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manga.r.gif大塚英志のおたく社会時評 第八回
「彼女の自由」の健全さ
 


気がつくと「今年の収穫」とか「今年のベスト3」といった類のアンケートが舞い込む季節となった。どこに書いたか忘れたけど、実は単行本のベスト3に陽気婢の「彼女の自由」(ワニマガジン社)を挙げたが、スペースがなくてその理由を記さなかった。だから、というわけでもないけれど「彼女の自由」にぼくは感心したので、そのことを書いておく。
 多分、このコラムを読んでいる人たちの方が彼についてははるかに詳しいだろう。ぼくは彼がどういう人物なのかは何も知らない。中綴じの美少女コミック誌あたりでけっこう書いてたよなー、といった程度の知識である。「えっちーず」とか「2×1」といったコミックスも一応は読んでいたけれども、絵が可愛いし、ネームもこの手の雑誌の描き手の中ではしっかりしてるな、といった程度の印象だった。

けれども今年の夏に出た「彼女の自由」を読んで少し驚いた。それを説明するのは難しいのだけれど、この作者は大げさにいえば、ずっと男女間の新しい倫理を書こうとしているのだ、と感じたのである。すぐにセックスしたくなっちゃう「思春期の病」の女の子とその同級生の2人の男の子の、まずセックスがあった後で作られていく安定した三角関係を描いた「2×1」で多分、その試みはなされているのだけれど、「彼女の自由」でも、誰とでも気に入れば気軽にセックスしちゃう女の子と、その子を好きになった男の子の関係がゆるやかに作られていく過程が描かれている。まんが表現の中である時期から<心>が描写の対象からはずれ、例えば山本直樹などは心が壊れた後で、ただむき出しになった身体を繰り返し描いてきた。「フラグメンツ」などがそうである。無論、大半の性的なまんがは、ただ身体だけを描いているという事態には無自覚で、エッチものだからエッチシーンを書いているという以上の発想ではなかったのだと思う。
 陽気婢は、そうではなくて、まず、性的な身体をそのままにかかえ込んだ少女たちを描く。そこには、自分たちの性行動を規制する内省や葛藤はなく、彼女たちはただ屈託もなく自分たちの性的身体に忠実である。例えば宮台真司の批評が描き出す女子校生とは多分、そういうものだ。

陽気婢は、最初はエッチもののまんがのセオリーに忠実にセックス好きの女の子を、主人公の男の子に簡単にサセてくれる女の子を書いていただけだったのかもしれない。けれども、その女の子の性的な身体に実は「内面」が存在しないことに気づいたのである。確か「えっちーず」の中にダッチワイフに事故で気を失った少女の意識が入り込むという中編があったけれど、そのあたりから、ただむき出しの性的な身体の中に「内面」をいかに回復していくか、という試行錯誤が始まったように思う。
 「彼女の自由」は、セックスをしたずっと後で始まる恋愛を描いている。ただそれだけの物語だが、その関係を作っていくプロセスでの女の子の、女の子なりの倫理の描かれ方と、ラスト近くで、女の子に対して主人公の少年が「逃げない」ところが健全である。なんというか、アスカに対して最後の最後で逃げない男の子として対峙するシンジくんが書かれている、と考えればいいのかもしれない。女の子への依存の仕方やうじうじした感じは、「エヴァ」完結編のシンジくんのまんまなんだけど、最後でアスカに嫌われないためにどうするべきかという、その点で「彼女の自由」は正しいといえる。健全なことが正しいとはいわないけれど、陽気婢の場合、いくつもの作品を通じてその健全さに行きついていっており、そのプロセスそのものの存在が何よりも健全なのである。


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