横手市 金沢八幡宮奉納伝統掛唄行事 資料映像
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はじめに
横手市金沢にある八幡神社は、約900年前の寛治7年(1093) に創立されている。この神社は、源義家が、清原家衡、武衡を金沢棚に征めたときに、その勝利の護に感謝して出羽の鎮護として建立されたものである。したがって、金沢のみの物ではなく、広汎な参拝者を集める神社である。そのため、礼祭に集まる人々は日帰りでは来られず、例祭の時には神社内で一夜を明かしたという。この夜が人々による掛け唄の競演の場となり、自然発生的に掛け唄が発展してきたといわれている。
現在は「大会」となっているが、古くは非常に自由で、自然な人々の交流の場におい
て行われていたのである。
八幡神社境内
(1)秋田県横手市の概要
秋田県横手市は、秋田県南部の中央に位置し東に奥羽山脈が連なっている。秋田空港
から車で約1時間半。史上に著名な後三年の役の古戦場として知られている所でもあり
、春は桜、冬はかまくらが観光の目玉となっている。
横手市の人口は平成4年1月1日現在で42,196人で、過去10年間の人口の推移をみると毎年約100〜200人前後の割合で減少している傾向にある。
(2)掛け唄の概要
掛け唄とは、「二人または二人組の集団が、互いに相手に即興的な歌をもって問いかけたり答えたりするもの。古代において男女が、常陸(茨城県)の筑波山とか肥前(佐賀県)の杵島岳などという特定な場所に集まって、互いに歌をよみ合い飲食したり舞踏をして配偶者を探し求めた歌垣の際の歌がその先駆で、それが民間に伝わって種々の遺風を生じている」(浅野建二編、1983年、『日本民謡大事典』)というもの。「歌垣」については同じ資料に「上代において春秋の季節のよい時に男女が神聖な山や市などに集まって、楽しく飲食や舞踏をしたり掛合いで歌をうたって性的解放を行なった、五穀豊穣のための予祝行事」だったと記されている。節や言葉の調子は各地で異なるだろうが、即興的に歌詞を考えて歌い合うところがこの芸能の特色である。
山に登って歌を掛け合う風習は、秋田県内各地で昭和30年代まで残っていたらしいことを、秋田魁新報社刊の『秋田の民謡・芸能・文芸』(昭和45年)が記している。ただ、この風習と現在の横手市金沢の掛け唄大会とが直接結びついているかどうかは定かでない。(このあたりについては後述する)
(3)金沢掛唄大会の概要
■発祥について
この行事の発祥については確たる説がない。横手市文化財保護審議会の資料によると、現在の大会開催場所である金沢八幡宮が1093年に創建されたことを喜んだ近郷の者が集まって歌い踊ったのが始まりだろうとされている。かつてはあちらの隅で唄うとこちらの方から負けずに大声で唄い、こんどは別の方からその唄に対して返すというように、それぞれ好きなように唄い合っていたらしいとも記されている。金沢八幡宮掛唄保存会事務局長の佐藤清二氏の話によると、その時期についてははっきりしないが八幡宮では「おこもり」と呼ばれる風習があり、それが大会開催のもとになったという。これは、年頃の娘が深夜2時〜3時位に八幡宮にお参りをすると良縁にめぐまれるといわれ、娘がお参りするのを指して「おこもり」とよんでいた。その時に、夜中に娘ひとりでは危ないからと、その娘の父母あるいは兄など身内のものが付き添い、神社の入り口付近で娘を待っていた。付き添い人らは、娘を待っている間、歌を唄いながら時を過ごしていて、それがつまり「掛け唄」だった。
大会風景
大会優勝旗
上代において野山で掛け唄をしていたという風習があったからこそ、ちょっとした時間の合間に掛け唄をするという発想がごく自然に身についていたのだろう。そして「ただ唄って帰ってしまうのはもったいないとうことで大会となった」(前出・佐藤氏)という。大会化するきっかけとして、大正15年(1926)、金沢八幡宮の社殿改築記念があったのである。掛け唄大会が奉納行事としてあるのは、おそらく「おこもり」という風習から起こった行事であるためだと考えられる。昭和10年には大会優勝旗が授与されるようになった。最初の優勝旗は地元の酒屋が寄付したという。その後2回、優勝旗は新しいものと交換されているが、いずれも個人の寄付による。
大会の主催は「祭典協賛会」で、この団体は、金沢地区で催される数々の行事を主体
となって行なっている。会長は農協組合長、副会長は保存会事務局長の佐藤氏が務めて
