jyomonstudy 「縄文文化と東北地方―東北の基礎文化を求めて」 目次  前項  次項
第2章 縄文文化の再構築
2 縄文文化の確立と展開
(2) 縄文文化の推移

[1]旧石器時代から縄文時代へ

 前述のような自然環境の変化は、旧石器時代に最も重きをなした大型獣の狩猟活動に 代わって、堅果類採集による植物質食料主存型の生業体系を形成する契機となった。こ れは、先史時代の“生業革命”と言っても過言ではなかろう。その結果、必然的にそれ 迄の遊動・狩猟活動主体の生業体系に根本的な変革がもたらされ、“縄文文化的定住” を実現するための基礎的条件を満たしていったのである
 その証拠は、考古遺物の組合せの急激な変化によってはっきりと跡づけることができ る。石器組成に見る投げ槍から石鏃への変化、その次の段階に起こった磨石・石皿を中 心とした植物質食料加工具の飛躍的増加などである。

 もちろん、これらの変化のすべてが一気に、同じ地域において起こったのではない。 日本列島の各地で、散漫に遊動生活を繰り返していた旧石器時代終末期の人々の集団が その地域ごとに環境との適合をしていく間に、それぞれの変革の条件が整ったところか ら段階的に起っていったらしい。
 今のところ、これらの変革が真っ先に始まったのは九州地方南部、続いて関東平野一 円、そしてこれにやや遅れて北海道東部地方と三重県周辺から近畿地方と考えられてい る。いずれも縄文時代草創期から早期中葉にかけて、実年代では約1万2,500年から1 万年前までの2,500年間のことと推定される。
 そしてこの流れを受けて、東北地方ではそれ以降、安定した縄文文化の華が開く。縄 文文化の幕開け、それは東北地方の文化的基盤の確立と軌を一にするのである。


[2]縄文土器の発明

 日本における土器の出現は、先史文化の展開の中でも、世界的に見て最も早い時期に 行われたことが確実視されている(注4)。日本列島における土器の出現は、その生活 環境の変化からもたらされ、必然的に容器として確立し、生活の必需品として大きな役 割を果たしていくのである。

 土器の起源をどこに求めるか、その問いに十分な説得性を与える回答は、まだ出され ていない。日本における土器の出現は世界史的に見ても最古の段階のもののひとつと言 われているが、最近ではシベリア、バイカル湖付近で細石器を伴う土器文化の存在が明 らかにされ、その結果として、日本の土器文化の起源を大陸に求める公算も強くなって きている。このような視点から、縄文土器の「自生説」「渡来説」両者があるなかで、 筆者は、土器の起源を全面的に日本列島の外に求めることには躊躇する。
 前述のように、旧石器時代後期に氷河時代の終焉によって海面水準が上昇、列島と大 陸をつなぐ陸橋が切れ、日本は四方を海に囲まれた完全な“島国”になった。縄文文化 はこの“孤島”の中、豊かで季節感に溢れる自然環境を巧みに利用して独自の発展を遂 げた、採集・狩猟に経済基盤を置く独特の新石器文化なのである。
 竪穴住居が生まれ、定住の兆しが現れた頃、日本列島の何箇所かで相前後して土器が 発明されたとしても、文化発展の道筋上、決して不自然ではあるまい。

