第三章「洗脳社会とは何か」

○油まみれの海鳥

 第二章では、新しくやってくるパラダイムがモノ不足時間余りという、中世と同じパターンが基本となること。しかし「情報余り」「唯一無二の自分」「お勉強」という点で大きく違う、ということを説明しました。
 お待たせしました。この章では、いよいよ核心の「洗脳社会」を取り上げます。

 私たちは今の世界のパラダイム、つまり社会共通の価値感や世界観をどうやって獲得してきたのでしょうか?案外私たちは、今の自分たちの価値観を意識していません。社会から刷り込まれた価値観を「当然のこと」どころか「人間として自明の理」などと考えて、全く疑ってない場合が多いのです。

 例えば私たち現代人は、湾岸戦争の報道の中で「油まみれの海鳥」の映像を見ると、反射的に「環境汚染」という言葉を思い浮かべてしまいます。
 「戦争とは最大の環境汚染だ」と考える人もあれば、「海鳥が、かわいそう」と感想は様々です。しかし、あの「油まみれの海鳥」の映像を見たとき、おそらく殆どの日本人は「フセインはこんな環境破壊をやったのか。許せない」と考えたはずです。
 「戦争という一番くだらないことで、環境という一番大事なことが汚される。いけないことだ。こんな事を許しては、大変なことになる」当時の市民感情は、こんな感じでした。
 奇妙なこととは思いませんか?
 何故、我々は、あの海鳥の映像を見て環境汚染を連想したのでしょうか?別の時代、別の世界の人々なら、おそらくここまで一直線に連想は走らなかったでしょう。当然のことですが「油まみれの海鳥」は、環境汚染だけを意味するわけではありません。
 「うっわー、汚い」と単純に考えてもいいわけです。
 「死にかけてる」とか「食べられるかな」と考えてもいい。
 ギャグとして笑ってもいいし、「これは何という種類の海鳥だろう」と考えてもいい筈です。それなのに私たちの大多数は、反射的に「環境汚染!」と考え「困ったことだ」と考えてしまったのです。
 つまり「戦争は、いけない」「環境は、大事」という価値感が、私たちの心にしっかり刷り込まれているからです。極端な言い方をすれば、そう考えるように洗脳されているということです。
 洗脳されているからこそ、「海鳥の映像」を何の違和感もなく「環境汚染」という意味に読みとってしまいます。その連想は私たちの時代特有のものだと言うことに、気づきもしません。「人間として、当たり前の感情である」という意見も当時はよく言われました。
 つまり、私たちは既に、洗脳されているのです。

○「洗脳」とは何か?

 もちろんこれは、この問題に限ったことではありません。第一章で説明した、現在のパラダイムすべてに関して「そう考えるように洗脳されている」と表現することができるでしょう。
 「高度成長だ。素晴らしい。もっとがんばろう」という考え方も「バブル崩壊だ。大変だ。不景気だ」という考え方も同じです。すべてそう考えるように洗脳された結果だと、捉えることができます。

 洗脳といっても、別に暗い部屋に閉じこめたり、何度も何度も同じ言葉を聞かせたり、薬を飲ませたり、といった特殊なことではありません。それは経済活動と聞いて、強盗や押し売りや恐喝を思い浮かべるようなものです。ここでは洗脳活動を「多くの人々の価値感を、ある一定方向へ向かわせようとする行為すべて」として広義の意味において使っています。

 第二章で説明した、キリスト教の世界観に人々を導くのも洗脳行為です。宗教を盲信する、迷信的な人々を近代的合理主義に啓蒙するのも洗脳行為です。
 そんな可哀想な人たちを放っておけるか、それ啓蒙しろ、というわけで、洗脳といっても別に騙すだけではありません。迷信を信じている人たちを啓蒙する、といえば何となく聞こえが良いですよね。
 こういう場合は、よく「洗脳」ではなく「啓蒙」や「教育」という便利な言葉が使われたりします。が、「その人のためになるかどうか」という主観的で曖昧な基準によって「洗脳」と「啓蒙」を使い分けるよりも、むしろすべてを「洗脳行為」と定義した方が物事が明快になります。

○マスメディアの洗脳

 現在の我々は、マスメディア無しに自分の意見を決めれません。それどころか、進学、就職、結婚、娯楽、これらの判断基準を全てマスメディアに頼って暮らしています。これらの問題を自分一人で考え、結論づけられる人なんて、殆どいません。
 勿論、「私は情報を得ているだけであって、洗脳なんかされていない」という反論もあるでしょう。しかし考えてみて下さい。「価値判断抜き」の情報などを、メディアは流しているでしょうか。
 メディアに載ることが、暗黙の内に価値を認められたという事であり、載らないような情報は価値がない。そんな風に、私たちはいつの間にか感じているのです。
 海の向こうの戦争は、近所の夫婦喧嘩より社会的に意味がある。
 私たちは、いつの間にかマスメディアによって、そのように洗脳されています。メディアに載った情報は、「メディアに載った」という、そのことだけで価値があり、そのことを、疑いすら出来なくなっているのです。
 新聞を毎日読む人は、読まない人を「本当に大事なことに関心がない、ダメな奴」と考えます。
 テレビに出ている赤の他人の夫婦関係を、自分の家族以上に気にしてしまいます。
 しばらく海外旅行に行った人は、むさぼるようにして留守中の「世界の動き」を取り入れようとします。
 つまり、マスメディアに洗脳され、自覚症状のない中毒症にかかり、おまけにそれを正当化しているのです。

 現在、マスメディアの洗脳力は絶大です。システムとして考えても、各家庭に平均一台以上のテレビがあり、多くの家庭が新聞を取っています。世界のどこかで事件があれば、少なくとも1日以内にたいていの人がそれを知ることになります。
 しかも、その情報は「事実のみ」ではなく、その事件が良いことか悪いことか、なぜそんなことが起きたのか、何が良かったせいかあるいは悪かったせいか、といった価値判断込みのものです。

○「高度情報社会」の正体

 私たちは高度情報化社会というと、ついつい「いろんな種類の情報が、溢れる社会」という風に考えてしまいます。マルチメディア本や、インターネット本を見ても、「世界中から情報が集まって、その中の好きなものを選べる」という、楽しいけれど無責任なヨタ話が載っています。
 しかし情報化社会の本質とは、「世界中の小さな事件の客観情報まで入ってくるのではなく、大きな事件の解釈や感想が無限に溢れ出す社会」なのです。

 判りにくいかもしれませんので、例を取って説明します。
 例えば、凶悪な殺人犯が捕まった、というニュースが流れたとします。ここから得られる客観情報は以下のものです。
 「警察は、特定された容疑者を逮捕した」
 「なぜ、容疑者と考えたかというと、このような証拠があるからだ」
 しかし、マスメディアは、この事件を以上のデータを報道するだけでは収まりません。こんな事を連日報道するに決まっています。
 「なぜ犯人は、こんなことを?」
 「この事件は、誰の責任か?」
 「再発を防ぐには?」
 「評論家や有名人は、どんな感想を持っているか?」
 「犯人の知人、家族、被害者の家族の気持ちは?」
 これらのことは客観的な事実、というものがありません。感想であったり、解釈であったりするものです。また、それらの解釈、感想をさらに他のコメンテーターたちが聞いて、自分の意見を述べたりします。そしてそれは、受け手が飽きるまで(売り上げや視聴率が下がるまで)続けられるのです。

 だから、そんな価値判断を除いて、事実のみをより分けて知ることは、とても難しい事です。しかも最近のニュース番組は、ますますワイドショー化されつつあります。つまり価値判断や世界観が、事実よりもずっとたくさん報道されていくようになるのです。
 以上のことから次のことが言えます。
 「高度情報社会とは、情報の数が増えるのではなく、一つの情報に対する解釈が無限に流通する社会である」

