太田出版『ジ・オウム』掲載原稿
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オタクの王様、オウム問題を語る

☆徐容疑者の愛犬は「ロデム」☆

 いきなりこんな話題で悪いんだけど、『機動戦士ガンダム・逆襲のシャア』っていうトンデモないアニメ映画、見たことある?昔、TVでやってた『機動戦士ガンダム』の続編で、アムロとシャアというライバル同士が戦う話だ。

 映画が始まって、いきなり宇宙空間の戦闘シーン。反地球組織・ネオジオン総帥のシャアは、小惑星5thルナを地球に落とそうとする。直径何キロもある隕石が地球に落ちたら大変だ。で、主人公のアムロは必死で、その落下を阻止しようとするんだ。そこでモビルスーツ(ロボット)に乗って戦う二人は、何と議論し始める。

 「アムロ!邪魔するな。地球の奴等を粛正してやるのだ!」
 ち、ちょっと待ったぁ!アニメ映画で、そりゃマズいセリフじゃないの?ところが、それに対するアムロのセリフも又、説得力がない。
「止めろ、シャア!そんなことしたら核の冬が来る!」

 そりゃ当たり前だ。シャアは「核の冬」という被害を出すことによって人類を「粛正」しようとしてるわけだ。それを止めようとするセリフが「そんなことをすると核の冬が来る」って言っても無意味。自殺を思いとどまらせるのに「そんなことしたら死ぬぞ」って説得しているようなもんだよね。

 で、なんでこんな話を最初にしたのかというと、大量無差別殺人を実行するシャアに対して、主人公アムロの言葉は何でこんなに説得力ないんだろう、と思ったからだ。
 もう少し、この映画の話を続けよう。

 映画のクライマックスでシャアは、核エネルギー内蔵の小惑星アクシズを地球に落とそうとする。ワンパターンな奴だ。かっこいい新型のガンダムに乗ったアムロは、それを止めるために必死で戦う。ここで又、二人はモビルスーツで戦いながら議論だ。

 「地球の奴等はいつまでたってもダメだ。だから粛正する!」
 「そんなことをする権利は誰にもない!」
 「アムロ、貴様はいつも邪魔をする。貴様がいなければララァだって・・」
 「ララァ?まだそんなことを!」

 ララァっていうのは前の戦いで死んじゃった女の子の名前で、この後は二人の『大宇宙をバックにロボットで殴り合いながらの痴話喧嘩』というトンデモない話が続く。まあこの辺はどうでもいいけど、やっぱり僕が気になったのはアムロの反論の説得力のなさだ。

 アムロは「そんなことしちゃいけない」とは言うんだけども、決してシャアの「地球人類がダメだ」には反論していない。反論できないどころか、共感しているようにすら見えるんだ。つまり「大量無差別殺人」という方法には反対するけど、じゃあ「このままじゃダメな人類」という問題には目をつぶっている。
 アムロの行動は只のアンチテーゼでしかない。「その方法はダメだ」というだけで「だからこうしよう」というビジョンを出していない、情けない主人公なのだ。
 もう、何が言いたいか判るよね?「あの事件」と、その報道や言論を眺めながら僕はこんな事を考えていた。
 まとまった話にはならないけど、まあ聞いてくれ。

☆尊師、発明の「ファイナル・クリーナー」☆

 僕が生まれて育った大阪は、奇妙な場所だ。もし君が、天王寺あたりで鞄をひったくられたとしよう。そいつはあっと言う間に人混みに隠れて逃げてしまう。君はその経験を大阪生まれの友人に語る。
 「いやあ、スゴい早さで逃げられて・・」すると大阪生まれの友人はきっとこう言うだろう。「そら、ヒッタクリの人らも商売やから、早いわなぁ」

 大阪人はおおむね、「それが自分の商売かどうか」に敏感だ。関係ないことには「そんなんワシの仕事ちゃう」といって関わらない。倫理的・道徳的問題は「そんなこと考えて何ボの得になるねん」という大阪リアリズムの前に無力だ。
 そんな大阪人の血は、僕にしっかりと受け継がれている。何が自分に関係があり、何か関係がないかは敏感な方だ。
 しかし、そんな大阪人でもタイガースに関しては必死でスポーツ新聞を読み、勝った負けた、また負けたで涙を流す。ところが僕は、野球に関心がなかった。周りの大人も子供もタイガースに一喜一憂しているのを「アホとちゃうか・・」とすましているイヤなガキだったわけだ。

