青土社ユリイカ(96/8号)掲載原稿
ン1996-1997.Toshio OKADA all right reserved.
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アニメと批評

1. インタビューって何?

 「で、君は何が聞きたいんだ?」
 SF界の重鎮ポール・アンダースンに聞き返されたとき、僕は言葉に詰まった。二十歳の時だ。SF作家のインタビューを取りに、世界SF大会が行われているボストンへ行ったときのことだ。
 「そういえば僕はこの人の小説が好きなんだけど、いったい本人に何を聞きたかったんだろう?」
 当時発売されたばかりのSONYの家庭用ビデオカメラ(カメラ2キロ、デッキ7キロ、バッテリー1本1キロ)を担いでコンベンションセンター内を駆け回って、ヘトヘトの頭で僕は考えた。別に聞きたいことなんかありはしないんじゃないか?あったとしても、それを聞いてどうするんだ?
 さて、月日は流れ僕自身も本を出せるようになった。巻末に電子メールアドレスを書いてあるので手紙だけではなく、電子メールという形でほとんど毎日のように「感想」や「意見」や「質問」が届く。イベントなどで直接話しかけられることも多い。
 それが時として「あれっ? そんな書き方したっけ?」と思うようなことだったりする。でも、ほめられるのは嬉しいから、適当に話を合わせていると「あの本を読んでから、僕もパソコン通信しようと思ってます。やっぱりこれからの洗脳社会はパソコン通信ぐらいやってなくっちゃね」とか言う。そんな風に書いたつもりはないけどなあ、と思っていると「岡田先生はどう思われます?」と期待のまなざしで聞かれる。僕がゴニョゴニョと歯切れの悪い返事をすると、たちまちあからさまにがっかりして「僕はそうは考えなかったんですけど」となる。それきり、行ってしまう奴もいれば「僕の読み方は間違ってたんでしょうか。どう読めばいいんですか、先生!」となる奴もいる。僕がいくら「本なんて、好きなように読めばいいんですよ」と言っても聞いてくれない。そういう奴は本には正しい読み方がある、と頭から信じているのだ。
 が、本の受け取り方を著者に聞くというのは結構無茶な話だ。僕が本を書く。僕は一生懸命、僕の考えの一部を切り取ってまとめ、文章にする。その本が出版社によってデザインされ、製本されて本になる。が、もちろん出来上がった本イコール僕の言いたいことというわけにはいかない。完成した本は、もう何か別のモノに変化しているからだ。本と僕との間あたりにフワフワと僕の言いたいことや考え方が漂っているという感じが一番近いかもしれない。
 逆もそうだろう。読者が本を読む。感動したり納得したり憤慨したり疑問を持ったりする。が、読者にとっての本の内容は、もちろん本そのまま、というわけにはいかない。読者と本の間のどこかにあるフワフワとしたものなのだろう。だから、僕と読者とが僕の本について話すというのは、まったく別のフワフワしたもの同士について語ることになる。そんなので話が通じるはずもない。





2. 批評って何?

