色々言われた。「売り上げが減りますよ」、「書店を敵に回しますよ」。もちろん、出版元の編集さんは一番心配した。でも、僕は「大丈夫!」と胸を張った。「初の試みですから、何しろ目立ちます。宣伝効果バッチリ!」編集さんも僕の勢いに飲まれて承知してくれた。
 書店は限界に来ている。セブンイレブンチェーンは紀伊国屋を抜いて、書籍売り上げ日本一の座に輝いた。今、日本で最大の書店とはコンビニなのだ。そしてそのコンビニが置く書籍とは、売れる雑誌やコミック、文庫本ばかりだ。あまり売れない「単行本」は相変わらず書店に押しつけられている。その単行本も、日本では毎日、新刊が百冊以上も出ているのだ。これらをすべて揃えろ、と書店に要求するのはムチャというもんだ。
 売り上げはコンビニに奪われ、この国の教養の責任だけを一方的に押しつけられている書店。そんな現状を変えうる力をインターネットは持っているのではないか。
 インターネット上での著作の公開、ということは書店に負担をかけることなく「立ち読み」を可能にする。僕の周囲でも「オレも公開しよう」という作家が増えてきた。これに続く作家、出版社も多いだろう。
 もちろんこの「ネット立ち読み」には、あの新刊書のみが持つ香りや手触りはない。しかしそれは構わないのではないか?電子メディアは、本来「安かろう、悪かろう」が鉄則だと僕は確信している。インターネットで立ち読みし、気に入った本だけを書店に注文する。本を本の形で読むことが贅沢な時代がもうそこまでやってきているのだ。




#5

 ネット上の著作権に関して、法律は整っていない。ついこの間まで、著作権に関しては無法地帯だった。お気に入りのCDジャケットやアニメの絵をそのまま載せる。そんな自由さがインターネットの魅力でもあった。
 しかし最近、そういったページはなくなりつつある。『インターネット著作権自警団』のためだ。別にそういった名称の組織があるのではなく、ネット内に自発的に出来たボランティア集団である。「管理者のいないインターネットだからこそ、自堕落になってはいけない」。確かに正論だ。
 この自警団は、無許可でCDやアニメキャラ等をホームページに載せている輩を見つけると、版権元に報告したり「プロバイダ」と呼ばれる下位ネット管理者に通告したりする。これまでは「これも人気のバロメーター」とお目こぼしを決めていた版権元も、立場上抗議せざるをえないし、止めさせなければメンツが立たない。「なんだったら出るところに出て」と話は大きくなる。実際に裁判になった例はまだ一件もないが、いきなり言われた一般人は震え上がってしまう。
 そんなわけで、日本のホームページから音楽アーティストや、アニメやマンガ、特撮の絵が見る間に無くなってしまった。
 今月のVIEWSで立花隆が嘆いている。「海外ではゴジラのサイトがいっぱいあるのに、日本にはなぜ一つもないのか」と。答は簡単。ゴジラの写真なんか使ったら、自警団に見つかってしまうからだ。これでは、どこがみんなの為の開かれたインターネットなのかわからない。
 住民が、権利を主張しすぎては、お祭りもできなくなる。私道だから御輿は通れないとか、騒音を出すなとか。そんなことを言い出すと、その町の魅力はなくなり、結果的に地価も下がってしまう。デジタルネットワーク社会に突入する前に、我々はもう一度、「著作権の意味」を問い直さなければならない。