 土器の発明は、人類が最初に応用した化学変化である。そのきっかけは推測の域をで ないが、火の利用という技術を獲得した人類が、長い遊動生活から定住生活に移る過程 で、湿気防止のために炉に貼った粘土が火を受けて偶然硬くなった事にヒントを得たと か、液体を入れるため粘土を塗りつけた編み籠が偶然火をうけて硬化したことに端を発 するとも言われている。
 小林達雄は、草創期の隆起線文土器や新潟県壬(じん)遺跡出土の円孔文(えんこう もん)土器に見られる口縁部付近の文様が、皮籠の口縁の紐かがりを表現していると説 いて、縄文土器の初源が“編み籠”の模倣にはじまる可能性を指摘した(文献8)。
 草創期の土器群の型式変遷の多彩さ、遺跡における絶対量の少なさなど、この時期、 土器が必ずしも“容器”として縄文人の生活用具の中に一般化していなかったことは、 これがまだ、他の容器の補助的存在としての役割しか担っていなかったことを感じさせ る。
 しかし、土器の発明は縄文人に多くの恩恵をもたらした。その最大のものは、従来は “なま”か“焼く”しかなかった食文化に、はじめて“煮る”という調理法を加えたこ とである。これは、単に味覚のバラエティーを拡大したという以上に、食べることの出 来る動植物の種類を飛躍的に増やし、かつその栄養摂取効率を大きく向上させた。
 その結果、人々は、食料確保にかける労働力を大幅に軽減することに成功し、その余 剰エネルギーを他の文化活動に投ずることが可能になったのである。縄文文化に不可欠 な、定住的要素としての竪穴住居の構築、呪的遺物としての土偶の発生などはすべて、 こうした文化的活動力の向上がその前提条件として必要だった。

 縄文文化の指標は縄文土器であるが、その全てに“縄文”が文様として用いられてい る訳ではない。しかしその一方で、縄文を施された土器が、現在全国に60あまり知られ ている土器様式の過半を占めることも、また事実である。
 土器の外面に、撚り紐で作った縄を回転させて施文する「回転縄文」の手法は、一部 中南米にもその類例が報告されてはいるが、まず、わが縄文文化のオリジナルと言って よいであろう。縄文の施文された土器は、北は樺太南部、国後、択捉島から九州北部に まで及び、これに加えて、縄文が施されない縄文土器は、さらに沖縄本島にまで分布を 伸ばす。時期的にこの分布が最も広がるのは縄文時代後期頃と言われるが、この範囲を もって、縄文文化の広がりはほぼ完結すると見てよいであろう。
(注4)山内清男 1902〜1970。東京生まれ。大正14(1924)年、東京帝国大学理学部 人類学科選科卒。同大学理学部人類学教室講師等を歴任。生涯を通じて縄文土 器・文化の研究に専念。縄文の施文原体の復元に成功、縄文土器の型式学的研 究を推進、全国規模でその編年網を作り上げた業績は不朽。 山内清男1969「縄紋草創期の諸問題」『MUSEUM』224 東京国立博物館 (東京)


[3]住様式の変革・竪穴住居の普及

 土器の出現に続いて、住様式としての竪穴住居の導入も、縄文文化の確立期の大きな 事件として位置づけられる。
 それまで、旧石器時代を通して遊動型の生活形態をとっていた人々にとって、ある程 度の長期に亘り同じところに住むという志向の発生が、必然的に竪穴住居の構造的な確 立を促した。
 旧石器時代終末期以降、各地に造られた浅く、柱穴も細く不規則な「竪穴遺構」が、 次第に大地への堀込みを深くし、しっかりとした柱に支えられた定形的な上屋を持つよ うに変化していく。そこには、それまで洞窟や岩陰を遊動生活のベースキャンプとして 活動してきた人々にとって、山岳地帯以外の広い世界に生活の根拠地を広げ、さらに洞 窟等では面積的な限界から果たせなかった、複数の血縁的集団を構成員とする“集落” 形成の可能性を実現させた。

