山形県櫛引町 黒川能 資料映像
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はじめに
黒川能については、民俗芸能研究における芸能的価値や芸能自体の特徴などは、既に
多くの研究書が発表されているので、それらに関しては、専門の方々の研究を参照頂き
たい。本稿の目的は、黒川の能が、五百年もの永きに渡り、農民によって伝承され続け
られてきた、そのことを可能にした仕組み、即ち黒川能を支えた伝承のシステムを明ら
かにするとともに、今後の課題等に若干の検討を加えることにある。
このことは、黒川能に限らず、その存続を危ぶまれている多くの民俗芸能に貴重な示
唆を与えてくれるものと確信するからである。
また、平成4年に通称『お祭り法』が成立・施行されたこともあり、各地の民俗芸能
等が観光化や地域産業振興のツールとして利用され、様々な問題が今後浮上してくるこ
とも予測される今日、一足早くその波にさらされながらも、今なお本来的な形と場を失
っていない黒川の能は、他の民俗芸能の関係者や自治体関係者に優れた事例として支持
されるべきものと考えられるからである。
(1)黒川能の概要
黒川能は、山形県東田川郡櫛引町黒川に、五百年に渡り農民によって伝えられる神事
能である。室町時代、観阿弥・世阿弥によって大成されたとされる能が、その後武士階
級に独占され、中央五流を中心に芸術的洗練の道を辿ったのに対し、黒川の能は、中央
五流にはない古い芸態と番組を残し、しかも農民によって演じ続けられる貴重な民俗芸
能として、早くから研究者の注目を集め、全国的にも有名な民俗芸能の代表的存在であ
る。
鶴岡市の南東約8キロ、車で30分程の所に櫛引町・黒川地区はある。東に羽黒山、南
東に月山と湯殿山の出羽三山に囲まれた農村地帯で、冬は豪雪に見舞われる。一戸当た
り平均1.8ヘクタールの水田と、畑作・山林経営によって生計を立てる何の変哲もない
平均的な農村であり、この地にいつ、誰が、どうして能を伝えたのか、また武士階級に
独占されていた能が農民によって伝えられた理由や神事との結びつきの強さ等、未だ解
明されていない部分は多い。ただ、古文書や能面・装束の作製年等から、黒川に能が伝
えられた時期は16世紀前半とするのが一般的なようである。
春日神社(模型)
黒川の能は、同地の氏神として鎮座する春日神社の氏子組織・宮座の構成員から成る上座・下座の二つの能座によって伝え守られてきた。この宮座は、旧黒川村の椿出(つばいで)・橋本(はしもと)・小在家(こざいけ)・松木河原(まつきがわら)・宮ノ下(みやのした) ・成沢(なるさわ)・漆原(うるしはら) ・田中(たなか) ・上ノ山(うえのやま) ・大杉(おおすぎ)・滝ノ上(たきのうえ) ・楯(たて)・仲村(なかむら)の13字の三百戸程の家によって構成され、神社を中心にほぼ南側が上座、北側が下座に分かれている。この宮座に所属していることが、能座への参加の必要条件となっている。宮座への加入は、当該地区に住する人で、一定の加入金を神社に収めれば、原則としては誰でも可能とされている。
この能座が上座・下座の二座に分割され、競演という形をとるのも、黒川の能の特色のであり、五百年に渡る伝承を可能にした一因とも言われる。現在530番程といわれる番組は、この二座に振り分けられ、同一番組によって優劣が競われることはないが、番組の保存やそれぞれの芸の水準、行事の進行や盛り上がりに対しては、二座は競争関係に置かれている。この530番中、現在演能可能な番組は上座・下座それぞれ百番づつ程と言われている(中央五流合わせた現在のレパートリーが三百番前後と言われる)。
上座・下座のそれぞれの座長である「能太夫」(のうだゆう)、及び「式三番」(この地区では「所仏即」(ところぶっそく)と総称される)の演者だけは「綱冠者」(つなかんじゃ) と呼ばれ世襲制であり、神社から禄が与えられているが、その他の役者、囃子方等は能座の構成員なら原則として誰でも行うことができる。
伝承の主体は無論この上座・下座の二座であるが、無形文化財の指定や町からの補助
金等の援助の支給に当たり、ある意味で宗教的組織である能座に替わる窓口を用意する
必要により、昭和26年に二座と櫛引町が主体となって黒川能保存会が発足した。また、
春日神社に近接する場所に建設された「櫛引町郷土文化保存伝習館」(昭和60年)は農林
省の定住促進事業の一環として出された補助によって建てられ、両座共有の能面・装束