 ところが仕事の都合で東京に来て驚いた。この街は大阪人の僕にとっての「アホ」ばっかしだったのだ。とにかくあらゆる人が、国際紛争とか金融とか政治改革とか、「オッサン、それあんたに関係ないやろ」と言いたくなってしまう人まで語る語る。
 確かにマスコミの人は、いかにも「これは大切な問題ですよ〜。みんなで考えなくっちゃいけませんよ〜」と宣伝するだろう。だってそれが彼らの商売なんだから。誰もが、政治や社会問題に関して考えなくなったら、そりゃ彼らの商売は上がったりだ。でも、だからといって僕らがいちいち他人の商売の都合に合わせなくちゃいけないと言う義理はない。マスコミが商売だからって、僕らが情報消費者にならなくちゃいけない理由なんてどこにもない。

 大学で講義をしているとき、よく学生に「毎日、新聞なんか読んでたらバカになるぞ」という話をする。するとこう反問される。「近頃の学生は新聞なんか読まずに、社会問題なんか考えないからバカだって言われますけど・・」
 おお、なんて「いかにも新聞なんかに載ってそうな意見」なんだ!サラ金のコマーシャルは「どんどん借りて消費生活」に決まってる。新聞は「新聞を読め」というに決まってるじゃないか。みんな、消費者根性が染み付いてるなあ。

 恐妻家ばかりが愚痴をこぼしている酒場で、一人の男が叫び出す。
 「なんて情けない野郎どもばかりだ!大事なことは何もかも全部、かあちゃんに決められてよ!」
 一人の男が悔しげに「じゃあ、おめえん家はどうなんだよ」と訊くと、
 「俺のとこは、大事なことは全部俺が決める。環境問題、資本主義の行方、宗教問題なんでもだ。カカアなんかに口ははさませねぇ」
 「じゃあ、嫁さんはなんにも言わないのか?」
 「ウチのカカアはもっとつまんねぇことを決めている。息子の大学はどこにするかとか、俺の次の転職先とか」

☆「サティアンは『銀河帝国の興亡』のファウンデーションです」☆

 このあいだ、高名な言論人の方と話をしたら「パラメーター」という用語が通じなくて驚いた。「それってバロメーターってこと?」と訊かれて、初めて「ああ、パラメーターという考え方そのものが、ゲーム世代の感覚なんだよなぁ」と思い知らされたわけだ。

 パラメーターというのはRPGゲームなんかで出てくる用語だ。例えばプレイヤーが操るキャラクターなんかを『生命力50、魔法力35、攻撃力40』というパラメーターで表現したりする。これを見てプレイヤーは「うーん、生命力に比べてちょっと攻撃力が弱いなぁ」なんて考えたりする。受験生が「俺、世界史が弱いなぁ」と考えるのと同じだ。

 この「パラメーター」という考え方をベースにオウムを考えてみる。
 何かを評価するときに一元的評価で切り捨てない。「どんな子供にも評価できる価値がある」と教えられて僕たちは育ったからだ。だから世間の「オウムはとにかく悪い。なぜ悪いかというと、悪いことをするのがオウムだからだ(同義反復)」という論調を訊いてもやっぱり納得できない。逆に「そんなに主張するのって、何が不安だから?」と疑ってしまう。
 だから自分で納得できるように、オウムをパラメーター分解してみよう。

 さて、ぼくはオウムの人たちや、その「やったと言われていること」を次の四つのパラメーターに分解した。
(1)志  ・・・80点
(2)実行力・・ 100点
(3)センス・・・ 0点
(4)頭  ・・・ 0点
 これは僕が他人や団体を評価するときに採用している基準だ。一つづつ、説明してみよう。

☆じゃあまず、オウムを誉める☆

 『志』・・「志(ココロザシ)」とは、この世の中を何とかしよう、と言う気合いの大きさのことだ。僕はこう言う奴に弱い。多少、人間的に問題があっても「みんなの役に立とう」という気持ちは評価する。
 さて、無差別殺人で拉致監禁、と言われているオウムだが、僕はその「志」に80点をつける。この場合、手段・目的なんかは別のパラメーターで評価するからだ。
 オウムの人たちは、僕らがついつい目を背けがちな環境問題、資源問題、軍備、国家論、そして「最終的に人はいかにあるべきか」、といった難問に挑戦し解決しようとしていた。それは彼らがやったと言われていることとは別に評価してしまおう。

