批評とか作品の印象をすべて作品のフィルムと思いがち。
作品の本質というのは、フィルムとそのフィルムに見えない作者の考えていることをあてることを批評、批判と思っている人が相当いる。これは見当違い。
作っている人も自分の考えていることがまるまるフィルムにのらない。
自分で絵を書いてみるとわかりますが、思った通りにつくれない。
映画を作る人間もゲームを作る人間も同じである。
映画やゲームを作っている人間は思っているように作れないというジレンマがある。
作っている人の思っているものすべてがフィルムにのっていない。
ところが、見る人は、それの言葉の意味をさぐろうとしている。
しかし、見るという行為は個性と文化的バックグラウンドを通してしか見れない
現在の日本は「ほぼ」同じような文化的バックグラウンドを持っている。
特殊な考え方を持っている。
特殊というのは、そうでない民族もたくさんあるので。
文化的バックグラウンドを前提としてしか、これがみれないので、彼の心の中にある批評というのはすべて、フィルムが起点となって、彼との間につくった子供みたいなもの。
しかし、批評というのは自分から生まれたというのを忘れてしまって、こっち(?)に本質があるとおもう。
わかりやすくエヴァンゲリオン。
見たときに、なんでこんな作品をつくるなだろう、などの疑問がある。
これは作者のレベルではOKかもしれないし、そうでないかもしれない。
作者にしてみても、自分の思い通りでないかもしれない。
その謎をすべてこちら側(?)にもってくる。
音楽や映画の世界でもクリエーターインタビューがある理由はそこ。
作品の本質がこちら(?)にある。
批評の本質はものと観察者間にある。
作品を語るというは、つねに自分のバックグラウンドと自分の個性、自分自身を語るということ。
でも、ついついこちらの方(?)へいっちゃう
金日成のパレード
マスゲームやっているなどの映画。
作った人間
北朝鮮偉い!
見た人(資本主義世界)
笑っちゃう
どうしても、私たちはそうはみれない。
作者はテーマを届けられない。
私たちはテーマに到達できない。
感想は作っている人間と全く無関係というのを知らざるを得ない。
これが批評の本質
一般化していうと
映画、ゲームなどを見たり、やるということは大変孤独なこと。
なぜか?
作り手や隣にいる人などと感想を共有できない。
みんな、文化的バックグラウンドがすこしづつ違うから。
人間というのは、その中にたいへんな孤独感を感じる。
映画批評やゲーム批評 批評行為の本質というのは、なにかを見て、感想を得るというのは孤独な行為であって、その孤独な行為をがまんできず、言語化して、他の人と共有しようとする。
それが
批判とは、ここで生まれた自分の感想が自分だけのものと暗黙のうちに知っているから、それを作者に問いただす。
このように、大変孤独な行為であって、何かの作品をみるというのは、孤独を紛らわすはずのものが、より孤独というのを実感するということに暗黙のうちになってしまっている。
そのためについついやっちゃうもの。
それが批評、批判。