私と東北文化との関わり
●一関と平泉の文化に触れて



『金色の棺』表紙


佐々木実高氏


佐々木宗生氏と
ご子息多門氏

chapter3〜中尊寺との関わり〜

 さらに20歳を過ぎて東北の文化にのめり込んだきっかけは、妻が昭和20〜30年代に中尊寺で執事長をつとめた佐々木実高(じっこう)の娘だったということです。

 当時の中尊寺は大変ひどい状態で、何とか修復をする必要があったのですが、戦後GHQが寺社境内への学生の立ち入りを禁止していた影響で、観光客もあまりなく、修復のためのお金がありませんでした。そこで義父は一計を案じて、朝日新聞と提携し、中尊寺の金色堂の中にあると伝説的に言われていた藤原四代の遺体(ミイラ)調査を行って、中尊寺を建て直すきっかけを作ったのです。この調査では、清衡、基衡、秀衡三代の遺体を調べ、また忠衡の首と称されていた泰衡の首も発見し、戦後の文化財保護その他に関して大変な事件となりました。義父からその話や藤原時代の文化の話を聞いて書いたノンフィクションが『金色の棺』(筑摩書房刊)です。

 一方で、義父は中尊寺で能のシテ家(喜多流)を代々世襲している能楽師でした。中尊寺には昔から喜多流の能楽が伝わっていて、喜多流最古の能楽堂が中尊寺山内にあります。中尊寺内のそれぞれの坊がシテ家、ワキ、笛、鼓など役割分担をして代々それを受け継いでいて、有名な黒川能のように、中尊寺能というものがあってもおかしくないというくらいの伝わり方をしているのです。

 また、昔から土地の人は平泉を中心に何かというと謡曲を謡ったもので、そうやって自分も謡曲の世界を垣間みるようになりました。母や姉たちも義父から謡曲と仕舞を習っていて、そうした弟子達のグループで「喜桜会」という団体を作りました。それによって佐々木実高は岩手県から福島県にかけて謡曲・能楽を広めたのです。現在、佐々木実高の長男、佐々木宗生(むねお)は喜多流の職分になっていて、その息子もまた能楽師を継いでいます。

 

談話音声:chapter3-中尊寺との関わり

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