四角い電脳ジャングル 第六回/メディアとプロレス1.プロレスの上陸、テレビの上陸 日本のプロレスの歴史をひもとくと、既に19世紀末から散発的な事例を見てとることができる。いわく、「西洋相撲の外国人、日本の関取に挑戦」とか、「日本の柔術家、プロレスラーに」とかいうエピソードである。だが、勿論、現在にいたる流れの基盤となったのは力道山であり、そして力道山のプロレス転向の直接の引き金となった両国メモリアル・ホールにおけるプロレス興行であった。1951年9月20日に、GHQ民政情報局の主導により行われたこの興行は、本場アメリカから6人のレスラー(うち一人は日系のハロルド坂田)を呼んだものの、全くの不入り。興行の目玉にするためにあわてて日本人レスラーを探すことになり、力道山に白羽の矢が立てられることになったのである。 ハロルド坂田のスカウトを受けた力道山は、この年の10月28日に、メモリアル・ホールでプロレス・デビューを飾ることになる。ただこれは単なるエキジビションで、日本プロレスリング協会を設立したのは、アメリカでプロレス修行をこなした後の1953年。そして、この翌年、2月19、20、21日の三日連続蔵前国技館で開催された国際プロレス大試合、力道山・木村政彦組VSシャープ兄弟のマッチ・メイクが、日本におけるプロレス・ブームの発端となった。 1953年設立、54年本格開始。これは日本におけるテレビ放送の開始のスケジュールでもある。プロレスがGHQによってもたらされたものであったように、日本におけるテレビ放送も、GHQの指導に基づいて開設準備が進められ、そのスタイルが定められていった。47年、一足早くテレビ放送が始まったアメリカでのスタイル、つまり民放中心のテレビ・ネットワークが、NHKという例外はあったにせよ、そのまま導入されたのだ(日本で最初にテレビの営業免許がおりたのは、NHKではなく、日本テレビ放送網であった)。そして、アメリカのテレビには、実はもう一つ見逃すことのできない特徴があった。プロレスとの関わりである。 1940年代、アメリカのプロレス界は極端な低迷に喘いでいた。観客を満足させるために仕方なく選んだ「大技あり、ストーリーあり」の試合スタイルは、一方ではシュート系のレスラーとプロモーターとの軋轢を生み、他方では一般マスコミからの激しいバッシングを招きよせてしまった。おまけに、他のプロ・スポーツのラジオ放送が次々と開始されていく中で、単純な勝ち負けや点の取り合い「以外」にこそ魅力があるプロレスは、ラジオ中継「不可能」ということで無視され続けた。プロレスのメッカ、マジソン・スクウェア・ガーデンでの興行は廃止され、選手は田舎町の酒場巡り。これがテレビ放送開始直前のアメリカのプロレスの状態だったのだ。 しかし、テレビ、しかも文化も教育も二の次のビジネスとしての民放テレビの登場は、プロレスの立場を一変させることになる。ラジオでは中継不可能だったプロレスのダイナミックで演劇的な魅力は、そのまま、テレビならではの催しものであることを意味し、新しくまだまだ弱かったテレビ放送の最大の武器になっていった。バー、飲み屋におかれたテレビのプロレス放送に人々は群がり、有名レスラーは家電店を回ってテレビ受像機の宣伝に勤しんだ。テレビとプロレスは手に手をとって発展し、数年前までの廃業寸前の状態とはうってかわって、50年代にはプロレスはビッグ・ビジネスの座を獲得していたのである。 「本家」アメリカの状況が日本に影響を及ぼさないわけがない。54年初頭、全日本プロレスリング協会(現在の全日とは関係ない、柔道家の山口利夫と相撲の清美川の団体)が大阪でうった興行は、早速、NHK大阪の試験電波に載せられ、十分な手応えを残した。そして力道山vsシャープ兄弟戦。日本テレビとNHKによる完全実況中継は、街頭テレビの前の大群衆を熱狂の渦に叩き込む。アメリカと同様に、日本でも、プロレスとテレビは大衆を虜にする双子の兄弟となったのだ。 「テレビ普及の決め手」という位置づけで始まったプロレスとテレビの蜜月は、しかし、テレビ局が体力をつけていくに連れ、「プロレス団体の運営にはテレビ放送が不可欠」という逆転した関係に移行していく。1966年に猪木と豊登の日プロ首脳部に対するクーデターにより設立された東京プロレスは、テレビ局がつかないまま、67年に崩壊(同年に設立された国際プロレスの方は、TBS、ついでテレビ東京が中継をしたことにより、81年まで継続している)。一時は日本テレビとNET(テレビ朝日)の2局体制となり我が世の春を謳歌していた日プロ自体も、NETが猪木の新団体、新日本プロレスに、日本テレビが馬場の新団体、全日本プロレスに鞍替えしたことに伴ってあっけなく潰え去ってしまった。「テレビなくしてプロレスなし」という常識、そしてそこから必然的に導き出される「新日、全日、全女のテレビ付き3団体以外、プロレス団体は存在しえない」という結論が、誰の目にも明かな真実として認識されることになったのだ。 88年、前田UWFが、テレビぬきでプロレス界全体を揺り動かす圧倒的なブームを惹き起こすまでは。 |