この節では、伝統民俗文化への支援の問題を考えるに当たり、なぜ伝統民俗文化を取り上げていくべきなのかという問題を検討する。それにはまず、今日の我が国の文化の現状とそれを取り巻く状況を把握する必要がある。実はこの状況の把握こそが今日の文化振興の諸問題を浮き彫りにし、伝統民俗文化への支援の必要性を発見する鍵になると考えるものである。
(1)日本の文化の現状を見る視点
「文化とは何か」「日本の文化とはどうあるべきなのか」。これまでの文化振興をめぐ る議論はこの問の外にあり、こうした問いかけは不在であった。結果、様々な問題や歪 みを生み出してきたといっても過言ではない。ここでまず「文化とは何か」を問い直す 必要があろう。
■文化は西欧にあり?
例えば文化振興を掲げる行政や既存の財団の多くは、その支援の対象領域として音楽や美術の領域を挙げているが、音楽の分野におけるその内容はオーケストラ、管弦楽、オペラ、歌曲といった所謂クラシック音楽の分野がほとんどである。ロックやジャズと
いったポピュラー音楽、歌謡曲や演歌などの領域、純邦楽、民謡や童謡などの他のジャ
ンルはそこには含まれておらず、それらを挙げている例は稀である。
確かにポピュラー音楽や歌謡曲、演歌等は市場経済の原則の上に何とか自立して需要と
供給のバランスを保っている。それ故に支援をする必要は少ないが、クラシック音楽は
経済原則では成立せず、何らかの支援をしなければならないというのが行政等の論理で
あろう。また、クラシック音楽は芸術的にも優れており、国民が「健康で文化的な生活」を営む為にクラシック音楽的素養は有効な要素である、とする考え方がその根底にある。その証拠に国民のほとんどは学校教育の名のもとに、ピアノやリコーダー等の西洋楽器や発声法を使って「ドレミファソラシド」の音階で、五線譜の上のおたまじゃくしの動きをなぞる訓練をさせられている。もしある生徒が民謡などの地声による発声法で五音階の歌をこぶしをつけて歌ったとしても、その生徒の音楽の成績は下がることはあっても決して上がることはないであろう。しかし、その生徒が一旦家庭に帰るとテレビの前で美空ひばりの歌に聞きほれている両親を見たりする。しかもその日が学期の最後の日で通知表を見せなければならず、あまり芳しくない成績について小言を言われ、特に出来の悪い音楽の成績によってげんこの一つももらう災難に遭うかもしれない。
このような状況を外国の人間が見たらどう思うであろうか。米国在住の建築家・建築史家で随筆家としても知られ、日本にも滞在の経験のあるバーナード・ルドフスキーはこのような日本の状況を「文化的分裂症」(『みっともない人体』1979年鹿島出版会)と呼んでいる。
この「文化的分裂症」の症状はかなり広く深く進展していると考えられる。また、困っ
たことに自覚症状が出にくいようだ。先の音楽をめぐる状況においても、行政や財団・
企業などが無自覚にその症状の進展に拍車をかけている。
例えば80年代後半のホール建設ラッシュは、都市部に限らず全国に音楽専用または、
音楽演奏を中心に想定した多目的ホールを整備したが、そのほとんどはオーケストラ
等のクラシック音楽対応(一般に音楽専用施設とはクラシック音楽対応を意味する)の
施設である。名前を見れば一目瞭然である。○○シンフォニーに留まらず、バッハや
モーツァルト、カザルスといったクラシック界の巨匠と呼ばれる人物の名前を冠しホー
ルもある。またパルテノン、アルカイックなど西欧文化崇拝の香りが漂う名前もある。
当然そこではクラシック音楽が演奏されるわけだが、一般に東京や大阪等の大都市以外
は興行的にクラシック音楽の公演は成立しない。というのも、公演には少なくない費用
が掛かる上に、それを賄うだけの観客と入場収入が期待できないためである。
よってそのほとんどは自治体や施設の自主事業費で補われるが、それだけの予算を継続
的に計上できる自治体はそう多くない。その結果、柿落としの際の打ち上げ花火的公演
で後はほとんど開催されないという状況が生まれる。後にはほとんど使われることのな
