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manga.r.gif大塚英志のおたく社会時評 第七回
もう、「補完」はされない
 


大島弓子の「グーグーだって猫である」が角川書店のPR誌『本の旅人』で連載再開した。『ヤングロゼ』の休刊で中断していたもので、『ヤングロゼ』そのものは別に無くなっても惜しくも何ともない雑誌だったが、大島弓子が今のところ唯一連載している雑誌だっただけにとりあえず落ちつき先が決まってうれしい。「グーグーだって猫である」は大島弓子に13年連れ添った猫サバが死んだ後にやってきた猫グーグーとの生活を描く身辺雑記ふうのシリーズである。大島弓子はこの10年近く、サバと二人きりの生活を描く連作を軸に、ぽつりぽつりと中編を発表しており、サバがこの希代の才能の日常をささえている様子が作品からはうかがえ、本当にサバが死んだら大島弓子はどうなっちゃうんだろうと、サバより少し年下の、どうやらサバの遠縁らしいうちの猫の齢を数えながら一ファンとして心配していた。サバのシリーズを読んでいると永遠にそんな日はこないと思ってもいたけれど、確実に年をとっていくうちの猫を見ていると、その日は確実にやってくるものとして実感された。

再開された「グーグー」によればサバが死んだのは95年の10月。それから二年たった今、サバがいなくても大島弓子の日常は壊れることなく続いていることに安堵する。「グーグー」が興味深いのは、「サバ」シリーズにと於いては「綿の国星」のようにサバを始め動物園の象や公園のカラスに至るまですべて人の姿で描かれていたのに対し、新しい猫グーグーはただの猫として描かれる。サバのようにみけんにしわを寄せて哲学的な思索にふけることもない。
 グーグーは身体の模様がちょっと変な、絵から察する限りアメリカンショートヘアーか何かのただの猫だ。
 そのただの猫が、大島弓子の作品の中に、生活の中にいる。これは実は大変なことだ。

少女まんがの世界には他者がいない。そこにあるのはただ自意識だけで、この自意識は「エヴァンゲリオン」でゼーレの連中が夢みたような「補完」された世界のよう に自他の間にだらしなく共有される。それが少女まんがの本質であり限界でもある。だから、チビ猫の自意識は飼い主のトキオとも、他の猫たちとも「補完」しあっており、チビ猫はそれ故、少女の形でなければならなかったのだ。
 しかしグーグーはただの猫である。
 猫だから何も考えていない。いや、大島弓子はもう猫によって自分の過剰な自意識を「補完」しようとしたりはしない。
 ただの猫がそこにいる。
 それは戦後少女まんが史に於いて初めて描かれた<他者>であるとさえいえる。
 大島弓子は今も少女まんがの最も先端にいる。「グーグーだって猫である」はそういう作品である。


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