等の保存・展示の他、練習用の能舞台が設備されている。この伝習館を管理・運営して
いるのが「黒川地区農業村落振興会」で、新たな窓口として、下座座長の上野左京氏を
代表に設立された。しかし、この農業村落振興会は法人格を持たないため、他の寄附金
や補助の窓口として昭和61年には新たに「黒川能保存伝承事業振興会(基本金目標2億円)」が全国からの寄付を元に、鶴岡市長を理事長として設立され、その利回り益は主に伝習館の運営等に運用されている。
伝習館内能舞台
演能の機会の中心は、毎年2月1日から2日に掛けて行われる王祇祭(おうぎまつり)の際、上座・下座のそれぞれの当屋(とうや) と呼ばれる民家を舞台に夜を徹して演じられ、翌朝には両座が春日神社に登り、神前で能を奉納する。王祇祭は以前は旧正月に行われていた正月行事で、氏神である春日神社から王祇様と呼ばれるヨリシロ(御神体の化身)を神宿である当家に迎え、神と人が一晩共に能を楽しみ、五穀豊穣を祈る神事である。王祇祭はあくまでも春日神社及びその氏子のための神事であり、民家を会場にしているため、部外者からの参観は制限されている。
伝習館内展示品(黒川能人形)
近年、演能機会は増加し、この2月の王祇祭を始め、3月の祈年祭、5月の例祭、7月の羽黒山花祭への
奉納と薪能、8月の鶴岡庄内神社の祭礼、11月の新穀感謝祭、その他に年間5回程の依頼公演があるというので、実に年間10数回にのぼる。
黒川能が国の無形文化財の指定を受けた最初は、昭和27年であったが、指定後間もなく法改正のため指定が解除されている。その後、昭和32年に県の無形文化財に指定された後、昭和51年に国の重要無形文化財に指定された。但し、指定を受けたのは黒川の能であって、言わば宗教的行事である王祇祭ではないことを断っておく。
(2)伝承のシステムとその変容
後継者難等の問題は、黒川の能に限らず他の多くの民俗芸能が抱える共通の課題だが 、そうした言わば伝承の危機は何も今に始まったことではない。五百年に渡り伝承され てきた黒川の能も、これまで盛んに行われていたものが、近代になって様々な危機に直 面したというものではないらしい。むしろ発祥から現代に至るまで様々な問題に直面し 、その都度困難を乗り越え何とか伝承させてきたと考えた方が正しいのではないだろう か。いや、だからこそ今日に至るまで存続を続け、また、その存続を可能とする様々な システムが産み出されてきたのであり、その生命力を支える構造を形成してきたのだと 考えられる。
■後継者問題とその変化
各地に残る民俗芸能に共通する問題として、まず挙げられるのが後継者難の問題だと
考えられるが、黒川の能に関する限り、この問題は近年状況が変化してきている。
黒川の能をめぐり、その後継者難の問題が取り沙汰されたのは昭和30年代の中頃から
であった。高度経済成長の波が全国に波及する中、機械化など農業をめぐる状況が変化
し、専業農家の兼業化や離農が進んだが、それまで能座の構成員の9割方が専業農家で
あった黒川地区でも離農の現象が急激に進む。櫛引町の統計によると、昭和40年の産業
別就業者の構成では、第1次産業が全体の74%余りを占めていたのに対し、昭和50年に
は52%、昭和60年には35%と20年の間に半減している。
もはや農業だけでは生活を維持できなくなり、農業のかたわら現金の得られる賃金労
働を探すか、若者は農業を捨て職を求め都市部に流出する。黒川地区も例に漏れず、昭
和30年以降人口が暫減する同時に、農家の出稼ぎが一般的となり、ピーク時の昭和45年
当時は町全体で1,042人、これは全人口の1割強、農業従事者の約3割に相当する。
この時期を振り返って下座の能太夫・上野左京さんは「最もひどかった時期」と語っ
ていた。王祇祭を一ヵ月後に控えた正月三日、祭りでの番組が発表される興行(こぎょう)が
行われ、練習が開始される。また、この興行を境に祭りのための「物忌み」(ものいみ) とい
う精進の期間に入るが、これに対し出稼ぎは10月頃から始まり正月から王祇祭までの間
は帰ってくる事が要求されるが、中には祭りの3日前に帰り、本番に望む能役者もいた
位で、練習不足と上演可能な番組の減少、演能の神事としての意味の希薄化が嘆かれて
いた。この時期の上座の能役者70人余りの内、村に残っていたのは5〜6人程しかいな
かったというから、その深刻さが察せられよう。
しかし、このような状況も地方の産業基盤が徐々に整備され、地元での雇用機会が増
加しつつある近年、出稼ぎは減少し、若者の定着率も回復してきているという(但し、
