アニメと批評
1. インタビューって何? 「で、君は何が聞きたいんだ?」 |
2. 批評って何? これは以前にアニメやコンピューター・ゲームを作っていたときから考えていたことだ。僕は、本やアニメやゲームの作り手である僕を「父親」みたいなものと考えている。僕の作った作品は、僕が一生懸命育てた娘のようなものだ。僕には僕の思いが娘にどれくらい影響したか、どんな風に影響したかわからない。他の家族(作品毎にそれはプログラマーだったり、演出家だったりする)からの影響も当然ある。娘との関係は娘と僕の間にフワフワ漂っている形のないものだ。その娘が東京の大学にいく。これが「作品が発表される」ということだ。もはや娘は自分の手の届かないところへ行ってしまう。やれやれ、これで次の娘のことを考えられる。 |
3. お待たせしました、本題です。 最近僕は、この作品とファンとの間にあるフワフワを観察するのが趣味になってきた。自分の作品の場合はいろいろツラいことも多いのだが、これが他人の作品だと実に気楽に楽しめる。といっても、評論誌を読むというわけではない。文芸評論でも映画評論でも、みな作品と作者との間のフワフワを推し量ろうとするタイプばかりだ。テーマだのオマージュだのモチーフだのと呼ばれるものは、結局何とかして「作者が本当に書きたかったこと」をはっきり正しくとらえようとする切り口でしかない。作者にとってもフワフワしているものを正しくとらえるのは並大抵のことではない。あらゆる方向からはっきりさせようと、作品の100倍の言葉を使う。しまいには作者の出生の秘密だの、幼児の頃のトラウマだの、友達へ宛てた手紙だのまで引っぱり出してくる。アカデミックな雰囲気がなければ、まるきりワイドショーだ。幸い僕は評論文が出るような立派な作家ではないから良かったけど、夏目漱石なんかは天国でいやな気分なんじゃないだろうか? |
4. で、エヴァの話。 僕がこの資源再利用というフロンティアを実感したのはテレビアニメシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン(この先、略して『エヴァ』と書く)」放映時のことだ。テレビ東京の水曜夕方6時半から、という超マイナーな時間帯に放映されたこの作品は、そのハンディにもめげず、オタクの間で大評判になった。毎週水曜の夜、オタクたちの間で熱い会話が交わされた。パソコンネットNIFTYのアニメ関係のフォーラムは、すべてエヴァの話で埋め尽くされる勢いだった。発言数は爆発した。特に、期待の最終話が予想外の展開だったため、また賛否両論別れての話が延々と続けられた。 |
5. アニメよ、カラオケのネタになれ! そんな楽しみ方は邪道だ、という考え方もあるだろう。が、僕はそうは思わない。たとえば歌謡曲だって、今やカラオケの元ネタというイメージに変わってしまっている。どの曲がカラオケで歌いやすいか、歌って受けるか、自分に合ってるか、これがCDを買う基準になってしまったのだ。いい曲やうまい歌手が選択の基準だった70年代から、アイドルの宣伝ツールへと変化した80年代歌謡曲は、その後すっかり下火になっていた。つい5〜6年前には「もはやミリオンセラーなど出ない」といわれていた。が、今やカラオケ向けの曲、皆が歌いたくなる曲がバンバン売れる。何しろ、まず家でCDを聞いて覚えなければカラオケで歌えない。単に好きな曲を何度も聴くというのに比べて、圧倒的に買う動機がはっきりしている。このため、音楽業界は毎月、ミリオンセラーが出る勢いだ。 |
6. クリエイター神話の崩壊 さて、ここまで読んで、これからはアニメの評論が受けるのか、とか、これからは評論誌の時代だ!とか思った人も多いと思う。が、早とちりは禁物だ。従来通りの手法で評論誌を作ったりしては、ひどい目を見る。従来の作り方というのは、さっきも説明したように、作者と作品の間にあるフワフワしたものを推し量ろうという考え方だ。既存のアニメ誌も、単なるアニメ紹介記事だけで終わりたくない場合は、必ずこの方向へ話を展開する。 |
7. オタクとは「知的エコロジスト」である。 では、ここでおさらいしよう。まず、「作品の本質」というのは、見る人・楽しむ人と、作品そのものとの間にフワフワ漂っているものだ。もちろん、作った人にとっては作り手と作品との間にフワフワと漂っているものが「作品の本質」だ。今までは皆、作品の本質を作り手と作品の間にあると思いこんで、それを推察することに躍起になった。それこそが真の鑑賞で、それ以外の見方は間違っていると考えてたりした。というのも、作品を作ったクリエイターを神聖視する、クリエイター至上主義に皆がはまっていたからだ。が、もちろん他人がどんなに推察しても結局それは他人であるその人と作品との間にあるフワフワでしかない。その人は結果的に自分で勝手に作品の楽しみ方を大幅に縮めていたとも言える。 |