○ポスト軍事力としての洗脳

 そして現在の社会ほど、自分という情報に対する解釈、すなわち「自分は人にどう思われているか」が重要な社会はありません。
 例えばそれは、戦争という歴史的な事件にも反映されています。第一次世界大戦、第二次世界大戦、湾岸戦争を比較してみましょう。

 第一次大戦の勝利国は、多大な国土や多額な賠償金を獲得しました。が、それだけでした。
 ところが、第二次大戦の勝利国は、国土や賠償金も獲得しましたが「正義の国アメリカ」という巨大な洗脳力(イメージ)を手に入れたのです。逆にドイツや日本は「ファシズムの国」というマイナスの洗脳力を押しつけられたと言えます。
 これによって日本やドイツは、未だに膨大な負債(マイナスのイメージ)を背負っています。アジアの国に工場一つ作るときにも、他の国とは比べものにならない程、気も使わなければなりません。
 そして、つい最近の湾岸戦争では、戦う前から勝敗は決していました。
 それは洗脳力に圧倒的な差があったためです。現代のような情報社会では、A国対B国という単純な戦争は起こり得ません。A国とB国、どちらの方が軍事力があるか、経済力があるか、という問題よりも、どちらの方が洗脳力が高いか、の方が重要な問題となります。それはすなわち、A国・B国以外の世界中のあらゆる国が、どちらにつくかということを意味するからです。

 フセインのイラクに対してアメリカは「新世界秩序」というイメージで戦力、兵担、資金などを他の国から調達しました。だからこそ、赤字国のアメリカでもあんな戦争が可能だったのです。つまり第二次大戦では戦後の負債であった「イメージ」が、湾岸戦争では「勝敗を決める要因」となりました。
 自分をどう思わせるか、相手をどう決めつけるかといった「洗脳力」が、最大の武器になった戦争だったのです。

○メディアの本質

 こういった戦争における洗脳者としても、マスメディアは大活躍しています。というのも、マスメディアはキリスト教会などの洗脳システムに比べ、より洗脳に適したシステムだからです。
 大量の人間を効率よく洗脳できるという、数の問題だけではありません。マスメディアに限らず「メディア」というのは実は、洗脳のために発達してきたものであり、本質的に洗脳装置であるといえるからです。
 ここの処は、ちょっとややこしいですけど本質的な話をします。

 一般にメディアの本質は「意味の伝達だ」といわれています。
 が、これは大きな間違いです。確かにメディアには「意味を伝達する働き」があります。が、メディアの「本質」という点で考えれば「意味の伝達」ではなく「意図の強制」だと捉えるべきです。まず「言葉」という一番シンプルで、原始的なメディアを例にとって考えてみましょう。

 例えば子どもが崖っぷちに向かって走っていこうとしているのを見つけた親は、 「危ないよ!」と声をかけます。
 「危ない」ことを伝えたいのではありません。
 「行っちゃダメ」と止めたいのです。言葉だけ聞くと「危ない」という「意味を伝達」しているのですが、実は「行っちゃダメ」という「意図を強制」しているわけです。
 そういわれた子どもは「どうして?」と聞きます。
 なぜ危ないのか聞きたくてしょうがない、探求心あふれる子どもだからではありません。できればそっちへ行きたいからです。これも「行ってもいいことにしろ」という意図の強制です。
 それを受けて「落っこちて大怪我するわよ」と、さらに声を荒げて答える。
 言葉は違いますが「行っちゃダメ」という意図の強制力ヴァージョンアップであり、よりエレガンスな表現です。
 これが言葉のない言葉がない動物の場合、「意図」だけが明確に存在しています。
 例えばテリトリーの示威行動。
 「おれの縄張りにくるな!」という意図の強制があるだけです。
 また、優位劣位を確かめる行動も「おれに逆らうな」という意図だけ。
 求愛行動も「おれの女になれ!」という意図だけです。

 このように考えると、言葉のやりとりというのは、実は意図の押しつけ合いだということが判ります。だいたい誰かに何か話そうと思う心の底には、その誰かになにかさせたいとか、何か思わせたいという気持ちがあるからなのです。先ほどの例が別に特殊なわけではありません。
 例えば同僚のA君が上司Bさんの仕事上の不手際を事細かに話してきたとします。その場合はたいてい「おれの味方になってくれ」というのがA君の意図だと考えられます。話の内容や状況によって、どう味方になってほしいかは様々です。
「無能な上司を持ったおれに同情してくれ」とか「上司Aの悪口を一緒に言ってくれ」だとか「仕事のミスは上司Aのせいで、おれのせいではないのをわかって擁護してくれ」といった感じです。これも誰かになにかを話しかけることがすなわち何らかの意図を相手に強制するための行為だというわかりやすい例の一つです。
 こう考えれば、話しかけること、つまりコミュニケーションはすべて意図の強制、洗脳を目的としているといえます。すべてのコミュニケーションとは洗脳行為でしかありえないのです。

○「報道主義」というイデオロギー

 しかし、これがノンフィクション、特にニュース番組や新聞といった「事実」を報道するものの場合、私たちは「意図を強制」されているとは気がつきません。
 私たちはニュース番組を見るとき、ついその内容を「客観的事実だ」と考えがちです。報道に携わっている人たち自身、自分たちは客観的事実を伝えているんだと考えているので、ますますややこしくなります。けれども実は「事実を客観的に報道する」なんてことは不可能です。

 たとえばA国対B国の戦争報道について考えてみましょう。(ここで述べるのは、「A国側、B国側、どちらもきちんと取材して正確に伝えるのは難しい」とか[A国、B国、いずれが悪いにしろ不幸なのは戦争に巻き込まれた一般市民である」という捉え方も一つの洗脳行為になるといったことだけではありません)
 もともと報道というジャンル自体が「隣の家の夫婦喧嘩よりも、遠い国の戦争の方が大切なことだ」といった報道主義的価値感を強要してきます。
 確かにこういった「世界や日本で起こっている政治や経済のことを知りたがり、いろいろ自分で考えたり批判したりするべきだ」という価値体系は、民主主義を支える基本の考え方になる大切なものです。が、大切であろうとなかろうと、洗脳行為であることに違いありません。それはワイドショー番組が「隣の家の夫婦喧嘩よりも、遠い東京の地下鉄サリン事件の方が大切なことだ」という価値基準を強要してくるのと全く同じことです。

 ジャーナリズムとは、「報道主義」という意味です。もちろんそれは「主義」なのですから「暗黙の前提」を中に含んでいます。それは「報道という行為は正しい」という前提です。
 中立的な報道、報道の義務、報道人のモラル、いろんなことがメディアでは語られます。しかし「何で又、報道なんて必要なの?」といった本質的な問いは、いつの間にか「みんなが望んでいることを報道する」という答えにはぐらかされます。
 ジャーナリズムは、一見「事件」等の情報を流し、「意味を伝達」しているかに見えます。しかし実際は「こんな大変なことが起こった=この事件は、みんなにとって大事なことだと思え」という意図の強制を行っているわけですね。その結果、私たちにとって新聞を読み、ニュースを見るのが常識になってしまいました。つまり、「ジャーナリズムの必要性」を洗脳されたのです。
 私たちに、そんな奇妙な考えを刷り込んだジャーナリズム。これも立派な洗脳と言えるわけです。

○兵器としての映画

 さて、言葉よりも複雑なメディアは、「意図の強制」は発見しづらくなります。
 例えば映画やテレビドラマ、ゲーム。こういった複雑で総合的なメディアの場合、「意図」は巧妙に隠されていたり、作り手の思わぬところについ入ってしまっていたりします。ここで「作品の意図」といえば、作品のテーマのことだろうと単純に考えてはいけません。
 例えば映画の一カットに「どんより曇った空」があったとします。その意味は「空が曇っている」というだけです。そのうえにストーリーの文脈上「雨が降ってほしい」とか「降ったら困る」とかといった意味がつきます。
 が、それだけではありません。それが主人公の暗い気持ちを象徴していたりするときもあれば、これから起きる事件を暗示している場合もあります。また、そのときの空の色や雲の流れが美しく、作品全体のトーンにあっている、ということも大切です。
 このトーンや美意識を、「こういうのが綺麗だと、あなたも思いなさい」という意図の強制である、と考えてみて下さい。こういうことを書くと「被害妄想症か、サブリミナル・バカ」と思われそうなので、もう少し説明します。