い立派な施設が残るだけである。文化行政が提唱され20年近く経とうとしているが、その中身のほとんどは、音楽を例に挙げれば上記のようなクラシック音楽を頂点とする西欧文化の分配装置の流布でしかない。
また、企業の広告・宣伝活動の一環としての冠コンサートは、クラシック音楽に限らず
ポピュラー音楽でも盛んに行われたが、その対象は媒体としての価値によって選択さ
れ、結果として既に高い評価を得た一流と言われる演奏家や人気のある歌手・グループ
などの公演に限定される。全国どこでも金太郎飴的なディズニーランディズムに基づく
コカコライズされた東京文化が配給され、消費されている。
■多様なる音楽の存在
本稿は決してクラシック音楽、ひいては西欧文化を否定するものではない。クラシック音楽の高度に発達した理論と技術は確かに尊重されるべきものではある。ただし、それは全世界に存在する様々な音楽の形式やジャンルの一つとして捉えるべきもので、決して文化的序列の頂点として崇めるべきものではないということだ。楽譜がなくても人々に感動を与えることのできる音楽があり現在も脈々と継承されているし、たった5つの音だけでも豊かな表現力を発揮する音楽もある。
ドレミファソラシドの12音の平均律はクラシック音楽を一般化するのに大きく貢献したが、その反面微妙な音や演奏のニュアンスを捨象してしまったことも指摘されよう。
クラシック音楽自体においても、バッハ以前のモーツァルト等の時代は曲目によって楽
器の調律を変更し演奏がなされていたことも明らかになっているし、世界の各地にある
音階において、同じ「シ」という音でも地域によって微妙にその音程は異なり、その特
徴を醸しだしているが、全世界的に発達した情報網と経済システムはこの平均律によっ
て世界の様々な音楽が演奏されることを促している。
このようにクラシック音楽が他に与えた影響は大きいだけに、その功罪も大きいと言える。例えば、演奏者と聴衆の関係においても現在のクラシック音楽の演奏会に見られるよう
な、演奏者と聴衆が会場においてステージと客席という形で対峙する窮屈な形式は19世紀に確立したもので、長い音楽史の中ではほんの一瞬の出来事にしか過ぎないのだが、その結果優れた演奏を聴衆は拝聴するだけで、拍手や掛け声によって演奏に参加することは許されないといった、演奏する側とそれを聴く側の分化が起こり、ひいては優れた演奏を行う一部の芸術家を巨匠として崇め、一般の人はそれを享受するだけの役割となる。
一体このような文化的状況がなぜ生じたのだろうか。
[1]西欧文化偏重といった文化状況の成立過程と現在の状況
[2]文化を支える主体は誰か
[3]日本の文化の全体性と独自性の回復への契機
という3つの視点から今後の展望とその可能性を考えてみたい。
(2)音楽にみる系譜と現状
ここで日本における文化的状況の変遷を、音楽分野を中心に歴史的に振り返ってみた
い。
日本の音楽をめぐる状況は明治期を境に劇的に変化している。以下、明治以前と以
後に分け概観する。
■明治以前の日本の音楽
日本の文化の多くがそうであるように、音楽も又、中国や朝鮮から渡来し、日本的消化と培養によって形づくられたものである。大和朝廷の成立によって、朝廷を中心に朝鮮半島の三国(新羅・百済・高句麗)音楽や中国の伎楽・唐楽・散楽が琵琶や箏等の楽器とともに渡来し、それらは雅楽として演奏されることになる。また、仏教音楽としての声明や九州には盲僧琵琶が伝来した。この時期の音楽状況は、宮廷を中心とした雅楽演奏、仏教寺院での声明、九州の盲僧琵琶、それに日本固有の歌舞に分類されよう。
奈良時代以降、それまで雅楽として合奏されていた楽器が独自に演奏され、発展してい
くことになる。その過程は894年の遣唐使廃止によって一層深まった。琵琶は雅楽からの流れと九州地方の盲僧琵琶が合流し、琵琶法師によって後に平家物語を主題とした平曲に発展する。この平曲は室町初期、当道という盲人組織に整備され、検校を頂点に以下別当、勾当、