いる。それらの行事は掛け唄大会も含めて、金沢地区1400戸から年間1000円程度の寄付金を集めることで予算を確保している。
■大会の概要
大会は毎年9月14日、金沢八幡宮の境内の社務所と長床を利用して開催される。14日は、午後8時頃から出場者の受け付けが始まり、大会開始は午後10時頃。出場者の数は毎年25、6人。夕方過ぎぐらいから長床には出場者の知人、掛け唄が好きな地元の人間等が毛布やお酒を手に集まる。9時を回る頃には長床はいっぱいになり、境内にちらほらと人が集いはじめる。ステージとなる社務所の一角には、腰ほどの高さの机が置かれており、ふたつのコップと大きなやかんが用意されている。マイクは天井から釣り下げられている。やかんには、歌い手が時々喉を潤すための水が入っている。よくお酒が入っているものと勘違いをされるらしいが、さすがに酔ってしまっては呂律が回らなくなって思うように唄えないらしく、喉の渇きは水で抑えている。そんな出場者の気概をよそに、審査員も含めた観客たちは和やかな雰囲気で酒盛りに興じている。
大会風景
掛け合い
大会の進行は審査員が行う。平成3年度の大会では前出の佐藤氏が司会進行を務めた。審査員は6名で、出場者の中の2名を指名する。指名された2人は、歌詞を即興で作って掛け合う(七・七・七・五調)。2人は1回の競技で2〜3回掛け合い、審査 員が笛を鳴らした時点で試合を終える。相手の歌にどう応えて歌に読み込むかが審査の対象となる。内容は非常に様々で、身近な話題から、世相から事件から政治的なことまで、なんでもあり、といった感じだ。その場でどんなことが相手の口からでるのかもわからない状態で掛け合いをするのだから、熟練した者でないととてもできそうもない。
ここで唄の例をあげておこう。以下は平成3年度大会で配布された宮崎隆氏製作のミ ニコミからの抜粋である。平成2年度大会で唄われた歌詞が記されている。
蔵前国技で裸の勝負、がんばれ貴よ、若花田。節は仙北荷方節である。昭和の初め頃は「八幡節」「金沢節」と呼ばれる独特の節回 し(どんな節かは確認できず)で歌う者が多かったらしいが、戦後はこの節で歌う者が 少なくなり、仙北荷方節が中心となったという。荷方節は秋田県北部地方に歌われる祝 唄のことで、特に仙北地方ということで、この名があるものと思える。
今は相撲でがんばっておるが、わしらも荷方でがんばろよ
若い世代へと変わって行くが、相撲の社会がよくわかない
若や貴など最初はよかった、あとでさっぱり勝ってない。若い力はこれからできる。千秋楽までわからない。
年はとっても鍛えた体、そんなに若い者には負けはせぬ。
(高田市郎氏と小野寺久雄氏)兄貴の指導でここまできたよ。兄貴の気持ちに感謝する。
それはお前の上手な言葉、本当だばしんでくれればいいと思っとるべ。せっかくほめればむくれてくるし、兄貴に気持ちがおら好きだ
それが今の若い衆の心、年寄りとなかなかあわないもの。
(高田市郎氏と川村与七郎氏)
※高田市郎氏は平成2年度の優勝者
さて、話を大会の方へ戻そう。このように様々な内容の歌の掛け合いによる競技を何組かがしていき、5回戦ほど行なう。曖昧なトーナメント制で、すべて審査員の一存によって、残っていく出場者は決められる。「曖昧な」というのは、誰が勝ち残っているのか、傍目にははっきりとはわからず、優勝者は最終回戦が終わった後の審査員の審議によって決定するものだからである。
大会審査員
夜を徹して続く掛唄大会
最終回戦が終わるのは翌15日の午前5時頃。審査員は別室で審査を始める。その間は、出場者・観客入り乱れての歌合戦が繰り広げられる。酔いに任せて好きなように唄いまくるのである。ある人がステージのマイクを握って唄えば、またある人がそれに応えるようにステージにあがる。テープレコーダーを持ち込んで、曲に合わせて歌う者も現われる。競技中の掛け合いと基本的には同じはず(テープレコーダーの持ち込みは別としても)なのだが、伸び伸びとした表情がそこにある。誰に指名されることもなく、その場にいる者たちが自主的に自由に唄うことができるからだろう。長床は笑いの包まれ、集まった人たちが心から掛け唄を楽しんでいる様子がうかがえる一時である。
審査発表
審査が終わると表彰式が執り行われる。毎回出場者は決まっているのか、そうでなくてもなかなか「うまい!」と思わせる人間が育たないのか、毎年上位3位くらいまではほとんど同じ顔触れが並ぶ。入賞者には、賞状、トロフィー、賞品が贈られ、優勝者にはそれに加えて優勝旗が授与される。賞品はお酒やティッシュペーパーなど決して豪華なものではないが、入賞者は感無量といった表情。
