世界最強とは何か−−−プロレス・格闘技読み方ガイド(悪質版)


2.八百長とは何か

 未だにプロレスといえば八百長という失礼な輩が多い。立花隆なんか、八百長と罵るばかりか、「あんなもの見る奴は品性下劣」とまでぬかしている。ほんなら何か、イエスの処女生誕を信じているキリスト教徒はみんな品性下劣か。奇跡の復活を信じてれば人間の屑か。これは信仰の問題なんだ。異教徒は口出すな。

 ふぅ。いやいやこんなとこでてんぱっててもしょうがない。頭を冷やして先を進めよう。そもそも日本でプロレスの八百長問題が出てきたのは、UWF革命から遡ること丁度30年前、力道山がシャープ兄弟を呼んで華々しくプロレス興行を立ち上げた1954年であった。最初の最初からあった問題なのだ。主役となったのは朝日新聞(当時力道山を持ち上げまくっていた毎日新聞と敵対していた)と、「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」、全日本柔道選士権四連覇の木村政彦である。力道山よりも前からハワイ、アメリカでプロレスを始めていた木村が、朝日新聞紙上で、「プロレスなんぞ100%八百長。真剣勝負なら私が力道山に負けるわけない」とやったのである。当然物事は行き着くところまで行き着く。同年12月22日、力道山と木村政彦はマット上で合間見えることとなった。
 以下は力道山死後の木村の言である。当初の約束は、最初は引き分け、あとは勝ったり負けたり、客が入らなくなるまで延々とやろうということだったという。空手チョップも、音だけはでな見せ技でのみ使うという約束だった。ところが、あにはからんや、試合は中途から力道山の鬼気迫る袈裟切りチョップ滅多打ち状態になる。木村政彦は、テレビで全国生中継されているその真ん前で、完膚なきまでに制裁されちまったわけだ。力道山は生前「あれは木村が危険な攻撃をしたからキレたのだ」といっていた。木村は、金に狂った力道山が約束を破ったのだという。おまけに自著に「悪は亡びる。一本の短刀が力道山の腹をえぐったのは、私が郷里熊本に帰る車中の出来事であった」(木村政彦著「わが柔道」)と書いている。しかもその直前の部分には、自分も、力道山も、双方とも組関係の友人が多かったともあるのだ。胡乱だ。突っ込みたくない話だ。
 お亡くなりになった方々をこれ以上追求しても仕方ない(力道山は1963年に、木村政彦は、これもまた丁度30年後の1993年に鬼籍に入った)。ともかく、力道山vs木村政彦戦を契機に、その試合自体はシュートだったと負けた方の木村が認めているのにも係わらず、プロレスには八百長の影がつきまとうことになる。NHKも放映をやめやがった。まぁ、「殺人で終身刑を宣告されていたが、持ち前の腕力で刑務所の鉄棒をぐにゃりと曲げて脱獄してきた」ザ・コンビクトとか、「数千年の眠りから蘇ったエジプトのミイラがその怨念をリングではらす」ザ・マミーとか、そんなのをしょっちゅうアメリカから呼んで来ていたので、信心が足りない人々には理解しにくかったのかもしれない(ついでにお知らせしておくが、IWA格闘志塾というところにいくと、今でも、ザ・マミーが見られる。元祖の白い奴に加えて、赤マミー、黒マミーもいるのでお得になっている。粉もまくぞ!)。