座頭という官位が与えられ、以後の諸幕府の保護下に置かれた。また、この平曲から15世紀中頃には、牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語を描いた『浄瑠璃姫物語』を、琵琶を伴奏にして語る座頭が現れ浄瑠璃の祖となったが、後の三味線による浄瑠璃に対して、
現在では古浄瑠璃と呼ばれている。
箏は当初、もっぱらリズム楽器的に雅楽合奏に用いられていた。また、声楽の伴奏楽器
という面もあり、『源氏物語』でも歌いながら演奏されたと記述されている。この声楽
伴奏が後の箏曲に発展していくことになるが、その過程で箏も当道組織に編入され盲人
専業となったのである。
尺八も仏教の禅宗と結びつき、後に虚無僧という尺八を吹いて、托鉢行脚する普化宗集
団を形成する。普化宗は浪人の一時的な逃げ場的な存在として武士階級に限定、その尺
八は普化宗の法器とされ、虚無僧以外の人間が吹奏することが禁じられる。これは明治
の普化宗廃止まで原則として続いている(ただし、一部では町人に教授していた例もあ
る)。
このように、現在の邦楽と呼ばれる音楽分野とその楽器の殆どは、この頃、盲人保護機
関による独占と仏教の一宗派の専売特許として隔離され発展してきたといえる。
唯一これらの独占から逃れていたのが、出雲の阿国から始まる歌舞伎であろう。平安時
代の頃、田植え作業などの囃子としてできた田楽や猿楽から、白拍子という遊女の歌舞
を経て、出雲の阿国による女歌舞伎という旅芸人の芸能として発展してきた経緯からも
判るように、歌舞伎は世俗的な色彩の濃い芸能であり、後の江戸時代には風俗の乱れか
ら女歌舞伎が禁止され、男性のみで演じられるスタイルが生まれ、現在に至っている。
これに対し、同じ田楽や猿楽の系譜で、室町時代に観阿弥・世阿弥によって大成された
能は、足利義満に保護され発展した。この阿弥というのは一遍から始まる時宗の芸能集
団「同朋衆」の号で、以来武家政権の中枢の側近くで華道・茶道・連歌などの芸術分野
を一手に握ることとなる。
永禄年間(1558-70) 、織田信長の頃、琉球より三弦が大阪の堺に伝来し、琵琶法師によって琵琶をベースに改造されたのが三味線である。他の楽器の渡来に比べ、三味線は比較的新しい。しかし、この新しい楽器は、声楽伴奏に非常にマッチしており、また、伝統的な拘束もないことで、多方面に急速に普及し、これをもって近世邦楽の始まりとするのが定説となっているようである。三味線は、琵琶法師からの多くの転向によって語り物の伴奏楽器として琵琶にとって替わるとともに、その頃流行していた小歌や踊歌、民謡などの伴奏にも広く使用され、浄瑠璃や遊女歌舞伎の伴奏としても使われるようになったのである。
以上、現在「邦楽」と呼ばれる日本の音楽を代表する分野の歴史を概観したが、その一 方で、このような音楽史に登場しない民謡や民俗芸能などの言わば「民衆の音楽」も各 地で脈々と伝えられ、盛んに行われていたのである。旅芸人が行く先々で伝えたもの や、山伏などの芸能が伝わり、その地で農民によって演じられたもの、豊作・大漁を願 い祝う唄や踊り、祭の囃子や娯楽としての芸能が時には歌詞や所作を変えながら、共同 体社会での結束や相互扶助等の社会的機能を持って行われていたと考えられる。
■明治以降の日本の音楽状況
9世紀の遣唐使の廃止以降、外部からの流入もほとんどなく、日本的消化の過程を歩ん
できた日本の文化に、明治維新により再び海外からの異文化が流入することになる。
それは国家的規模で押し進められた欧化政策の一環として思想、政治、経済、社会のあ
らゆる分野に渡り、文化領域の一つである音楽にもその波は押し寄せた。時は19世紀の終わりから20世紀初頭、ヨーロッパのクラシック音楽はその頂点と調性の飽和という終焉にちょうど差しかかる時期であった。
まず、王政復古の大号令により、幕府・武家から天皇親政に政権が委譲される。その結果、これまで幕府・武家に特権を与えられ庇護されていた当頭等の盲人組織や能楽を中心とした同朋衆という芸能集団、及び武士階級に限定された尺八を専売特許とする虚無僧の普化宗が廃止された。それまで保護されてきたものが、突如としてその保護を解かれ、放り出されたわけである。生活に困った検校たちは寄席に出て日銭を稼いだり、尺八は他の三味線や筝との合奏で宗教性からの脱却を図るなど相当の努力を強いられたようだが、能楽等は一時没落寸前まで追い込まれることにもなった。その反面、特定の人間にしか与えられていなかったそれらの楽器演奏の機会を一般に開放する契機となったことも確かではある。