現在も兼業農家の多い50代前後の能座員の中には、まだ出稼ぎを行っている人も少なく
ないという)。この間の能座関係者の並々ならぬ努力もあったことであろうが、やはりその地での生活を可能にする産業的な基盤が用意されなければ伝統や文化が存続するこ
とは不可能である。人がいて、生活があって初めて伝統や文化は生かされるものであろ
う。昭和50年当時、能人口は上座・下座合わせて150人程であったが、現在は小学生も
含めおよそ180人程と確実に増加しているように、一時取り沙汰された後継者難の問題
はある程度克服されつつあると思われる。近年若者の間にも自分たちの地域に残る貴重
な伝統を守り、継承していこうという意識がかなり醸成されてきていると、下座座長の
上野さんは言う。
若年層のこうした伝承意識は、黒川の能が貴重な文化遺産として全国的な注目を集め
ていることも一つの大きな要因だが、その他にも様々な要因があると考えられる。
その一つは、子供の頃からの接触である。黒川地区に所在する町立櫛引東小学校では、
5年程前から毎週月曜日の朝礼の際に、全校児童が5分間、謡の練習を行っている。学
校側の話(同校教頭談)では、「子供たちに自分たちのふるさと、住んでいる地域の文
化を理解してもらいたい」ということで始まったとのこと。指導には下座座長の上野さ
んが個人的に協力している。また、平成4年度からはクラブ活動としても取り入れられ
、現在男子1名、女子7名が参加しているという。尤も、クラブ活動には能座に所属し
ている児童は参加しておらず、また女子の能座への加入は伝統的に認められていないの
で、直接的には能座への影響は少ないといえるが、こうした学校での取組は、主に母親
達の理解と関心を通じて地域的な拡がりに一役かっているようである。
■新たな問題点と課題
数年後当家となる難波氏宅
このように後継者問題はとりあえず難局を乗り越えたという状況だが、今度はその指導に当たる師匠(指導者)の不足が問題となってきている。丁度、昭和30年代中頃に中堅から若手であった人達が、現在その指導的立場に置かれている訳であるが、これもその頃の危機的状況の悪影響が尾を引いていると考えられる。
また、以前継承者の問題と並んで取り沙汰された当屋難の問題も、未だ深刻なものとはなっていないという。一時期、家の改築や新築の際に当世風の家屋が建てられ、能の舞台となる当屋としては使用できないということで問題となっていたが、住宅の持つストック性はそれほど急な変化には至っておらず、今後10数年は当屋の順番も決まっていて当面の問題はない。しかし、能座の関係者はいざという時のために、演能可能な公民館を用意する等、その対策も怠っていないが、未だ公民館を利用して当屋を努めた例はない(但し、自分の家が小さいため、本家の家を借りて当屋を努めたという例はあるという)。
演能に適した高い天井と大きな梁
当屋に替わって専用の能舞台を建てては、という意見は以前からあったが、当屋制度を否定しては王祇祭の伝統が根底から崩れるとして、反対意見は根強く能舞台建設には至っていないし、当面その計画もない。
一方、国の無形文化財への指定や多くの研究者の注目を集め、全国的にもその名が拡まり、出演の依頼が増加したことにより、能座構成員の負担も大きくなっているという問題もある。現在、黒川の能は王祇祭を始め7回の定期的な演能の機会に加え、毎年5〜6回の出演依頼があるという。この内、7回の定期的演能は、王
祇祭を中心にその関連する祭礼における奉納としてや、地域的関係から行われており、
芸能の意味付けも明確であり、場所も同町内か鶴岡市内など極近い地域に限られている
こともあり問題は少ないようだが、遠隔地への出演は時間的にも大変大きな負担になっ
ているようである。黒川能保存伝承事業振興会が平成2年10月に行った「『黒川能』役者実態調査」における課題や希望に対する回答の一覧を整理すると
「職場・学校との両立が困難」(25人)、「演能過多(他所の出演を控えて欲しい)」(15
人)、「練習時間の確保が困難」(6人)等、他所への出演が多いこととそのための練習
など時間的な負担が大きいことが最も大きな問題となっている。能座の構成員のほとん
どが専業農家であった時は、農閑期や夜間の練習が可能であった。
定期的な演能のひとつ水焔の能(薪能)
その後、離農や兼業化が進み、出稼ぎや若年層の流出等の後継者難の時期を経て、近年では、地元での雇用 機会が増加し、継承者の定住化が可能となる一方で、サラリーマン化や受験体制などで時間的な余裕が失われ、練習時間の確保もままならず、増加する演能機会に対処できないという状況が生まれている。
