karat.gif 人形愛


 熱海秘宝館に、新・一寸法師という展示物がある。“ハイテクを駆使した奇跡の映像!”と謳っているが、機会仕掛の人形(オートマトン)と立体映像(人間が演じている)を組み合わせたもので、人形のお姫さまと一寸法師がズッコンバッコンやりまくるのである。一寸法師が広川太一郎調の独白(「ようっとな」「ええんでないかい」のあの調子)と共に人形のお姫さまの肉体の上をはいまわり、着物のすそから微妙なところへもぐりこむと、着物がもぞもぞと動く仕掛など、チャチなものだがその工夫が楽しい。
 それにしても、機械仕掛であえぐお姫さまの異様なグロテスクさはちょっと悪夢のような強印象であった。これを、人間の女優が演じても、ここまでのインパクトはあるまい。

 全国各地の秘宝館には、どこにもこのような人形が展示されている。秘宝館というものの持つキッチュさを、僕も別冊宝島『全国お宝スポット魔境めぐり!』などで書いているが、たいてい、そういうところのレポート記事は、秘宝館に人間のセックスへの欲望を見るばかりで、この人形そのものへの執着に筆を及ぼしてはいないのが不満である。秘宝館のあのキッチュなムードの大半は、人形というものが本来持っている、フェイク感覚によるもの大なのである。

 人形への執着は、フェティシズムの一種である。フェティシズムという言葉の語源は、十八世紀ごろ、スペイン人やポルトガル人が崇拝の対象にしていた護符(フェティソ)であると言われている。
 この崇拝行為に、フランスの啓蒙思想家ド・ブロスは興味を持ち、フェティシズムというものを定義付けた。彼のいわゆるフェティシュとは、
 「あるものが、人(信徒)によって地位を与えられ、フェティシュ(神)の位置にのぼったもの」
 である。つまり、言ってみればフェティシュとは人工の神、なのだ。
 フェティシュは、エホバやアラーのごとき目に見えない存在ではなく、可視のものであり、多くは実際に触れられるものである。また、フェティシュはその信者に幸運をもたらし、災難を避けるためのものであり、それができなくなれば打ち壊されたり殺されたりするものでもあるという。
 ・・・まさにこれは、人形というものに与えられた定義ではないか。
 やがてこの言葉はフロイトによって宗教用語から精神医学用語にスライドさせて用いられるようになり、そちらの方で有名になってしまった。これは、愛する人の衣服や所持品、また髪の毛など体の一部分を、その人を思い出すよすがとして大事にするうちに、対象の本人以上に、その“もの”自体に愛情を抱いてしまう精神の働きをさす。下着やセーラー服に異様な興奮を示すのが性的フェティシズムの顕著な例である。あれはそもそもが、そのセーラー服や下着を身につけている女性の状態を想像して楽しんでいるうちに、いつのまにか本末が転倒して、服や下着そのものに興奮するようになってしまうのである。

 この発展形に、人形愛、ピグマリオニズムと偶像淫楽、イコノラグニアというものがあるのである。もともと、人形とか絵画というものは、人間そのものの姿を模して製作されたもので、人間そのものとはあきらかに一線を画している。吉川ひなののブロマイドを常に肌身離さず持っているファンは、そのブロマイドに写っている吉川ひなのが好きなのであって、ブロマイドそのものが好きなわけではないだろう。
 しかし、ときおり、その一線を越境してしまい、その模造性そのものに愛情を注ぐ人間がいる。フルスクラッチの女子高生人形に欲情するのは、そのモデルとなった女子高生を愛しているからではない。それが人形という、魂なきものに姿を映しているからである。

 フェリーニの映画『カザノバ』で、主人公のカザノバが唯一、純粋な愛を注ぐ対象として等身大の人形が出てくるのをご記憶の方もいらっしゃるだろう。機械仕掛のこの生き人形は、ヴェルテンベルク公爵が道楽で製造させたもので、ダンスからセックスまで、男性のお相手を全てつとめることができる精工なものであった。
 一世の色事師カザノバが本当に心を通わせたのが、心を持たぬ自動人形であったという皮肉は、実は人形愛の本質を鋭くついている。
 男が人形をフェティソとして愛するのは、それが心を持たぬ故、なのである。