 だが、暗雲はいつまでも続かない。1972年に新日本プロレスを立ち上げたアントニオ猪木は、ストロング・スタイル路線を徹底的に追及、「プロレスに市民権を」キャンペーンを繰り広げた。格闘技世界一決定戦はその白眉であったのだ。そして、長年の差別を乗り越え、「プロレスはほんとに世界最強だぁ」と信者が意を強くしたまさにその時、先に述べた爆弾が破裂したわけだ。信管となったのは佐山聡。炸薬は前田日明。まずこの二人についてちょっと説明しておかないといけない。
 そもそもはやはり格闘技世界一決定戦である。世界最強のロマンは、見ている我々だけじゃなく、やってるレスラーにも着実に浸透していた。佐山がこの洗礼を受けたのは、猪木に命じられてやったマーク・コステロ戦。若手レスラーがマーシャル・アーツのチャンピオン・クラスといきなりキック・ルールで戦うというとっても楽しい試合だった。案の定佐山はぼこぼこ。プロレスラーとして基礎体力だけはうなる程あったので、なかなかKOされず、ますますぼこぼこ。どうもここからネジが外れたらしい。目白ジムに通うとか背教への道を一心に走りはじめた。
 ついで前田日明。彼の場合はネジ外れっぱなしである。若き日の前田は広大なアメリカ大陸で空手一筋の人生を送ろうという青雲の志を抱いていた。要は「空手バカ一代」の読みすぎである。流石に心配されていたらしく、ある日、空手の師匠兼先輩の田中正悟に、公園で一人のレスラーに引き合わされる。佐山である。悪い相手と出会ったもんだ。「おっ、レスラーちゅうやつは、ほんまは、強いんやんか」と思ってしまった前田は、すかさず猪木にステーキを食わされ、その分厚さに感涙にむせんだ隙に、あれよあれよと新日本に入団。僅かに残っていた疑念も牛の前には無力だった。
 しばらくはこのネジが外れた二人組もおとなしくしていた。猪木がことあるごとに「そのうち金がたまったら、ほんとうの世界最強の格闘技始めるから」と言っていたからである。だが雲行きが怪しい。佐山は、行ったレスラー誰もが下痢をするというお腹に悪い国メキシコで、とんだり跳ねたりの練習をさんざさせられた挙げ句、帰ったらタイガーマスクになっていた。まっ、これも、梶原一騎的には世界最強なんだが、ネジが外れているんでそんな理屈はわからない。ぶぅたれた佐山は二年後には新日を辞めてしまう。

 さてさてこれからが問題である。佐山が辞めたといっても、地味に三軒茶屋にジムを開いただけだから、大新日本帝国にはさほど影響がない。前田だって、興行のやり方なんか知らないから、押さえておける。ところがこんな平穏な状況は猪木の望むところではなかった。何考えたか知らんが、てきと〜に外様レスラーを集めていきなり新団体を作ってしまった。しかも、その団体=UWFに、エース格として前田を送り込んだ上で、自分はいちはやく手をひいちゃったんである。前田、いきなり野放しである。
 更にまずかったのが、猪木が手を引いた後、佐山にすかさず目を付けられたということだ。おおっ、ジムでちょぼちょぼやってなけりゃいかんかと思ってたら、団体まるごとあるじゃん。最強格闘技できるじゃん。ネジ外れたコンビの前田が反対するはずもない。おまけに、佐山、パソコン持ち込んでどんどんルールブック書いちゃうのである。今でこそ前田もうん百万マックにつぎ込んでいる立派なパソコンおたくだが、当時そんなことやってたのはレスラーでは佐山だけである。いきなり活字で打ち出されてくるルールブックに他のレスラーが圧倒されたのは想像に難くない。かくして、プロレスとは似て非なるもう一つの世界最強を目指す一派、UWFが出来ちゃったんである。
 B型の、人のことなんか考えない佐山は、これだけでは手を緩めなかった。翌1985年には、すかさず「ほんとの最強は新日じゃない。うちんとこだ」キャンペーンを仕掛ける。一部筋では大変有名な暴露本、「ケーフェイ」の発行である。いやぁ書くは書くは。ロープに振られてそのまんま帰って来るなんて約束事だからできるんだ、とか。ブレンバスターなんか相手が協力してくれなきゃ掛けられるわけないだろ、とか。タイガーマスクのやってた四次元殺法なんて格闘技となんの関係もない。あんなの練習せずに思いつきでやってただけだ、とか。
 インパクトは木村政彦の比じゃなかった。何せ、現役の、ちょっと前までは人気の頂点に立っていたレスラーが、微にいり細に穿って八百長の解説をするんである。もはや宗教革命である。ルター、カルヴァン、佐山聡ってなもんである。ただ、この時点では、まだ新教の布教の範囲は実に限られたものだった。ケーフェイの配本部数は少なく、テレビ東京がちっと放映した以外はUWFのテレビはなく、ビデオを買う習慣もプロレス・ファンには根付いておらず、Uは零細団体の悲哀を味わいまくった挙げ句に、前田と佐山の大喧嘩、佐山の離脱、そして新日への不名誉な出戻りという運命を辿ることになる。
 だが、この出戻りを受けちまったのが、猪木の第二の失敗だった。


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