また、王政復古はこれまでの神仏習合の思想から神仏分離令によって神道思想を強調
し、雅楽は京都御所・奈良(東大寺・春日大社)・大阪(天王寺)の三方楽人が東京に
呼ばれ、家元の廃止とともに各スタイルを共通の財産とし宮内省に統合された。他に明
治政府が薩摩・長州・土佐の連合政権であったことから、特に薩摩の琵琶が「薩摩琵琶
」として東京で急速に広まるなどの影響も見られた。
王政復古と並び、明治維新当時の最も大きな政治課題は不平等条約の撤廃と富国強兵政策の推進にある。不平等条約を撤廃するためには、文化的にも西欧の列強に劣らない先進国としての体裁を示す必要があり、「文明開化」の名のもとに銀座の通りには洋館が立ち並び、鹿鳴館では洋服を着て西洋音楽を伴奏に毎夜舞踏会が開かれていた。この時期ヨーロッパでその芸術的頂点を究めようとしていたクラシック音楽を目の当たりにしたら、当時の日本人にはさぞかしきらびやかで優れたものに聞こえたであろうことは充分に推察できよう。
このような欧化政策は「ご誓文」の「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り……」にもあるように、因習打破思想とあいまって極端な伝統破壊にまで及んだ。古いものは全て良くないとするこの極端な考えにより、旧時代の城の破壊や日本画などの美術品が二束三文で売りに出され、その多くが海外に流出した。こうした有形の文化財は現在でも海外で保存されているなど、まだ良い方だが、無形の文化財である音楽や芸能などは計り知れない打撃を被ったことはいうまでもない。廃仏棄釈や合祀政策という形で、各地の芸能を支えていた信仰の対象としての氏神の再編や廃止、芸能を経済的に支えた寺社給田の没収など、民俗芸能の存続に与えた影響は大きい。
■西欧音楽の振興
幕末から移入された西洋の軍隊様式とともに軍楽も同時に採用され、軍楽隊(ブラスバンド)が組織された。この軍楽は富国強兵政策に乗ってその後益々盛んに行われるようになる。東京音楽学校(東京芸大の前身)の初代校長である伊沢修二氏は元は飛騨の山村藩の鼓笛隊の師範を努めていたという。また、現在でもブラスバンドのない学校は少ないだろうし、学校教育に対するこの影響は大きなものである。
明治5年、学制頒布典により小学校における唱歌と中学校における器楽の学習をその音
楽教育として定めているが、その内容は明確ではなかった。例えば、当初の唱歌は「蛍
の光」のように賛美歌風の歌やスコットランド民謡に日本語の歌詞を付けただけという
代物であったし、後の邦人作曲家による学校唱歌の多くも、小泉文夫氏の言を借りれば
「(西洋音楽と日本音楽の)両方をまぜることによって両方の良さを失うような」試み
でしかなかったという結果であった。
もう一つ、日本の音楽教育の頂点とされる東京芸術大学の成立の過程にまつわる紆余曲
折も、今日の文化状況を見る上で象徴的な出来事である。明治12年文部省に「音楽取調掛」が設置され、洋楽の学校教育の導入が図られ、明治20年に、より専門的な人材養成を目的に音楽取調掛が「東京音楽学校」に改組されたが、この時、邦楽(洋楽に対する自国の楽という意味)は除外されてしまった。これには世間からの批判が生じたが、同校内に「邦楽取調掛」が設置されたのは明治40年、本科として加えられたのは昭和11年(1936年)であり、更に、戦後、東京音楽学校から「東京芸術大学」へ移行(1949年)する際、邦楽は本科とせず研究所扱いとする案が出されたが、また反対運動が起こりようやく邦楽科が設立されたという。このように、明治以降の「音楽」とは洋楽をその中心として語られていたといえる。
■邦楽の問題