 愛情は言うまでもなく、心と心のキャッチボールだ。相手に愛を投げかけ、相手から帰される愛情を受け止める。当然のことながら、時には受け損ねることもあり、また、相手からおそろしいまでのイレギュラーな返球があったりする。ひどいときにはまるきり返してくれぬことすらある。
 こういうやりとりを楽しむのがすなわち愛、という行為なのだが、しかし、中には、ただひたすらにこちらから与えるだけの形の愛情だって、有り得るのである。いや、むしろ、そういう形の愛の方が強く燃え上がる場合だってあるのだ。
 フェティソの定義のひとつに、“人によって神の地位を与えられたもの”というのがあったことをもう一度思い出していただきたい。
 人形は、こちらの思い入れがなければ、ただの物体である。しかし、こちらがその人形を愛情の対象と認めることによって、モノ以上の存在に昇華する。いったん、そういったものを愛することを覚えたならば、単なる人間を愛することなど比べ物にならない愛情が、そこに燃え上がるのは当然だろう。

 江戸歌舞伎の『大和怪談頃日全書』の中に、次のような話がある。お城務めのため吉原に通えなくなった侍が、人形細工師に、吉原の遊女とそっくりの等身大人形を作らせて、一緒の床に入れて寝ていた。あるとき、自分を愛しいと思うか、と人形に問いかけてみると、
 「あい、いとしゅうござんす」
 と人形が答えた。侍は、これは狐狸の類が乗り移ったか、と刀を抜いて人形を一刀両断にした。ちょうど同じ時刻に、この人形のモデルになった遊女も、客に無理心中を迫られて、殺されたという。

 この話は非常によくできた怪談であるが、僕には、この侍が、人形が愛の言葉を返したことを怪しみ、一刀両断にした、という心理が興味深い。狐狸の仕業か、と思ってというより、むしろ、もの言わぬ人形に惚れた人間が、人形が自分の愛の言葉に答えたことに失望してそれを切り捨てた、と思いたい。彼は次第に本物の遊女でなく、物言わぬ人形への愛を育てていったのである。

 人形は人形としてそこにある限り、美しく、またエロティックである。しかし、その人形が人間のカリカチュアとして機能しはじめたとたん、グロテスクなものとなる。冒頭にあげた秘宝館の人形たちがなぜキッチュなインパクトを持っていたか、これであきらかだろう。

 オタクが二次元コンプレックスを持ち、セルだのフィギュアだのに現つをぬかすのを見て、
 「本当の女性を知らぬ哀れな連中」
 とさげすむ連中が、驚くなかれ未だに少なくない。こういう奴らは、愛情というものが人間を対象にしかできないもの、という狭い了見の持主である。
 先日亡くなった淀長さんは“映画が恋人”と公言して、九十年近い一生を独身で過ごした。・・・本当のところは映画以外にも恋人がいた、ということが公然の秘密になっているが、それが女性でなかったことは明らかである。
 われらが宇宙大元帥、野田昌宏氏はスペースオペラとロケットに最大限の愛情を注ぎ、還暦を過ぎた今も独身のままである。
 上杉謙信に至っては、戦を心から愛し、これに百戦百勝することを祈願するため、一生不犯を毘沙門天に願掛けした。これなど、戦争を恋人にしたと言えるだろう。彼が男色家であったというのは後世の僻目である。
 人間は、異性以外にも愛情を注ぐことができる精神作用の持ち主なのである。

 人間と人間の関係が希薄になっていく傾向は、これからも続くであろう。その中で、愛を注ぐ対象を人間から無機物に切り替え、そこの人間など比べものにならぬ強さで愛を注ぐ者こそ、未来の愛の形を先取りしているもの、と思えてならない。オタクたちよ、人間の女性が自分の愛の対象にいないことを嘆くな。
 そろそろ、ワンフェスの季節が近付いてくる。また、人形に愛情を注ぐ人々の、真摯で純真なまなざしを見ることができると、僕はヒソカに楽しみにしているのである。

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