定期的な演能のひとつ水焔の能(薪能)
こうした状況に対し、能座関係者はなるべく遠隔地での公演は控え、逆に地元への観客動員の方向に尽力しているというが、中には「神事能以外の演能はしない方がよい」とする能座構成員の意見もあるように神事能以外の鑑賞としての演能に対する考え方の違いがこのところ俎上に昇ることが多いようである。
(3)黒川能の生命力と今後
『櫛引町史〜黒川能史編』によると、元禄3年(1690)に庄内藩鶴ケ岡城において始めて黒川能が演じられたことが古文書等の資料を元に書かれている。黒川の能が、神事以外の場で演能された最初の例であろう。この城中での演能に先立って、藩は黒川の能の組織や上演可能な演目等の調査を行っているが、この時の調査によると、上演可能な演目は上座・下座とも各5番づつのみで、狂言に至っては稽古を行っていないので上演で
きる状態ではなかったこと等が報告されている。また、王祇祭も、それ以前は正月元旦から三日まで当屋で能を演じ、四日の朝にお宮に
上り神事能を行っていたが、その頃では村民の窮乏がひどく、三日の夜に当屋で能を演
じ、四日の朝にお宮で神事能をしているといった大幅な縮小の様子が伺える等、かなり
の衰退の時期にあったようである。
このような状況下で、二座合わせてなんとか7番の演目を城中において上演し、藩主か
ら米百俵と太鼓等の褒美を貰い、支度金として借りた21両余りは無利息・2年年賦で貸与されるなど経済的な援助と、今ならば天覧に値するほどの栄誉が与えられたのである。この城中での演能とその経済的・精神的報酬がその後の黒川の能に与えたインパクトは大きい。事実、この最初の城中能の上演の後、計11回の城中能が行われ、その過程で上演可能な番組が増加して行く経緯を見れば、城中能が契機となり、黒川の能の復興につながったと考えられるからである。
また、黒川の能を支える経済的基盤、その生産・収入面は永く氏神である春日神社の寺
社給田からの収穫と当屋(頭人)の「大盤振る舞い」という個人的出費、及び「合力(ごうりき)」と呼ばれる寄付制度〔注1〕に依っていた。春日神社の寺社給田は56石余りで、現在の米価に換算するとほぼ270万円程度となる。但し、当然耕作者に貸し与えられていたものと考えられるので実質はその半分程の130万円程度と考えられよう。この額で神社及び能を維持するのはかなり困難であったことであろう。先に触れた元禄期までの黒川能の衰退も、こうした経済的基盤の弱さが一因しているといえる。この弱さを補い、復興への契機となったのが城中での演能とその報酬であり、城中能に続いて行われた開帳能・勧進能である。
城中能で評判を得た黒川の能は、一般民衆の関心を呼び、宝永元年(1704)に鶴ケ岡城下で
最初の開帳能が行われた。開帳能とは、入場料(木戸銭)を取って、観客に芸能を見せる一種の興行で、当時は藩の許可を受け、香具師(やし)と呼ばれる興行業者によっ
て取りまとめられていた。開帳能は、その後も度々開催され、7日間から10日間の長期興行もザラであったと伝えられている。
薪への火入れ(水焔の能)
亨保20年(1735)の鶴岡・酒田のそれぞれ7日間の興行で、延べ7千人近い観客(一日平均約千人)を動員し、諸経費を差し引いて金22両(現在では約200万円に相当する)の収入があったという。これらによって得た収入は、神社の社殿の修復や能装の修繕・購入、祭りの運営資金に当てられた。また、一部は藩に預けられ、相当の利息を得たと言われる。この開帳能に対する藩の許可はそういつも出されるものではない。願い出に対して許可が下りなかった例もある。しかし、黒川の能が、城中能や開帳能として興行を行った年を見ると、その多くは、凶作やそれに伴う米価高騰の年かその翌年であることが年表から知ることができる。
降神の儀式
一般に、農耕に結びつく祭りの本質的意味には、豊作・豊穣への祈願及び感謝の念を表
すとともに、その代価としての余剰生産物の神前での蕩尽を伴うものと考えられる。そ
の意味で、祭りは純粋に消費・浪費の場である。このハレの消費の場と、ケである日常
での生産活動を共有することにより、共同体としての成員の結び付きを補償するという
社会的機能が生まれる。消費の場としての祭りを成立させるには、それに見合う生産を
農耕の中で生み出さなければならないが、その生産が充分でない場合は、どこかでこの
