結局、結果は変わらなかった。 PRIDE−4、高田vsヒクソンの一年ぶりの再戦。1ラウンド終了間際でまたもや腕ひしぎ十字固めでヒクソンの勝利。 これだけを見ていれば、この一年の流れは、無きに等しい。 だが、「プロレス側」の人々に、今回は、さほどのショックは見られない。理由は二つある。一つは高田が結構善戦したこと。完全にヒクソンの気に飲まれてしまっていた前回とは異なり、今回は、組んでから膝で有効打を入れたし、グラウンドでも上に乗ることに成功した。まぁまぁヒクソンも底が見えたな、という感じである。 しかし、負けは負け。高田の善戦というだけだったらいや〜な雰囲気は残ったろう。それが完全に吹っ飛んでしまったのは、アンダーカードで、アレクサンダー大塚がルタ・リーブレの強豪、マルコ・ファスを破るという快挙を成し遂げたからだ。 マルコ・ファス。95年9月、第七回UFCヘビー級トーナメント・チャンピオン。そして「ヒクソンが対戦を避け続けている」相手。彼も、また、一つの伝説である。 その相手を、バトラーツというインディー・プロレス団体の選手が破った。それも、事前の「格闘技側」の人々の、ワンサイド・ゲームで負けるに決まっているという予想を見事に覆して。 これに優るプロレスの宣伝はない。 プロレス各誌の表紙は、当然、アレクの勝利の姿で埋め尽くされた。高田敗戦など二の次。それよりも、アレクが勝った、いやはっきりと言えば、「プロレスがバーリ・トゥードに勝った」ことこそがニュースだった。 長らく「プロレスは弱い」と言い続けられてきたプロレス・ファン、プロレス・マスコミにとって、これほど溜飲の下がることはなかったろう。 問題はそれで溜飲を下げていていいのか、ということだ。 アレクの勝利にケチをつける気は毛頭ない。 アレクは、総合格闘技の選手としても、非常に力のあるいい選手だ。リングス参戦時、坂田亘と対戦した時には、素晴らしいレスリング技術をもって常に坂田の上に乗り、坂田の動きを制していた。「今日良かったのはアレクサンダー大塚君」。前田日明によるその日(バトル・ジェネシス)の興行の総括である。 アレクは、アマレスの出身。加えて、かのアレクサンダー・カレリンに憧れてリングネームを付けたという程のレスリング好きでもある。PRIDE−4の事前記者会見の時には、「この業界に入ってカレリン程凄いと思える人には出会えていなかったんですけれど、今日、マーク・ケアーに会って、久しぶりにビビっと来ました」と語っている(マーク・ケアーは、1994年、フリースタイル・ワールドカップ・チャンピオン)。彼のレスリングに対する思いの強さを物語るエピソードである。 こんな話をしているからといって、別に、「アレクの勝利は、プロレスラーの勝利ではなく、アマレスラーの勝利だった」などと強弁をしたいわけではない。彼の実力の多くは、明らかに、プロになってから培ったもの(アマチュア時代に大きな実績は上げていない)であり、従って、彼のことを、ケアーやコールマンのように、アマレスラーとして考えるのはいくらなんでも無理がある。 ただ、だからといって、アレクの勝利を「プロレスの勝利」と言い立てるのは、それはそれで、いかがなモノか、と言いたいだけだ。 では、何の勝利だったのか。 簡単な話である。アレクサンダー大塚という個人の勝利。それ以外の何ものでもない。もっとはっきり言ってしまえば、彼の勝利と「プロレスは強いか弱いか」という問題には何の関係もないのだ。アレクは、バーリ・トゥードのルールに則って、バーリ・トゥードの勝利の方程式(=インサイド・ガードからのグラウンド・パンチ)を展開して勝った。中途で足を掴んだ時には「ジャイアント・スウィングを狙っていました」と語ってはいるが、結局は、あくまでバーリの枠内で闘った。 つまりは、バーリ・トゥーダーとしてのアレクの実力が、マルコ・ファスを上回ったというだけの話だ。 「格闘探偵団」という肩書きを持つバトラーツ。藤原組という「U系」団体から始まりながらも、全日で王道プロレスを、みちのくでルチャを、リングスで総合を、U−JAPANなどでバーリを探偵する。そして、自らの団体では、かつての新日黄金時代の夢を復活させようと大博打を挑む。プロレスと総合の「一番おいしいところ」を常に探している団体だ。 だから、アレクは、例えばU−JAPANでキモの前に思いきり散ったクラッシャー・バンバン・ビガロのような、「無垢」なプロレスラーではない。バーリ・トゥードの闘い方というものがファン・レベルにすらはっきりとわかってしまった「時代」の、しかも、バーリ・トゥードの経験者が回りにいくらもいる「立場」のプロレスラーである。実際、アレクは、ほんの少しの時間ではあるが、UFCで連勝中の高阪剛からアドバイスを受けたりもしている。 彼が、ある時は総合格闘家に、またある時はバーリ・トゥーダーに変身しようと、そこには何の不思議もない。 バーリ・トゥードが「最強の格闘技」を決める場として捉えられていたのは、もう、昔の話だ。ずっと総合やバーリを追いかけている人間の感覚で言えば、バーリとは、ただ単に一つの「競技」であり、そのルールに対応した技術を身につけ、運動能力を磨いた選手が勝ち、そうでない人間は負けるというだけのことに過ぎない。 そういう意味で、U−JAPANや昨年のPRIDE−1で、「プロレス最弱」というレッテル張りが横行したのは、全くもって愚劣な事件だった。実際に証明されたのは、プロレスが弱いということではなく、バーリ・トゥードの練習をしないとバーリには勝てない、という至極つまらない事実だけである。 アレクは、バーリの闘い方を知っていた。 レスリングのセンスを普段から磨いていた、ということも、その闘い方を展開する上で大いに役にたった。 だから、マルコ・ファスに勝った。 勿論、誰もが勝てる訳ではない。アレクの、普段やりつけていないルールに対する適応力、アスリートとしての能力の高さは賞賛に値する。そういう意味、「高い身体能力をもった選手がいるジャンル」としてプロレスに誇りを覚えるというのなら、それはそれでもっともなことだ。 だが、これをもって「プロレス」の勝利、プロレス最強の証明とするというのは困る。それでは「プロレス最弱」というレッテル張りをした輩と同じレベルに落ちてしまうことになる。 長年プロレスを見続けてきた者として、それだけは止めて欲しいのである。 |