歴 史 の な か の 東 北 地 方
古代の蝦夷地経営…東北7県一体の歴史的証明
- 大化改新から2年後の647年、大和朝廷が蝦夷に対する本格的な国家政策を打ち出した。
- このため新潟市近郊に「渟足柵」新潟県岩船郡に「磐舟柵」をつくり蝦夷政策の第一歩とした。
さらに、宮城県に多賀城(鎮守府・国府)が、山形県に出羽柵、秋田県に秋田城がつ
くられ、これらを基地として北へ北へと開拓が進められた。
- 「蝦夷の国」とはこのような城柵がつくられ、それによって開拓される地域と考えられており、
東北7県が一体となり、蝦夷の国と位置付けられていた。
涌谷黄金山神社…奈良の大仏への黄金献上
- 宮城県涌谷町はて天平21年(749年)わが国ではじめて黄金を産出した土地である。
- この黄金(砂金)は、奈良の大仏建造の際に献上され、それにより涌谷地方の税金は長期にわたり免除された。
- この報に接した大伴家持は国家の繁栄を祈って「すめろぎの御代栄えんと東なるみちのく山に黄金花咲く」(万葉集)と詠んだ。
- 今、黄金山神社周辺は「天平ロマンの里」として整備され、当時の栄華を偲びながら、砂金採取の体験ができる。
藤原三代平泉文化…独自の王朝文化を創造し、日本史上で初めての地方の時代を東北の地に確立
- 藤原清衡が奥羽押領使となり平泉に居を構えた1094年から、3代秀衡が源頼朝に滅ぼされる1189年までの95年間、藤原氏の黄金文化が東北の地に栄えた。
- 陸奥国においては、平泉政権が白河の関以北から陸奥湾岸以南を、中央政権から離れて安定した支配権を持ち、独自の文化を創造し、日本歴史上初の「地方の時代」を出現させた。
初代清衡(中尊寺の建立)2代基衡(毛越寺の建立)3代秀衡(無量光院の建立)
- 今、桜の季節(5月)の藤原祭りはもとより、一年中観光地として賑わっている。
慶長遣欧使節…支倉常長を海外使節に派遣した伊達藩海外雄飛への意気地
- 支倉常長は伊達政宗(62万石)の命を受け、1613(慶長18)年、キリスト教宣教師ソロテを伴い
石巻近辺の港からスペインに向けて出帆した。
- 当時、幕府はオランダ貿易を独占しており、伊達政宗は西洋との通商、技術導入の道をスペインに求めたのである。
- 支倉常長は渡欧後スペインで洗礼を受け、ローマでは市民権と貴族の称号を与えられた。
- 7年後再び帰国したものの、幕府のキリシタン弾圧政策がいよいよ厳しく、支倉常長も冷遇されるに至った。
- 伊達政宗の海外雄飛の夢は挫折したものの、藩の発展を遠く海外に求めた、伊達男の先見性と意気地は日本の歴史を飾るものである。
- 今、支倉常長が渡欧した「サンファンバウティスタ号」が当時の姿そのままに復元され、多くの見学者を集めている。
野蒜築港…わが国最初の国際貿易港の建設という東北開発の先駆的プロジェクト
- 戊辰戦争で明治新政府に反逆し敗れた東北は暗い沈滞ムードに沈んでいた。大久保利通内務卿は東北に希望をもたらすべく、東北の開物・殖産プロジェクトを建議した。
- 野蒜築港はアメリカ大陸に最も近いという地の利を生かし、仙台近郊の鳴瀬川河口に、長崎や横浜にさきがけて、わが国最初の国際貿易港を建設する計画であった。
- 1878(明治11)年に起工し、1881(明治14)年に第一期工事が完成し、港の役割を果たし始めた。
- しかし、外港が完成しないうちに、明治17年の台風によって防波堤が修復不可能なまでに破壊され、計画は頓挫した。
- 今、野蒜港は跡形もないが、東北の海の玄関口としての仙台港には、定期外国貿易船が就航するなど活況を呈している。
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