歳入面の不足を補填する必要があるのである。
(写真1)
このように神事能の存続の為に、どこかで鑑賞能を行い財政的な補填をしなければならないという構造は、江戸時代より既にあったものである。しかし、これをもって「神事
能である黒川の能の意味が薄らいだ」とする見方は、少々性急に過ぎる。なぜならば、
神事である王祇祭やその他の祭礼での演能は現在でも脈々と行われているし、その一方
で、いわゆる鑑賞能としての演能の機会も増加したが、黒川能の伝承に資するそのプラ
スの効果は、先の例を見ても分かる様に甚大であったと考えられるからである。
水焔の能会場入口
全ての芸能は少なからず宗教的要素と意味を持っているものだが、こうした芸能の本来 の意味や目的とは別に、他人の鑑賞に供するために芸能が行われることへの賛否をめぐ る議論は、特に民俗芸能や伝統芸能を題材とした研究等においてはテーマになり易いも のである。また、通常の民俗芸能や伝統芸能の研究は、芸能や芸態それ自体を対象とす るので、鑑賞化・舞台化等による芸能の変容は、マイナスの効果として忌み嫌われるの が一般的である。しかし、対象を伝統的芸態の保存だけではなく、その演者の生活や地 域の発展、芸能の発展といった視点に立つ時、この古くて新しいテーマはかなり異なっ た面を提示してくれるのである。
水焔の能に集まった観客
ひと口に「鑑賞のための芸能の上演」といっても、そこには様々な側面がある。元禄期
以降の黒川能の城中能や開帳能は、あくまでも神事能存続のための鑑賞能の上演で、神
事能の継承と保存のシステム、並びにそれを支える信仰と村落共同体の存在を前提とし
て行われている。この場合、「鑑賞のための芸能の上演」は「神事としての民俗芸能」
の継承システムの一部として機能することになるのである。
これに対し、現在の黒川の能におけるこうした神事能と鑑賞能の問題は、先の城中能
や勧進能の例とは意味が異なってくる。確かに形としては昔ながらの祭りの形態を残し
てはいるが、それを支える信仰心や村落共同体としての枠組みと機能は、農耕社会が崩
れたと同時にその大半は既に失われているのである。今の黒川の能を支えているのは、五百年に渡る芸能を継承・保存しなくてはならないという義務感と、国の無形文化財への指定や社会的評価という精神的支えによって辛うじて存続している。その反面、増加する演能機会に対処する充分な時間的余裕もないという問題が生じる。国の指定は受けたが、王祇祭等の神事に関しては補助は行われず、依然「合力」〔注1〕という寄付制度に頼っているが、周辺住民の負担は限界に達している。こうした財政的問題については近年、財団を設立するなどの対応が行われているが基本金の積み上げ等、未だ充分とはいえない。
(4)新しいコミュニティの再生に向けて
これまで見てきたように、黒川の能をめぐる後継者等の諸問題は、危機的状況を乗り越
え、ある程度安定した状態にあるように見えるが、それを支えているシステムはある意
味では旧態のままである。確かにこのシステムは、伝統的な形を保存・伝承させるため
に重要な機能を果してきてはいるが、今後10年〜20年を経るうち、時代や社会環境の
変化によってそれが行き詰まりを見せるのは必至であり、時間の問題であろう。
伝統の中で培われてきたものは、現在に残るその形でもなければ、それを支えるシステ
ムでもない。いわばその時代や状況に対応して自らを作り替え、新しい形とシステムを
創りだす生命力そのものなのではないのだろうか。
では、何のために。それは共同体の構成員一人ひとりの幸福のためである。但し、ここでいう共同体とは、必ずしも春日神社を氏神とするこれまでの地域集団を指すものではない。なぜならば、こうした地縁や血縁・土俗信仰等に基づく第1次集団としての括りは既にほとんどの意味と凝集力を失ってしまっているからである。このような第1次集団に基づく共同性の希薄化・空洞化は、近代化の過程においてもはや止めようのない必然的な傾向である。
しかしながら、これによって「共同性」そのものが無効になるわけではなく、「共同
性」というものは依然人間の生活にとってなくてはならない基底的要素であることには
変わりがない。だとすれば、これまでの共同体に替わる新たな共同体の枠組みを確認し
直す、あるいは創造する必要があるだろう。