 この変化は当然、人々に新しい世界観を抱かせた。
 確立した竪穴住居は、一定の広さの土地に、竪穴の掘削という集中的な労働力を投下 してはじめて完成する施設であり、そこには次第に土地そのものを占有するという意識 が芽生えたであろう。さらにその仕事は、もはや個人的な能力の限界を超えて、家族構 成員全体、さらには家族以外の集落構成員の協力を必要とする。
 つまり、住様式としての竪穴住居の導入は、縄文的な定住を実現させ、そこに必ずし も持ち運びに便利ではない土器を主要な家財として使用する契機をもたらし、さらに集 落形成の端緒をもつくったのである。
 日本における竪穴住居の発見例は、現在知られる限り、旧石器時代後期にまでさかの ぼる。しかし、それらは構造が未発達で、とても定住的な要件を満たしているものとは 思えない。構造的に確立した竪穴住居がまず出現するのは、草創期、鹿児島県周辺の限 られた地域が最も早く、それにやや遅れて関東地方、それとほぼ時期を同じくして近畿 地方と北海道東部地域かららしい。

 東北地方では、草創期に山形県高畠町の洞窟遺跡群が圧倒的な遺跡密度で展開してい るが、洞窟以外の開地遺跡も近年多数発見され、青森県表館(おもてだて)遺跡、福島 県川内内前(せんだいうちまえ)遺跡など、青森・秋田県の日本海側を除くほぼ全域に 存在する(文献9)。しかし、これらの遺跡ではまだ明確な居住遺構の発見はない。一 方、早期中葉、日計式土器様式の成立以降、山形県二タ俣A遺跡をはじめ、宮城県松田 遺跡などで竪穴住居が出現、続く貝殻沈線文土器様式の時期に入ると岩手県長瀬B遺跡 など、堀込みが深く規模も大きな竪穴住居の構築が急速に普及していく。


[4]集落の発生と共同体意識のめばえ

 竪穴住居の構造的な確立は、人々の活動拠点としての住居に著しい定住性を与え、そ れまでの洞窟遺跡などでは果たせなかった、生活空間の拡大・複数化を可能にした。そ の結果、しだいに遊動生活では成し得なかった家族構成員の多世代化を促す。それは血 縁共同体の紐帯を強化するだけに留まらず、親から子へという一系的な文化伝承に加え て、経験豊富な祖父母から孫へという3世代間の文化伝承の契機となっていったのであ る。ここに縄文文化に確固たる伝承力が芽生え、世代を超えた“伝統”の形成がはじめ られていく。これは、縄文文化史上、大変重要な出来事であると言えよう。

 一方、竪穴住居居住による開地への生活拠点の進出は、次第に複数の血縁集団の集合 を促し、そこに必然的に集落が形成されていった。
 人が集団で生活を営むということには、その背景に他の動物や、自然災害などに対す る集団防御本能があると言われるが、それは人類進化の一段階におけるごく普通の、世 界中どこの地域でも起こり得る共通のプロセスである。しかし、遊動生活を送っていた 旧石器時代段階では、それはあくまでも一時的な集団の集合・離散の繰り返しであり、 そこに普遍的な共同体はできにくい。だが、縄文時代初頭、住様式としての竪穴住居の 採用は、強固かつ永続的な集落共同体の形成を可能にした。
 それはやがて、日本列島の四季豊かな自然と、生産性に富んだ森林形成の中で、人口 の増加を促し、さらに周辺他集団との相互交易を活発化させた。これは結果として、列 島内で完結したきわめて特徴的な“縄文文化”を築き上げる土台ともなる。また、人口 の増加によって、列島内各地の風土に根づいた地域性が顕著になるのもほぼこのころか らで、それは縄文土器の様式差、石器の種類の地域差、さらに竪穴住居の構造差など、 “縄文的文化要素”のあらゆる側面にまで及んでいく。

 縄文時代早期の人口は、小山修三の推計に依れば全国で約2万人。既にこの段階で、 人口密度は、落葉広葉樹におおわれた東日本に高く、生産性の低い常緑広葉樹の多い西 日本では低いという、その後の縄文時代8,000年間を通して不変の構図ができあがって いたという。
 東北地方にはもともと、冬期の積雪という人々の活動を阻害する大きな自然環境の制 約があった。しかし、竪穴住居の導入は、この課題を一挙に克服する契機にもなる。そ してこんどは、この恵まれた環境条件を背景に、早期中葉以降、文化力の強い多くの縄 文集落が形成されていくのである。


