日本経済新聞掲載原稿
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「モラルハザード」
 モラルハザード、という言葉をご存知だろうか。ここ1年、パソコン通信の世界を中心に使われるようになった言葉だ。ラディエーションハザードは「放射線汚染による惨事」だから、モラルハザードは「モラル低下による惨事」と言うことになる。
 たかがパソコン通信だ。他人を殺すことどころか、殴ることすら不可能である。モラルが下がって、いったい何が問題なのか。
 パソコン通信を知らない人のために簡単に説明してみる。パソコン通信の最大手Nifty-Serveには「電子会議室」というサービスがある。「フォーラム」と呼ばれるこのシステムは、ジャンル毎に分かれ、誰もが読んだり書いたり出来る。「みんなが読んだり書いたり出来る交換日記」みたいなモノだ。この1万種以上ある膨大な会議室の中から、自分の好きなジャンル、興味のあるジャンルを選ぶ。で、その会議室へ行ってその話題について読んだり書いたりするわけだ。
 さて、このフォーラムの中では言論の自由が建て前だ。しかし暗黙の了解として「発言者はそのフォーラムの価値観に関して全面的な否定はしない」、ということが守られている。あくまで「暗黙の了解」なので、それを意に介しない人が発言することもたまにある。するとどうなるか?
 会議室には、そこのメジャーな価値観に合わせた者だけが集まっている。基本的に好きなもの同志が集まっているというのが前提なので、たとえばアニメフォーラムで「アニメなんて下らない。そんなものを小さい頃から見ているからロクな大人になれないのだ」という主張はマズい。大抵そういう場合はみんなでやんわり出ていって貰うよう仕向ける。この場合では、「それでは教育フォーラムを紹介しますから、そちらでどうぞ」という具合に友好的態度を崩さない。
 ところがこれでは納得しない人もいる。そんなときにモラルハザードは起きるのだ。
「なぜ、私が出ていかなくてはならないのか」「この会議室にはカルトの匂いがする」
 発言はどんどん過激になり、喧嘩腰には喧嘩腰で返すのが人間だ。汚い言葉の応酬が続き、論争は単なる悪口合戦になってしまう。「管理者さん、この人の発言を削除して下さい」「ほーら、ここの体質が明らかになった」最後には「お前の本名と住所を突き止めたぞ。月夜ばかりじゃないことを忘れるな」というところまで行ってしまうこともある。ここまで来れば管理者の手に負えなくなって会議室閉鎖という事態になってしまう。これがモラルハザードの実態だ。価値観を共有するサークルに、たった一人共有しない人間が入っただけで、その場全体のモラルが著しく下がる。この喧嘩はパソコン通信の中を離れて、現実社会まで尾を引くことも少なくない。
 当然のことだが、あるグループが「同じ価値観の人間だけが集まって」「自分たちは何でも自由に発言できる」と思いこんでいれば、自分たちの価値観は正しいもの、と信じ込んでしまう。そこへ価値観を共有しない人物が現れ、その発言を「言論の自由」という建て前があるため制限できなければ、共有された価値観の崩壊、という彼らにとって最悪の事態が生じる。モラルハザードとは、その価値観の崩壊を防ごうと組織が起こすパニック現象なのだ。
 私たちの社会では、基本的に「言論は自由」という建て前で運営されている。誰が何を言おうと、相手に迷惑をかけなければ何を批判しても自由だ、と理屈で考えている。そこには必ずモラルハザードが発生する。
 これからのネットワーク時代、「価値観を共有するもの同士」は今より簡単に見つかるようになる。ますます人々はその中だけで判断し、行動するようになるだろう。(これは拙著『ぼくたちの洗脳社会』に書いた)
 現代社会においてモラルハザードは交通事故と同じように不可避のものだ。現在、年間平均約1万5千人の交通事故死者が出ている。だからといって私たちは「自動車による流通システム」を放棄するわけには行かない。どんなに頑張っても事故死者がゼロになるはずもないのだ。だから私たちは交通事故がいつでも起こりうるものとして行動する。エアバック付きの車を買ったり保険に入ったりするわけだ。私たちは「交通事故と共存する社会」を選んだのだから。
 これと同じく、メディア社会にもモラルハザード、というリスクは付き物だ。現実社会におけるモラルハザードはカルト教団や若者の非行行為の凶悪化、内乱といったかたちをとって吹き出してくる。オウム事件もその中の一つにすぎない。このリスクを減らすために言論の自由を制限するのは本末転倒だろう。それでは交通事故を防ぐために車の年間製造数を制限するようなものだ。
 モラルハザードは現代社会が内包する全く新しい形の危機だ。これについてはさらなるデータ、論議が必要であろう。




ベンチャー企業は有望?
