岡田斗司夫のオタク日記
2002年4月16日〜4月30日
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4月 その2


16日(火)

 雑誌・アンアンの取材。「なんで男性はみんな、モーニング娘。なんかが好きなんですか?」という内容である。そりゃアンアン読者からすりゃ、不可解だろうて。アンアン的にカッコいい女性タレントって実は男性受けはイマイチで、どんなにヒットしてもアンアンでインタビューされることは金輪際ないようなモー娘。なぞになんで男は奪われるのか。その辺、じっくり語ったけど掲載できないんじゃないかなぁ。


17日(水)

 大阪へ母親の見舞い。と同時に明日は午後から関西のファンとオフ会。でも鬱はまだ明けてないんだよな。


18日(木)

 難波の英国屋で、関西のファンたちとオフ会。やはり恐れていたとおり、トロネイ君の口数が多い。いつもイベントでは最前列に座ってくれる熱心なファンなんだけど。


 三時間以上ずっとしゃべり続けたので、二次会は行けなかった。ちょっと残念。


19日(金)

 出張疲れでダウン。動けないよ〜。


20日(土)

 新宿ロフトプラスワンで「だめんずウォ〜カ〜」イベント。漫画家の倉田真由美さんらと壇上に上がる。しかしまだ鬱なので我ながら仕切りがヘタ!ライターのベギラマさんにいつもオチを担当してもらって助かった。途中、「ダメ女につきまとわれて困ってる」と自称するパンクバンドの兄ちゃんが出て、ヨーコ会長と大喧嘩になる。彼が言うには「オレに抱かれたい女がオレに飯おごったり金くれたりするのは当然!」ということで、その態度にヨーコ会長がカチンときたところへさらに彼が「でもオレのやってることと、アンタのやってること、同じじゃん!」と言ったので場内の女性から総スカン。いや〜、面白い。もちろん彼の言うことは理屈的にはまったく正しい。彼とヨーコ会長は同じかも知れない。しかし男女の(恋愛観の)非対称性、というやつがあるので、「美人で男から貢がれまくるヨーコ会長」と「次々と女を食い物にするバンド兄ちゃん」は同じにならないのだ。この辺、書き出すと長くなるのでまた今度。


21日(日)

 天気が悪い。気圧が低い。鬱が明けない・・


22日(月)

 ようやっと鬱が明けてきた、気がする。


23日(火)

 恋愛相談の打ち合わせ。鬱が明けた証拠にいきなり新説を語り出す。「女性の恋には二種類ある。あとで結婚という収入になる『分譲の恋』と、楽しい期間を過ごすだけの『賃貸の恋』である」理論だ。柴門ふみが説く「結果のない恋はするな」というのは、「賃貸なんて家賃払っても払いっぱなし。でもマンション買ったら不動産資産が残る」というのと同じ理屈なんだよな。いっけん正論に聞こえるけど、単なるケチ根性を正当化しただけだと思うぞ。
 小泉理沙子さんの掲示板で、なぜか『屍鬼』論争。思わず『屍鬼』の人物描写に関して不満を書き連ねる。

人物描写について、ちょっと考えてみました。通常、創作内での人物像というのは、以下の五要素で描写されると思います。

1、職業的特性(刑事だから疑り深い、とか)
2、性格(楽天的とか暗いとか)
3、教育・環境(人間は行動を共にする集団と価値観を共有する習性があります。「バイト同士で店長の悪口に意気投合」など)
4、利得(損得関係抜きで人間関係を説明すると、どうしてもウソになる)
5、幼少時のトラウマなど

 さて、「屍鬼」の登場人物が僕にとって、どうしても薄っぺらに感じたのは、以上の5要素の第一番目、「職業的特性」の使い分けがなってない、ということ。
 たとえば、主人公の一人、医者については「医者としての好奇心や義務感」が、彼の行動の動機として書かれている。しかしもう一人の主人公の坊さん、彼に関しては「僧侶としての世界観」が全然見えないんですよ。
 「呪われた町」での司教の悩み、キリスト教に対する疑問や若い日の情熱などに相当する、「いま現在、日本という国で世襲僧侶をする、というリアリティ」が微塵も書き込まれていない。
 「まだキリスト教が立派に機能している国と日本を、単純に比較できない」って言う人もいるけど、現に吸血鬼たちは寺院の結界内に入れない、という描写があるんだから、作品上とはいえ作者は「では、そのような超常的パワーを持つ仏教とはなにか」を登場キャラの口からでも語る義務があると思う。