 これは以前にアニメやコンピューター・ゲームを作っていたときから考えていたことだ。僕は、本やアニメやゲームの作り手である僕を「父親」みたいなものと考えている。僕の作った作品は、僕が一生懸命育てた娘のようなものだ。僕には僕の思いが娘にどれくらい影響したか、どんな風に影響したかわからない。他の家族(作品毎にそれはプログラマーだったり、演出家だったりする)からの影響も当然ある。娘との関係は娘と僕の間にフワフワ漂っている形のないものだ。その娘が東京の大学にいく。これが「作品が発表される」ということだ。もはや娘は自分の手の届かないところへ行ってしまう。やれやれ、これで次の娘のことを考えられる。
 と思っていたら、「娘のカレシ」と称する男がやってきて娘について私と話をしたいと言う。が、私の育てた娘、私の知っている娘と彼が知っている娘は全然違う顔をしていることが多い。だから、娘に関する悩みを彼が相談してきても、たいていは役に立たない。僕ができる話は娘が小さかった頃の思い出話や、自分のとってきた教育方針くらいだ。すると向こうは当惑し、幻滅する。自分と彼女との関係を少しでも良いモノにしようとやってきたのにこのクソオヤジは、てなもんだろう。
 さて、本という娘は、幸か不幸か量産できる。当然、「カレシ」はとっかえひっかえやってくる。いろんな「カレシ」と話すたびに、僕が考えている「娘像」との差に愕然となる。と同時に、「カレシ」同志の話の差にも驚かされる。そうして、僕が書いたと思っている本と、彼らが読んだと思っている本がすごく違うこと、違ってて当然だということにいやでも気がついてしまう。そこで僕は、娘と「カレシ」がうまくいってくれることを祈るしかできないこと、娘と「カレシ」との間で自分が何の関係もないことを深く深く思い知ることになる。で、ちょっと寂しくなる。これが父親の気持ち、というやつだ。
 もし誰かが僕の書いた本についての正しい解釈なんていうのを追求しようとすると、結局この目に見えない僕のフワフワについて推察するしかなくなる。作者はああ書いているのでこう言いたかったに違いない、とか、本人にとってすらフワフワしているものを、見ることもできない他人が推し量るなんて無茶な話だ。どんなにがんばっても、はっきりとつかまえられるものでもないし、仮にとらえられたと思っていてもそれは結局「その読者と本との間にあるフワフワしたもの」の域を出ない。仮にはっきりと把握できたからといって、そんなの何の役にも立たない。僕が、娘をどんなにかわいがったか、どんなとき厳しくしたか、といったことは「カレシ」が娘とうまくやっていくためには関係ないのと同じ事だ。これは作品と作者と消費者の本質的な関係だろう、と僕は考える。
 そんなわけで、批評や感想というのは本来作品とは関係あるけど、著者や作者とは何の関係もないものだと思っている。と同時に、僕は作者がどう思ってその作品を作ったかという「思想」「テーマ」がその作品の本当の姿であって、それを見抜くのが「正しい鑑賞法」だと言う考え方には反対だ。もし、どうしても「作品の姿」を想定するとしたら、それは「観測者と作品との間にあるフワフワしたもの」の方だと思う。作品の本質とはフィルムや本やデジタル・データではなく、「作品と観測者の関係」なのだ。
 もちろん100人読者がいれば100人のフワフワがある。当然「作品の姿」は100人分のフワフワの集合体のことだ。フワフワの重なっている部分ははっきり見えるし、重なっていない偏った感想や個人的感想は、薄くぼんやりしている。こういったものの総体が「作品の姿」なのだと思う。娘の父としては、哀しいことだが東京でがんばっている娘の今の姿こそが本当の姿なのだから仕方がない。





3. お待たせしました、本題です。

 最近僕は、この作品とファンとの間にあるフワフワを観察するのが趣味になってきた。自分の作品の場合はいろいろツラいことも多いのだが、これが他人の作品だと実に気楽に楽しめる。といっても、評論誌を読むというわけではない。文芸評論でも映画評論でも、みな作品と作者との間のフワフワを推し量ろうとするタイプばかりだ。テーマだのオマージュだのモチーフだのと呼ばれるものは、結局何とかして「作者が本当に書きたかったこと」をはっきり正しくとらえようとする切り口でしかない。作者にとってもフワフワしているものを正しくとらえるのは並大抵のことではない。あらゆる方向からはっきりさせようと、作品の100倍の言葉を使う。しまいには作者の出生の秘密だの、幼児の頃のトラウマだの、友達へ宛てた手紙だのまで引っぱり出してくる。アカデミックな雰囲気がなければ、まるきりワイドショーだ。幸い僕は評論文が出るような立派な作家ではないから良かったけど、夏目漱石なんかは天国でいやな気分なんじゃないだろうか? 
 それなのに、アニメ業界の人は皆そろってちゃんとしたアニメ評論誌が出ていないことを残念がる。ゲーム業界の人も、ゲームの評論がないことを残念がる。「文芸にはちゃんとした文芸評論があってうらやましい。映画にはちゃんとした映画評論があってうらやましい。我々も、早くちゃんとした評論誌が欲しい」などという。そうすれば、アニメももっとちゃんとしたものになるのに、ゲームももっとちゃんとしたものになるのに、と言うのだ。
 が、僕は文芸評論があったおかげで文学が面白くなった、ちゃんとしたものになったなどとは思わない。評論の存在理由はもっと別のところにあるのだ。アニメやゲームといった「アツい」業界では、ただ何か作品を見たり楽しんだりしたあと、それについて自分なりの意見を語りたいと思う人は必ず一定の割合で存在している。こういった人たちの気持ちを代弁してくれるという意味では、評論誌はなかなか役に立つ。作品を見たあと、評論誌を見てまた楽しむ。一粒で2度おいしいという楽しみ方だ。
 文芸だの映画だのといった古い文化は、技術的にもとうの昔に最高まで築かれ、様々な手法もやり尽くされたジャンルだ。こういうジャンルでは画期的な作品など出てくるはずもない。どんなにがんばったって、どうしても何かの亜流だったり、どれかとどれかを足して2で割ったようなものだったりする。そういうジャンルでは、新しい着眼点の評論が出ることによって、同じ作品がまったく違った魅力を発揮することがある。限られた資源の再利用として、すばらしく役に立つ。たとえば「桃尻語訳枕草子」とか「トンデモ本の世界」なんかその最たるものだ。そういった資源の再利用という観点からいうと、今、アニメ界に一番望まれているのは「アニメ批評」に違いない。





