「伝統民族文化の継承と支援」―日本文化の創造と地域の創造―  目次  前項  次項
本論 伝統民俗文化の継承と支援
I 東北地方の伝統民俗文化の継承の現状
3 ケーススタディ
e)福島県会津若松市の玄如節

会津若松市 玄如節 資料映像
[玄如節を歌いながら踊る唯一の伝承者 猪俣トノメさん]
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はじめに

 玄如節は福島県会津地方に伝わる民謡である。名称は「げんじょ見たさに朝水汲めば 姿かくしの霧が降る」という歌詞に由来するといわれている。げんじょという美しい僧 侶を村の娘たちが慕って歌ったとも、逆にげんじょという美しい村娘に若者達が恋して 歌ったともいう。玄如節は時代とともにほとんど歌われることがなくなってしまった。 現在唯一の伝承者となった猪俣トメノさんと、猪俣さんから玄如節を教わり保存伝承の ために力を尽くしている民謡協会のかたがたに、玄如節の過去・現在・未来についてお 話を伺った。


(1)玄如節の歌い方

 玄如節の最大の特徴は何人かの歌い手が交代で一節ごとに「掛け合う」ことであろう 。実際に玄如節を歌うときにはハヤシ句が入り、また歌詞も繰り返される。例えば、前 述の歌詞を猪俣さんが歌うと、

ハアー
玄如見たさに 朝水汲めばヨー
サーサー   ヨイヤショーイ
姿かくしの  霧がふるヨー
アラ     霧がふるヨー
姿かくしの  霧がふるヨー

玄如節を歌う猪俣トメノさん

というようになる。ただし、現在猪俣さんは掛け合う相手がいないので、お一人で歌い 囃しも入れた。そのため、ハヤシ句との関係が明確に現れてこなかった。そこで猪俣さ んから玄如節を習い復活させた民謡協会の方々の歌い方も見てみよう。男女で次のよう に歌っている。ちなみに、これには尺八の伴奏が付く。尺八の旋律は歌の旋律をそのま まなぞったもので、技巧的な装飾は少ない。尺八の前奏で始まるが間奏・後奏はない。
ハー玄如見たさに 朝水汲めばヨー    男性 A
サーサー     ヨイヤショーエ    女性 ハヤシ句
姿かくしの    霧がふるヨー     男性 B
ハー       霧がふるヨー     女性 B′
姿かくしの    霧がふるヨー     男性 B
サーサー     ヨイヤショーエ    女性 ハヤシ句

ハー玄如踊りは  ままより好きでヨー  男性 A
サーサー     ヨイヤショーエ    女性 ハヤシ句
炊けたおまんまの 食べ好きだヨー    男性 B
ハー       食べ好きだヨー    女性 B′
炊けたおまんまの 食べ好きだヨー    男性 B
サーサー     ヨイヤショーエ    女性 ハヤシ句

ハー会津玄如は  利口じゃできぬヨー  男性 A
サーサー     ヨイヤショーエ    女性 ハヤシ句
まるで馬鹿では  なおできぬヨー    男性 B
ハー       なおできぬヨー    男性女性 B′
まるで馬鹿では  なおできぬヨー    男性 B
サーサー     ヨイヤショーエ    男性女性 ハヤシ句

手拍子を取って歌う民謡協会の皆さん

  歌詞の後半Bが繰り返されるのが 特徴である。この例では、最後には 歌い手もいっしょにハヤシ句を歌っ ているが、原則的にはハヤシ句は相 手方が歌うのである。また、民謡協 会のこの例では一節ごとに歌い手を 変えて掛け合うことはしていない。
 玄如節では掛け合うときに一人づ つで歌うこともあれば、真似して複 数で一緒に歌うこともあったそうである。そして歌を歌いながら大勢で輪になり踊る。 周りで歌っている人が手拍子をとることもあった。


(2)歌詞の即興性

 玄如節のもう一つの大きな特徴は歌詞が固定した ものではなく、そのつど即興で作られ、1つの旋律 に乗せて歌われたことである。まったくの即興もあ るが、実は繰り返しみんなに歌われてきた歌詞があ り、それらはある種のストックとして記憶されてい る。その膨大なストックの中から、歌詞を選んで使 うこともあった。一般に民謡と呼ばれているものと 違うのは、歌詞の順番が決っていない点である。

