高橋義雄の足跡
●「定着」と「放浪」と…高橋義雄に見る「放浪型」東北人の典型



千秋公園春景

chapter2〜ロシア放浪から帰国まで〜

 そうした中で子供も生まれて生活も苦しくなり、それに音を上げた高橋義雄は、女房と子供を秋田の実家に預け、1人でヨーロッパに絵の修行に行こうとしたところ、奥さんもいっしょに行くと言い出して、結局、3人で行くことになりました。そしてとりあえずウラジオストックまで行くお金を貯めて、1910年12月に敦賀からウラジオストックに向かう船に乗ります。

 けれどもウラジオストックに着いてから、さらに西へ向かう費用を稼ぐため、曖昧宿の手伝いの仕事を始めたのですが、そこでまた2番目の子供が生まれたりしたため、ウラジオストックには3年間滞在することになり、1913年10月になってやっとハルビンに向かいます。そしてハルビンで雑役の仕事をしながら旅費を貯めた後、1914年2月にイルクーツクまで行くのですが、ここで盗難にあって全財産を失うものの、あきらめずにまた雑役をしてお金を貯め、その年の5月にはモスクワまで辿り着きます。

 モスクワでは印刷会社の画工の仕事に就くのですが、そのうちに第一次世界大戦が始まり、さらに1917年にはロシア革命が起きて、そうした中で下の子供が亡くなり、奥さんの方もついに耐えきれなくなって上の子供を連れて日本に帰ってしまいます。ところが高橋義雄はモスクワにとどまり、その後、アントニーナ・アラズモーアというロシア人女性と仲良くなって正式に結婚し1919年に日本に連れて帰ってきます。

 

談話音声:chapter1-生誕から名古屋まで

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