4. で、エヴァの話。

 僕がこの資源再利用というフロンティアを実感したのはテレビアニメシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン(この先、略して『エヴァ』と書く)」放映時のことだ。テレビ東京の水曜夕方6時半から、という超マイナーな時間帯に放映されたこの作品は、そのハンディにもめげず、オタクの間で大評判になった。毎週水曜の夜、オタクたちの間で熱い会話が交わされた。パソコンネットNIFTYのアニメ関係のフォーラムは、すべてエヴァの話で埋め尽くされる勢いだった。発言数は爆発した。特に、期待の最終話が予想外の展開だったため、また賛否両論別れての話が延々と続けられた。
 僕自身は、エヴァという作品そのものよりも、そのオタクたちの大騒動がものすごく面白かった。特に最終話の賛否両論は、エヴァへのそれぞれの人の思い入れの差、例のフワフワの差が明快になって、僕のフワフワ理論の確認になってくれた。
 具体的にちょっと説明してみる。まず、エヴァは数々の謎や設定でオタクたちを引きつけた。オタクたちは「きっとこの謎はこうに違いない、ああに違いない」と一話見るたびに熱く語り合った。謎はSF設定からキャラクターの人間関係まで幅広かったので、様々な嗜好を持つ人たちが様々に推理を楽しめたのだ。次に、最終話の25、26話ですべての謎が明かされ物語は終結する、と誰もが考えていたのに、まったく謎は解明されないまま終わってしまった。主人公は心の中で納得し、心の中で他の登場人物達に拍手され、これで良かったんだと考えエンディング。皆あっけにとられた。で「謎はどうなっちまったんだ!? 今までいろいろ期待した俺の気持ちをどうしてくれる!?」という激怒派と「このエンディングでいいじゃないか。主人公は救われたんだし。俺の好きなエヴァの悪口を言うな!!」という擁護派に別れたわけだ。
 僕はこの対立を以前、結婚詐欺師にダマされた女の口喧嘩と書いたことがある。「騙されたんだわ、ひどい!あなたも目を覚ましなさいよ」という女と「あーら、私は彼のそういうところも含めて好きよ。あなたなんかしょせん彼のことをわかってなかったのよ」という女。互いに憎み合いながら、口論はエスカレートする。こんな面白い見せ物はアニメ史上初めてだった。
 エヴァ論争は書いている人の数ももちろん多いが、その何百倍もの数の人がそれを読んで楽しんでいる。自分と同じ意見がうまく書かれているのを読んでうんうんと頷く。自分と反対意見の人がやりこめられているのを見てスカッとする。もちろん、誰もが自分の意見を表明することも、他人の意見に反対することもできる。消費者のニーズに本当にあった評論が、ここでは展開されているのだ。エヴァは、そういうみんなの批評家心をくすぐるいい作品だったとも言える。作品単体として面白いとか意義があるとかいう以前に、何よりもみんなにとって恰好の評論のネタだったのだ。それがオタクたちの間で最近ようやく定着したパソコン通信というツールを通してブレイクした。





5. アニメよ、カラオケのネタになれ!