表彰式の後は長床で、上位入賞者、審査員、一部の観客等が集まって直会(なおらい
かい)が始まる。これは、もともと大会の反省会だったそうだが、現在では打ち上げの
場になっている。堅苦しさはなく、お酒を飲み、ご飯を食べ、漬物をつつき、再びその
場に居合わせた者たちの間で掛け唄が始まるのである。
(4)保存会について
金沢八幡宮掛唄保存会が発足したのは昭和39年。時代の変化とともに掛け唄に親しむ
人が減ってきたため、このままでは継承が危ぶまれるとのことで発足した。佐藤氏が掛
け唄大会に関わるようになったのは昭和27年からで、その当時の参加者は50人前後だっ
たという。それが大会発足時は約半分に減っていた。つまり25人前後ということで、こ
こ28年程は変わらぬ参加人数ということになる。保存会の会員は約40人で、この数につ
いては特に変動がない。年配者が多く、40代前半でも若い方に入る。会員は農業従事者
か自営業が主である。資格等は特になく、誰でも入会はできる。年会費は500円で、年
2、3回開かれる総会では当日会費として1000円徴収する。保存会会員は全ての者が唄
っているわけではなく、大会での審査員のみを務める人もいる。練習をするために集まることはなく、総会時に唄う程度だという。保存会としての活動は年1回の大会の他、アトラクションとして市内の催物に呼ばれて唄うことが年に2、3回。
アジア・太平洋うたとおどりの祭典
近年の活動状況は、平成2年6月には沖縄県石垣市で開催の「アジア民俗芸能祭・歌垣のひろがり」に出場。同年9月には、文化庁・国際交流基金主催の「アジア・太平洋うたとおどりの祭典」に出場。ここ1年で県外に出る機会が増えている。
(5)行政の対応について
平成4年1月に市の無形文化財として指定され、同年4月には県の無形民俗文化財( 年中行事)として指定を受けている。横手市社会教育委員会では、大会時のビデオ収録 、総会時の場所の提供(金沢公民館、働く婦人の家等)といった形での援助をしている 。市外での公演の際は、社会教育委員会の澤谷敬氏が同行し、主催者側との連絡係を務 めている。金銭的には一切援助はしていないが、このように外から招かれた場合は、市 長のところへあいさつに赴いた時に、市長から僅かながら金一封が渡される。これはあ くまでも、市長のポケットマネーらしい。行政として金銭的な援助ができないのは、掛 け唄大会の正式名称が「奉納掛け唄大会」であり、宗教的な意味がこの行事にあるから だという。
(6)「継承」を考えた時の現状の問題点と示唆
金沢の「掛け唄」は、もともとは野山での男女の遊びだったものである。それが前述 の「おこもり」という風習の際にごく自然な形で行なわれ始めて大会となった。おそら く、そんな経緯があるために、奉納行事として残ってきているのだろうということは前 に述べた。遊びとしての風習がいつのまにか奉納行事として「保存」されてきたことが 、芸能としての掛け唄の本来の姿を薄くしてしまったように思える。大会の審査の合間 の自由な掛け唄こそが本来の姿ではないだろうか。掛け唄の「継承」を考える時、この 本来の姿をもう一度考えてみることも必要かもしれない。掛け唄の楽しみを多くの人が 知り、やってみたいと思う時に、受け継がれる可能性が生まれるからである。そんなこ とを前提に問題点と示唆を述べてみたい。
■行政の対応
前述したように、掛け唄大会は県の無形民俗文化財に指定されているにも拘らず、そ
の名誉と同等の扱いを行政から受けているかというと、そうではない。「奉納」がネッ
クになっているとのことだが、県として掛け唄大会の文化的価値を認めておきながら、
その一方で宗教的要素があるからと援助の手を引くとは、なんとも矛盾にみちた話であ
る。そのことについての解決方法として、社会教育課・相馬紀夫課長は、大会場所を神
社ではなく公民館等別の場所にすれば、何らかの資金的援助はできるかもしれない、と
言っている。掛け唄は、特に衣装や楽器、道具が必要な芸能ではない。極端にいえば、
声さえ出せればいい芸能である。したがって、道具を必要とする他の芸能に比べて、そ
れほど資金援助の必要性は考えられないが、保存会側では、大会での賞品をレベルアッ
プして、参加者を増やしたいという希望を持っている。それもそうだが、何より、もう
少し地元の人間に掛け唄大会そのものを知らせ、広げてあげるくらいの援助はしてもい
いのではないだろうか。
■保存会の対応
