約1万2千年前に始まり、8千年間に亘って続いてきた縄文文化。とりわけ東北地方に
多彩な華を開かせたその文化も、今から約2,300年ほど前、大陸からもたらされた稲作農耕を行う弥生文化の東漸で、いよいよ終焉の時を迎える。
弥生文化は、紀元前3世紀、九州地方北部に成立した後、東海〜北陸地方を結ぶちょう
ど“フォッサマグナ”のあたりまで急速に広まって行く。そしてそこで一旦足ぶみをし
た後、亀ケ岡式土器文化の中にも流入をはじめ、ほぼ紀元前後には、本州島の全域にま
で達したといわれている。
縄文時代、西日本は、自然の恵みの少ない照葉樹林の広がりに規制されて、東日本に比
べて人口が稀薄であったことは、先に述べた通りである。しかし、それゆえ、稲作農耕
の技術を獲得するや否や、急速に“融合”という形で弥生文化へと移行していった。
一方、稲作農耕はもともと暖地性のものであり、その北進には、西日本の地でのしば
らくの技術的成熟が必要であった。しかし、東日本の縄文人たちが稲作を受入れるのに
時間がかかったのは、その理由だけではない。豊かな“森の文化”を持つ彼らにとって
は、そうした技術を緊急に受け入れる必要すらなかったのである。しかし時代の流れは
止まらない。一度「米」の味を覚えると、自然と共生し、狩猟採集のみで生きる縄文世
界の“くらし”は、新たなフェーズに向けてつき進みざるを得なくなって行く。
縄文時代晩期の終わり頃、東北地方には、まず、日本海ルートで九州地方の遠賀川(お
んががわ)式、中部山岳ルートで東海地方の樫王(かしおう)式等の、弥生時代前期の
土器が少数ではあるが流入し、それとともに稲作農耕などの弥生文化がもたらされて
行った。青森県垂柳(たるやなぎ)遺跡で発見された東北地方最古、最北の水田跡は、
縄文時代から弥生時代への移行を示す証人であるが、その細かく区画された畦道の状態
は、寒冷地での稲作を可能にするための苦労のあとを十分に示している。東北地方の縄
文人たちは、西からの弥生文化の波を積極的に取り入れながら、自らの意志と行動で、
縄文文化の終焉を選択したのである。
農耕文化の確立 それは人間が、自然との共生から、自然の征服へと、その意思を180°転換したことを意味する。それ以降、人間は次第に、自然を破壊し、一方的な資源の消費に甘んじて2000年間の文化を創り上げてきた。今、その弊害に気づいた私たちが向かうべき方向は何か、その課題はあまりにも大きすぎると言えよう。