 「屍鬼」に関しては、なんか登場キャラが損得に関係なく動いたり、職業的特性を無視したり、と、とにかく作者のコントロールが見えすぎ。
 「呪われた町」を、もっと徹底的に研究したら、それぞれのキャラの役割も理解できて、「なぜこういうプロットになるのか」が理解できたと思う。そうしてから書き始めればはじめて「オマージュ」の域に達することができたのに。

以上の理由で、僕にとっては「呪われた町」は、ブラム・ストーカーのオマージュだけど、「屍鬼」は、「呪われた町」のパクリと評価しています。

 小泉さんから「人物描写の要素として「外見」が抜けている」と後で指摘された。たしかにその通り。オレもバカだなぁ。


24日(水)

 和美との結婚記念日だったけど、お祝いは明日に廻す。事務所のメインマシン(ソニーのバイオ)の改造。内蔵ハードディスクを160ギガ増やす。これでTV番組録画しほうだいだ!


25日(木)

 和美と結婚記念日のデート。渋谷でメガスターによるプラネタリウムを堪能する。通常のプラネタリウムでは一〜二万個しか星が投影できないのに対して、メガスターという個人が趣味で開発した機材ではなんと百万個以上の星空が投影される。生まれて初めて見たけど、これ本当に凄いよ。興味あるひとはこのサイトまで。
http://www02.so-net.ne.jp/~oohira/mega_star/megastar.html

 午後からゆっくりと東急ハンズを散策、していると柳瀬君から呼び出し。
 「岡田さんのマシンからウィルスメールが送信されているかもしれません」
 なに!?


26日(金)

 調査の結果、ウィルスには感染していないし送信もしていない、と判明。人の名前を送信者に騙る、悪質なウィルスらしい。


27日(土)

 和美と静を連れて渋谷のシネタワーで『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』を見る。う〜ん、上手い!特に職人タイプの人には感動だろうなぁ。
 二人を連れて渋谷のパセラでカラオケ。カラオケなんて一年ぶりだろうか。和美にパルの「ちょっとマイウェイ」を歌わせて、僕は「ラジコンブルース」を歌う。


28日(日)

 一週間、録画だけしていた「ザ・シンプソンズ」をまとめて見る。あああ、仕事しなくちゃいけないのに〜!インターネットでシンプソンズ関係のサイトを探して見ていると、なんか本当に楽しい。僕もファンサイト、作ろうかなぁ。


29日(月)

 岡野キャプテンの掲示板で「私と押井守。という題名の論文募集」とあったので、さっそく以下のような投稿をしてしまう。

「僕は押井守(もしくは押井映画、もしくは押井ファン・アンチ押井ファン)をどう思っているか?」
 僕はオシイストではない。かと言って、自分をアンチ・オシイストとも思わない。
 UFO信者は、信じない人をすべて「否定派」と括ってしまう。しかし実際に議論してるのは「信者」「否定派」「懐疑派」の3種であろう。この意味で僕自身は「押井懐疑派」だと思う。押井作品の素晴らしい部分を褒め称えるにはやぶさかではないけど、だからといってダメな部分までも「確信犯だから」とイイワケしてやる気にはなれない。

 映画作家としてみれば、僕にとっての押井守は「バランスが悪いけど才能が凄いので、そんな欠点は無視できる」というあたりだろうか。才能、というのはケレンみのある、ハッタリのきいた絵を作らせればおそらく世界一、という部分だ。ハリウッドの監督たちがインスパイアされるのもムリはない。とにかく「圧倒的にカッコいい!」のが押井作品の特徴だ。
 バランスの悪さ、というのは、たとえば音響設計のセンスが悪いというところ。「攻殻機動隊」のタイトル見たときは笑った。超精密機械であるはずのアンドロイド組み立てシーンで、鳴るSEが「シャキーン」「ガシャコーン」だもんなぁ。