ここで「掛け唄大会」そのものの在り方をもう一度考えてみることが必要ではないだろうか。今の大会の姿は「内輪の楽しみ」になっているように思える。内輪とは、掛け唄を知るごく一部の人間のことである。もっと多くの人に掛け唄大会の存在
を知らせ、多くの観客を動員するような試みをしてみてもいいのではないだろうか。審査員の一存による指名制や優勝者決定は、観客参加を排除しているような感さえうかがわせる。「厳粛さ」が強調されすぎていて、本来の掛け唄が持つ楽しみの部分が失われているように感じられるのである。審査員指名の部と、まったくの自由参加との部を設けるとか、人気投票のような形で観客にも選ぶ権利を与えるといったように、観る側の参加をもっと考えてみてはどうかと思う。
以上は現在の大会に関する示唆だが、次に芸能としての掛け唄の継承について考えて みよう。掛け唄は、教えるということが非常に難しい芸能である。楽器を演奏するよう に、万人に共通のノウハウがあるものではないからだ。即興で歌詞を考え、しかも七・ 七・七・五調で唄わなければならない。個人のセンスに関わる芸能なのである。そうか といってできる者しかやらないというのでは、廃れていく一方である。では、どうして いったらいいのだろうか。ひとつの手段として、考えられるのは、即興で唄われた歌詞 をストックしていき、それを初心者にとにかく記憶させる方法である。そうして慣れて いけば、次第に即興で唄う力もついていくだろう。唐突ではあるが、奄美大島の歌掛け の例をあげれば、演唄者が交互に歌詞を選択しながら歌うものがある。これは、多くの 歌詞を歌い手が自分の頭にストックしておいて、その中から相手の歌詞にふさわしいも のを選んで歌うものである。こうしたスタイルを参考に、継承のための手段を考えてい くのもいいだろう。そのために、行政側は、ビデオ収録だけでなく、歌詞の記録も合わ せて行なっていくことも援助のひとつとして検討してみてはどうか。
大会に集まった聴衆
(7)まとめ
まず、この掛け唄の場合は、何にも増して必要なのは今までも述べてきたように、大
会の存在を多くの人に知らせることだろう。あるいは、大会以外でも「掛け唄」を披露
する場を増やすこと。行政と保存会とでそうした場を設けていくことは可能ではないだ
ろうか。そうすることで、地元の人の協力が得られるようになるだろうし、掛け唄に対
する興味を喚起することにもつながる。そして地域の芸能として認知されることになる
だろう。「保存」していくだけでなく、受け継がれていくものにするためには、若手の
歌い手が必要となる。受け継ぐ可能性を秘めた多くの人々に伝え、観せていくことが今
、必要なことだと思う。保存会側も廃れる危機を感じていながら、継承についてはどう
していけばいいのか、暗中模索しているところだ。とはいうものの、今年4月からは「
掛け唄講座」を開くという新しい動きを見せる。公民館で、いわゆるカルチャーセンタ
ーのような形で行なわれている数々の講座のうちのひとつに組み込まれるのである。こ
れは以前公民館長を勤めた経験のある佐藤氏の働きかけが大きい。「どれだけ集まるの
かは見当がつかない」(佐藤氏)というが、大会以外で掛け唄に接する機会を作ってい
くことはいいことだ。市外で公演する機会が増えたにも拘らず、地元の芸能としての認
識が人々に浸透していないように受け取れるのは、ひとつの「行事」として見られてい
るからではないか。みんなが楽しめる芸能、身近な芸能、そんな感覚が、大会として保
存されてきたことで、希薄になってしまったのではないか。県の指定文化財という名誉
に見合った扱いを受けるべきだとも思うが、それによってある種の権限のようなものを
持ち始めたら、ますます楽しめる芸能から遠ざかってしまう。演じる(唄う)側も、観
る側も楽しめ、観る側もやりたくなるような、そんな「掛け唄」になれば、自然と継承
はされていくものだと思う。
現在の掛け唄には、継承のシステムは何ら確立されていない。「掛け唄講座」が始ま
る今、これが発展していくことを期待したいところだが、まずは、唯一掛け唄を現在に
伝えている大会の在り方を再度見なおすことが重要だろう。
【参考資料】
○横手市役所総務部総務課編、1993年、『横手市の統計』
○山本宏子、1990年、「奄美の女性と音楽文化―アジアの芸能の原点を考える」
○『民俗音楽叢書2−女性と音楽』(藤井知昭監修)東京書籍(株)刊、264頁
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