 大体、美の基準等は個々人によって違いはあれ、ほぼ同じです。何を見て美しいと思うか、醜いと思うかはある程度同じなのです。ところが、「ある程度、同じ」では映像作品は成立しません。
 例えばアクション映画で、食肉工場の倉庫に主人公が逃げ込むシーンを考えてみましょう。白々とした蛍光灯の光、主人公の吐く息の白さ、天井から無数に釣り下がっている牛の死体が緊張感を高めます。そして、このシーンの撮影場所をここだと選んだのは監督です。彼の美意識は、ここが緊張する、非日常的空間だと主張している訳です。
 ところが食肉加工業者にとっては、ここは毎日の職場です。では彼は、大多数の観客のようにこのシーンに緊迫感を感じないでしょうか?そんなことはありません。 前後のストーリー展開、緊迫する音楽、不安げな主人公の表情。こういった「総合的なシーンの描写」で、食肉加工業者も又、このシーンを不気味に感じてしまいます。この映画を見終わった後、しばらく彼は自分の仕事場に違和感を持つでしょう。つまり「監督やスタッフの解釈や美意識」を刷り込まれたわけです。「食肉加工倉庫は不気味だと思え」という意図を強制されたのですね。
 映像(特に暗い場所で集中する映画)は、このようにして見ている人間の美意識を、スタッフの解釈通りに均一化します。そうしないとモンタージュやメタファーといった映像技法は通用しませんし、ストーリーを語ることも困難になってしまいます。

 ストーリーを見ているつもりが、いつの間にかライフスタイル、価値観を刷り込まれている。フランスがよく主張する、「ハリウッド映画は、文化侵略である」というのは、こういう意味です。独裁者たちが、必ず映画好きなのも、同じ理由です。
 フランスの建築家P・ヴィリリオは「統一的なアメリカのイメージを作り、広めたのは軍産複合型の映画であった。その中ではアメリカの日用品などのデザインを通じてプロパガンダ戦略が展開された」といっています。
「洗脳と気付かせない洗脳」が、最も効果的なのです。

 そのうえ、良い作品であればあるほど、作品全体で一つの価値体系や世界観、美意識を表現しています。こういった複雑な意図の押しつけは、もはや洗脳行為だといって差し支えないでしょう。その時代の不安や不満という「洗脳ニーズ」にあった作品は、大きな洗脳力を持ち、人々を動かすことができます。
 一度、「フォレスト・ガンプ」や、ビートルズの歌、東京オリンピック等を、「作者の美意識や価値観の押しつけ」という視点で捉え直してみて下さい。古き良きアメリカ、自由、繁栄と国際化。作者たち自身も、自分では気付かなかった価値観を見つけられるかもしれません。

○「自由洗脳競争社会」

 このように、あらゆるメディアは洗脳装置です。メディアとは、洗脳装置としてしか存在し得ないのです。私たちは生まれてすぐ、母親や周りの人間から洗脳され始めます。それは「しつけ」や「教育」「常識」「教養」といったような言葉で表現されている洗脳です。そして、それら洗脳の中でも、近代においてもっとも巨大で効率的な洗脳装置が、マスメディアだったのです。

 が、現代はそれが少しづつ変わりつつあります。まだまだごく一部の人たちにとってですが、パソコン通信といった、双方向発信のマルチメディアがマスメディアに変わって大きな位置を占め始めているのです。
 今までマスメディアに一方的に洗脳され続けてきた一般人が、初めて自分から不特定多数の人に向けて自分の意見を述べるシステムを手に入れたのです。
 マルチメディア内では誰もが情報発信者、つまり洗脳者になりうるし、同時に誰もが被洗脳者でもあります。今までマスメディアから洗脳を受け続けるだけだった被洗脳者たちは、マルチメディアの発達によって解放されるわけですね。
 こうした誰もが洗脳者になれる社会を、私は「自由洗脳競争社会」という言葉で捉えています。これは近代が「自由経済競争社会」であったことに対して、私が考えた造語です。

 「洗脳競争」などというと、何かとてもあやしげで罰当たりな感じがするかもしれません。しかし、決してそうではありません。
 例えば中世ヨーロッパの人たちが「自由経済競争」という言葉を聞いたら、たぶん「哀れみの心、慈しみの心のなくした悪魔のような人たちばかりの社会だ」と恐れおののくことでしょう。
 だって考えても見て下さい。自由経済競争の原理とは「みんなが自分の利益ばかり考えたら、結果的に社会は安定する」などというメチャクチャ罰当たりな考え方なのです。では、私たちの今の世界は「欲ボケばかりが徘徊する、この世の地獄」でしょうか?
 いいえ、けっしてそうではありません。いつの時代も新しいパラダイムは、古いパラダイムにどっぷり浸かっている人からは罰当たりに思われがちなのです。

○経済から洗脳へのバトンタッチ

 近代の経済成長が、「自由経済競争の原理」の上に成り立っていることは、改めて説明する必要はないでしょう。個人個人が自分や自分の会社の利益のみを追求することが、結果的に社会全体を活性化し、社会に動的安定をもたらし、全体的な経済成長を促す、という考え方です。
 もちろんこれは近代独特の特殊な考え方です。中世では「自分の利益を追求する」なんて罰当たりなことが「正しい」「社会のためになる」なんて誰も思いつきませんでした。それよりも貧しい人に施しを与えることの方が立派でした。それどころか、働かず貧しく清らかな生活をしている人の方が、現世の欲に溺れている人よりずっと尊敬に値すると考えられていました。

 それが、第二の波・産業革命とともに、大きく変化したわけです。それまで固定されていた身分は流動的になりました。そして全ての人に、豊かになるチャンスが与えられたのです。
 自分の才能を生かし、チャンスを生かし、一生懸命働いて成功することこそ、立派なことだと考えられるようになりました。
 逆に貧乏に甘んじているのは、怠け者で情けない人たちと決めつけられました。
 もちろん「施し」に代わって「福祉」という制度も誕生しました。が、いきすぎた福祉は、自分から働こうという意欲をなくすので良くない、と言い出す人たちの声は自信に満ちていたのです。
 自然界においては弱いものは早く死に、強いものが長生きし、たくさんの子孫を残す。これが結果的にその種族全体を存続し繁栄させることにつながるわけです。それと同様、人間社会も自然淘汰してこそ社会が正常に発達する、常に新しい強いものが社会のピラミッドをのぼれる社会、これこそがよい社会だと考えられるようになったのです。

 それまでは変化のないことこそ、安定した社会の条件でした。自分が農奴に生まれてきたのは神の御技です。それを変化させようなどというのは、とんでもないことでした。それが常に皆が上をめざし、強いものがより上へのぼり、弱いものは落ちていく、この動きによってバランスが保たれるというのが自由競争社会の原理となりました。
 あたかも生物が食物を取り入れ燃焼させ、体を維持しているように、循環させることによってバランスが保たれるのです。生物は皆血液を循環させ、酸素やエネルギーを体中に運び代謝しています。止まっているのは死んでしまった生物だけです。
 ですから、自由経済競争においてもっともいけないことは、こういう自然の動きを止めることです。会社の莫大な財産を、子どもに継がせようとしたり、価格協定を結んだり、ギルド制を復活させて自由に職業に就けなくしたり、保護貿易を行ったり。
 こういった制約がないほど、経済活動はより活発に、そして正常に行われるわけです。土地中心の封建制度が革命などによって崩壊し、自由主義国が誕生したといわれます。この「自由」というのは自由経済競争の社会が誕生した、ということなのです。
 そして現在、新しく変化しつつある社会とは、経済行為が自由になった近代に対し、洗脳行為が自由になり個人に解放されつつある社会である、というのが本書の主張です。

