狩猟採集経済をライフスタイルとする縄文時代、人々は自然への畏怖と尊敬を素直に表
現し、その恵みと共同体の安泰、繁栄を願って素朴な自然崇拝を行った。そもそも、
「文化」があるところには、必ず「宗教」の芽生えがあると言われるが、縄文時代の宗
教観は、彼らの残した“第2の道具”の種類や性格から、ある程度知ることができる。
その代表例としての土偶は、はじめ手足はおろか顔の表現もない、板状のトルソーとし
て作られ始め、やがて顔・手足の表現が生まれて、それ自身で自立するようになる。そ
の発生の段階から、豊かな胸と豊満な下半身が不可欠な表現要素とされ、ここに、その
地母神的役割がよく汲み取れる。しかし、これが常に女性を表現したものでないこと
は、小林達雄が指摘したとおりである。つまり、土偶は、彼らのイメージした、豊饒の
象徴なのであり、それは集落共同の“まつり”の場で“精霊”の依り代として使われ、
その後、多くの場合、永遠のよみがえりを期待するために意識的に壊され、棄てられる
。このような思想は、日本に限らず東アジアの民族宗教にも多く見られ、そこには大地
・自然のことごとくに“カミ”“精霊”を認めるという、アミニズムの存在が、思考の
底流に流れている。“カミ”や“精霊”は、その祭祀の可否によって、人々に恵みを与
えてくれる存在である反面、恐ろしい災害をももたらす人智を超えた存在でもあった。
そして、自然そのものを崇拝の対象にした縄文人は、激しい活動を続ける火山や、自然
の恵みをもたらしてくれる山そのものに、霊性を認めていた形跡すらある(注5)。
また、彼らの好んで使った装身具は、縄文人の価値観について考えるヒントを与えて
くれる。従来、縄文時代中期以降、新潟県の姫川流域のみで産出する硬玉が、日本全国
に行き渡り、縄文人の憧れの貴石として、大珠(たいじゅ)や垂れ飾りに加工されたこ
とは良く知られている。しかし、これ以外にもう一つ、琥珀に代表される“紅(あか)も縄文人に愛用された天然の美であった。琥珀の産地も硬玉同様に限定されるが、我国では千葉県銚子と並んで、岩手県久慈がその代表的産地として知られている。この琥珀も縄文時代前期以降、まず銚子産のものが中部地方から山形県にまで運ばれ、次いで後期以降になると久慈産のものが、広く東北地方全域にもたらされる。もちろんこの他にも象牙色の美しい骨角、蛇紋岩などの光沢に富む石、そして赤漆塗の木製玉なども大切な装身具として盛んに加工された。特定の社会的意味を持った、縄文人の装身にこれらの素材が、遠方からの交易で入手されている事実は、彼らの価値観を反映するものとして興味深い。
(注5)北海道アイヌのチセ(家)の「ロルンソ(神窓)」が、秀麗な山岳や聖なる川など、特定の方角に向けられるのと同様、縄文時代の配石にも特定の山岳を、明らかに意識したものがある。東京都田端(たばた)遺跡では、富士山の方角に長軸をあわせて環状列石が作られ、同様の例は静岡県千居(せんご)遺跡などにも認められている。