 だいたい今時、本気で「世界」や「未来」のことを考えてたんだ。他の人だって考えているじゃないかと思うかもしれない。けれどそれは違う。「熱帯雨林が砂漠化する」って言ったって「核戦争が起きる可能性が高い」って言ったって、結局「これから自分たちの問題として真剣に考えていかなきゃならない問題ですね」でみんな終わってしまう。「考えてどうするのか」の先がない。せいぜい「じゃあ割り箸は使わないで」と「自分ができる範囲のこと」ですませてしまう。本気で「自分が何とかしよう」とは考えない。
 でもオウムは違った。本当にその先を考えてしまう。最終戦争が止められないなら、その後の世界を築こうと考えたんだ。世界を救う気のない人には絶対世界は救えない。実は「志」ってすごく大切なのだ。

 『実行力』・・これに関しちゃオウムは文句なく100点だ。僕は滅多なことでは他人に「負けた」と思わないイヤな性格だけど、実行力ではオウムに負けたと認める。いや、殆どの日本人が完敗だろう。
 まず「世界を、日本をこうしよう」というビジョンがある。次にそのビジョンを元に、選挙にたくさんの信者を出馬させたり、毒ガス工場を作ったり、ロシアに武器を買い付けに行ったり、どんどんやってしまったこの実行力。
 そんなことをやっている人なら、いくらでもいると考えるかもしれない。でも、その人たちは仕事でやっている。仕事でやっている人はたいてい長い年月をかけて、上司からノウハウを学び、コネを引き継ぐ。その中でも優秀な人が、自分なりに改良したり拡張したりするわけだ。
 自分で事業を興す人も、それまでのノウハウやコネを使う。また、同業者のやり方を勉強したり盗んだりもする。
 その点、オウムには上司もノウハウも同業者もなかった。それはものすごく大変なのだ。

 たとえばあなたがある日、麻原ショーコーから数億円の金と理系の優秀な学生数名を預けられ「サリン工場をつくれ!」と言われて、できるだろうか。もちろんこの場合、倫理的問題を抜きにして、だ。たいていの人は途方に暮れ、まず何をしたらよいか、誰かに聞きたくなると思う。しかし、そんなアブナイことは誰にも聞けない。

 誰にも聞く人のないオウムは、それでもやってしまったのだ。武器の買い付けにしてもそうだ。軍隊の武器買い付け係の人が予算に沿って定期的に武器を買い足すのとは訳が違う。何のルールもルーチンもないところからコネクションを作り、法律の目を盗んでやり遂げたのだ。僕自身、世界で全く前例のない事業を興した経験があるので、これがいかに大変なことか考えただけでも寒気がする。公安当局がビビルのも当然だ。これまでの過激派とは「実行力」に圧倒的な差があるのだ。

☆オウムは何がダメだったのか?☆

 これに対し、オウムの『頭』と『センス』は0点だ。まったく情けなくなるほどの点数だなあ。

 頭というのは方法、つまり段取りのことだ。
 いったいどんな見通しだったのか?
 まずあの方法で順調に進めば本当に世界を変えられる予定だったのか。あんなに強引な方法で証拠を残しまくって何を考えていたのか。

 とにかくあの教祖のビジョンは単なる叩き案にさえもならないことが判らないか?
 超能力があるのは、認めてもいい。だからといって尊師の言うこと、そのまま信じるか?スプーン曲げが出来る奴にもバカはいる。本物の超能力者だからと言ってペテン師じゃない理由にはならない。

 ミニ国家を作って日本から独立する、というコンセプトはいいとしよう。独立を承認させるために、抑止力としての「貧者の核兵器」BC兵器。国連の常任理事国クラスに独立を承認させるためにロシアに近づく。抑止力兵器だけでは前線を維持できないので通常兵器の買い付け。
 でもさぁ、この国の主要産業って何?輸出品が「宗教」で、輸入品が「お布施」だったら、これは国際的に嫌われる。よその国の寄生虫だもの。独立、じゃないのなら日本国の乗っ取りか?自分たちの宗教を中心にして日本国民がオウムの信者になると考えた?
 頭が悪いというのは、自分たちの主張や行動に客観的になれないこと、相対的に見れないことだ。

 センスというのは、何がみんなを喜ばせるか、という感性のこと。これが良くなければ他の人が着いて来てくれない。ところがこれが「最悪」なんだ。
 あんなヒゲダルマが頂点で、本当にみんなは救われると思ったのか?どんなに体にも良く、環境にも優しいからと言って、毎日あんな粗食に耐え、お祈り体操ばかりの生活が、本当にみんなを幸せにできると考えたのか?