歌いながら踊るトメノさん1

 歌詞の題材にはさまざまある。明治35年に会津で 生まれた学者山口与一郎が、昭和26年に『民間伝承』 に発表した「ウタゲイ考−玄如節に残る歌垣の余韻」 にそってどのような題材があったか眺めてみよう。まず物を題材にしている。「ツクシ モノ」というのは、石とか木とか餅とかを題にして、連歌式につなげるやり方である。 「投げ草」というのは特定な品物をお盆の上におい て、まず誰かがそれについて歌い、次に品物を代え て次の人がそれを題材に歌うというやりかたである。 特別な名称はないが、その場の状況が題材になるこ ともある。「ヒケウタ」というのは帰る人が即興の 歌詞で暇をつげ、それに対してひきとめるほうも即 興の歌詞を返すものである。

歌いながら踊るトメノさん2

 また、狭義に「カケアイ」といった場合は、なか ば競技のように歌詞を出し合うことを指すようであ る。「相手の出ようによって、直ちにどう歌でたち むかいてゆくかの、機微にふれた揶揄、感興、時に は悪態の歌で相手を封ずる」ように歌ったという。即興で歌詞が作れ、しかも相手から 投げかけられた歌詞に機知をもって答えなければならない。この場合は1対1でおこな ったようである。歌での名勝負は語り継がれるほどであった。


(3)玄如節の場

 玄如節は今日では本来の形で掛け合い、踊ることはなくなってしまった。かつてはど のような時と場所で玄如節を歌ったのであろうか。山口弥一郎は前述の論文の中で、彼 が子供のころ見た玄如節の様子を次のように記している。

  ある晩村の南の観音堂の庭の大銀杏の木の下で、真中に掛行灯を置いて、8、 9人の爺さん婆さんが、手拭をかむってウタゲイが行われていた。もちろん歌 の文句等は覚えていないが、一人が唄うと、次の人がハーという間に、即興的 に皮肉めいた文句を作って、継いでゆき、周囲に見ている人々が笑ったり、ひ やかしたり、感心したりして聞いていたようであった。
   「ウタゲイ」とは会津若松地方で 歌の名手のことを指すが、ここでい うウタゲイは玄如節で掛け合いなが ら歌い踊ることのようである。山口 は他にも、宵祭のお籠りや湯治場で 玄如節の掛け合いを聞いている。
 現在、掛け合いを経験したことが ある最後の伝承者である猪俣さんは、 柳津のこくぞう様(柳津福満虚空蔵尊のこと)で9月30日の夜に玄如節を歌って踊った という。下駄をはいてお堂のなかで「がったらがったら」音を立てながら踊る。普通の 着物を着ていた。遠くからくるのでもんぺをはいていた人もいる。柳津にはかなり遠く から集まったようである。昭和の初期に柳津に鉄道が引けてからは、野沢のあたりから もやってきたようだ。猪俣さんはこくぞう様に行くときはその日の農作業を終わらせて から、夜8時ごろの最終列車にのって柳津に向かったという。朝は一番列車で帰り、そ のまま稲刈りにいった。普段の生活では11時ごろ寝て、まだ暗い3時半か4時ごろ起き 出すのだから、寝ないで玄如節を歌い踊っていたわけである。

柳津福満虚空蔵尊

 また、民謡協会の遠藤幸一氏は玄如節を歌い踊ったことはないが、若い頃こくぞう様 で見た経験があり、そのときの様子を次のように語ってくれた。「柳津にお篭りにいっ た。七日堂の裸祭りのときお篭りした。9月30日にも行った。玄如節をやっているのを 見たことがある。ほっかぶりしたり、尻をまくったりして踊っていた。戦後にも見た。 老人達が玄如節を歌い踊っているのを、若者だったころ一人で見ていた。栗や柿などが 振舞われると、それを歌詞に歌い込んで「栗づくし」や「柿づくし」をした。かなり長 く続いた。60才に近い人が集まっていた。間でみんなが休んでいるときに、長持ち歌な どの民謡を歌わせてもらった。自分では玄如節はしなかったが、柳津のお堂にある回廊 のようなところでマイクを立てて、民謡を歌った。聞く人たちは下に座ったり立ったり して見ていた。」
 本来玄如節は特定の寺院や神社の行事に結びついたものではなく、人が集まれば興がのっておこなったものらしい。