ドイツの社会学者ラルフ・ダーレンドルフはこの「共同性(コミュニティ)」の概念を、「ライフ・チャンス」〔注2〕という概念を用いて説明しようとしている。「ライフ・チャンス」とは、単に〔人生の選択に付されている可能性〕という意味ではない。「ライフ・チャンス」とは<オプション>と<リガーチャー>という二つの要素の関数であり、この二要素は相互に独立して変化しうるもので、各々の時点でのこの二要素の結び付きがライフ・チャンスのあり方を決定するとしている。
<オプション>とは、社会構造の付与する「選択可能性」「行為の選択肢」であり、行動の目標と範囲とを表すのに対し、<リガーチャー>は、人間同士の「結びつき」「つながり」といった帰属とその意識を指し、「個人が占めている位置に意味を与えるもの…人間とその行動とを根づいたものにするもの」である。したがって、選択肢が多ければ多いほどその人のライフ・チャンスは拡大するというのは典型的な誤解である。
簡単に述べるなら、前近代社会は家族や身分、種族、宗教といったリガーチャーがほとんどで、オプションの欠如した状態であり、近代社会は、圧倒的にオプションを増大させ、ライフ・チャンスをも拡大したが、必然的にリガーチャーの減少を招いた状態といえる。
その結果、現代人は「故郷を喪失」した「孤独な群衆」として都市の空間に漂うことに
なる。つまり、オプションなきリガーチャーは抑圧であり、リガーチャーなきオプショ
ンは無意味となるのである。
現代の社会の中で、前近代的リガーチャーの存続をくい止めることはもはやできないし、そこに繋ぎ留めようとすることはただの反動でしかない。だとすれば、このリガーチャーに替わる新しい「つながり」をオプションの付加と伴に再生・創造する必要があるといえる。それが新しい共同体(コミュニティ)となり得る可能性をもつものと考えられるからである。
その新しい共同体(コミュニティ)において、黒川の能が新しい意味と形とシステムをもって活き活きと演じられることを願うしかない。いや、むしろ黒川の能が新しい共同体の枠組みに意味と価値を付加していくリガーチャーとしての中心的役割を持つものとも考えられよう。
本稿をまとめるに当たっては、能座関係者並びに櫛引町教育委員会等へのインタビュー を元に、『櫛引町史〜黒川能史編〜』、『黒川能の世界』(平凡社)、『黒川能・村か らの報告』(読売新聞山形支局編・東北出版企画)等を参考にさせていただいた。中でも『黒川能・村からの報告』は、黒川能を取り巻く社会環境や黒川能の抱える今日的課題に対する視点から書かれており、本稿の趣旨に近い内容となっていることから、多くの示唆をいただいたことを感謝したい。
〔注1〕 この合力制度は、一種の自立寄付制度であり、共済制度と言え、それ以前か らも王祇祭の際に当屋で行われる大盤振る舞いの経済的源泉となっていたらしいが、治 3年の社領没収によって失われた財源を補填するために、その比重が益々大きくなった と言えよう。王祇祭における経済的収支は、神社宮司から祭りを司る者として号を与えられる当屋 (その世帯主は頭人と呼ばれる)が管理し、能座は関与しない(能座は演能によって収 入を得るのではなく、逆に能座の会費から援助が各当屋に支払われる)。当屋の経済的負担は大きく、ほぼ六百人分の賄いを用意することが要求され、その他の経費も合わせると、その額は二百万円(昭和50年当時)は下らないと言われている。これらの経費の大半が合力によって賄われるわけだが、庄内地方には昔から「黒川には嫁にやるな、婿をとるな」の例えもあるように、寄付金は年々上昇し、近年ではかなりの高額に達しており、一世帯数万円、親類・縁者ともなるとその続柄に応じて数十万円の寄付が要求されることもあり、既に限界に達している。
〔注2〕ラルフ・ダーレンドルフ著:吉田博司・田中康夫・加藤秀治郎訳:1982年『ライフ・チャンス』〜「新しい自由主義」の政治社会学〜:創世記
【参考文献】(本文中表記を除く・敬称略)
○戸川安章著『櫛引町史〜黒川能史編〜』1974年:櫛引町
○馬場あき子・増田正造・大谷准 共著『黒川能の世界』1985年:平凡社
○読売新聞山形支局編:『黒川能・村からの報告』1975年:東北出版企画
○国立劇場能楽堂事業課編『国立能楽堂特別公演〜黒川能』1985年:国立劇場
○国立劇場能楽堂調査養成課編
『国立能楽堂秋の特別展示〜黒川能の世界』1985年:日本芸術文化振興会
補縞)バリ島の芸能と観光化のインパクト
■「創られた伝統」としてのバリの芸能
「鑑賞のための芸能」が、芸能それ自体を変化・発展させる起動力として作用する場合
もある。いわば「伝統の創造」、あるいは芸能の創造システムとして機能するケースで
ある。
