ed.yamana.gifRe もののけ姫の限界
 

 石堂氏は、ウルトラマン・シリーズにも参加されているベテランのライターで、文中にもあるとおり、宮崎監督より9歳も年長・・・ということは70歳近いってことだ。だから、宮崎監督に対して、「戦後民主主義にかぶれた小僧め」っていうような発言をすることは、世代的にも、わかりやすい。
 だけど、氏は、同じ対談の中で「もののけ姫よりは、まだ、エヴァンゲリオンの方がわかる」とも発言している。おまけに、未来の過疎村を舞台に老人版「エヴァンゲリオン」をやったらどうか、とプロデューサーに提案したことすらあるらしい。ああいう孤独を感じているのは、何も、14歳だけではなくて、ゲートボールをやっている老人たちの虚無感もものすごいものなんだから、と。
 つまり、氏が「もののけ姫」ないし宮崎監督にいらだっているのは、宮崎監督が軟弱な戦後民主主義世代である、という理由だけではない。寧ろそれは後付けだろう。いらだちの本当の理由は、「いま」ということに「もののけ姫」が対峙できていない、ということなのではないか。そうでなければ、より軟弱で、男女同権どころか、完全な女性優位にすら見えるエヴァの方を高く評価するわけはない、と思う。
 そして、そうだとしたら、氏の感覚は、100%正しい。

 宮崎駿は、「失われた日本の原風景としての共同体」像を、発想・批判の基盤に据えているようだ。風の谷、にせよ、ラピュタの鉱山、にせよ、トトロの森と農村にせよ。今回のアシタカの村にしても、周囲の原生林にしても、そういう考え方が濃厚に立ちこめている。一見、技術・進歩の代名詞にされているかのようなタタラの集落ですら、あそこの人間関係は、元気な人々は、既に失われてしまった共同体へのオマージュでしかないだろう。
 でも、もうそういうものは日本にはない。それは、物理的に失われたというだけではなく、そういう原風景をもつこと自体が若い世代には不可能だという意味において、決定的に喪失されている。「もののけ姫」の世界は、したがって、遠い国の、異質な人々の、お伽話にしかなりえていかない。
 無論、それでも力強い物語を作り、観客に何かを残すことは可能である。もし、作り手の側に、リアルな確信があれば。だが、「紅の豚」以来、宮崎作品に目立つのは、そうした確信のゆらぎであり、迷いの念である。宮崎駿自身、伝えるべきものとその伝え方にリアリティを持ち得ていないように見える。

 酒鬼薔薇の父親は、伝え聞くところによれば、集団就職世代であったようだ。おそらく、彼の心には、未だに、優しい自然と人情深い人々に抱かれた故郷の風景が広がっていることだろう。
 でも、彼の息子は違った。
 そして、彼の言葉は、息子には届いていかなかった。

 「もののけ姫」の限界もそこにある。


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