○独占されていた「洗脳装置」

 実は今までは、ずっと洗脳行為は常に権力者に独占されていました。中世ヨーロッパにおいては、それはもちろんキリスト教の聖職者たちによってです。それはどんな小さな村にも教会をおき牧師を送り込む、という原始的な方法でした。
 それに対し、近代の科学主義的価値感は、まず革命家や、それを継ぐ資本家によってなされました。洗脳活動はマスコミという文明の利器が活用されました。それは当初、新聞中心だったのがラジオ、そしてテレビに進化しました。
 今ではマスコミ自体が産業界や財界の意図を離れ、マスコミ自体の必要性を訴える洗脳装置となっているわけですね。
 もともとマスコミを中心とするマスメディアは、科学技術の発達の産物として生まれました。いわば科学の樹になった果実です。
 そびえ立つ科学の大木は、人々の不安を吸い上げます。「いつかは科学の力で病気がなくなる」「貧富の差もなくなる」。マスメディアは、そんな「科学という神」を宣伝するショーケースであり、人々はその美しさを愛でました。
 が、それだけでは終わりませんでした。特にマスコミは民主主義というシステム上、必要不可欠なものです。自分たちの利益を代表するはずの政治家が、公約通り自分たちの利益を守っているかを確認するためには、マスコミという広報機関がどうしても必要だからです。

 国民にとってはそういう意味を持つマスコミですが、政治家にとっては大変便利な洗脳機関でもあります。国民はマスコミを通じてあっというまに科学主義、自由経済主義、民主主義といった考え方を吸収しました。国民はマスコミによって経済成長を実感しました。つまり「科学が発達し、より豊かになっていく今の世の中はすばらしい」と洗脳されたのです。国はどんな田舎でもNHKが映るようにがんばりました。国民は少々貧乏でもテレビを買いました。

 こうしてマスコミの力はどんどん増大し、やがては政治家や科学者にも統制がとれなくなってしまいました。マスメディアの実は膨らみ、重くなって、やがて科学の樹からどすっと落ち、地面に根を生やし一人立ちしたのです。
 こんどはマスメディアという大木が育っていきます。「みんなに私の悩みを聞いて欲しい」「みんなで考えなければならない問題だ」人々の不安を吸い上げて、メディアの樹は大きくなる一方に見えます。
 現在、マスメディアは相変わらず洗脳行為を独占してはいます。しかし、こうなるとマスコミ内部での矛盾が目立ち始めました。
 同じ事件に対するメディア毎の取り組み方の差が気になり始めます。
 どのTV局も同じことをいうときにはかえって胡散臭さを覚えます。
 裏で何かあるのではなかろうか、と勘ぐってしまうのです。こうした疑惑は洗脳装置としては致命的ですよね。

 今や皆マスコミを信じ切れずに、ある意味で途方に暮れています。第二章で書いたように、新しい「人生悩み相談引き受け係」が必要とされているのです。つまり新しい洗脳システムが求められているのだ、とも言えます。
 ここで必要とされる洗脳装置は、もはや単一の価値感を提供する一つの団体の為のものであることは不可能です。マスメディアの異常発達によって引き起こされた「情報余り」の状態が、単一価値感を保つことを不可能にしているのです。
 つまり、「第三の波=情報革命」によって引き起こされるのは、単一洗脳システムの崩壊であり、マスコミ独占洗脳体制からの解放です。そしてこの解放を具体的に支えるのは、マスメディアが生み出し、今もっとも注目を集めている「マルチメディア」なのです。
 私が既存の全てのマルチメディア本、インターネット本を批判する理由は、これです。多くの学者や専門家たちが「デジタル革命」と脳天気に呼んでいる技術革新は、実はこういう社会変化・価値観変化を内包しているわけですね。

○市民に開放された「洗脳」

 ここまでの話しで、ちょっと変に思われた方も多いでしょう。
 「ちょっと待て、お前は第一章で「科学は死んだ」と言ったぞ。なのに今度は「マルチメディア万歳」と言うのか?」
 うーん、見事なツッコミです。でも、矛盾はないつもりです。
 「科学が死んだ」という意味は、「もはや私たちは、科学によって幸せが来るとは信じられない」という意味です。しかし第二章で説明したとおり、農業革命や産業革命といった技術革新が旧い世界に引導を渡し、新しい世界を創る。
 マルチメディアとは、この新しい技術革新です。これによって起きる価値観変化は「科学主義」という、いわば「物質文明」「経済・産業主義」に引導を渡します。
 なんかハイテク・ヒッピーみたいな人だと誤解されそうなので先に言っておきます。私は「物質文明が終わって精神文明が来る。そこでは人々は本当の心のやすらぎを云々」なんて陳腐なことを主張するつもりはありません。「精神文明」が来たとしても、我々はそこで相変わらず悩みを持ち、競争するのです。「みんなが豊かになれる社会」という近代の正体が「どれだけ豊かになれるか競争すること」だったように、新しい社会でも競争はなくなりません。その競争のツールがマルチメディア=デジタル革命なのです。
 マルチメディアは、これまでマスメディアの特権であった洗脳を一般市民に開放します。それは農業が部族長の特権だった食事の保証を解放したのと同じです。産業革命は貴族の特権であった「芸術」「生活」を市民に開放しました。それは第一章で触れた「演劇は映画になり、室内管弦楽はレコードになった」と言うことです。

 「技術は権力者の特権を市民に開放する」
 これが原則です。だから「マルチメディアの力が、権力者の特権『洗脳』を市民に開放する」ということが言えるわけです。


 今まで説明したことを、まとめてみましょう。
 「マルチメディアの発達によって、歴史上初めてすべての人々が被洗脳者から洗脳者になるチャンスを与えられるようになる。それによって自由洗脳競争が始まる。
 人々のニーズをつかみ、もっとも効率よくそれを生産して販売することによって多くの富を得られるのが、自由経済競争社会。それに対し、人々の不安や不満をつかみ、もっとも効率よくそれを解消する方法を提案することによって、多くの尊敬と賞賛を得られるのが自由洗脳競争社会。得られる利益は経済利潤ではなく、洗脳利潤、つまりイメージである」
 これが「洗脳社会」「自由洗脳競争」の定義です。

○実例1・「パソコン通信の世界」

 「自由洗脳競争」の土壌はすでに社会の特殊な場面で生まれつつあります。
 例えばパソコン通信という環境。パソコン通信は、誰もがそこに書き込まれていることを読むことができると同時に、誰もが不特定多数の人たちに自分の書いたものを見せるということが可能になった世界です。パソコン通信の最大・唯一の特色はそこにあります。
 パソコン通信というと「ワープロ入力で送る電話器」とか「紙の要らないFAX」というイメージがあるかもしれません。また、株価や円のレート、翻訳サービス、新聞の検索サービスといった情報サービスが素晴らしいと考えている人もまだまだ多いようです。
 しかし、現実にパソコン通信の最大手であるNIFTY・Serveの利用実態をみてみると、それが全く見当違いであることがすぐに判るでしょう。

 会員数111万人を誇るNIFTY・Serveの最大の魅力は、フォーラムを読んだりフォーラムに書き込んだりすることです。NIFTYでは話したいテーマごとに「フォーラム」というサークルに分けられています。たとえば映画のフォーラム、パソコンのフォーラム、料理のフォーラム、アニメのフォーラム、といった具合です。95年夏現在、746ものフォーラムが存在しています。それぞれのフォーラムごとに更に細分化された「会議室」が10〜20あります。つまり七千〜一万四千もの会議テーマが存在しているわけですね。