 そんな楽しみ方は邪道だ、という考え方もあるだろう。が、僕はそうは思わない。たとえば歌謡曲だって、今やカラオケの元ネタというイメージに変わってしまっている。どの曲がカラオケで歌いやすいか、歌って受けるか、自分に合ってるか、これがCDを買う基準になってしまったのだ。いい曲やうまい歌手が選択の基準だった70年代から、アイドルの宣伝ツールへと変化した80年代歌謡曲は、その後すっかり下火になっていた。つい5〜6年前には「もはやミリオンセラーなど出ない」といわれていた。が、今やカラオケ向けの曲、皆が歌いたくなる曲がバンバン売れる。何しろ、まず家でCDを聞いて覚えなければカラオケで歌えない。単に好きな曲を何度も聴くというのに比べて、圧倒的に買う動機がはっきりしている。このため、音楽業界は毎月、ミリオンセラーが出る勢いだ。
 もちろんこの状況を嘆く音楽業界の人も多い。カラオケで歌いたい曲しか皆買わない。本当にいい音楽、聞き惚れる曲を作っても売れなくなってしまったというのだ。もちろん僕はその意見にも反対だ。アーチストだのミュージシャンだのいう輩が何を考え、どう感じて曲を作ったかなんていうのは、僕らとは関係ないことだ。僕らにとって大切なのは、自分と曲の間にある「関係」で、それがカラオケで気持ちよく歌う、だったり、アイドルに入れ込む、だったりするわけだ。
 カラオケボックスが町のそこら中にできた。だからカラオケボックスで歌うための曲が売れる。パソコン通信が各オタクの部屋に整った。だから「語れる」アニメが受けた。
 まったく同じ構造だ。
 エヴァは、LD・ビデオが爆発的に売れた。単に好きで何度も見るためだけにしては売れすぎている。もちろん、かつてのヤマトやガンダムも売れた。が、これらの作品はオタクだけでなく一般のお客さんも買った。そのため大ブームとなったのだ。が、エヴァは違う。ものすごい売れ数なのに、一般社会への影響が皆無に近い。オタクは一人残らずエヴァを何万円も出して買ったが、一般の人は見向きもしなかった。なぜか?一般人は作品を見ても語りたがらないが、オタクは語らずにはいられない。いや、語らずにはいられない人々こそがオタクなのだ。だから今、エヴァを語っている人は、この僕を含めてオタクばかりだ。ユリイカや現代思想でエヴァや攻殻機動隊が取り上げられるのは、これらの作品が一般に受け入れられたのではなく、ユリイカがオタク化した、と考えるべきであろう。オタク業界の僕にとっては嬉しいお知らせだが、ユリイカ業界の人にとっては悲しい話かも知れない。ご愁傷様、である。
 エヴァ論争が下火になる頃には、みんなはまた新しい語るネタを求めてアニメ作品をチェックし始めるだろう。何しろ、パソコン通信で皆あんなにエキサイトしていたんだ。やめるわけにはいかない。アニメはどんどん語るためのネタという地位に成り下がっていくことになる。これを、嘆かわしい事ととらえることもできる。そうだろうか?あらゆる手法を使い尽くし、技術も最高レベルに達してしまった日本のアニメにとって、もはやめざましい進化は望めない。進化の袋小路、とまでは言わないがかつての爆発的発展期が終わったのは確かだ。そんなアニメにとって、パソ通での批判合戦はフロンティアである。一粒で2度おいしい楽しみ方だ。オタクたちにとってはもちろん、業界にとっても福音になることは間違いない。