 あのネーミング等のセンスはなんだ?「ファイナルクリーナー」だと?よく最後に「D」をつけるのをガマンしたな。尊師本人が作って歌ってる「アニソン・特ソンもどき」もトンデモない。おまけに音痴だ。尊師は「ガンバロン」辺りからカラオケ修行をし直せ。
 修行場が汚い。あの汚さには見覚えがあるぞ。オタクの部屋とかサークルの溜まり場だ。
 最終解脱してベンツ、ビフテキ、メロンか?何か恥ずかしくないか?
 せっかく金があるんだから、使うなとは言わない。もっとセンスのいい使い方をしてくれ。自衛用だったらロールスロイスじゃなくて対テロ装備のリムジンを買え。いいものが喰いたいなら、せめて海原雄山ぐらいのことをしてくれよ。

☆プラズマ兵器?あすかあきお、読んだな☆

 こんな本を読む「あなた」という人は「オウム事件に関しての新しい情報が知りたい」、というより「オウム事件に関して、どう考えたらいいのか考えちゃってる」という人たちだと思う。
 興味の対象はどちらかというと「オウム事件」そのものより「オウム事件で起こった大論争」。しかしどんな論争であろうとも、中心となっている対立点、つまり「両者の利害」がはっきりしないと何を話しているのかも解らなくなってしまう。で、意外なことに「右翼と左翼の対立」という視点で見ると、この論争、いきなり解りやすくなる。
 右翼と左翼の対立?社会主義が破れ去った現代で今更?
 そう、「オウム論争」の本質は『平成右翼』と『平成左翼』の対立だ。

 まず自分の勉強不足から告白しよう。いやあ、勉強不足だった。僕は「いわゆる右翼と左翼」に関して、全く思い違いをしていた。
 僕のやっている「マルチメディアゼミ」は、ヘンな講義、として東大生に知られている。昨年は声優の女の子をアシスタントにしたバラエティ番組形式だった。今年は毎回、各分野のゲストを迎えて対談風に進行している。
 この間、ゲストで一水会の鈴木邦男氏に来ていただいた時のことだ。当日の学生たちのレポートには「右翼の人、と聞いていたから怒鳴りまくりの軍歌かけまくり、と思っていたのに論理的な人だった」というものが多く、鈴木氏も苦笑していた。

 このゼミで私は鈴木氏に「ところで右翼とは何ですか?」と聞いた。当然、「民族主義とは〜」とか「天皇機関説〜」とか、そんな答えを期待していたわけだ。ところが鈴木氏の答えは、全く意表を突いたものだった。

 「左翼に反対するのが右翼です」
 「そ、それだけですか?」
 「それだけです」

 つまりこういうことだ。日本とアメリカは1960年に「日米安全保障条約」という奴にサインした。もし日本に敵が攻めてきてもアメリカ軍が守ってくれる、という条約で、もちろん敵というのはソ連のことだ。何でソ連が敵か、というとソ連は「共産主義国家」だからだ。
 で、左翼というのは「共産主義は素晴らしくてソ連や中国は良い国だから、日米安保条約なんかケシカラン」という意見を言う人。右翼というのは「アンチ左翼」だから、当然主張はこうなる。
 「アメリカは日本を占領したけど天皇制は残してくれた。共産主義者は天皇制反対なんだから許せん。だから共産主義者の言うことには全部反対するぞ。当然、安保には、ええと、賛成だ」