 これらのフォーラムの中で、もっとも書き込み数、参照数ともに多いものの一つにアニメーションフォーラム群があります。アニメーションフォーラム群は「アニメ」「特撮」「声優」の三つのグループに分かれ、全部で十三ものフォーラムがあり、二百以上の会議室が軒を並べています。
 このフォーラム内では、アニメに関する自分なりの意見や感想が盛んに交わされています。自分なりの意見でよいわけですから、そのことに興味がある人なら誰もがいつでも意見を発表することができるわけです。また、それを読んだ見ず知らずの人が「自分の発言に対する意見」(発言に対するRES、と呼ばれます)を書いてきたりもします。
 当然自分も「他人の発言に対するRES」を書き込んだりもできます。テーマが決まっている「電子井戸端会議」というのが一番近い表現でしょうか。アニメのフォーラムではアニメ業界の人も読んでいる人が多いし、中には書き込んでくれる人もいます。憧れの監督から返事をもらえることもあり得るし、その監督とタメ口で議論、なんて話も珍しくありません。

 実際は書けばすぐ返事が返ってくるわけではないので、交換ノートともいえます。(すぐ返事が返ってくるCHATと呼ばれる電子会議システムも人気です)井戸端会議ですので、ベテランで、デカい顔をして、いろいろ新参者に教えてやるお節介がいたりもします。皆の知らない最新情報や裏情報を知っているためや、見識のある発言で一目置かれている人もいます。いろいろな人にうまく愛想のいいRESを書いて好かれている人もいますし、逆の理由で嫌われている人もいます。
 ただ、この井戸端会議の凄いところは日本中から、電話料金さえ気にしなければ、世界中から参加可能なところです。しかもそれが人気フォーラムともなれば、その井戸端会議で口を開く人が何百人、何千人、回りで聞いている人が何万人、何十万人単位といるわけですね。
 文芸春秋の発行部数が××××部、週刊朝日の発行部数が□□□□部だということを考えてみてください。この数がいかに大きな影響力を持ちうるかは簡単に予測できることです。しかも、NIFTYの利用者数、フォーラム数、フォーラム書き込み総数、参照総数、どれをとってみても増加の一途をたどっています。

 また、NIFTY以外の小さいパソコンネットも、数が増えつつあります。同時にこういった草の根ネット同士をつないでNIFTYに対抗する自分たちのネットを作ろうという動きもあるようです。今、流行のインターネットも目が離せません。
 30年後、パソコン通信の実態がどうなっているか、一つに統合されているのか、無数の小さいネットなのか、それらの連合がいくつかあるのかは判りません。
 が、パソコン通信が私たちの生活に深く入り込んで、社会の自由洗脳競争を支える土台の一つとして大きな役割を果たしていることだけは確かでしょう。

○実例2・「コミックマーケット」

 コミックマーケットという同人誌即売会があります。
 通称「コミケ」と呼ばれるこの同人誌即売会は、毎年夏と冬に晴海の見本市会場や他の巨大な会場を借りて盛大に行われます。ここでは、アマチュアでさえあれば誰でも少しのディーラー料を払うだけで自分たちで作った同人誌を売ることができます。
 ディーラー希望数は毎年増加の一途、(毎回三万以上のサークルが申し込み、一万六千程度のサークルが参加を認められる)また、その同人誌を買いに来るお客さんたちも十五万人を越え、販売される同人誌の売上冊数は四百万部以上、総売上金額は毎回二十億円を超えています。そのため、2日ずつディーラー総入れ替えで行ってきたコミケは、今年から3日ずつと増やされたくらいです。夏冬2回のコミケを運営するためだけの会社、株式会社コミックマーケットが作られたほどですから、いかにすさまじいものかお判りいただけるでしょうか。

 このコミケの特徴は、なんといっても「本さえ作れば誰でも参加して売ることができること」です。もちろん誰でも買うこともできます。完全に双方向の自由洗脳競争状態といえます。
 会場では10冊20冊単位のコピー誌から、プロ顔負けのフルカラーの同人誌まで売られています。実際、人気同人誌はわずか数時間で数千冊を売り切ります。少部数人気同人誌などは、会場前に他のディーラーたちが買い占めに走るというのですから、双方向もここまでくれば立派なもんです。

 人気同人誌の中には、プロのマンガ家が名前を変えたり、あるいは本名で描いているものもあります。その方が様々な制約から逃れて自分の描きたいものが描ける、というのが主な理由であるようです。他人の作品のキャラクターを使用したり、パロディにしたり、ちょっとHな要素をふんだんに入れたりも自由です。
 が、別にプロが描いているものが売れて、アマチュアのものはあまり売れないと言うわけではありません。また、編集ソフトやワープロの普及によって、アマチュア製だからといってほとんど見劣りがしなくなりました。コミケ会場においては、プロは供給側、アマチュアは消費者という図式は全く当てはまりません。自由洗脳競争社会がここではすでに成立しているのです。

○洗脳社会の勝者

 近代を「誰もが豊かになるために競争する社会」と表現するなら、これからは「誰もが他人に影響を与えることに競争する社会」と言えるでしょう。近代の自由経済社会が弱肉強食であり、新陳代謝することによってバランスが保たれるのと同様、来るべき自由洗脳社会も弱肉強食であり、新陳代謝することは避けられない必然です。
 経済力が個人や団体の能力によって評価されるもので、子どもに継がせたり、価格協定したりするべきでないのと同様、自由洗脳社会においても、世界観やキャラクターを子どもに継がせたり、国やテレビ局同志が情報規制をしたりするべきではありません。
 そんなことをしたら、結局損をするのは自分たちです。人々が求める価値感や世界観は一定ではなく、常に社会の変化とともに変化するからです。つまり、不要なイメージの在庫を貯め込んでいたら、せっかく新しいイメージを打ち出そうとしても効率が悪くなる、といったところでしょうか。

 また、人々の不安や不満のある部分を埋める価値感が大きく受け入れられれば、別の部分で不満や不安が出てきます。その上、世代や年齢・性別・生活水準・職業や立場・性格など、様々な要因によって求められる価値感や世界観が、同じであるはずもありません。こうして刻々と移り変わる、様々な不安を解消するためには、単一の価値感やパラダイムでは不充分なのです。

 現在、様々な商品が様々な年齢や生活水準の人のために存在するように、様々な価値感・世界観が様々な人々の要望に応えて存在する世界。それが、これからやってくる洗脳社会のリアルな姿です。みんなテレビを見て社会から遅れないように、また、はみ出さないように気を使っていたのが、自分なりの常識で世の中を動かそうとしのぎを削る社会になるわけです。
 といっても、皆が好き勝手に行動するのではありません。具体的には「ぼくの周りではみんなこう思っている」とか「今自分が注目しているあの人がこう言った」といった、様々な価値感を複数選択して組み合わせ、自分なりの価値感を作り出すことになるでしょう。洗脳社会の中での、個人のふるまいに関しては、次章で詳しく説明します。

○「洗脳力」のある企業

 現在も自由経済競争の原理が崩れ、自由洗脳競争の時代に入りつつある兆候はそこかしこに見られています。
 例えばディズニーランド。
 ここはバイト不足に悩んだことはありません。あんなに就職したがらない若者たちも、ディズニーランドには就職したがります。これを見て一般企業はCI戦略を考えてみたり、テレビで自社のイメージCMを放映してみたりします。が、これは「これからの男は金じゃない。中身だ!」と言われて、服や靴を買うようなものです。確かに身だしなみに気を使うことは清潔感やまじめさをアピールする上で多少効果があるかもしれませんが、これだけで何とかなると考えるのは大間違い。

