四角い電脳ジャングル 第六回/メディアとプロレス3.メディアの裏切りと大衆の論理 90年代は日本における新しいテレビ放送の立ち上げの時代だった。 まずWOWOWが前田日明のリングスを確保した。ついでCATVサプライヤーであり、アナログCS放送局であるGAORAがプロレスと格闘技を柱の一つとして打ち出し、デジタル多チャンネル放送の皮切りであるパーフェクTV開局にあたっては、専門チャンネルであるサムライが目玉として喧伝されることになった。さらにはキングダム旗揚げ時のインターネット放送実験、そして10.11東京ドームのペイ・パー・ヴュー放送とプロレスを利用した新規メディアの展開は続いている。 歴史は繰り返している。一つは、新しい「テレビ」の立ち上がりの際にプロレスがキラーソフトという位置づけを与えられているという点で。もう一つは、その背景に、既存の放送媒体、かつてのラジオ、そして今のテレビからプロレスがはみ出してきてしまっているということにおいて。 ラジオにプロレスがのらなかったのは、プロレス中継を「口」だけですることが不可能だったからだ。しかしテレビの場合は違う。テレビからプロレスが押し出されかけているのは、かつて新聞からプロレスが押し出されたのと同じ理屈、「野蛮」で「インチキ」であり、しかるが故に、スポンサー筋からの苦情が耐えないからだ。そして、プロレス以外に多数のソフトを傘下に収めた地上波テレビ局には、もはや、キラーソフトとしてのプロレスに依存する必然性は残っていない。 アメリカのプロレスは、テレビでコンスタントに高視聴率を稼ぎながら、CATV、そしてペイ・パー・ヴューへとうまく切り換えを行い、繁栄を持続させている。おそらくは日本においても同様の流れが今後顕著になっていくだろう。 有料放送を、そしてペイ・パー・ヴューの市場を押さえるのはどこか。これがプロレス団体の盛衰を考える一つの基準になるはずである。 ただ、決して楽観はできない。 理由は二つある。一つは、おそらく日本において多チャンネル化が定着するまでには未だしばらく時間がかかりそうだ、ということ。PRIDE-1のペイ・パー・ヴューは、多分、時期尚早である。 そしてもう一つは、いくらメディアの立ち上げにキラーソフトとして協力したとしても、いずれは切り捨てられかねない可能性を持っているということである。 アメリカでは「残酷である」という理由で、97年に入ってから、ヴァーリ・トゥードのペイ・パー・ヴュー市場がほぼ壊滅した。ヨーロッパでは、ヴァーリ・トゥードどころか、ボクシングに対してさえ根強い反対運動が広まりつつある。プロレスについては、今のところ、「あそこまでインチキだったら危険なことはありえないだろう」という人をバカにした理由で見逃されているが。 でも、プラム麻里子選手は死亡したのである。 翌日のスポーツ新聞の8割が「女子プロレスラー死亡」をトップ記事にしたのだ。 メディアというものは、大衆を、そして何よりその大衆の浅薄な道徳観念を重視して運営されている。そして、それに合わなくなったものは容赦なく切り捨ててくる。たとえ一部の人間にとってそれがどんなに重要な価値を持っていても、だ。 だから、いくらくだらなく思えても、どこかで昔ながらの問題を考え続けておく必要がある。 |