96夏コミ同人誌掲載原稿
ン1996-1997.Toshio OKADA all right reserved.
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アイドル首すげ替えヌードは正しい!
 「林寛子のチチが見たい」
 これは昭和30年代に生を受けた全てのオタクの悲願である。もちろんそれは現在の「ワイドショー・コメンテーター」としての林寛子ではなく、『変身忍者嵐』の、『がんばれ レッド・ビッキーズ』の、『素敵なラブリー・ボーイ』の林寛子でなくてはいけない。
 この「林寛子」とは、特定の芸能人を指す単語ではない。ある者には、それは裕木奈江であり、森高千里であり、水野真紀であるかも知れない。しかしそれらは全て「なんで脱いでくれへんねん!」という意味に於いて等しく「イデアとしての林寛子」なのだ。

 「アイドル首すげ替えヌード」とは、現代の科学の粋を凝らして生まれた革命的技術であると共に、正しく革命的思想でもある。
「脱ぐべきアイドルを、消費者自らが脱がす」
 おお、なんと威厳に満ちた言葉であろうか。アイドル首すげ替えヌードは正しい!のである。高岡早紀のように脱ぐ時機を逸してから脱がれても嬉しいような残念なような気持ちにさせられるだけなのだから。

 一般にオタクたちの間で「林寛子」が有名になったのは、1970年代後半、マンガ家・吾妻ひでお氏が作品内で「林寛子への偏愛」をカミングアウトしてからである。吾妻ひでお氏といえば元祖ロリコンマンガ家。しかし氏は同時にアグネス・チャンという「童顔巨乳アイドル」のファンでもあった。現在の日本オタク業界に蔓延する「童顔巨乳指向」は、氏のマンガに始まるものである。
 80年代初頭より、この「童顔巨乳指向」は瞬く間に日本全土に広まり、宮崎美子、向井亜紀、烏丸せつこなど「量産型童顔巨乳」で世間は溢れかえった。もちろん私自身の「林寛子への偏愛」もこの、童顔巨乳指向によって動機付けられているワケだ。

 「林寛子が巨乳?」と訝る向きも多かろう。確かに彼女の乳サイズ(カップ数)は、さほど大きいとは思えない。しかし数値として出ないボリューム、という要素を見逃してはいけない。
 スリム感のある肢体とロングヘア・お嬢様風顔立ち。美人と言えるかどうかは危ういが超コケティッシュな印象は、オタクたちをメロメロにした。そのアイドルとしての絶頂期は、浅野ゆう子が「恋はドンドン!」でデビューした頃と時期を同じくし、当時のTV界は「健康なお色気」というテーゼで林寛子のTシャツ姿をリピドー溢れかえる青少年の前に提示した。
 これでは悩殺されて当然である。ああ、辛抱たまらん。
 さて、「数値として表れないボリューム」は、このTシャツ姿やワンピース姿の時に、凶暴なまでの威力を発揮した。当時、林寛子をラジオ番組に呼んだ笑福亭鶴光師匠は「林寛子はええチチしてるね〜、可愛いね〜」と他の番組でも絶賛。それに魂惹かれてか関西お笑い系のタレントが次々と自らの番組に彼女をブッキングしたのである。池田の殿様、との異名を取る桂三枝師匠も、ことのほかご執心だったようだ。もし可能であったなら、「法的手段に訴えて」でも彼女をカイたに違いない。

 この「コンセプトとしての林寛子ー童顔で数値に出ない巨乳」という路線を正確に踏襲しているのが永作博美であろう。私はNHK「BSマンガ特番」で今月末に彼女と逢う予定であるが、そのことを必ず確認(服の上から胸をのぞき込むとか)して帰ることをここに誓う。永作の下腹が出ているところも、林寛子を彷彿とさせる。きっと後3〜4年でブクブク太るに違いない。二代目林寛子を襲名すべきであろう。
 「童顔で巨乳」なら高橋由美子はどうだ、という向きもあろうが、いかんせん彼女はあまりにも正統派のアイドルすぎる。初代(林寛子)や二代目(永作博美)の持つ「B級感」「ヨゴレ感」が出ていないのだ。

 繰り返そう。
 「アイドル首すげ替え写真」とは、一部特権階級に独占されたアイドルのチチやシリを大衆に取り戻さんという革命的行為である。アイドルの裸像が特定の個人(本人を含めて)、事務所、企業に属するという現状の誤りを正し、頼まれてもいない癖に二言目には「著作権」などと口走るオタク内裏切り者に喝を入れる行為なのである。
 立て、万国のオタクたちよ。その手にマウスを、ホワイトを、タブレット・ペンを握るのだ。いつまでも脱ぎそうで脱がない邪なアイドル戦略に異議を唱え、自らの手でチチやシリを勝ち取れ。そして勝ち取った成果物を、こっそり私に見せてくれ!

追記:この原稿は後に嫁さんに見つかり、真剣にバカにされた。とほほ。



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