 例えば普通の企業にはなくて、ディズニーランドにあるものは何でしょうか。みんなが持っているディズニーランドという職場に対するプラスのイメージです。お金儲けではなく、人々をとことん楽しませようというコンセプト。明るく楽しそうな職場。才能に応じて様々なことにチャレンジさせてくれそうな開かれた感じ。アメリカ的合理主義による整然とした運営方針。
 別にディズニーランドがそんな職場だといっているのではありません。そうではなくて、みんな何となくそんなイメージを持っているということが大切なのです。こういうプラスイメージが現代では資本力よりも大きな力を持ちつつあります。
 私はこういうプラスイメージを、「資本力」に対して「洗脳力」と呼びます。洗脳力のバロメーターは、就職希望者数だけではありません。必要ないものを買わせる力も、その現れです。

 ディズニーランド内で売っているミッキーの耳付き帽子。町中では絶対かぶれないこの帽子を、園内でかぶって歩いている人をよく見かけます。これも、洗脳力のなせる技です。(洗脳が進むと、逆に町中でも平気でかぶれるようになってしまうのですが)
 だいたいミッキーマウスグッズ自体、洗脳力のたまものです。耳のでかいネズミの絵がついているだけで、普通の2倍も3倍も売れてしまいます。これは小さい子どもがクレヨンしんちゃんやセーラームーンの商品を欲しがるのと似ていますが、もう少し事情は複雑です。単純にお話やアニメの中のミッキーが好きで友達のように思っているからではありません。もっと「ミッキーマウス」にのっかっているイメージがほしいのです。
 「アメリカっぽくて、センスの良い」「オバサンぽくない、夢をなくしていない」「キティちゃんほどガキっぽくない」等々。これも洗脳力が高いと言える事象です。
 これからのモノ不足の社会では「品質の高いより良いもの」を提供する、経済活動はどんどん縮小され軽視されるようになります。と同時に、こういった洗脳力の差がもっと大きく影響するようになっていきます。
 私たちは洗脳力なんていったって、所詮イメージにすぎないとつい考えてしまいがちです。が「お金」というもの自体がただの紙切れであってイメージにすぎないことを考えれば、イメージがいかに大切であるか、少しは納得していただけるでしょう。

○架空企業「S.D.L」

 ここで少し、経済影響力がもっと小さくなって、洗脳影響力がもっと大きくなった近未来社会を考えてみましょう。その社会にそのとき巨大な洗脳力を誇る、ある団体が存在するとします。仮にこれをスーパーディズニーランド(S.D.L)と名付けてみましょう。別にこの団体は、遊園地を経営してるわけではありません。コンピューターソフトの開発をしているかもしれませんし、酒を造っているかもしれません。

 S.D.L.は殆ど全てのスタッフがボランティアです。それでも参加希望者は後を絶たないので、他の団体や企業より優秀な人材が集まります。スタッフは無給ですが、宿泊施設や食堂が完備しているので、当座困ることはありません。
 S.D.L.のほとんどの敷地や設備も、様々なところからの寄付や無料貸与によってまかなわれています。従ってS.D.L.の維持費は他に比べ異常に安いと言えます。それに伴い、営利を目的としないS.D.L.の生産品も破格の安さです。
 S.D.L.は経済的に見ると、資本金も資産も取るに足らない小さな企業です。が、人々に対する影響力、つまり洗脳力では爆発的な力を持っています。これが洗脳社会に置いて、優良な会社です。

 「ちょっと待った。そんな組織、会社って『カルト教団』じゃないのか?」と思われる方も多いでしょうから説明します。
 「自由経済社会」を理解できない昔の人は、こう考えるはずです。
 「『自由経済社会』って、要するにどんな手を使っても、金を得た奴が勝ちなんだろう。だったらそんな社会って泥棒だらけじゃないのか?」彼の考えは理解できますが、ハズしていますよね。
 「自由経済」だからこそ、最も忌むべき犯罪は他人の財産を不当に横取りすることなのです。
 「自由洗脳社会」でも同じです。この社会で最も忌むべき犯罪は「他人を強制的に洗脳すること」です。
 お互いに自由に洗脳しあっているからこそ、社会は安定し、人々は安心して色々な価値観を試し、洗脳されることが出来る。そんな中で他人を拉致監禁して、強制洗脳する事は最も嫌悪される行為です。そして「プラスのイメージ」が資産になる洗脳社会では、みんなから嫌悪される、というのはとてつもない大ダメージなのです。

○未来企業を左右する「イメージキャピタル」

 経済社会の考え方にどっぷり浸かっている私たちは、ついお金やモノの多い少ないで物事のすべてをはかろうとしてしまいます。
 高度経済成長の真っ最中の頃、私たちは「大きい会社」が偉いと考えていました。敷地も設備も社員数も資本金も、とにかく大きいことはいいことでした。安定した立派な会社でした。ところが最近は、小規模で利益率の高い「ベンチャー企業」の方がよいとされています。
 「大きさ」より「儲け」の時代になったのですが、これはどっちにしろモノやお金に縛られた考え方です。が、考えてみればS.D.L.のようにお金や資産がなくても人が動いてくれて、生産物(おそらくソフトウェア)が熱狂的に受け入れられれば、同じことです。
 巨大な資本で人やモノをお金で買収するかわりに、強力な洗脳力で人やモノを動かすのです。
 そして、これからの「モノ不足情報余り」の社会は「お金」よりもイメージ、つまり洗脳力によって物事が動きやすい時代なのです。

 これからの企業にとって、生き残る為に最も大切なことは洗脳力と言えます。現在でも、企業ごとに洗脳力は大きな差があります。また、人々の心に潜在的に存在するイメージも会社によって違います。私はこれを、経済資本に対して幻想資本(イメージキャピタル)と名付けてみました。

 これからの企業は、幻想資本がなければ誰も雇えないし、仕事も取れないし、商品も売れない、株すらも売れない、と言う状況になります。洗脳力というのは、CIやブランドイメージではありません。あえて言うなら、会社のキャラクターやイメージリーダーという感じでしょうか。従って、単純で具体的であることが大切です。
 その為、安定した大企業で会社の顔が特定できないようなところは、高い洗脳力や豊富な幻想資本を持つことが大変難しいと言えます。
 逆に、小さいけれども急成長していて注目を浴びやすいベンチャー企業などは、洗脳力を持ちやすいでしょう。こうしたベンチャー企業には、たいてい伝説の創設者や伝説の事件、みたいな話が伝えられていて、それがその企業のイメージを代表しています。(APPLE社が有名な例です)
 こうしたイメージキャピタルを利用して、スタッフやボランティア、スポンサーのサポートを使い、新しい商品を売り出したり、新しい戦略を打ち立てたりするわけです。そして、その商品や戦略によって、より強固な、もしくは、別の新しいイメージをまた作り出します。近代の企業がお金を投資して、より多くのお金を獲得するように、洗脳企業はイメージキャピタルを投資して、より多くの、より良質のイメージを獲得するわけです。

○イメージキャピタルに恵まれたSONY、APPLE

 イメージキャピタルを投資する、と言う表現は少しわかりにくいかもしれません。が、先ほどのS.D.L.の例を思い出して下さい。
 洗脳社会の企業の仕組みはこうです。
 まず、その企業やグループを代表するキャラクターやイメージリーダーが存在します。たいていそれは一人の人です。たまに、そういったキャラクターの組み合わせとして2〜3人のグループという場合もあります。
 人々は、このイメージリーダーが持っているイメージを、グループ全体のものと考えますし、そのグループの活動は、そのイメージリーダーがやったこと、少なくとも指示を出したことと考えます。
 そして、このイメージリーダーの価値観に賛同する人が、ボランティアスタッフとして集まるわけです。社員のように、かかりきりで働いてくれる人もいれば、自分がいる会社の自分の立場を利用して、いろいろの物事を少しづつ融通してくれる程度の人もいます。
 また、そのまわりにはサポーターとでも呼ぶべき「ファンとお客さんの間」みたいな人たちがいます。これはJリーグのサポーターと考えてもらってもいいですが、もっとわかりやすいのは、一昔前のSONY商品のユーザーです。