(4)玄如節の衰退

 玄如節の衰退に気づいて、なんらかの手を打たねばならないと指摘したのも、山口与 一郎である。彼は、先の論文の中で「単に節廻しに会津地方の民謡の名残を止めて踊り も歌も作意も薄れかけているから、玄如節等はもっと組織的な採集をしておかなければ ならない」と述べている。昭和26年のことである。すでに、そのころ玄如節は伝承が危 うくなっていたのである。それ以前に、玄如節の歌詞は大正13年会津民謠会が出版した 『会津民謡集』に212首と、そのほかに数え歌になっているものが1連、いろは歌にな っているものが1連収拾掲載されている。また、山口の警告のすぐ後の昭和28年に、同 じく会津民謠会から『山之内磐水編会津民謡集』が出版された。その中に、村づくし( その他一般にうたわれているもの)として169首、廻り歌(船づくしの例)として甲乙 丙丁の4人で掛け合いをしたと思われる歌詞14首、掛合文句(石づくしの例)として甲 乙の2人で掛け合いをしたと思われる歌詞20首、段物(白虎隊抜萃)として11首を掲載 している。さらに、投げ草(4種)として、「松と竹の場合(5句)」「徳利と巻煙草 の場合(5句)」「茄子と南京の場合(5句)」「蜜柑にお茶の場合(5句)」として いずれも5首があげられている。
 これらは、当時しばしば歌われていた歌詞であろう。しかし、歌詞集の発行は、結局 は玄如節の衰退を食い止めることはできなかった。福島県立博物館の懸田弘訓氏による と、その衰退の最大の原因は昭和30年の「新生活運動」にあるという。男女が集まって 夜明しで歌い踊るのをよしとしない風潮が生まれた。そのためこくぞう様で夜篭りする こともなくなった可能性がある。しかし、すでに明治35年生まれの山口の目には、玄如 節は年寄りだけのものと映っていた。また、昭和20年代にも年寄りだけで、若者が参加 できる雰囲気とは違っていたのが遠藤氏の話から伺える。そのころの若者は普通の民謡 なら進んで歌っている。つまり、「新生活運動」のころまでは、玄如節が歌い踊られて いたが、すでに次の世代への伝承はおこなわれていなかったといえる。伝承はもっと以 前に途絶えていた。最後の伝承者の集団が、若い頃から年をとるまで歌い踊り続け、そ の集団がなくなるとともに玄如節が消えたのである。


(5)伝承の現状と今後

 昭和56年に、民謡協会が玄如節を猪俣さんから習い復活した。平成2年には「アジア 民俗芸能際−いしがき '90」に出演している。しかし、普通の民謡と違って、旋律と歌 詞を覚えればよいというものではないところに、種々の問題が起こる。まず、1人では できない。掛け合いをするためには、少なくとも2人以上の歌い手が必要である。しか も、本来の形式にもどすためには、かなりの人数が必要である。さらに、掛け合いをす るためには、歌詞の即興能力がなければならない。とくに、競技のように歌詞で応酬す るには、お互いにある程度の顔みしりか、さもなければ共通の生活基盤をもっている必 要があるのではなかろうか。サンプル的に復活することはできても、かつて人々が集ま ると玄如節を楽しんだように復活することは果してできるのであろうか。 今後の民謡協会の活動にかかっているであろう。

トメノさんと小島美し子国立歴史民俗博物館教授(右)

 最後に今回の調査にご協力いただ いた、猪俣トメノさん、遠藤幸一氏 をはじめとする民謡協会の皆様、そ して福島県立博物館の懸田弘訓氏に 心から感謝を申し上げる。


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