[5]縄文世界の“まつり”と“おしゃれ”

 竪穴住居の普及、集落の形成、そして集落共同体は、縄文時代草創期にその萌芽がみ られ、それは続く早期の中ごろまでに、ほぼ全国に波及した。
 しかし、定住性の高い集落の形成は、同時にそこに暮らす集落構成員の様々な心理的 問題を引き起こす端緒をつくる。家族間の争い、個人的な喧嘩、競争……。そこに必然 的に共同体を維持するための秩序と、集団内・外との緊張関係を緩和するための規範が 必要になり、それを維持するための特別な行為が生まれていった。それは集落単位の祭 祀・儀礼といった、直接生産活動には結び付かない文化の創造として最も顕著に現われ るが、考古学的には当時の縄文人たちが身に着けた装身具や、呪術行為に使われた土偶 など“第2の道具”を研究することによって、その実態を復元することが可能になる。
 現在までに発見されている“第2の道具”で日本最古のものは、北海道湯の里4遺跡 出土の石製玉や、宮城県座散乱木(ざさらぎ)遺跡出土の動物形土製品などであろう。 これらは旧石器時代に遡るものであるが、それが文化要素として定着するのは縄文時代 早期前半以降のことである。

 土偶は、まず関東地方東部の限られた地域 で、撚糸文系土器様式の時期(約1万〜1万 2,500年前)に作られはじめ、早期中葉(約 1万〜7,000年前)以降、東北地方にも波及 する。
 特に東北地方では、次の前期前半の時期に かぎって、定形化した岩偶(がんぐう)が、 数は多くないが作られた。これら が実際にどのような祭祀行為に供せられたの か、その実態には不明な点が多いが、早期前 半の“発生期の土偶”と岩偶は、他の時期の 土偶のほとんどが意識的に壊された状態で出 土するのに対し、完形のまま出土することがあり、“まつり”の過程での使われ方が一 様ではなかったことを意味していると言える。なお岩偶は東北地方の縄文時 代晩期にも亀ケ岡文化の中に再び登場するが、これは前期のものとは全くちがった系譜 のものである。

 また、装身具は材質的に残りにくい貝製や木製のものも多いが、早期後半期には骨角 牙製垂れ飾りや、石製の玉が散見され、前期に入ると中部・北陸地方起源の决状(けつ じょう)耳飾りも盛行、中期以降には、さらに硬玉や琥珀といった、産出地の限定され た美しい石材を入手して作られるようになる。
 ただし、これらの装身具は、すべての縄文人が自己の好みで自由に装着できたわけで はなかったらしい。栃木県根古谷台(ねごやだい)遺跡では、400基以上の土壙墓が検 出されたにもかかわらず、耳飾り・玉を出土した墓壙は僅か4基のみであり、集落内で もごく限られた人が、こうした装身具を装着する資格を持っていたことを伺わせる。今 の私たちが抱く装身のイメージは、縄文人にあっては、集落内の階層を示す象徴性に富 んだものだった。

 常に自然の恩恵に浴し、活動的な生活を営んでいた縄文人たちにも、自然の巨大な力 に対抗するだけの技術は持ち合わせていなかった。神奈川県平坂貝塚出土の縄文早期人 の人骨には、何本もの「飢餓線」が形成されている。一見“縄文ユートピア”のように 見られがちの彼らの生活は、想像以上にきびしく、また必死であったにちがいない。
 縄文世界の“まつり”は、彼らを取り巻く自然への深い畏怖と豊饒への願望を示す、 直接的で重要な行動表現の“技術”なのである。また限られた個人のみに許された“装 身”は、このきわめて脆くて壊れやすい集落共同体を維持するための“まつり”の主催 者としてのリーダーの存在を示す、彼らにとって精一杯の階層主張であったと、私は考 えている。


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