 少し話は、ずれますが「イメージキャピタル」の良い例なので、説明します。
 SONYの新製品が出ると必ず買うというお客さんがいました。もちろん必要かどうか、いい商品かどうかは関係無しです。彼らは「SONY」という会社のイメージに賛同し、そのイメージが欲しくて買うわけです。
 都会的でハイセンス、最先端技術を駆使した若者のための、といったイメージです。と同時に、彼らは彼らの好きなSONYがよりSONYらしくどんどん育つように、それを支えるつもりで買っているわけでもあります。ですから、彼らは非常に優秀でシビアで的確な製品チェックモニターでもあったわけです。こういった人たちはサポーターの鏡ですね

 熱狂的なファンを持つAPPLE社も同じです。伝説に包まれた強烈なキャラクター「二人のスティーブ」ことワガママ・ジョブズと菜食主義者・ウォズニアクが作った小さなコンピューター、アップルは瞬く間に世界を変えました。当時のハッカーたちはこの会社を熱狂的に支持し、不世出の天才ビル・アトキンソンや「砂糖水売りなんか辞めろ」と説得されてペプシ社副社長を退任、APPLEの社長に就任したジョン・スカリーなどが雲の上の神々として神話を作り上げました。
 これらの神々が「理想のコンピューターを創るために、巨人IBMに戦いを挑む」わけです。熱心なアップル・ユーザーは「エヴァンジェリスト(伝道者)」と呼ばれた程です。
 いまだにAPPLE社のユーザーは故障の多く、割高感の拭えないマッキントッシュ・コンピューターを嬉々として使っています。(ファンやAPPLEの方、気を悪くされたら謝ります。私自身もAPPLEユーザーなんですが・・)
 SONYやAPPLEの最大の資産は、その技術力ではなく、そのイメージなのです。

○イメージキャピタルの投資と回収

 さて、ずれた話しを元に戻して、このように企業は1〜3人のイメージリーダーとボランティアスタッフと、多くのサポーターによって成り立つことになります。ボランティアスタッフやサポーターの数は、当然その企業の洗脳力に大きく左右されます。イメージリーダーが一声かければ何人のボランティアスタッフがどれだけ働くか、何人のサポーターがどれだけ買ったり参加したりするか、これがその企業のイメージキャピタルだ、とも言えます。
 そして、その企業は活動するときは必ずそのイメージキャピタルを使います。つまりボランティアスタッフに働いてもらったり、サポーターに買ってもらったりするわけです。その結果、あまり良い商品ができなかったり、良いイベントが打てなかったり、良い宣伝ができなかったりすれば、当然イメージキャピタルは減ってしまいます。
 逆にうまくいけば、今まで以上にボランティア希望者は増え、サポーターも増えます。イメージキャピタルは増大するわけです。また、今までのイメージと違う活動をすれば、別の新しいボランティアスタッフやサポーターがついたりもします。シェアの拡大による資本の増加です。
 また、イメージキャピタルは現状維持では確実に目減りします。自分が一生懸命手伝っているのに、相変わらずでは人は離れてしまうからです。そういう意味では近代企業が何もしないと、維持費でどんどん資本が減っていくのと同じです。洗脳企業も常に新しい活動を続け、拡大をめざさなければならないわけです。

○洗脳社会での消費行動

 これからの消費行動は、どんどんサポーター的要素が強くなっていくでしょう。つまり「物を買う」「お金を払う」という行為が、自分の欲しいものを手に入れるため、自分の望むサービスを受けるためではなく、自分が賛同する企業やグループ・個人を応援するためと考えられることが多くなる、ということです。
 SONYやAPPLEのサポーターのような考え方をする人が増える、ともいえます。それは、単純に人数の問題だけでなく、一人の人がサポーターとして使う金額も増えますし、一人の人がサポートする企業数も増えます。
 また、それぞれの人の気持ちの中でも、より自覚的・意図的に「○○を応援するため」「○○を育てるため」と考えてお金の使い方を決めるようになります。そういうサポーター的お金の使い方が格好いいと考えられるようになり、逆に自分の物が欲しさにお金を使ったり、どこにサポートしていいか判らなかったりすることは格好悪いことになります。また、いくつもの団体をサポートしている、そのトータルコーディネイトもバランスが取れていなければなりません。どんな時代でも「格好いいヤツ」になるのは大変ですね。

○望まれる企業像

 現在さすがに企業の方でも、イメージが大切と言うことが身にしみてきたようで、CI戦略に工夫を懲らすところも増えてきました。中には売り上げの1%を森林保護団体に寄付したり、海洋生物保護団体に寄付したり、といったことを打ち出してきています。イメージ戦略が大切ととらえている点でも、企業イメージをエコロジー方向にしようという点でもなかなかいい線いっているはずなのですが、こういった試みはいっこうに功を奏しません。
 それは「売り上げの1%を寄付する『だけ』」という態度が敗因です。もちろん企業のお偉いさん方にとっては「売り上げの1%「も」寄付する」という画期的かつ大胆な発想です。が、残念ながらそれは賢くてひねくれたイメージ消費者たちにとっては「なかなか気合いの入った宣伝費ですね」としか考えてもらえないのです。
 それはたとえ社長が本気で森林保護に関心があって、日曜日にそのためのボランティア活動をやってたとしても同じことです。
 また、売り上げの1%という金額がいかに巨額で、実際の森林保護団体の根幹を支えていてもダメなのです。そんな小手先ではなく、企業の活動自体が価値観を体現していなくてはサポーターはつきません。先ほどの例のようにエコロジーというカラーを打ち出すなら、企業の主な業種自体がそういったエコロジーなものを目指していなければ意味がないのです。

 生活クラブという団体があります。ここは「体によい食べ物を食べよう」というのが価値観の中心にしたサークルです。そのため、農家と直接交渉して、無農薬で野菜を作ってもらったり鶏を放し飼いしてもらったりしています。
 こういった団体の場合は、組合員と呼ばれる消費者の意識は完全にサポーター感覚です。他店と見比べて安ければ買う、といったことは絶対にしません。牛や鶏も農家の事情にあわせて一頭飼いし、組合員同士で分けます。組合全体で余り気味な野菜は、お料理教室を開いてでもみんなで工夫して食べます。
 組合は組合員の(サポート)意識を高めるために会誌を出したり、各地域で定期的に会議を開いたりもしています。組合員もそれに応えてスーパーより高かったり不便だったりすることに関して「農家を育てるため」という形で積極的に肯定しています。

 こういった団体と、先ほどの「売り上げの1%を森林保護団体に寄付」している企業とを比べてみれば、その差は歴然としています。だいたい「売り上げの1%」といいますが、その売り上げというのは何の売り上げなのか。それはどんな作り方をしているのか。作ることによって地球にどんな影響があるのか。わざわざそんなことを考えなくても、直感的にみんな判っちゃう場合が多いのです。
 「売り上げの1%」は、酔っぱらったお父さんが家族に買って帰るお寿司と同じです。そんなことをしたおかげで、よけいやましさが際だってしまい、かえってみっともなく見えてしまうのです。現在のような情報社会においては、こういったことが常にバレバレだと言わざるを得ません。

 これからの企業は、「なぜ」これをしなければならないのか、という価値観・世界観を明確に示す必要があります。同時にその価値観・世界観に賛同する人は、こういう風に力を貸してくれ、と具体的に提示する必要もあります。そして、力を貸してもらえたら今度は貸してくれた力によって何ができたのか、きちんと報告しなければなりません。
 価値観の提示、具体的要求、成果の報告。
 この3つがそろって初めてイメージキャピタルは増大します。消費者がサポーターになる、とはこのようなことなのです。

