ONLY.2.gif四角い電脳ジャングル 第八回
異種格闘技戦からスポーツ競技へ
 


高田が負けた。
 1ラウンド残り13秒でタップ・アウト。
 フィニッシュは、高田自身の最大の得意技でもある腕ひしぎ十字固め。ヒクソンに一回も有効打を与えることもないままの完敗劇であった。

高田が負けた原因を云々するつもりはない。
 コンディションもあろう。精神状態もあろう。
 だが、しかし、スポーツの勝敗にifはない。われわれにできるのは、高田という、一時期確かにプロレス界のトップの一角に君臨していた偉大な格闘家の敗北をどのように捉えるのか。そういった努力でしかない。
 プロレスは、あるいは、U系の総合格闘技は弱いのか。
 われわれは、ブラジリアン柔術をこそ、追いかけていくべきなのだろうか。

最初に事実を整理しておこう。
 まず、ブラジリアン柔術とは何か、ということ。柔術というと講道館以前の古流柔術、特に戦国の世に生まれた実戦的な格闘術としてのそれを思い浮かべがちだが、ブラジリアン柔術に関していうならば、それは完全な誤解である。現在に繋がるブラジリアン柔術の祖となったのは講道館柔道の使い手であった前田光世。彼は古流の人間ではなかったし、まして、古流特有の「武装」格闘術としての柔術を学んでいたわけではなかった(当たり前の話であるが、戦国時代に近接戦闘の武術として生まれた柔術には、そもそも「徒手」という前提はない)。歴史的にみれば、ブラジリアン柔術は、講道館柔道の直系の子孫である。
 もちろん、一目みればわかるように、現在のスポーツ柔道とブラジリアン柔術には非常に大きな違いがある。ではどこからこの違いが生まれてきたのか。一言でいえば、それは、柔道が柔道内で発展してきたのに対し、ブラジリアン柔術はそうではなかった、ということ。言い換えれば「異種格闘技戦」の歴史を辿ってきたことに求められる。

そもそもは講道館柔道の宣伝で始まったことだった。1904年の暮れ、渡米した前田光世は、ウェストポイントを皮切りに、プリンストン大学など各所でアマレスラーやフットボーラーの挑戦を受けながら、柔道の優秀性を唱えて回った。しかし、柔道教室を開いてもなかなか生徒が集まらなかったためか、あるいは、異種格闘技戦の持つ緊迫感に耽溺していってしまったのか、前田は、次第に、異種格闘技の興行自体にのめり込むようになっていく。アメリカを皮切りに、中南米、ヨーロッパ。前田の異種格闘技戦歴は、一説によれば、二千試合にもなんなんとし、しかも、道着をつけた試合では無敗だったという。
 この戦歴の中で、前田は、次第に異種格闘技戦の極意を身につけるようになっていった。いわく裸体のレスラーに対してはどうすればいいか。いわく相手が打撃技を使ってきた場合には、云々。しかし、他流試合は御法度、ましてプロの興行にでるなどあるまじき行為とされていた講道館にこうした極意は必要ない。前田自身も、講道館とは次第に疎遠となり、後半生は、柔道にではなく、広大なアマゾンの地の開拓へとその方向性を大きく変えていった。
 本来なら、前田の作り上げた「異種格闘技」柔道は、前田の人生と共に終わるのが自然であったろう。だが、しかし、前田が現地で親しくしていた親日家のブラジル人が、「喧嘩ばかりしている息子を鍛えなおしてやってくれ」と持ちかけたことで全てが変わっていった。ストリート・ファイトに明け暮れ、ボクシングも習っていたというカルロス・グレーシーは、前田から伝えられた柔道を基盤に、「グレーシー柔術」という新たな一派を起こすにいたるのである。

歴史は繰り返す。
 グレーシー柔術は、ちょうど前田が講道館柔道の優秀性を示すために異種格闘技戦を次々と行っていったように、他の格闘技への挑戦を最大のPR手段とした。ボクシング、カポエィラ、そしてブラジル独自のレスリングであるルタ・リーブレ。この異種格闘技戦は、やがて、ブラジルで「ヴァーリ・トゥード(何でもあり)」という名でテレビ番組化されるにいたった。
 格闘技というのは、なんであれ、「強さ」を売りにしている部分がある。その宣伝の手段として他の格闘技の選手をたたきのめすほど有効なやり方はない。「どうせ習うのならより強くなれるものを」というのが人情。だから、ヴァーリ・トゥードで勝つほど多数の道場生を効率よく集められる手段はないわけだ。その上、こちらはヴァーリ・トゥード向けの技術を確立して日々練習しているのに対し、相手は、格闘家といっても、VTに関しては実はただの素人。もう、やりたい放題である(ただし、言っておくが、だからといって格闘技をやっていればどんなトラブルにでも対処できるなどとは思わない方がいい。どんな達人であろうと、武器を持った相手、多人数の相手にかなうわけもない。もっとも正しい護身術とは、つまらない話だが、「危険を予測し、そこに近寄らない」ための防犯のノウハウである)。