インドネシアはバリ島の音楽や舞踊は、今でも一般の農民によって演じられる優れた民族(民俗)芸能として世界的な注目を集めており、島の最も重要な産業である観光の最大の資源として位置づけられている〔注3〕。だが、現在行われている演奏や舞踊のスタイルは、古い伝統を守り残しているものと思われがちだが、実はバリ島本来の伝統的スタイルとはかなり違ったもので、それは極最近になって確立されたスタイルであることはあまり知られていない。
現在バリ島の民族音楽や舞踊として一般的に考えられているスタイルのほとんどは今世
紀初頭(植民地時代)かそれ以降に、バリ人自身によって考案・改良されたものや、欧
米の芸術家や人類学者によってアレンジされたものであり、その後観光化による鑑賞芸
術化、舞台芸術化の過程の中で洗練され徐々に形作られきたものである。例えば、ガムラン(Gamelan 又は Gamblan, 合奏の楽器群とそれが奏する音楽の両方を指す)には現在30種程のタイプがあると言われているが、その中で最も一般的・代表的なタイプはガムラン・ゴング・クビャールと呼ばれるタイプである。この形式は1910年代の後半に編み出され、そのダイナミックな(派手な)音と編成により瞬く間にバリ島全域に拡まり、古い楽器はこのタイプに鋳造し直され、今ではほとんど全ての村に所有されるようなっている。
また、芸能の内容も大きく変化しており、例えば、聖獣バロンが登場するバロン・ダンス(日本の獅子舞に似ている)は、本来重要な儀礼の一部であり、バロンの頭(かしら)はそれ自体霊力を持った神聖なものとして扱われていた。また本物の儀礼としてのバロン・ダンスは3時間、あるいはそれ以上の長時間を要し、最後のクライマックスの部分
では興奮のあまりトランス状態に入った踊り手たちが短剣 (Keris)で自分自身を突き刺す様な場面もあり、このトランス状態から上手く抜け出せないような時には、踊り手を正気に戻すために生きた鶏を食べさせる方法等が用いられていたという。このバロン・ダンスが観光客向けに公演されるようになったのは1930年代頃からというが、観光客はこのように長時間に渡る残虐(?) な光景を見たがるわけではないので、筋書きは1時間余りに短縮され、バロンの頭は公演用に別のものが作られ、トランス状態の踊りは作為的に行われるようになっている(この経緯に関してはアネット・サンガー著:松田みさ訳,「幸いか、災いか?〜バリ島のバロン・ダンスと観光」1991年:『民族音楽叢書6・観光と音楽』東京書籍、に詳しい)。このバロン・ダンスは今ではパッケージ・ツアーにも組み込まれ、バリ島へ行ったことのある方ならほとんどの人が観ていることだろう。
このバロン・ダンスと共にバリの芸能としてポピュラーなものがケチャ・ダンスであろ
う。この原始的で神秘的なバリ独特な芸能も、実は1933年当時バリ島に住んでいたドイツ人の画家ウォルター・シュピースの提案によって創作されたと言われている。また、
先に触れたガムラン・ゴング・クビャールの隆盛の影で、衰退しつつあるガムランの形式やタイプもあるが、その一つの「スマル・プグリンガン」というガムランの復活に奔走するカナダ生まれの作曲家コリン・マクフィーの姿は、その著書『熱帯の旅人』(大竹昭子訳:1990年:河出書房新社)に活き活きと描かれている。
■変容と創造の要因
バリ島の芸能が、観光化によってある程度の変容を受けいれつつも、且つその生命力を
未だ失わなっていないということの要因にはバリ人の民族的な柔軟さや許容度の大きさ
に加え、様々なものが考えられるが、大きく次のような特性が挙げられよう。
まず空間的時間的拘束からの尤度が大きい、ということが考えられる。芸能の多くは宗
教的儀式や儀礼と深く結び付いており、その儀礼は農耕作業とその過程とに連動してい
る。その結果、農耕作業の中で、種まきや田植え、成育時期、収穫時期、農閑期などの
節目や集団作業の円滑な遂行のために様々な芸能が行われることになる。日本におけるそうした芸能の多くは、365日(以前は太陰暦)を一年とした農耕作業のサイクルと季節、その儀礼を司る神社などの場所等が一定し、その拘束が大きい。
これに対し、バリ等におけるそれはそうした拘束が比較的小さいのである。バリ島にお
ける農耕も稲作が中心だが、熱帯地方の特色である二毛作・三毛作が一般的で、そのサイクルや周期は島全体として見ると一定していない。また、バリでは公用的には太陽暦も使用されているが、日常生活や宗教行事を規定して
いるのは、一年を210日とするジャワ・バリ暦(各村々にそれぞれ必ず寺院があり、そ
