岩木山を間近かに望む青森県石神(いしがみ)遺跡。この地は明治時代から多量の縄文
時代晩期の土器が出土することで知られていた。昭和38(1963)年、遺跡地で土取り工事が始まりその様子は一転、晩期の遺物包含層の下から、莫大な量の前期・中期の土器が発見されたのである。壊されていく遺跡から、懸命に遺物を採集、丹念な復元作業を続けたのは、佐藤時雄を中心とした数人の地元の研究者たちであった。
その土器は、いま、森田村の歴史民俗資料館に展示されているが、総数300 個体以上、
国内でも最大級の一括資料として有名である。
石神遺跡出土の土器は、そのほとんど全てが前期初頭から中期前半の、型式学的には
「円筒(えんとう)土器様式」に限定される。この名称は、非常に縦長、筒状の胴部を持つ器形に由来し、その分布も東北地方北部から一部北海道に亘り、前期初頭に成立以来、型式を変化させながら非常に長く続いた土器様式として知られている。
中でも円筒下層の諸型式には、きわめて多様な“縄文”が施され、縄文文化8,000 年内内のでも、最も“縄文土器”らしい縄文土器であると言えよう。これは、同じ頃関東地方で発達した「関山(せきやま)式土器」と双璧をなす。複雑な装飾や口縁部の突起を排し、それに代ってさまざまな撚りの縄文を土器の全面にていねいに施す。縄文芸術そのものとも言えるこうした技術は、縄文時代前期の人々の安定した縄文社会の発展を背景にしたものである。(注8)
この時期、集落は規模を格段に拡大し、広場、祭祀の場としての配石、土器捨て場な
どの空間構造も読み取れるようになる。そして、集落共同の作業場、集会所としての大
形建物が出現する。秋田県上ノ山遺跡では、普通の竪穴住居群から少し離れて、隅丸長
方形の大形建物跡が30数棟、切りあいながら密集する。大形建物は、冬期の共同作業場の確保といった、雪深い東北地方の生活の知恵に根ざす施設と言われるが、その分布は日本海沿いの新潟、富山、さらに近年では関東地方の北部にまで及ぶことがわかってきた。力強い文化力を獲得した縄文時代前期の東北人たちは、北と南の縄文人たちにとって、知恵の発信基地としての役割を担って行くのである。
(注8)この施文に使われた「縄文原体」は、山内清男の詳細な観察でその撚り方、施文のしかたなどに200種類以上のバラエティーがあることがわかっているがこの円筒下層式土器にはそのほとんどが採用されている。(文献25・第13図) 撚りをかけた細い繊維束、おそらく、晒してよく叩いたカラムシなどの植物 繊維に、一度撚りを加えた無節縄文、単節縄文を撚り返す際に末端に小環を付けたループ文、2組の縄文原体を結合させた羽状縄文、1本の縄文原体に細い 他の繊維束を絡ませた付加条(ふかじょう)縄文、さらに軸棒に撚糸を巻きつ けた撚糸文(よりいともん)、その巻きつけ方にひと工夫した木目状撚糸文など。