○洗脳社会での政治

 政治や経済という本来合理的、民主的であるべきだと考えられているものも、もちろんこの原則からは逃れられません。現在の政治が民主主義ではなくイメージ中心だという批判はよく聞かれます。現にイメージキャピタルの大きい人は当選し、小さい人は落選しています。
 所属政党も、政治家としてのキャリアや知識や能力もほとんど考慮されないことは、今回の青島幸男、横山ノック両名の当選で白日の下に晒されてしまいました。オジサンたちも、民主主義の衰弱ぶりを実感したことと思います。
 オジサンたちには「今の若者は馬鹿で無責任なので、単純におもしろがって有名人に票を入れる。嘆かわしいことだ」と考えている人が多いようです。が、これは近代民主主義の価値観に立った一方的な批判です。「だいたい政治家なんて誰がなっても同じだから」なんていうバカ面若者へのインタビューがオジサンたちの神経をさらに逆撫でしようとも、これは正当な批判ではありません。

 一般の政治家にはイメージがほとんどなく、みんな同じように見えるのに対して、いわゆる有名人はイメージがはっきりしているから票を入れることができる、というのが理由です。
 私たちにとって自民党だの議員歴何年だの、もともとは政治畑で活躍だのというギョーカイ的スペックはあまり意味を持ちません。そんなことを聞くくらいならまだ「実は恐妻家だ」とか「出身地が東北なのにコンプレックスを持っていて、絶対東北弁をしゃべらない」とかいった話の方が、よほどその政治家を判った気になります。判った気になって初めて「こいつに政治を任せてみよう」とか「こいつなら人畜無害なのでまあいいか」とか「こいつは政治家になったら私利私欲に走って賄賂を貰いまくりそうだ」とか判断するわけです。
 今回の都知事選では政治家というのが十把一絡げで「今までの踏襲・官僚の言いなり」というマイナスイメージがあるのに対し、青山・横山両氏は「人畜無害だけど既製の利権に組み込まれていない」というイメージだったため、あのような結果になったのです。

○有名人であるデメリット

 これからはますます有名人が政治家になるケースは増えていくでしょう。が、それは「とにかく少しでも有名な方が選挙に有利」と言うことではありません。今そう見えるのは、政治家の有名人含有率が低すぎるからです。そうではなくて「この人が政治家になったら、こんな事をしそうだ」といった強いイメージを持っている人がより選ばれやすい、ということです。
 ここでもイメージキャピタルの原則は適用されます。政治家に対する評価の判断材料が外面的事項から内面的事項に移行しつつあるということもできるでしょう。逆に「単なる知名度を利用した立候補」は有名人である、という事実に対して逆効果として働きます。その人のキャラクターと政治理念(つまり当選したら何をやりそうか)がフィットしない人はせっかくの洗脳力がマイナスに働いてしまいます。つまり「嫌われる」わけですね。
 有名人、つまりもともとイメージキャピタルが大きい人が政治家になるケースが増える一方で、普通の政治家のイメージキャピタルを増やす活動もますます盛んになるでしょう。現在はまだまだ選挙前にテレビにたくさん出ればいい、程度に考えている人が多いようです。が、単にテレビに出て政策を語ればいいという問題ではありません。もちろん出ないよりはうんといいのですが・・・・。
 政策ではなく、自分の人となりがいかにプラスイメージとして多くの人に提示できるか、という高度に技術的、演出的問題となります。自分がいかに政治家として魅力的かをうまく洗脳する必要がある、ともいえます。今後は芸能界を中心として、いわゆる有名人が政治に大挙して進出するでしょう。高度に専門職化して閉ざされていた政界は、いまようやく本当の意味で開かれ、自由洗脳競争が開始されつつある、といえます。

○「政治の意味」の減少

 政治がそんな風になってしまったら、世の中が乱れて大変なことになってしまうのではないか、と心配される方も多いでしょう。少なくとも、政治家という政治家が有名人ばかりになってしまったら、さすがにまずいんじゃないのかなと言う漠然とした不安は持っている方がほとんどではないでしょうか。
 が、そんな心配は必要ありません。もちろん、有名人含有率が多くなればなるほど、政治力がありそうな人が選ばれるようになるとか、政治的キャリアが希少価値になるといった、みんなのバランス感覚によって思ったほどの状況にまではいたらないと言うこともあります。

 けれども、なによりも重要なことは「政治」というものの意味・関係全体が薄くなって、政治がどうなろうと私たちの幸せにほとんど影響がなくなるから、という点です。このため、私は自信を持って「心配はない」といえるのです。
 政治というものの意味・関係全体が薄くなるとはどういうことでしょうか。
 たとえば、六十年前の人々、つまり昭和十年の世界を生きている人がもし六十年後の現在へタイムスリップしてきたら、真っ先に聞きたいことは何でしょうか?「どの国が勝ったのか?世界を制したのか?日本の領土はどうなったか?」ということでしょう。世界とは軍事であり、国境のことだったのです。
 では三十年前ならどうでしょうか。「安保はどうなったか。東西対立はどうなったか。月の開発はどうなったか」ということでしょうか。つまり、世界とは政治だったのです。

 さて、では現在の人が30年後、60年後にタイムスリップしたら真っ先に聞くことは何でしょうか。「どの企業が生き残るのか。どんな商売が当たるのか」と言うことでしょう。つまり今、世界とは経済のことなのです。そしてもちろん、この考え方も変わりつつあります。しかも、現在のパラダイムシフトの中で今までとは全く違う方向性へ転換しています。しかしその行き着く先が「政治」、というデータはあまりありません。

 30年後の人々がもっと未来の人々に聞きたいことは、何に変わっているでしょうか。おそらく「今どんな文化、どんなキャラが世界で当たっているか」と言うことだと思います。
 文化戦争、文化侵略という言葉を、最近よく耳にされると思います。日本のアニメーションがアメリカで大変受けていて、「ジャパニメーション」という文化として認知されています。アメリカだけでなく、東南アジアでも、最近はヨーロッパですらジャパニメーションは目を見張る侵略ぶりのようです。
 ファミコンゲームも同様です。国によっては、それを文化侵略として規制を厳しくしているところもあります。それでも日本は各国の行政指導や規制に合うように器用に作品を切ったり継いだりして、輸出は伸びる一方です。
 これを経済からみて、有望なる輸出産業、と捉えるだけでは不十分です。文化侵略として規制している側も、保護貿易的な政策以上の強いものがありますし、実際その心配は当たっています。日本人が作ったジャパニメーションやゲームには当然日本人的センス・価値観・世界観がふんだんに入っています。それを小さい頃から見続けるのですから、これほど有効な洗脳方法は他にないというくらいです。

○洗脳国境

 アメリカでは、日本にあこがれて日本語の勉強をする人が増えています。日本語の入ったTシャツを着たり、日本のマンガを原語で読むのがステイタスになったりしています。昔、私たちがアメリカのテレビ番組やハリウッド映画を見てアメリカ文化に憧れたのと同じような現象が各国で起きているのです。
 国境や土地、お金といった「モノ」で世界をみる時代は、何度も述べたように終わりを告げつつあります。私は、30年後の世界地図では「ジャパニメーション圏」「ハリウッド映画圏」「日本のゲーム圏」といった色分けがなされているのでは、と考えています。もちろん、この色分けは重なることも多く、複雑ではありますが。

 S.D.L.のような巨大な洗脳力を持った団体がいくつもしのぎを削る時代、これがこれからやってくる自由洗脳社会です。
 この傾向はマルチメディアが発達して、誰もが情報発信源としてより多くの人に語りかけるチャンスが増えるにつれて、どんどん進行するでしょう。そして最終的にはマスメディアに独占されていた洗脳行為は、一般に開放されるのです。
 つまり、あなたを含め誰もが巨大な洗脳力を持つ存在になるチャンスをもてる時代がくるのです。そのときには、大企業から中小企業・個人商店がひしめき合っている現代のように、S.D.L.のような巨大な洗脳力を持つ巨大団体から、中小のアマチュア団体・個人発信者まで様々なグループや個人がひしめき合い、競合する、自由洗脳競争社会が形成されるのです。

 では次章では、そんな洗脳社会での個人の振る舞い、価値観の変化について説明します。