少年時代の思い出
●父と重なる東北のイメージ
chapter5〜仙台にて〜 小学校から高校までは仙台で育ったわけですが、小学校4年のときに太平洋戦争が始まって、食べるものがだんだんなくなっていくわけです。昭和20年7月9日に仙台が空襲で焦土となるわけですが、これが中学2年のときでした。私の家は幸いに都心からはずれていたものですから焼けませんでした。 当時は物資不足ですから、みんな下駄を履いていました。私は非常に寒がりなんですが、友だちはまったく平気で冬でもお母さんのすり減った下駄を履いて学校に通っていました。昭和24年の春だったでしょうか、その男と一緒に東京へ遊びに来て、彼はそのとき初めて靴を履いたのです。歩いて皇居を見物に行ったら、靴なんか履いたことがなかったものですから足が蒸れてきたというので二重橋の近くで靴を脱ぎました。彼のほうは貧乏なのかというと、そうではなくて、河北新報の社長の息子です。 その頃は私も何になりたいかなんて考えたことはありませんでした。世界というのは仙台しかなかったわけですから。父と母は福島県の農家の出身で、子どもの頃よくお盆のときにお墓参りに連れていかれたのですが、その頃からそういうおふくろの里というのが嫌だったのです。なぜかというと、あの頃は夏になりますと農家というとものすごくノミが多かったのです。それぐらいの子どもの頃から私は東北について常に悪いイメージを持ってきたのではないかと思います。 それは一つには、仙台というものが父と結びついていたからで、父というのはとにかく悪いもののシンボルみたいな、そういうところがありました。今そういうことで私の娘たちは私を敬遠しています。その報いですかね。復讐されているのだと思います。 |
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