ただし、これには邦楽側の流派などによる閉鎖性も手伝っていたことも指摘されよう。我が国において「音楽」という言葉が、現在のような「拍子・節・音色・和声などに基づき種々の形式に組み立てられた曲を、人声や楽器で奏するもの」(広辞苑)という意味で、使用されるようになったのは、実はつい最近である。明治以前の日本では「音楽」と言えば、雅楽や歌舞伎囃子の一種に限定的に用いられていたにすぎなかったのである。というのも各「音楽的行為」は、その種類や階層、流派によって、相互に交流することもなく、各々独自に実践されるものであり、それらの「音楽的行為」を総称するような概念がなかったといえる。西洋音楽が共通の楽譜表記によって統合・体系化の方向に向かったの対し、邦楽は各楽器それぞれの楽譜表記を有し、分離・専門化への道を指向していたのである。
現在、邦楽には三味線・箏・尺八による三曲合奏という形式があるが、これは明治以降の産物であり、各々異なった経緯で発展してきた各楽器が一緒に演奏されるなどとは、それまでは考えられなかったのである。しかし、現在の純邦楽と呼ばれるものは、検校制度廃止の後も、その存続のためか必死に流派に固執し、その流派間の競争意識と閉鎖性はあまり変化していないようである。先に触れた東京音楽学校(後の東京芸術大学)への「邦楽」の本科加入問題でも、「邦楽」を「洋楽に対する自国の楽」としながらも、そこでは「日本の伝統的楽器(筝、三味線、尺八、琵琶など)を使って都会を中心に、近世以降成立した芸術的音楽」とし、雅楽、声明、能楽など、古代、中世起源の芸能、地方的色彩の濃い民俗芸能、および流動性の強い大衆芸能は除かれている。その結果、「邦楽」は「伝統芸術」という枠の中で一部の人だけが享受できる、保護された、一般の人々の生活とは乖離した特殊なものとなってしまったのである。
このように明治以降の我が国の音楽、ひいては文化をめぐる状況は、全く政治的・社会 的政策に左右された面が大きい。列強諸国からの外圧に抗するためにも、それらに劣らない文明国家として自立を確立することが急務とされ、自国の“遅れた”文化は全て捨て、西欧の“進んだ”文化をいち早く吸収することがその大方針とされていた。確かに明治期の社会情勢からすれば、その社会変革は必須のものであったといえるだろうし、音楽分野を始めとする文化領域も例外ではありえない。
■アメリカ文化の洗礼
急激な近代工業化と度重なる戦争によって、このような状況は一層深化され、第2次大
戦後によってとりあえず「強兵」の方針は取れたものの、経済的な「富国」の精神だけ
は依然として存続し今日に至っている。なお一層悪いことに、戦時中の悪夢の記憶から
戦後の日本では、「日本的な」という言葉は民族主義及び軍国主義を連想させ、ほとん
どタブーのように扱われ、その言葉はアレルギーのような反応を人々に起こさせてき
た。その反動で今度は、物質主義と商業主義に代弁されるアメリカ文化を至上のものと
する考え方が民主主義の名の元に蔓延することとなった。
しかしながら、ここにきてアメリカ型の大量生産大量消費の経済・文化が行き詰まりを
見せ、経済的にも社会的にも日本はその手本を失った。現在の政治・経済・社会の混迷
状態は多くはそこに起因し、手本なき時代にその進路を要求されているのが現状であろ
う。これは同時に文化的にもあてはまるものである。我々が手に入れた「近代」の所産も大きく、その利益を享受しているが、そのために払った代償の大きさにようやく気付き始めたといえるだろう。明治以降の「音楽」の取扱い方にまつわる問題も、この大きな流れの中にあるといえるのではないだろうか。また、このような視点なくして、今後の我が国の「音楽」のあり方、ひいては「文化」のあり方を問うことは無意味であるばかりか、これまでの過ちを繰り返すことにもなりかねない危険性を孕んでいる。
「音楽」とは優れてその民族や社会に根ざした文化的所産であり、民衆の生活に密接に
係わる行為である。この点に振り返ってみれば、明治以降移入された「洋楽」、及び
「邦楽」という枠でくくられた我々の「音楽」に対する認識という網の目から、こぼれ
落ちてしまった「音楽」が実に多く、また貴重なものであったのである。