#6

 任天堂の新ゲーム機と新マリオにハマっている。これが凄い。ある意味、今までゲームをやってきた人達が望んでいた理想のゲーム、と言っても言い過ぎではないだろう。しかし、この到達レベルを手放しで喜んでばかりもいられない。マリオに限らず、最近のゲームは出来がいいのだが、「制作費の高騰」が問題になっているのも現実だ。この状況は往年のハリウッドによく似ている
 1940年〜50年代は、「映画」と言えばハリウッド製の大型映画を指した。が映画が豪華で華やかになればなるほど、制作サイドは苦しくなった。スターのギャラは高騰、世界中でロケ、セットは限りなくでかくなる。テクニカラーだ、シネラマだ、と各社の競争がデッドヒートして、制作費はうなぎのぼり。莫大な制作費を取り返しきれなくなって、映画製作会社は次々と倒産した。
 コンピュータゲームの世界も、今や大作主義が横行している。昔は簡単なゲームも多く、2〜3人の若い才能が集まれば作れてしまった。6畳一間に5人が泊まり込んで1ヶ月で37本のゲームを作った、という伝説じみた実話もある。こんな玉石混合の中から大ヒット作品が登場したのだ。
 しかし、今やゲームは何年もかけて作るものだ。「玉」のみで「石」は許されないのだから、制作費は高くなって当然である。それを取り戻す為に宣伝に金をかける。こうなるとかつてのハリウッドと同じコースだ。ヒットすればいいが、外れたら大赤字。しかし自社だけ大作主義をやめる、なんてことは絶対に出来ない。宣伝に影響するし、今までに雇いいれたスタッフの維持という問題もある。その結果、現在のゲーム界ではヒット数が見込める安全パイ的な企画ばかりが横行している。しかしこの大作主義がかつてのハリウッドを没落させたのだ。ゲーム業界に出資する人達も、安全を求めすぎると業界の寿命を縮めることになりかねないぞ。冒険してくれ。




#7

 パソコン通信で知り合った二人が結婚にゴールインする、というのはよく聞く話だ。そしてこの世界にも、もてるタイプ、もてないタイプが存在する。それは実生活の世界でのハンサムや美人とは、やや異なっている。ここではパソコン通信でもてるタイプを、ネットハンサム・ネット美人と呼ぼう。
 パソコン通信で一番盛んなのは、電子会議室だ。会議室はそれぞれ、話題によって分かれている。同じジャンルに興味のある人が集まって、そのジャンルについて誰でも何でも書き込める。しかも書かれた順にそのまま表示され、そこに来た全員が読めるようなシステムになっている。まぁ、喫茶店の置きノートみたいなのを考えて貰えればいい。
 そして喫茶店の置きノートと同じく、ただ読んでいるだけの人達は、書き込みをしている人数より遥かに多い。書き込みをする人、というのはこんな百人に一人の自信のある人や、言いたがりなのだ。
 読んでいる人達は、そんな膨大な書き込みの中から、自分の心を代弁してくれる人、自分のもやもやした気持ちを自分以上に上手くまとめてスカッとさせてくれる人を見つけて喜ぶ。自分の意見を、他人が書いたモノの中から選ぶところが、実に現代的である。
 ネットハンサム・ネット美人とは、そんな中で「個性ある価値観」を打ち出し、明解な論理性と表現力でモテモテになった人達のことだ。人間のすることだから、その中で憧れが生まれ、恋へと発展するのは当然である。
 一時期「パソコン通信で知り合って結婚なんておたく的で不健全」と、取りざたされたことがあった。しかし双方の書き込みで、互いの価値観や感性は充分知り合っている。これを不健全というなら、見合結婚は家柄や格式中心の封建的遺物だし、恋愛結婚なんて単に遊び相手同士がくっついただけ、という批判に反論できない。顔も見えない恋、とはなんともロマンティックではないか。




#8

 先日、米国シリコンバレーで行われた日本のアニメ大会、「アニメエキスポ」に行ってきた。ついでにSFX映画「インディペンデンス・ディ」を見る。イベントで会う人毎に「もう見たか?早く見ろ!」と勧められたからだ。
 今や、CGを駆使することが当たり前になったハリウッド映画は、シリウッド映画と呼ばれている。シリコンバレー+ハリウッドの造語だ。そんなシリウッド映画を本場シリコンバレーの映画館で見るのも趣があって良かろうと考えたからだ。映画館も当然、シリコンバレーのど真ん中。真正面にシリコングラフィックスの本社が見える。観客もいわゆるソレっぽい奴等ばかりだ。
 ベルが鳴り、映画が始まる前のスライドが始まった。日本でも映画の前に、ホテル○○だの、××整形だの、貧乏くさいCMが流れる。それと同じようなのが、アメリカでもあるわけだ。アメリカの場合は、それがスライドなので、ますます貧乏くさい。
 ところが、その広告スライドには、電話番号の替わりにことごとく、インターネットのWebページ(ホームページ)のアドレスが書いてある。中には、「あなたもインターネットにWebページを持ちませんか?」という広告スライドまである。
 アメリカでインターネットは、ホントに浸透しているんだ、としみじみ思い知った。但し、そこには日本にはある「ちょっとオシャレ」なニュアンスは微塵もない。隣の男に話を聞くと、「どこも皆、Webページを作るけど誰も見てくれない。仕方がないので、雑誌にCMを出したりしている」と教えてくれた。誰もが見れるということは、誰も見ないということでもあるのだ。
 デジタル技術の粋を尽くした「インディペンデンス・ディ」は凄い映画だった。確かにデジタル文化は奥深い。けれども案外と底は浅いのかも知れないぞ。