 これは個人的な好き嫌いになるけど、押井作品の小児的なところは苦手だ。
 たとえば「パトレイバー2」というアニメ。
 映像は素晴らしい。もうセルアニメの頂点じゃないか,と思う。
 しかしシナリオというかキャラクター造型がいただけない。柘植という登場人物は映画冒頭、「部下を見殺しにしなければいけなかった」という事件で、心に傷を負う。しかし彼は「日本に復讐する」なる心情的というかロマンチックな革命ごっこを実行し、当然ながらそれは破綻して逮捕される。行動原理がダダっ子というか、全共闘世代特有の「甘え」に満ちているので、僕は感情移入できなかったのだ。
 (彼の主張を良し、とできるなら、上層部の理不尽な命令でリストラをしている人事課長には,すべてテロルの権利があることになる。バカな。甘えるのもいいかげんにしなさい。こういう理屈をこねるヤカラと、それに同調する自称「弱者の味方」があんがい多いから、ゆうきまさみ版「パトレイバー」では、内海課長は倒れなければならなかったんだけどね)

 僕の感じる違和感は「なんか尾崎豊みたいでイヤ」、といえばわかってもらえるだろうか。
 「中間管理職の恨みをロマンチックな革命ごっこでウサ晴らし」、というのと、「管理社会が嫌だからといって、夜に校舎の窓ガラスを割る」というのは、同種の小児的甘えである。熱狂的な「信者」が多いのも共通している。
 いや、尾崎の音楽や押井の映画を全否定しようとは思わない。そういう音楽や映画が必要な時期は誰しもあるし、そういうものに傾倒する人は人一倍感受性の強い人だというのも理解できる。しかし、周囲に迷惑をかけることによってのみ自己をアピールし、しかもそのダメさ加減を「確信犯」と言い繕うことでなにか弁明した気になっている。そういうメンタリティを僕は共有できない。要するにそのあたりで僕は「押井信者」になりそこなっているのだろう。

じぶんなりにまとめると、押井監督はアニメ監督としてはベスト3とは言えないだろうが、充分ベスト5に入る、と思う。りんたろうより上だけど、富野カントクより下、というあたりだろうか。

 ああ、こんな金にもならない原稿を延々と書けるなんて、本当に鬱が治ったんだなぁ。


30日(火)

 小学館プロの玉井さんが『モテる技術』の完成本を持ってきてくれる。新宿紀伊国屋でも一番目立つディスプレイ一面に飾っているそうだ。スゲえなぁ。だって本当に面白いもんなぁ。


 マジメな話だけど、この本に書かれたことを実行したら本当にモテる。保証する。いろいろ女性たちは「違う!」というだろうけど、男性にとって彼女たちの言う「恋愛」は難しすぎるしあまり面白くない。そんな「恋愛」をしようとせずに、ただ単に「モテよう」とするだけで、モテることは可能だ。この本はそのあたりの「本当だけどそれを言っちゃあオシメエ」な部分まで語ってしまっている。
 書店で売っているホストや「自称・ナンパの達人」たちの本を信じてはいけない。あれは「本当に男らしい男になれば、女はついてくる」式のマッチョな自慰本なんだから。書いている本人たちの対男性コンプレックスの塊り。「でもオレたちって、本当は男からカッコいいって言われたい」という本音が読めちゃって、なんかうっとしい。
 それに比べたら『モテる技術』の凄いところは、全然マッチョ思想に媚びてない。一読してもらえばわかるけど、そこに書いてること実行したら確実にモテるけど、男の友達は減る。いままで「男の友達を減らすようなナンパ本」なんて見たこともないのに!
 結論:「モテる技術」を読んで、実行したらモテる。でも男友達の評判は悪くなる。ちょうど『恋のから騒ぎ』の前列に座っている女の子、彼女たちは男からモテるだろうけど、絶対に女の友達はいなさそう。そういうカンジの本である。


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