寺院の建立記念日はこの暦に沿って行われる)とヒンドゥー・バリ暦で、その組み合わ
せにより様々な行事が行われるのである。バリ島ではほとんど毎日何処かの村で祭りや
儀礼が行われているという状況はこうして生まれてくる。こうした要因が、バリの芸能
を時間的・空間的拘束からある程度自由にし、様々な日時や場所での公演を可能にする一因となっていると考えられる。また、一部の都市部を除いたその他の農村部では、農業従事者がほとんどで、時間的余裕の度合いは、どこかの国のサラリーマンとは比較にならないのは言うまでもないであろう。
これに加え芸能の上演に対する代価を金銭で受け取ることへの抵抗が少ない、という経
済的な理由も関与している。寺院を中心とした儀礼や祭事の他に、個人的な儀礼や行事
の際に、村の芸能がチャーターされることが以前から行われていた。その出演の代価は
金銭で支払われる(この点は日本においても花として支払われるのに似ている)が、バ
リでは基本的に村の歳入として扱われる。勿論その一部は出演者に均等に分け与えられ
るが、残りは村(習慣村や集落)の資金として祭礼その他に運用されるのである。
バリでは稲作のための灌漑が早くから発達し、この灌漑を共有する習慣村(デサ・アダット)や
集落(バンジャール)の結束は固く、祭礼や行事とそれに付随する芸能は、これらの習慣村や集
落を単位として行われているように、村落共同体の社会的機能が未だに存続しているか
らである。現在の観光客向けの公演においても、そのチャーター先が個人から外国人の
観光客に移行しただけで、その意味や経済的な構造は何ら変わるものではない。代価と
しての金銭の授受は、個人的な利益の追求(尤も、個人に支払われる出演料は低額だが
、村人にとっては数少ない現金収入を得る重要な手段となっていることも事実であるが
)というよりは、村全体の利益のためという大儀名文が成り立ち、芸能を売り物にするという後ろめたさはほとんど感じられないのである。
また、芸能の宗教的意味や神聖さからの切り離しが比較的容易に行われる、という側面
もある。先に述べたバロン・ダンスの例にもあるように、それ自体神聖な神器であるバ
ロンの頭は神事用に取って置き、観光客用の公演には外見的には変わらないが聖性を吹
き込まない新しい頭を作りそれを使用する等、神事と鑑賞との明確な区分けが行われて
いる。
だからといって観光客用の芸能が手を抜いたレベルの低い見せ物になるということもな
い。芸能は貴重な観光資源であり、観光はバリ島の最も重要な産業である。芸能のレベ
ルが低下すれば、その観光資源としての価値は減少し、観光産業に多大な打撃を与える
のは必至である。これを防止し芸能のレベルを維持するために、観光用の公演には行政
による事前の審査と許可が必要とされている。公演を希望する各村々の歌舞団は、この
審査にパスするためにも日頃の練習を怠らないし、その意味では村同士は互いに競争関
係にあるといえる。毎年バリ州都のデンパサールで開催されるアート・フェスティバル
には島中の村から歌舞団が参加し、名誉をかけて芸能を競い合い、数年前までは怪我人
が出る程の白熱した競演が行われていたという。
芸能と観光という厄介な問題において、バリ島の(たぶん)幸福な関係の例にも見られ るように「鑑賞のための芸能」が、民俗芸能の創造と地域全体の発展に寄与するケース もあるのである。
〔注3〕バリ島の観光が始まったのは1920年代のオランダ植民地時代からと言われて るが、行政の政策として本格的に取り組まれ始めたのは、二代目の大統領スハルトが 1969年に打ち出した第1次五ヵ年計画からである。バリ州の統計では、1969年当時の外 国人観光客の数はおよそ1万 1,278人だが、1986年には24万3,354人、1989年では43万6,538人に達している。
【参考文献】(敬称略・文中に表記した文献を除く)
○田村史子・吉田禎吾 共著『祭りと芸能の島バリ』1984年:音楽之友社
○田村史子「神と人との交感 バリの舞踊と音楽」(『季刊民族学』21号)1982年
○皆川厚一「極楽の芸能」(『エキセントリック』第1巻第2号)1989年
○皆川厚一「バリの古典芸能−さく裂するガムランの島」(『包』第9号)1986年
○山下晋司「『民俗芸能』の発見」(『正しい民俗芸能研究』第0号)1991年
民俗芸能研究の会/第一民俗芸能学会
○山下晋司氏「バリ島と観光 上・下」1990年12月22・23日:信濃毎日新聞