こうしてブラジルに基盤を築いたグレーシー柔術は、次の段階へと進むことになる。1993年末に始まるアルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ、八角形の金網の中で行われるアメリカ版のヴァーリ・トゥード大会である。ホリオン・グレーシーやホイス・グレーシーが所属するグレーシー柔術アカデミーがSEG社に協力して始めたこのUFC大会は、案の定、世界に衝撃をもたらすことになった。
 身長はそこそこ高いとはいえ、決してマッチョマン体型とはいえない一人の若者が、力自慢・喧嘩自慢のアメリカの大男を次々と薙ぎ倒す。グレーシーの名声は、今や、ブラジル国内だけではなく、アメリカ、そして日本、ヨーロッパ、ロシアへと鳴り響いている。
 だが、成功はいつまでも続くものではない。

現在のグレーシー柔術の置かれた状況を説明する前に、少しだけ、用語の説明を行っておいた方がいいだろう。グレーシー柔術とブラジリアン柔術という名前である。
 ブラジルにグレーシー柔術が広まるに連れ、当然、そこにはグレーシー一家以外が指導する分派も生まれてきた。マチャド柔術などはその一例である。加えて、グレーシー柔術アカデミーがアメリカに進出して以来、些かやっかいなことも起こっている。なんとグレーシーという名前を「商標登録」してしまったのである。お陰で今ではグレーシー一族であっても、ホイスやホリオンなどのアカデミー系列以外は「グレーシー柔術」を名乗ることはできなくなった。例えば、ヒクソン・グレーシーは、「ヒクソン・グレーシー柔術」であり、グレーシー柔術ではない。
 というわけで、この文章では、以降、ブラジリアン柔術という一般名称を使用することとする(文章の前半にブラジリアン柔術という言葉を使ったのも同じ意味である)。前田光世とカルロス・グレーシーの出会いに始まった「異種格闘技戦対応型」の柔道分派を指し示すものと受け取っておいていただきたい。

さて、UFCでのホイスの活躍によって一躍有名になったブラジリアン柔術ではあるが、その隆盛は、意外と長くは続かなかった。ホイスが、ウェイン・シャムロックとの再戦(そもそもホイス・グレーシーの名が日本に轟いた最初の契機は、第一回のUFCで、U系外国人レスラーの強豪であったシャムロックを破ったからだった)で時間切れ引き分けとなったのを契機に、ブラジリアン柔術家のUFCでの引き分けや判定負けが相次いだのだ。結局、ホイスは、シャムロックとの引き分け試合(しかも、インサイド・ガードとは言え、ホイスは試合時間中殆どシャムロックの下敷きになっていた)の後、UFCを離脱し、現在まで一切試合をしていない。
 ホイス側は、UFCと絶縁した理由を、「時間制限をもうけるなど、テレビの都合に左右され、本来のヴァーリ・トゥードとは遠ざかってしまったから」だと説明している。だが、シャムロック戦に関して、「あれだけ体重差があったのに引き分けにしたのだから勝ったも同然」「シャムロックが同じ体重まで落とすというのなら決着戦をしてもいい」などと見苦しいことを一方でいっているのだから、にわかにはその説明は信じがたい。「君子危うきに近寄らず」的な判断があったと邪推されても仕方ないだろう。

ブラジリアン柔術の凋落は、ホイスの撤退に止まらない。まずはアメリカの強豪アマレスラー、マーク・カーがいる。現在、UFCのヘビー級トーナメントで向かうところ敵なし状態になっているカーのヴァーリ・トゥード・デビュー戦は、ブラジルでのトーナメントだった。ブラジリアン柔術の本場ブラジルで、現地の柔術家やルタ・リーブリの選手を薙ぎ倒して、VTではど新人のアマレスラーがいきなり優勝してしまったのだ。
 更にこの10月のUFCでは、これもアマレスラーのランディ・コーチャーが、ビクトー・ベウフォードを担架送りにするという事件も起こった。ベウフォードと言えば、一時は「グレーシー家の養子になってグレーシーの名を継ぐ」ことが決定されかかったこともあるブラジリアン柔術の新鋭。彼の負けは、単なる柔術家の敗北ということを超え、グレーシー・ファミリー自体の名前に傷がついたことを意味している。そして、10月11日、PRIDE−1でのヘンゾ・グレーシーと慧舟会の小路の引き分け試合。
 小路の快挙にけちをつける気は毛頭ないが、この試合があるまで、彼は決して日本の総合格闘技界のビッグ・ネームではなかった。また、慧舟会での位置づけも、村上に継ぐ2番手。そして、村上と言えば、リングスの常連外国人選手の一人であるモーリス・スミスにヴァーリ・トゥード戦で一蹴されている。
 正直、ヘンゾとの引き分けは、「ブラジリアン柔術のトップが手の届くところにいる」という感を多くの人に印象づけるものだった。