 ベンチャー産業、とりわけソフト産業に対して熱い眼差しをおくる人は多い。才能ある若者達が自由に参加・活躍できる産業だと思いこんでる人もいるだろう。本当か?ではそのひとつ、コンピューターゲーム産業で確かめてみよう。
ここに、ゲームを作りたい高校生がいる。彼(又は彼女)は、幼い頃からゲームが大好きで、彼の頭の中には100万本のヒットを狙えるすばらしいゲーム・デザインの原型が入っている。プログラムも独学でしっかり勉強した。さて、彼はどうしたらいいだろう?
 まず最初に、進路指導の先生に聞いてみる。が、高校の先生は、ゲームの専門家ではないので、ゲームの専門学校を紹介する位しか手だてを持っていない。どの学校がいいのかは就職率で見分けるしかないと先生は言う。
 これがマンガ家なら、マンガ編集部への直接持ち込みという道がある。新人賞の募集も多い。が、ゲームは違う。たとえゲームを作っても、持ち込む先がない。というのも、あるゲームがおもしろいかどうかは、少なくとも一晩やってみないとはっきりしない。どこも、素人のゲームにそんな時間をかけていられない、というのが本音だ。
 持ち込みは不可能。仕方なく、先生の勧めるゲーム専門学校に行ってみる。情熱に燃える彼は、ゲーム会社の面接を受けまくる。熱弁をふるう。面接官の反応がよければ、彼が暖めているゲームの企画の話もしてみる。
 しかし、採用されない。
 というのも、最近のゲーム会社にはゲーム専門学校に行ってる人材を避けたがる傾向がある。「そんなオタク一筋の偏った人より、もっとスポーツや音楽が趣味、という普通の人を採りたい」と言う。「ゲームも少しはやりますけど、という程度の人がちょうどいい」のだそうだ。だから、彼がゲームについて熱く語れば語るほど、彼は面接で落とされる。
 彼はゲーム専門学校に通いながら、小さいゲーム会社でアルバイトをすることにする。勉強と視察を兼ねての行為だ。
 設立直後には1年に1本のゲームしか作れなかったこのゲーム会社も、数年前の大ヒットのおかげで今は一度に数種類のゲームが同時に製作されている。チャンスだ!!
 が、よく観察すると、各作品のゲーム・デザイナーは全員、会社建設当時からの古株ばかりだ。古株と言っても皆20歳代。あと20年はゲーム・デザイナーをやり続けても問題ない年齢と言える。しかも会社側はこれ以上、開発ラインを増やす気はないらしい。結局人件費や維持費がかさむばかりで、効率がよくないのだ。彼の順番は20年以上待たないとまわってこない。
 彼は、とうとう同じゲーム専門学校の仲間を説得して自分の考えたゲームを作ることを決心する。実に積極的だ。
 が、いきなり壁にぶちあたることになる。
 お金がないのだ。ゲームを作るにはいいコンピュータが必要だ。それも最低、スタッフの人数分。コンピュータを置く場所も必要だろう。各自の自宅に1台づつというわけにはいかない。ゲームは共同作業だからだ。志気という問題も含めて、皆が同じ場所にいることは絶対に必要条件だ。
 実はこの金額はさほど多くない。コンピュータ代とマンションの家賃と保証金など、ぜいたくを言わなければ三百万円ほどですむだろう。が、まだ学生の身分である彼らには大金だ。では銀行に行って貸してもらうか?
 ベンチャー・キャピタルはどうだろうか?「土地など不動産の担保がなくても、才能があればお金を貸します」という画期的、進歩的なシステムだというのが謳い文句だ。が、実際にはヒットを出したソフト・メーカーに、次回作の著作権を担保にお金を貸す、というカラクリにすぎない。もちろん、才能の有無を銀行は判断できない。前の作品で何本のソフトが売れたか、売り上げは幾らだったかを査定するだけだ。別に「ベンチャー」でも何でもない。もちろん、一本のソフトも作ったことがない学生ふぜいにお金を貸すなんて考えもしない。そんなわけで彼の努力は八方ふさがりとなる。
 景気のいい宣伝が続く日本のゲーム産業。夢を抱いて飛び込もうとする若者も多く、何とかして食い込もうとする会社も後を絶たない。しかし急激に成長した産業だけに、新人育成の方法は確立されていないのだ。



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