6. クリエイター神話の崩壊

 さて、ここまで読んで、これからはアニメの評論が受けるのか、とか、これからは評論誌の時代だ!とか思った人も多いと思う。が、早とちりは禁物だ。従来通りの手法で評論誌を作ったりしては、ひどい目を見る。従来の作り方というのは、さっきも説明したように、作者と作品の間にあるフワフワしたものを推し量ろうという考え方だ。既存のアニメ誌も、単なるアニメ紹介記事だけで終わりたくない場合は、必ずこの方向へ話を展開する。
 具体的には、アニメの監督をはじめとするメインスタッフにインタビューということをやる。さすがに「監督、この作品のテーマはなんですか?」というほど間抜けなことは聞かない。が「この作品の×××の部分が興味深かったんですけど」とか誘導尋問する。で、自分の想像したテーマが当たっていれば喜び、間違っていると言われるとひれ伏す。自分と関係のない監督のフワフワが、何故そんなに大事なのか。答は簡単。監督が偉いと考えているからだ。そんな偉い監督の考えていることを少しでも理解して、自分も少しでも偉くなりたい。だから自分と作品との間にあるフワフワとはなんの関係もない監督にカンニングに行ってしまうのだ。監督は、すでに花嫁の父なのだが、その点には気づきもしない。かつては俳優も歌手もスタート呼ばれ、神聖視された時代があった。そのまた昔には政治家や軍部が偉かった時代があった。そんな時代、やはり人は政治家や軍人に話を聞きに行き、フンフンと感心して帰ってきた。もちろん今ではそんな価値観自体が廃れてしまっている。しかし作家やクリエーターに関してだけは、まだまだ古い価値観が横行しているようだ。
 そうは言っても、やはり作品を面白くしたのはクリエイターの力ではないか、と思う人もいるかもしれない。だが、考えてみてほしい。ぼくたちは、別にアニメや映画や小説といった作品でなくても感動できる。たとえば、美しい夕陽を見ても感動する。「うつくしー!」と感じると同時に、切なくなったり哀しくなったりもする。これは、今まで自分の頭の中に蓄えた夕陽に対するイメージが呼び覚ます感情だ。夕陽のイメージは、自分の個人的な実体験と、映画や小説といった二次体験の両方からなっている。僕達が、夕陽を見て感動するからと言って別に夕陽を作った人(宇宙のビッグバン?)が偉いわけでもないし、ビッグバンさんに夕陽のテーマを聞きに行くわけにもいかない。
 自然物は極端すぎると言うなら、落語の「はてなの茶碗」という話をしてみよう。これは僕の著書「オタク学入門」でも書いたので、読んだ人にはおさらいになるし、読んでない人には宣伝になる。
 安土桃山時代に大成した茶道の文化が進化し尽くして百花乱世の江戸時代の話。茶道は当時の総合芸術であり、文化の頂点だった。そこには「目利き」と呼ばれる尊敬される人たちがいた。彼らは粘土をこねたりする職人ではない。茶器の鑑定士だ。彼らがすばらしいといった茶器は値打ちがあることになり、高い値が付き、ありがたがられた。人々が彼らの言うことを鵜呑みにしたわけではない。彼らの茶器に対する新しい見方が、人々に理解され受け入れられての結果がそうなったということだ。千利休もその一人。千利休が茶碗の由来を語り、巧みな技に感動し、形の微妙な偏りに趣を見いだすことによって、人々ははじめてその茶碗の良さに気づく。これが目利きの仕事とも言える。
 さてそんな時代、ただの薄汚いおまけに水が洩れる茶碗を茶屋金兵衛が「はてなの茶碗」と名付ける。どこからともなく漏れる水が面白い、趣があるというのだ。新しい評価を受けたその茶碗は、いきなりもてはやされ、九条関白時の帝にまでお墨付きをいただいて、とうとう千両の値が付いてしまう。茶碗が変わったのではない。水が漏ることを価値としてみる、という新しい視点が示されたのだ。その視点の変化のおもしろさが千両に値した、ということだ。もちろん、茶碗を作った職人が誰だったかなどということは問題ではない。
 リンゴが落ちるのを見たニュートンは、万有引力を発見した。ニュートンは「リンゴ」というネタで、ニュートン力学という、巨大思想を引き出したのだ。「エヴァ」、「攻殻」、「MEMORIES」等の個々のアニメ作品はリンゴである。そこから、いかにインスピレーションを得て何を語るか。日本の評論家さん達は奮起して欲しいと思うぞ。





7. オタクとは「知的エコロジスト」である。

 では、ここでおさらいしよう。まず、「作品の本質」というのは、見る人・楽しむ人と、作品そのものとの間にフワフワ漂っているものだ。もちろん、作った人にとっては作り手と作品との間にフワフワと漂っているものが「作品の本質」だ。今までは皆、作品の本質を作り手と作品の間にあると思いこんで、それを推察することに躍起になった。それこそが真の鑑賞で、それ以外の見方は間違っていると考えてたりした。というのも、作品を作ったクリエイターを神聖視する、クリエイター至上主義に皆がはまっていたからだ。が、もちろん他人がどんなに推察しても結局それは他人であるその人と作品との間にあるフワフワでしかない。その人は結果的に自分で勝手に作品の楽しみ方を大幅に縮めていたとも言える。
 が、今や自由な発想の楽しみ方がどんどん出てきている。カラオケも、パソコン通信のネットバトルもそうだ。「トンデモ本の世界」もそのひとつかもしれない。このような、「作品を新しい遊びのネタ」として捉える考え方は、技術の進化とともに加速された思想だ。カラオケボックスの普及によって、カラオケ用CDが売れた。パソコン通信の普及によって、ネットバトル用アニメが売れた。インターネットが普及すれば「僕の好きなアニメ」なんていう感じで自分のホームページに貼って紹介したくなるようなアニメが売れるかもしれない。
 アニメでも何でも、もはやあらゆる作品はやり尽くされている。今さら画期的で質の高い、見るだけで大感動なんてのが作れるわけがない。物理的資源と同じく、知的・文化的資源も有限なのである。僕達オタクは、知的資源の再利用を考えるしかない。いつまでも、クリエイター達に頼って「最近面白いアニメがない」なんて言っている場合ではないのだ。
 「文化的・知的エコロジスト」。それがオタクたる僕たち(アニメ特集のユリイカを読んでいる君は立派なオタクだ)の目指すべき道である。精進してくれ。じゃ、またね。




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