 安保以前には色んな思想が日本にはあった。「天皇制反対の民族主義者」や「反米国粋主義者」や「天皇制賛成の共産主義者」なんかもあったわけだ。当然、言論界はグチャグチャの泥沼。おまけに日本全体が政治運動で盛り上がっていたもんだから、一般大衆にも判りやすいスローガンなんかが不可欠だった。
 ところが大衆というのは判りやすいのを好む、つまりバカだから「思想的対立なんかどうでもいい。俺たち、何に反対すればいいの?」というノリでしかない。そこに登場した『安保』という命題を前にして、それまでグチャグチャだった日本の思想・言論界はいきなり二分された。

@「安保に反対が左翼」
 左翼は右翼の言うことに全部反対。右翼に反対する奴は味方。
A「安保に賛成が右翼」
 右翼は左翼の言うことに全部反対。左翼に反対する奴は味方。

 すごく乱暴にまとめたが、これがついこの間までの日本の思想・言論界のフィールド・マップ。もちろん左翼同士・右翼同士の対立や、その他無限に混み合った『ダンジョン・マップ』もあるわけだ。

 この対立の上でいろんな問題は討議される。例えば右翼の立場でベトナム戦争を考えてみよう。「ベトナム戦争賛成・反対」で右翼の意見に統一が出るはずがない。強国の非道に対して一矢報いんとする覚悟は立派、という右翼がいてもいいわけだ。
 しかしベトナム戦争に反対してしまったら我々共通の敵、左翼どもを利することになる。だから米軍基地デモに繰り出す左翼たちを粉砕する、という行動が導かれる。けっして米軍を支援しているわけではない。左翼に反対しているのだ。

 左翼の人たちも「戦争反対」という訳ではない。共産国家に対する暴行、だからベトナム戦争反対なのだ。だから「ベトナムがソ連の後押しでカンボジアへ攻め込んだりする」なんていう事態に関しては発言できない。左翼とは思想ではなく、あくまで「右翼から共産思想を守る」人たちのことだ。
 で、こんな対立はいずれ形骸化してしまうのが宿命。いつの間にか「右翼・左翼」という呼称もイメージが悪くなって「保守・革新」という呼び方になった。対立の根っこも「共産主義思想」というのがぼやけてきてしまった。

 「なんとなく国際義務優先で言論の自由反対、が保守派」
 「なんとなく人権優先で権力批判、が革新派」

 このあたりをホームポジションにしているが、もちろん「ファシスト保守派の批判をするのが革新」「平和ボケ革新派の悪口を言うのが保守」という悪口合戦がメインなのは同じだ。

☆補助線でラクラク・クリア!☆

 そこへ起こったのが、いわゆる「オウム-サリン事件」と「オウム論争」だ。今までのような、こんなぼんやりとした対立では一般大衆様は納得しない。混乱、異論の対立が、安保問題によって「右翼・左翼」の二つに分かれたのと全く同じ状況がやってきたのだ。
 「オウム論争」によって今、『平成左翼』と『平成右翼』というグループができつつある。日米安保問題の時と同じく、一つの問題に対する態度で言論人は今、二分されつつある。『平成左翼』と『平成右翼』の簡単な見分け方・代表的なキャラクターを紹介しよう。

 小林よしのり、江川紹子、朝生のレギュラーといった、「島田裕巳を非難している連中」が『平成右翼』。
 彼らはあくまで「人間のあるべき姿」や「国際国家の現実」に立脚している。「人間には本質的に正しい生き方がある。社会に害を成さない言論の自由は認める」が主張の特徴。

 鈴木邦男、宅八郎、パソコン通信の主流派といった、「国家やマスコミを信用していない連中」が『平成左翼』。
 彼らは「人間のあるべき姿なんか無い」「オウム事件程度は情報社会のリスクの一つにすぎない」と考えている(と思う)。「思想・主張は自由。行動のみを法律の範囲で取り締まれ」が主張の特徴だ。

 僕も「オウム論争」に関しては混乱していた。しかし、難解に見える幾何の問題も補助線一本で、いきなり楽勝問題に変わる。『平成左翼』と『平成右翼』という補助線を引いた瞬間、オウム論争は「誰と誰が、何についてケンカしているのか?」が解ってしまった。
 オウムに対する国家・警察のやり方に「いいぞ頑張れ<生ぬるいぞ<死刑だ」という右翼と、「ちょっと待った<不当検挙だ<権力のマインドコントロール」という左翼の対立だったのだ。そっか、右翼と左翼なんだから悪口合戦も当然か。
 よく解って良かったね。




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