整理しておこう。
 93年末の第一回UFCで始まったブラジリアン柔術の神話は、実のところ、その神話を世界へと広げる契機となったアメリカ本国ではすっかり崩壊してしまっている。それは、ブラジリアン柔術ということだけではなく、本家本元のグレーシー一族にまで及ぶ。今、ヴァーリ・トゥードで強いとされているのは、カー、コーチャー、コールマンといったアマレスの強豪選手であり、決して柔術家ではない。最初ブラジリアン柔術が強かったのは、彼らだけが「ヴァーリ・トゥードの戦法」を知っていたから。闘い方さえわかってしまえば、他の格闘技の経験者でも、柔術家を倒すのは決して難しい話ではない。
 UFCが15回目をもうすぐ迎え、全米で類似の大会が数限りなく行われた結果、既にヴァーリ・トゥードは「異種格闘技戦」ではなくなっている。多数の大会が行われ、そのルールに基づいて練習している選手が多数存在すれば、既にそれは一つの競技である。そして、競技になってしまえば、そこにはもはや神秘は存在しえない。勝敗はもって生まれた才能と努力と時の運のたまものであり、「不敗神話」とか、「無敵の一族」とか、奥義とか秘伝とかそんなオカルティックなものは用済みとなってしまう。
 アメリカ人は、ヴァーリ・トゥードを、たった3年の間に、神話から単なる日常的なスポーツにしてしまったのだ。

PRIDE−1は、だから、ある意味で時代遅れのイベントだった。
 メインイベントが「高田−ヒクソン戦」である、というのが既にアナクロである。高田は、確かに優れた格闘家であったとはいえ、ヴァーリ・トゥードという競技に対しては何の実績もない。他の分野で名声のある素人を引きずりこんで、それに勝って見せて宣伝とする。典型的な「異種格闘技戦」型マーケティング。実際、東京ドームに集まった4万6千人のお客さんの大半は、プロレス・ファン、U系の総合格闘技のファンであって、ヴァーリ・トゥードのファンではなかった。
 要するに「ホイスが出ているころのUFC」である。
 だが、時代は動いている。この11月29日には、ベイNKホールで、ワールド修斗が主宰するヴァーリ・トゥード・ジャパン・オープン97が行われる。ヴァリ・ジャパは、ヒクソンが初めて来日し、UFCといった大舞台を踏んでいないヒクソンが、初めて大観衆の前にでたイベントである。以前の大会で、中井がヒクソンに負け、朝日がホイラーに負けるなどブラジリアン柔術に大敗を喫した修斗は、その後、対ブラジリアン柔術に向けて、練習方法ばかりか、試合ルールまで変えて準備に臨んでいる。おそらく今回の大会では今までとは相当に異なった光景が展開されることになるだろう。
 そして12月21日。横浜アリーナについにUFCが上陸する。カー、コーチャー、モーリス・スミス、ベウフォード。ヴァーリ・トゥードの本当の最前線が見られるわけである。そこで我々は「アメリカの格闘技界の実力」を見せつけられることになるだろう。たった3年で本家ブラジルを凌駕した底力を、である。
 この二つのイベントによって、我々は、「一つの競技としての」ヴァーリ・トゥードを見ることになる。そして、それは、必然的に「世界最強の格闘技は何か」という幻想の世界から、「自分はいったいどういうった格闘技を見たい(あるいは、したい)のか」という、些かしらけた現実的な自答へとわれわれを導くことになるだろう。
 最強だなんだ、といったって、結局はヴァーリ・トゥードという一つのスポーツの枠内でのこと。じゃあ、肝心のそのヴァーリ・トゥードっていうのは、見ていて面白いのか。お金や人生をつぎ込む価値があるのか。  例えば、プロレスと比べて。
 どうせルールが違えば比べられない「最強云々」よりも、そっちの方がよっぽど重要な問題じゃないか。

それではつまらない、という人もいるかもしれない。
 やっぱり最強を探していたいのだ、と。
 そういった人にはとっておきの事実が残っている。それは、「ブラジリアン柔術の神話も、グレーシー一族の神話も崩壊した今も、実は、ヒクソン個人の神話はまだ残っている」ということである。
 かつて、まだホイスとヒクソンの仲が良かった頃、「もしあなたが負けたら」という質問に対し、ホイスは、常にこう答えていた。「その時は兄のヒクソンが仇をうってくれます。ヒクソンは私より十倍も強いですから」。実際、ヘンゾなどの他のグレーシー一族との練習の場面でも、ヒクソンの実力は遥かに上らしい。
 だから、ホイスやヘンゾがいくら引き分けようと、ヒクソン個人の神話は決してゆるぎはしない。彼は、他のグレーシーに対しても、圧倒的なのだ。

そして、どうやら来年の9月、ヒクソンは、もう一人の神話と闘うことになる。
 アントニオ猪木に「逃げた」といわしめ、アンドレ・ザ・ジャイアントの戦意を喪失させ、そして、高田や船木の「上に」君臨していた格闘王。日本マット界の最終兵器、前田日明。
 20世紀は、この対決が過ぎるまで、終わらない。




[前のページへ]      [次のページへ]