#9

 平安時代あたりに日本の妖怪噺は急激に様変わりした。山の神や河童等に変わって、お鍋の妖怪だの下駄の妖怪だのが登場するのだ。
 妖怪は人々の不安の現れである。この時代、急激に商業や流通が確立した。いままでは身近な人が作っていた道具しか身の回りになかったのに、誰がどうやって作ったかわからないものが町で売られるようになる。便利だが出所の判らない道具に対して、人々の間で理由のない不安感が生まれる。これがお鍋の妖怪の正体だ。
 マルチメディア時代と呼ばれる現在は昔以上に、便利だけれども訳のわからない新しいものが、生活の中にどんどん押し寄せてくる。
 電話が発売された当初は、電話機に荷物をくくりつけて送ろうとするおばあさんがけっこういたらしい。6才のうちの娘は、電話で話すと風邪がうつると考えている。未だにFAXは紙そのものを転送する機械だと勘違いしている人もいる。都市伝説の10や20、生まれないわけはない。
 今、デジタル関係でまことしやかに囁かれている都市伝説ナンバーワンといえば、何といっても「デジタル業界で働いている人の子供は必ず女の子」だろう。「どうやら、コンピュータから出る電磁波が、精子や卵子の形を変えるのではないか」という科学的(?)な解説まで付いている。もちろん、誰かが統計を取ったわけでもないし、電磁波の影響についてのそんな論文発表があったわけでもない。
 それでも、僕もついつい、「そう言えば、うちも女の子だなぁ」とか「あいつのところも、あいつのところも女の子だ。う〜ん」と考えてしまう。「誰か一度、有為統計を取ってキチンと調べてくれよ!」と言いたくなるのは、コンピュータという便利な魔法の小箱が、わけもなく不安だからに違いない。
 でもこの噂、妙に説得力があって否定しきれないんだよなぁ。




#10

 先日、米国ビルボード誌のビデオセールス部門で「攻殻機動隊(以下攻殻と略す)」という日本製アニメ映画が、売り上げ一位になった。坂本九の「スキヤキ」以来の快挙である。
 が、一つだけ心にひっかかることがある。日本で「攻殻」のビデオソフトを買うと9800円もするのに、アメリカではたった20ドルだという点だ。ほとんど5分の1の価格だ。「攻殻」は明らかに売れ筋だが、マニア向けの英語字幕版のアニメソフトでも30ドル程度で売っている。
 なぜ海外で買った方が安いのか?日本製のアニメ映画なのに。事情通に言わせれば、日本とアメリカとでは「値ごろ感」が違うからだと言う。日本国内のみのセールスで制作費は回収済みだ。だからアメリカでは現地の値ごろ感に合わせて売る。
 なるほどと納得させられて見渡すと、今度は、アメリカ製のコンピュータソフトが日本ではやたら高いのが気になる。アメリカで100ドル以下で販売されているソフトが日本に来ると2万円以上する。翻訳・移植経費が高いのだ、とか言っているが、それは日本のアニメを翻訳してアメリカで売るのも同様だろう。
 明らかに日本のソフトは、値段設定が高すぎる。日本製のアニメも、米国製のコンピューターソフトも、日本で買うのが一番割高なのだ。
 一時、日本車が日本国内の販売価格より、アメリカへの輸出価格の方が低くて国際間で問題になったことがある。「アメリカ市場で無理なダンピングをして、アメリカの自動車会社をつぶす気ではないか。そうではなく日本のメーカーが日本国内で法外な利益を得ているというのなら、日本の消費者が黙っているはずはない。」彼らの言い分ももっともな気もする。
 アニメやコンピュータのデジタル・ソフトにもそんな矛盾が見え始めたようだ。




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